ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 柄谷行人著 「憲法の無意識」 (岩波新書 2016年4月)

2017年06月30日 | 書評
悲惨な戦争体験によって日本人は内発的に普遍的価値である憲法9条を選んだ。これは誰にも変えられない日本人の無意識となった。 第6回

2) カントの平和論―哲学的平和論 (その3)

柄谷行人著「トランスクリティーク カントとマルクス」(岩波現代文庫 2014 )によってカント哲学の意義を見てゆこう。
カントは「純粋理性批判」、「実践理性批判」、「判断力批判」の三批判書を書き、批判哲学を提唱して、認識論におけるいわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされる。カントの道徳的=実践的とは、善悪の倫理ではなく、自由の問題であった。「自分および他者の人格における人間性を、手段としてではなく目的として行為せよ」という。カントの道徳は漸進的に実践せよという意味で、抽象的であるとはいえアソシエーション(連帯)の実践を要求するのである。だからカントは「ドイツ社会主義の真の創設者」と言われる。他者を手段としてのみ扱う資本制経済において、カントのいう「自由の王国」とはまさにコミュニズムを意味するとされる。共産主義、ユートピア社会主義やアナーキストの主張の先駆をなすが、このような思想は資本制経済の発展の前に消されてしまった。著者柄谷氏は自身をアナーキストと呼び、「社会主義国家」に共感を持ったことは一度もなかったと告白する。にもかかわらずマルクスに敬意をいだいていたという。柄谷氏はマルクス「資本論」は単に経済学の書であるだけでなく、さらには資本の欲動と限界を明らかにし、根底にある人間の交換コミュニケーションに付きまとう困難性を発見する批判の書であるという。資本論には資本制から抜け出す道やユートピア社会コミュニズムは説かれてはいない。それは実践的な課題としなければならないとすると、カントの「純粋理性批判」という書が対極にあるという。柄谷氏は1989年に東欧とソ連が崩壊した時以来、未来について語らなければならないと感じ、カントを考え始めたという。カントは形而上学に対するヒュームの懐疑論を批判した。柄谷氏は嘲笑されてきた共産主義(コミュニズム)という形而上学を取り戻すため、カントの超越論的主体を想定した「純粋理性批判」に着目した。著者は20世紀末から日本でアソシェーショニストの運動NAMを始めた。グローバル資本制の資本ー国家ー国民という三位一体の現状を揚棄する現実の運動が世界で起こっている。人間の主観的能力の限界を超えるという意味で「超越論的」で、主観性の哲学ではなく、モノ自体への転回で、他者を中心とする思考への転回であった。カントの3批判書は、それぞれ科学認識(純粋理性批判)、道徳(実践理性批判)、芸術(判断力批判)を対象とした。どこにおいてもカントは普遍性を要求する。カントが一般性と普遍性を区別したことは近代科学の証明問題に発する。科学認識における実証性の困難はヒュームの懐疑論では、経験の一つから全称命題(普遍性)は導けないとして、法則は慣習的でしかないという。地上にいる限りコペルニクスの地動説は証明できない。仮説として名大を設定した時、より正確に天体運動が記述できるとしても地球が動くことを証明したことにはならない。ギリシャ時代に地球が動くと主張した人がいたが、それはセントラルドグマにはならなかった。ベーコンは実証から帰納して普遍法則が得られるとした。命題の反証可能性を乗り越えたものが真理なのかもしれないが、カントはある命題が普遍的であるのは、アプリオリに先験的に与えられたからではなく、それを反証しようとする他者(批判者)を想定するからであるという。他の主観が賛同する、合意するという共同主観性(共通感覚)が多いから普遍性を持つのではない。カントの時代には形而上学は嘲笑の的であった。形而上学は何ら経験に負わない思念をあたかも実在するかのように取り扱っていたからだ。それでもカントは「純粋理性批判」において、理性の本性が理性に要求する「超越論的批判」に立ち向かった。他人の視線から考察すると強い視差(矛盾、二律背反)を感じる。反省とは他人の視線で自分を見ることであろう。科学における異論も実践的であるほかはない。それは自然が解明できるはずだという「整統的理念」つまり「理論的信」がなければならないという。自然は自分を語らない以上、科学的仮説(現象)を反証するのは、モノではなく未来の他者が語るのである。その他者を先取りすることを「思弁的」と名付けた。それは仮象であってもなくてはならない仮象「超越論的仮象」と考えた。西洋に自然科学が誕生したのはこのような「理論的信」があったがためである。カントは理論もまた仮象であれ、「理論的信」という信仰がなければ成り立たないとしたのである。 カントが理科系(物理)出身者だったことはあまり知られていない。そのせいかどうかカントは数学基礎論から科学哲学に詳しい。分析的であるがために確実だとみなされていた数学をアプリオリな綜合的判断とみなした点でカントの特徴が出ている。ライプニッツは「自同的真理に還元できる」分析的判断のみが真理であると考えた。つまり矛盾律d家で証明できる判断である。カントはヒュームの懐疑論を批判して、「彼は純粋数学は分析的命題だけを含むが、形而上学はアプリオリな綜合的命題を含むという過ちを犯した。数学は形而上学と全く同じに総合的認識とみなさざるを得ない」といった。ユークリッドの「原理」以来、数学は定理が一定の公理から矛盾なく導き出されることにあった。これでは多様な数学の展開は期待できない。カントが数学を総合的判断とみなそうとすることは、プラトン以来の形而上学を批判することであった。

