永続敗戦レジームのなかで対米従属路線と右傾化を強行する安倍政権の終末 第1回
序(その1)
この本は、今となっては懐かしいくらい、かなり過激なアジ演説集である。この本は基本的には時事評の集成であり、政治理論を説き起こすにしては余りに短編ばかりで、彼自身の政治思想からその都度の政治的事件を解説するという本である。雑誌、週刊誌、新聞、講演会原稿などに既出した記事・論文を集成したものである。評論の基になる政治論は私はまだ読んでいないが、「永続敗戦論ー戦後日本の核心」(太田出版 2013年)である。この本で論壇デビューした若手政治思想史家である。著者白井聡氏のプロフィールを紹介する。1977年東京生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士で、日本学術振興会特別研究員、多摩美術大学非常勤講師、文化学園服飾学部社会学科助教を経て、2015年4月より京都精華大学人文学部専任教員となった。2013年「永続敗戦論ー戦後日本の核心」で第4回いける本大賞、第35回石橋湛山賞、第12回角川財団学芸賞を受賞した。他に著書として「レーニン―力の思想を読む」(講談社選書メチェ」などがある。カール・マルクスの「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」にはこのような名高い記述がある。「ヘーゲルはすべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる。そしてこう付け加えた。一度は偉大な悲劇として、もう一度は惨めな笑劇として」という言葉を引用して、著者は「歴史における反復」という観念を「序」において述べている。このヘーゲルの言葉は、フランスの歴史を総括して、絶対王政ー民主革命ー皇帝制が二度繰り返された事実を踏まえて言っているのである。著者はこの言葉をちょっとひねって、「否認」のメカニズムの例証として用いる。大変革は起るべくして起こる。つまり社会の行動的変化のために発生する。しかしそれが一度目に起きたとき、特に支配層の人間はそれを「偶然だ」と言ってやり過ごそうとする。あるいはそれはなかったこととするための努力を払う。しかしその出来事が強い必然性をもっている場合、構造上の変化要因として類似の出来事が不可避的に発生する。そうなったとき人々はようやく出来事を事実として認めざるを得なくなる。実に「否認」の定義とは「認知しているが現実として認めない」という心理状態である。一度の出来事で事の本質を見抜く力を持った人が多数いれば、教訓として悲劇は二度繰り返さないための努力を行う。反省のない人、あるいは事実として認めたくない人は何度でも過ちを繰り返す。例えば東電福島第1原発事故は、津波の可能性を認めたくない人は対策コストが経済的釣り合わないという理屈で、地震学界と土木学界の警告を否認し無視した。その悲劇的経験に学ばない原子力ムラの権力は、原発再稼働の準備を進めている。原子力規制委員会の基準は世界一厳しいと自惚れ、電力会社は厳しすぎると骨抜きを狙っている。全く事故前の体質でやっている。二度目の惨事がいつやってくるかは偶然の問題であるが、若し起ったら笑いごとでは済まされない。被害を被るのは現地の住民であって、東京に住む官僚や電力会社や東京都民ではないので、地元を犠牲にすれば済むと思う精神構造は、沖縄の米軍基地問題と同じである。権力者とそのお膝元は地方の犠牲(収奪)の上に立っている。その苦しみは一顧だにしないで「金目の問題でしょ」と高みの見物である。その金は国民の税金や国債発行である。
(つづく)
序(その1)
この本は、今となっては懐かしいくらい、かなり過激なアジ演説集である。この本は基本的には時事評の集成であり、政治理論を説き起こすにしては余りに短編ばかりで、彼自身の政治思想からその都度の政治的事件を解説するという本である。雑誌、週刊誌、新聞、講演会原稿などに既出した記事・論文を集成したものである。評論の基になる政治論は私はまだ読んでいないが、「永続敗戦論ー戦後日本の核心」(太田出版 2013年)である。この本で論壇デビューした若手政治思想史家である。著者白井聡氏のプロフィールを紹介する。1977年東京生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士で、日本学術振興会特別研究員、多摩美術大学非常勤講師、文化学園服飾学部社会学科助教を経て、2015年4月より京都精華大学人文学部専任教員となった。2013年「永続敗戦論ー戦後日本の核心」で第4回いける本大賞、第35回石橋湛山賞、第12回角川財団学芸賞を受賞した。他に著書として「レーニン―力の思想を読む」(講談社選書メチェ」などがある。カール・マルクスの「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」にはこのような名高い記述がある。「ヘーゲルはすべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる。そしてこう付け加えた。一度は偉大な悲劇として、もう一度は惨めな笑劇として」という言葉を引用して、著者は「歴史における反復」という観念を「序」において述べている。このヘーゲルの言葉は、フランスの歴史を総括して、絶対王政ー民主革命ー皇帝制が二度繰り返された事実を踏まえて言っているのである。著者はこの言葉をちょっとひねって、「否認」のメカニズムの例証として用いる。大変革は起るべくして起こる。つまり社会の行動的変化のために発生する。しかしそれが一度目に起きたとき、特に支配層の人間はそれを「偶然だ」と言ってやり過ごそうとする。あるいはそれはなかったこととするための努力を払う。しかしその出来事が強い必然性をもっている場合、構造上の変化要因として類似の出来事が不可避的に発生する。そうなったとき人々はようやく出来事を事実として認めざるを得なくなる。実に「否認」の定義とは「認知しているが現実として認めない」という心理状態である。一度の出来事で事の本質を見抜く力を持った人が多数いれば、教訓として悲劇は二度繰り返さないための努力を行う。反省のない人、あるいは事実として認めたくない人は何度でも過ちを繰り返す。例えば東電福島第1原発事故は、津波の可能性を認めたくない人は対策コストが経済的釣り合わないという理屈で、地震学界と土木学界の警告を否認し無視した。その悲劇的経験に学ばない原子力ムラの権力は、原発再稼働の準備を進めている。原子力規制委員会の基準は世界一厳しいと自惚れ、電力会社は厳しすぎると骨抜きを狙っている。全く事故前の体質でやっている。二度目の惨事がいつやってくるかは偶然の問題であるが、若し起ったら笑いごとでは済まされない。被害を被るのは現地の住民であって、東京に住む官僚や電力会社や東京都民ではないので、地元を犠牲にすれば済むと思う精神構造は、沖縄の米軍基地問題と同じである。権力者とそのお膝元は地方の犠牲(収奪)の上に立っている。その苦しみは一顧だにしないで「金目の問題でしょ」と高みの見物である。その金は国民の税金や国債発行である。
(つづく)