(つづく)

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読書ノート 柄谷行人著 「憲法の無意識」 (岩波新書 2016年4月)

2017年06月29日 | 時事問題
悲惨な戦争体験によって日本人は内発的に普遍的価値である憲法9条を選んだ。これは誰にも変えられない日本人の無意識となった。 第5回

2) カントの平和論―哲学的平和論 (その2)

柄谷行人著「世界共和国へ」〈岩波新書 2006)には政府形態を比較して、その進むべき方向を述べています。1990年ごろから資本主義のグローバリゼーションということが言われるようになった。旧ソ連圏が崩壊し、資本主義的な市場経済がグローバルになって、そしてロシア・東欧・中国をも巻き込んだ世界市場が出来た。もはや外部がなくなったのだ。このグローバリゼーションによって国民国家の影が薄くなったかといえば、そんな事はおきていない。国連が世界政府になるなんて夢のまた夢である。欧州統合も経済だけのことで、欧州政府・憲法はまだ現実には拒否されたままである。ではなぜ経済の統一によって国家はなくならないのかというと、国民国家は資本主義のグローバリゼーションのなかで形成されてきたからである。資本主義経済は放置すれば、かならず経済格差と対立を生む。国民(ネーション)は共同性と平等を要求するから、経済格差は是正されなければならない。国家は規制・税・再配分(福祉)によってそれを実現しようとする。資本と国民、国家は別の原理で動いているが、その3要素は堅く結びついている。たとえば福祉国家においては、資本=国民=国家は三位一体で最もうまく機能している状態である。国家は内向きだけで存在するわけではなく、国の間の関係はいつも緊張をはらんでいる。国がなくなったら戦争や経済競争にも負けるのである。では国とは何かというと、官僚と軍隊をさす(頂点に天皇がいなくてもいい)。これは政権や社会や時勢にかかわらず国の自律性を保つ「ホメオパシー」であるらしい。これは20世紀後半、資本主義体制が社会主義国に対抗する危機感からとった形態が福祉国家であった。ところが1990年以降社会主義圏が消えると、福祉国家への動機がなくなった。そして「安い政府」(小さな政府)が主張され、自国の労働者が失業しても構わない、資本の利潤を優先する「新自由主義」の時代になった。ここに著者はノーム・チョムスキー「未来の国家」(1971年)から4つの国家形態を持ち出す。その分類の特徴を示した。リバタリアン社会主義は現実には存在しない。いわばカントの「統整的理念」といえるものなのだろう。1848年の革命では国家社会主義運動もアソシエーショニズム運動も敗退した。そしてフランスのボナパルトとプロシアのビスマルクの福祉国家資本主義が勝利したといえる。イギリスの圧倒的な経済的ヘゲモニーに対抗するには、大陸は福祉国家資本主義を選択した。イギリスでも対抗上福祉政策は急速に進んだことはいうまでもない。国家資本主義で力をつけたフランスとプロシアが1870年晋仏戦争を起こし、勝利したプロシアはアメリカと組んでイギリスの自由主義帝国に対抗した。帝国主義時代は実質的1870年から開始された。日本はプロシアに倣って近代国家と産業化を成し遂げ、この帝国主義時代に参加する。晋仏戦争に敗れたフランスでは1871年パリコンミューンが起き、アソシエーショニズム最後の革命であったが、もろくも崩壊した。このときマルクスはどこにいたかというと、マルクスはプルードンの理念の近くにいたのだ。決して国家社会主義の立場ではなかった。マルクスはプルードンとともに、共産主義を「自由なアソシエーション」と呼び、パリコンミューンを支持した。国家社会主義者ラッサールの「ゴータ綱領」を批判した。プルードンは経済的な階級対立を実現すれば国家は消滅すると考えた。それに対してブランキの戦略は「一時的に国家権力を握りプロレタリア独裁によって資本経済と階級社会を揚棄する」ということであった。社会運動の主流でなかったマルクスの非現実性は、国家の自立的存在ををみないアナキズムにあった。1870年までのプロレタリアとは職人的自由労働者であり、重工業の進展による大規模産業労働者は未だ成立していなかったからである。職人の気質は自由でアナキズム・反抗者である。19世紀末の大規模産業労働者の時代から社会主義運動は社会民主主義(福祉国家主義)かロシアのマルクス主義(ボルシェヴィズム)に分かれた。レーニンはこの上なく官僚主義的国家社会主義を創設し、スターリンに受け継がれた。アソシエーショニズムは資本・国民・国家を否定するが、それが強固に存在する事を理解していない。従って本書は、新自由主義独りがちによって経済格差が進み社会福祉が放棄される中で、新自由主義を超える社会を作る事を目的とする。しかしその前に資本・国民・国家が出来た道筋を明らかにし、「世界共和国へ」の道筋を考えることにある。 資本主義の20世紀は帝国主義が顕著になる。レーニンなど社会主義者は帝国主義は「資本主義の最高段階」とよび、産業資本に替わって金融資本が支配を確立した段階と捉える。グローバル資本が世界を支配しても国家はなくなっていない。どうしてかというと国家の自律性を見逃しているからだ。国家と資本が結合したのは、絶対主義国家(主権国家)においてであり、帝国主義はそこに始まっている。主権国家は膨張して他の主権国家を侵すことが宿命であり、多民族統治の原理(オスマントルコのような統治して侵さず)が働かない。ハンナ・アーレンは国民国家の延長としての帝国主義は、古代の世界帝国(中国・ローマ・マホメットイスラム帝国など)にような法による統治形態をもたず、国民国家は絶対主義国家の時代から、国民の均質性と住民の同意を厳しく求めるものであるという。アメリカの「人権」という干渉(非寛容性)は国民国家の典型である。古代世界帝国は税さえ納めれば国家・民族の慣習には無関心であった。またアーレンは「国民国家は征服者として現れれば必ず被征服者の民族意識と自治を目覚めさせる」という帝国主義のジレンマを指摘している。イギリスなどの帝国主義がオスマントルコ帝国を解体し、アラブ民族を「解放」したと称したが、それが今日の中東の民族国家分裂とイスラエル問題を引き起こした。アラビアのローレンスが中東問題の元凶である。ナポレンオンは欧州に「フランス革命」を輸出したが、それがプロシアの興隆をもたらしたのである。こうして帝国主義は世界各地に国民国家を作り出した。

(つづく)
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読書ノート 柄谷行人著 「憲法の無意識」 (岩波新書 2016年4月)

2017年06月28日 | 時事問題
悲惨な戦争体験によって日本人は内発的に普遍的価値である憲法9条を選んだ。これは誰にも変えられない日本人の無意識となった。 第4回

2) カントの平和論―哲学的平和論(その1)

 本書には柄谷氏の好みかもしれないが、無意識を表現するためにフロイトを持ち出し、平和を述べるためにカントが出てきます。人間の所作で会う限り、歴史、政治、経済行為に心理学を持ってくることは不自然ではない。しかし科学的研究に自然を主体とみた心理学をもってきたら、「進歩主義的進化学」や「利己的な遺伝子」のように擬人的と言われて笑われるだけであるが、動物行動学では結構人間の心理学が目的意識的な説明に使われている。しかしそれは理解しやすい説明というだけで、科学的事実であるかどうかはわからない。しかし私にはフロイトの精神病理学を政治や歴史の「深層」として捉えるのは、似ているかもしれないだけで、納得できない。だから本書はフロイトを冒頭から持ち出すが、オカルトめいて私はその説は採用しなかった。フロイトの学説は無くても著者の言いたいことは分るからである。では18世紀末に書かれたルソーやカントの平和論は、第2次世界大戦前後の世界情勢に適応出来るのかと考えると、思想の歴史的価値は揺るがないつぃても、実際その状況でカント説を公言して動いた政治家がいて、その効果があったかというとが問われなければ、政治理論を哲学で潤色するだけの著者の衒学的姿勢かもしれない。日本の戦後憲法の前文には「我々は平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」という言葉があります。この前文の背景を考えるについてカントが1795年に書いた「永遠平和のために」が見えてくると著者は言います。カントが言う永遠平和とは戦争をもたらす一切の敵対状態が無くなることを意味します。そのためにカントは諸国家間の連合によって創出する智う構想を述べたのです。カントの平和論が日本の憲法9条に結実するに至った過程を検討しようとするのが本章の目的です。明治の段階で西洋の平和論はかなり普及していた。横井小楠、小野梓、植木枝盛、中江兆民、北村透谷らがいました。中江兆民はルソーの「釈迦契約論」を翻訳しました。また「三酔人経綸問答」を書き、サンピエールからルソー、カントに至る平和論を紹介しています。サンピエールは欧州諸侯による国家連合体を構想しました。ルソーは民主革命なしには国家連合が達成できるわけはないと言いました。明治時代初期に自由民権運動の闘士は、帝国主義の時代には「国権論」(民権ではない国家主義)に転じていました。帝国主義の時代に、民権論から社会主義と平和の思想に向かったのはアナ―キスト幸徳秋水です。日本で最初のカントの平和論を取り上げたのは詩人北村透谷でした。彼は自由民権論の活動家になりましたが、政府の弾圧の下、「政治から宗教・文学へ」転向しました。キリスト教徒として平和運動の中心的存在でしたが、同時に「文学界」のリーダでした。日清戦争、日露戦争に対して戦争廃止論を訴えましたが、惜しくも日露戦争の三か月前に自殺しました。25歳でした。カントが「永遠平和論」を書いた1989年はフランス革命と干渉してくる諸国に対する祖国防衛戦争の時期であった。まもなく台頭してくるナポレオンは世界戦争を7引き起こしますが、そんなことはカントの目には映っていなかった。これまでの平和条約はいわば休戦条約であって、戦争を廃止するようなものではない。カントは平和条約に代わって平和連合を提起したのです。国家間の敵対性を解消する連合アソシエーションによってのみ可能だと考えました。彼は世界政府を目指すのではなく、諸国間が戦争を防止する連合を目指すものです。革命防衛からナポレオンは世界戦争を起したのです。ナポレオンの啓蒙主義は欧州各地にフランス革命を輸出するようなもので、それは国民ネーションを各地に生み出しました。ヘーゲルがナポレオンを評価します。それはナポレオンの戦争によって結果的に諸国民に普遍的な理念を実現したという評価です。ヘーゲルはカントの「永遠平和」で提起した諸国民連合について、1821年にカントの平和論は諸国民の国益の前にはリアリティがないと批評しました。こうして19世紀の間カントの平和論は忘却されました。むしろ大国間の覇権争いが普遍的概念を実現するというヘーゲルのリアリティ論が主流となった。20世紀初頭にはカントの平和論、国際連邦論はある程度浸透したかに見えましたが、第1次世界大戦後にできた国際連盟は極めて無力でした。国連もいつも非現実的な理想主義として嘲笑されてきました。カントは1784年に書いた「世界市民的見地における普遍史の理念」では、人類史は「世界共和国」に向かって進むと述べています。戦争という悲惨な国家エゴの結果が世界連合をもたらすのだということです。ヘーゲルとどう違うのかというと、世界連合は無力で国家エゴがリアリティ現実的な力を持つとするヘーゲルに対して、そういう争いの結果人類は世界共和国に向かって行くのだという観点です。二人とも違ったことを言っているのではなく、カントは世界の歴史的普遍化を言っているのです。これを「自然の狡知」と呼ぶ人もいます。フランス革命以前に書いた「普遍史」で、カントが考えたのは「平和」よりも「市民革命」です。カントは「普遍史」では、ルソーの市民革命と平和に関する理論を検討して、サンピエール説の王侯連合は期待できないとしました。それゆえ永遠平和は、諸個人の社会契約によって形成された国家間の契約でしかあり得ないのでルソーは革命が不可欠であると結論しました。ルソーは革命と永遠平和については懐疑的でした。しかしカントの考えは、そもそも一国の革命派他国との関係を離れて考えられないとしました。革命を封じ込める諸侯連合の干渉とフランス革命政府の「恐怖政治」は表裏一体の関係です。市民革命の土岐はカントの永遠平和論は全くの無力でしたが、世界戦争が起きる19世紀末の帝国主義時代になってカントの平和論は市民革命とは切り離されて、異議を持つようになったのです。

(つづく)
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読書ノート 柄谷行人著 「憲法の無意識」 (岩波新書 2016年4月)

2017年06月27日 | 書評
悲惨な戦争体験によって日本人は内発的に普遍的価値である憲法9条を選んだ。これは誰にも変えられない日本人の無意識となった。 第3回

1) 憲法の先行形態ー明治以降の歴史 (その2)

 古代より日本は島国だったので、外国による征服は簡単ではなかった。また国内でも覇を唱えるより天皇の権威だけを利用する伝統が続いたため、こじんまりと「万世一系」の天皇制が長寿を保つことができた。大陸国家ではこうはいかない。数百年続いた王朝は、かならず「易姓革命」によって滅ぼされる。絶対権力はかならず倒されるという鉄則がある。もし日本が大陸の周辺地域で地続きなら、朝鮮と同様に、中国王朝が変わるごとに踏みにじられて征服されていたはずである。日本の古代国家は権力と権威、実力と呪力の二元性に基づいていた。飛鳥時代までは天皇が変わるたびに、天皇の兄弟、一族間と豪族を交えた戦争が起きていた。奈良時代から天皇の実力が低下し、藤原氏と婚姻を繰り返すことで権力は藤原氏に移行し、藤原氏は戦争が起きないように女性の天皇を多く起用した。キングメーカーは皇族ではなく藤原氏になったのである。藤原氏は天皇の外戚として天皇を懐中に収めた。政権或いは幕府の正統性は、天皇を握ることであるという伝統はここから始まった。しかし天皇親政はほぼ平安末期で終わり、12世紀ごろから台頭した荘園という貴族の私有地の地頭であった武家集団も絡んだ、天皇家・貴族・武士の複雑な権力関係となった。保元・平治の乱以降荘園の二元的支配は武士の手に落ちた。武力で乱を制した平家は天皇の外戚となり天皇の権威を利用して、政治を占有し藤原氏の立場に自らを置いた。こうして12世紀末には形ばかりの天皇親政も消え失せた。鎌倉時代には源頼朝は征夷大将軍として鎌倉に幕府を開き、御家人という武家階級を軸とした政権をかくりつして、全国の土地訴訟権を握った(追捕使という役職によって)。天皇制は武家階級によって生活を保障され、六波羅探題に監視されるという扱いによって、急速に土地基盤と貴族文化を失った。1333年鎌倉幕府が新田義貞によって滅ばされると、後醍醐天皇が王政復古(天皇親政による中央集権国家)を図ったが、わずか2年足らずに足利尊氏の謀反で崩壊した。後醍醐天皇は新田や足利の武士の力の上に成立したのに、彼らの利益を無視し復古的な天皇親政を行ったために足利氏によって見捨てられたのである。その後ゲリラ的な構想に過ぎない「南北朝時代」を経て、室町幕府が京都にひらかれた。鎌倉時代・室町時代の封建制は臣下の武功(忠誠)にたいして恩賞(風)を与える互酬原理に基づいている。それができないと(経済的な外部のこと)政権は崩壊する。15世紀中ごろから日本全土は応仁の乱から戦国時代の群雄割拠の時代となった。足利将軍家の凋落も哀れであるが、それでも決定的な覇王が長い間でてこなかったので、足利将軍家の権威を利用する諸侯が天下を狙う構図が続いた。天皇家の凋落はもっとひどいもので、もう誰も天皇を担がなかった。そこで織田信長は天下布武のため足利の権威を捨て天皇の権威に眼をつけた。絶対君主を狙った織田信長は派遣が出来上がれば天皇の権威させ捨てる気でいた様だ。そこを名門と権威を貴ぶ明智光秀(岐阜の土岐という名門武家の末裔)によって信長は暗殺された。裏では藤原貴族の手引きがあったようだ。信長や秀吉は中央集権絶対君主制と膨張主義を特徴とした戦国武将である。徳川家康はいろいろな面で秀吉の後始末に追われた。戦国時代を完全に終わらせることでした。そのためにはもうほとんど乞食状態であった没落天皇家を再興し、形の上では将軍家を拝命して全国を支配する大義名分を得ることでした。そうしないと、また誰かが天皇を担いで反乱を起こすかもしれなかったからです。徳川の封建制は極めて中央集権的であって、地方の諸侯の勢力を削ぐために「参勤交代」や「寺院の修復」、土建工事というインフラ事業を頻繁に興しました。徳川時代ので戦争はすっかリ影を潜め(全国を細分したのですからもう新たなフロンティアは存在しない)、封建制と言っても武士階級は官吏のようなものになりました。官吏には学問が必要です。幕府公認の儒学(朱子学)を習わせました。当時武士層で読み書きができる者はいなかったのです。徳川幕府の重要な政策は「鎖国制度」です。着っ対は長崎平戸で管理された、明、朝鮮、オランダとの交易はありました。特に朝鮮との国交修復は重要でした。朝鮮通信使が将軍が変わるたびに日本に表敬訪問をするようになりました。こうして徳川幕府は海外の列強の侵略を防ぐため鎖国しましたが、目はしっかりと世界に開いていました徳川の体制は、様々な点で第2次世界大戦後の日本の体制と類似しています。第1に象徴天皇制です。第2に全般的な非軍事化です。戦後憲法第1条と第9条の先行形態として見出す者は、明治憲法ではなく、徳川時代の国制でした。憲法第1条は徳川の象徴天皇制と同じです。憲法9条は欧州のいろいろな不戦条約に理念を見ることはできますが、「徳川の平和 パックストクガワーナ」がそのもとにあるといえます。敗戦が日本人にもたらしたものは、明治維新以来日本が目指したことへの総体的悔恨です。第2次世界大戦後に「無意識の罪悪感」が深く沈着したのでしょう。徳川時代は260年以上戦争と無縁でした。戦後は70年間戦争を起したり巻き込まれたりしていません。キリスト教徒内村鑑三やアナーキスト幸徳秋水の非戦論より、ロマン派歌人与謝野晶子の日露戦争の反戦歌より深い意識層における反戦論です。金輪際戦争にはゆかないという無意識の決意です。吉田首相の「再軍備などは愚の骨頂、痴人の夢」の言葉より深いのです。

(つづく)
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読書ノート 柄谷行人著 「憲法の無意識」 (岩波新書 2016年4月)

2017年06月26日 | 書評
悲惨な戦争体験によって日本人は内発的に普遍的価値である憲法9条を選んだ。これは誰にも変えられない日本人の無意識となった。 第2回

1) 憲法の先行形態ー明治以降の歴史(その1)

 憲法はまず第1条の天皇制の維持を主目的として、それを担保する形で第9条を約束した。象徴性天皇制が定着するにつれ問題とされなくない、逆に第9条が冷戦による米国の日本に対する再軍備要請という背景でクローズアップされたのです。終戦直後の昭和天王は自分の地位を守るため積極的に政治に介入しています。恐らく「象徴天皇制」を理解していなかったようです。1989年に昭和天王が亡くなり平成天皇が即位しました。かれは即位式で「国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国および日本国民統合の象徴としての務めを果たす・・・」と憲法第1条を復唱しました。日本国憲法とは現行民主憲法を遵守することであり、第9条も当然守ってゆく決意を述べたものです。平成天王が即位したころから東西冷戦が終了し、経済不況の時代に入り、資本側は露骨な新自由主義を主張します。世界は湾岸戦争から9・11同時テロ、そしてアフガニスタン戦争、イラン戦争の時代に入りました。米国のブッシュ大統領の戦争政策に日本の小泉首相は自衛隊派遣関連法案を次々可決することで協力しました。実際は自衛隊は後方の平和維持活動しかしていませんが、国土防衛隊であった自衛隊が外国に出ることは大きな抵抗がありました。戦争をするつもりで自衛隊を海外派遣するなら憲法9条の改憲が必要です。ここで9条が非常にリアルな意味を持つようになった。昭和天皇・皇后は第9条と戦後憲法の庇護者となりました。そしてオヤジの昭和天皇の「戦争責任」を自ら引き受け、いまも世界にお詫びの行脚の旅に出かけています。つまり9条を守ることが第1条皇室を守ることになるのです。マッカーサーは戦前猛威を振るった軍部独裁天皇制ファッシズム(現在の北朝鮮の政治体制と全く同じです)を根絶しようとしたのですが、直接統治よりは天皇制を残した間接統治を選択しました。そういう意味ではマッカーサーは征夷大将軍になった徳川家康に似ています。日本で政治的権力を握ったものは、藤原氏(天皇系と藤原系は婚姻で一体化していた)以来、かならず天皇の権威に基づいて統治しようとしました。天皇を廃止することもできたでしょうが、どこかで天皇の末裔を担いでライバルが蜂起するでしょうから、自らの権力の正統性を主張するにはまず天皇を担ぐ必要があったのです。戦国の世を制覇した徳川幕府も「尊王」を唱えて、天皇の権威を封じ込めました。明治維新も、藩閥勢力が天皇を担いで「尊王攘夷」で幕府から政権を奪いました。明治政府で天皇が至上の位置におかれましたが、天皇親政は形ばかりに過ぎません。実際の権力は藩閥が掌握し、開国と産業資本主義を志向しました。伊藤博文が設計した明治憲法は、「立憲君主制」、「議院内閣制」に基づいており、天皇の権限を制限する体制でした。ところが1935年以降、天皇機関説が否定され、軍部独裁政治が天皇の名で行わました。そのときも明治憲法(欽定憲法)は停止されていません。明治政府の中でも意見の対立は大きく、ハト派とタカ派がありました。ハト派の伊藤博文はドイツのシュタイン説をとって「議員内閣制」を志したのですが、タカ派の山県有朋は元老(藩閥の重鎮)が政治を支配する体制です。著者の柄谷氏はここから憲法の「先行形態」という熟語を使います。目には見えないけれど、現在の形態が規定されている以上、存在するというものです。イギリスにおけるマグナカルタのようなものです。戦後憲法の先行形態はの流れはいくつも錯綜していますが、見えやすいものは「明治憲法」です。戦後憲法は旧憲法の改定手続きに従って帝国議会において成立しました。しかしこれは擬装です。日本国民が自らの手で憲法案を取りまとめたような体裁をとったにすぎません。明治憲法第1条は「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」という天皇主権論でした。天皇主権論は事実上藩閥政府による専制的な支配体制を裏付けるものでした。天皇機関説は議院内閣制、政党内閣制を裏付けるものとして「大正デモクラシー」を支える理論でした。しかし天皇機関説は君主主権論ではないが、人民主権論でもなかった。それはドイツの法学者イェリネックの理論です。統治権は君主ではなく、法人である国家に属するという国家主義です。天皇はその最高機関です。国会も内閣も機関です。天皇は議会を無視できないし、議会も国民を無視できないという理論によって、明治憲法下でも議会制民主主義も可能であるとします。それが美濃部達吉の唱えた「天皇機関説」です。美濃部達吉は1935年タカ派が握る軍部がヘゲモニーを確立すると「不敬罪」で失脚しました。美濃部は戦後、枢密顧問官として新憲法草案御審議に加わりましたが国民主権による憲法草案には反対しました。宮沢俊義は国民主権に立って旧憲法改正はできると主張しました。明治憲法の条文はかならずしも伊藤博文の「立憲君主制」の体制ではありません。内閣の位置づけが極めて不安定です。内閣は天皇から独立した存在ではなく、国務大臣は各々天皇を輔弼することになっており、総理大臣の規定が存在しないのです。これでは内閣の独立などあり得ないし、議院内閣制ではありません。また枢密顧問官が天皇を輔弼することは、事実上元老支配のことです。さらに陸海軍にたいして天王は統帥権を持つことになっています。軍は天皇に直結することであり、内閣の権限は軍には及びません。しかも元老については憲法のどこにも期待されていません。裏(真)の権力者として隠蔽されているのです。山縣が亡くなって元老の重しが取れ、大正天皇が病弱で政治に関与しなくなると、体制は憲法を改正しないでも議会民主主義に傾斜しました。1925年には普通選挙法(男だけ)も成立しました。デモクラシーの後にやってくるのはいつも独裁政治です。経済恐慌、不況によって国民が疲弊すると昭和になって天皇の統帥権を盾に軍部の独断専行が行われます。クーデター2.26と5.15事件が後押しをするように近衛内閣において日本独特の国家社会主義(天皇制ファッシズム)が顕著となった。現行憲法は明治憲法(欽定憲法)だけから見ても連続性はありません。木に枝を継ぐのような違和感鹿ありません。むしろ明治憲法以前の徳川幕藩体制の象徴天皇制に源がありそうです。マッカサーは天皇制を残す根拠(利点)を、明治以前の知恵を採用したようです。天皇制を廃止し昭和天皇など主だった皇族を死刑にすると、明治藩閥政府の軍人たちが皇族を担いで各地でゲリラ戦を起すことを懸念した。速やかに新憲法の下に国家の体制を整えるために、マッカーサーが選んだ道が天皇制の権威利用による間接統治でした。日本の旧支配層もこれには協力するだろうという読みがあった。

(つづく)
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