ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 白井 聡著 「戦後の墓碑銘」 (金曜日 2015年10月)

2017年02月28日 | 書評
永続敗戦レジームのなかで対米従属路線と右傾化を強行する安倍政権の終末 第1回

序(その1)

この本は、今となっては懐かしいくらい、かなり過激なアジ演説集である。この本は基本的には時事評の集成であり、政治理論を説き起こすにしては余りに短編ばかりで、彼自身の政治思想からその都度の政治的事件を解説するという本である。雑誌、週刊誌、新聞、講演会原稿などに既出した記事・論文を集成したものである。評論の基になる政治論は私はまだ読んでいないが、「永続敗戦論ー戦後日本の核心」(太田出版 2013年)である。この本で論壇デビューした若手政治思想史家である。著者白井聡氏のプロフィールを紹介する。1977年東京生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士で、日本学術振興会特別研究員、多摩美術大学非常勤講師、文化学園服飾学部社会学科助教を経て、2015年4月より京都精華大学人文学部専任教員となった。2013年「永続敗戦論ー戦後日本の核心」で第4回いける本大賞、第35回石橋湛山賞、第12回角川財団学芸賞を受賞した。他に著書として「レーニン―力の思想を読む」(講談社選書メチェ」などがある。カール・マルクスの「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」にはこのような名高い記述がある。「ヘーゲルはすべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる。そしてこう付け加えた。一度は偉大な悲劇として、もう一度は惨めな笑劇として」という言葉を引用して、著者は「歴史における反復」という観念を「序」において述べている。このヘーゲルの言葉は、フランスの歴史を総括して、絶対王政ー民主革命ー皇帝制が二度繰り返された事実を踏まえて言っているのである。著者はこの言葉をちょっとひねって、「否認」のメカニズムの例証として用いる。大変革は起るべくして起こる。つまり社会の行動的変化のために発生する。しかしそれが一度目に起きたとき、特に支配層の人間はそれを「偶然だ」と言ってやり過ごそうとする。あるいはそれはなかったこととするための努力を払う。しかしその出来事が強い必然性をもっている場合、構造上の変化要因として類似の出来事が不可避的に発生する。そうなったとき人々はようやく出来事を事実として認めざるを得なくなる。実に「否認」の定義とは「認知しているが現実として認めない」という心理状態である。一度の出来事で事の本質を見抜く力を持った人が多数いれば、教訓として悲劇は二度繰り返さないための努力を行う。反省のない人、あるいは事実として認めたくない人は何度でも過ちを繰り返す。例えば東電福島第1原発事故は、津波の可能性を認めたくない人は対策コストが経済的釣り合わないという理屈で、地震学界と土木学界の警告を否認し無視した。その悲劇的経験に学ばない原子力ムラの権力は、原発再稼働の準備を進めている。原子力規制委員会の基準は世界一厳しいと自惚れ、電力会社は厳しすぎると骨抜きを狙っている。全く事故前の体質でやっている。二度目の惨事がいつやってくるかは偶然の問題であるが、若し起ったら笑いごとでは済まされない。被害を被るのは現地の住民であって、東京に住む官僚や電力会社や東京都民ではないので、地元を犠牲にすれば済むと思う精神構造は、沖縄の米軍基地問題と同じである。権力者とそのお膝元は地方の犠牲(収奪)の上に立っている。その苦しみは一顧だにしないで「金目の問題でしょ」と高みの見物である。その金は国民の税金や国債発行である。

(つづく)

読書ノート 杉田 敦著 「権力論」 (岩波現代文庫 2015年11月)

2017年02月27日 | 書評
ミッシェル・フーコ

ミッシェル・フーコーの政治理論と権力論の系譜 第23回 最終回
Ⅱ部  権力の系譜学
5) アイデンティティと政治
   (4) ポストモダニズムとアイデンティティ


コミュニタリアンと多文化主義者は、文化的アイデンティティを積極的に意識して表現することの重要性では一致する。リベラルはアイデンティティの問題には触れないが、西欧文化のアイデンティティを自明の前提としている。第4の系譜であるポストモダニズム(脱近代主義者)はアイデンティティを相対化すべきであるとする。北米の代表的なポストモダニストであるコノリーは独自性と差異性との表裏一体の関係を注視して、アイデンティティはそれ自体で自立するものではなく、かならず自分とは異なる他者との関係において定義されるという。西欧思想はアジア的専制との区別を前提とする。社会契約論の系譜で、自然状態の闘争を説明するホッブスと共同体の一般意思を説くルソーはある意味では、リバラルとコミュニタリアンの論争ということができる。差異の意識無しにはアイデンティティは成立しないというコノリーの考えは、差異の政治を説くテイラーの場合と同じである。アイデンティティを持つことを積極的に評価するテイラーとは対照的に、コノリーはアイデンティティの危険性を指摘する。北米で広がっている小数民族や福祉受給者に対する保守層の反発はアイデンティティの過剰からきている。リベラルがアイデンティティの過剰について問題とするのは、少数派がアイデンティティを主張し始めたからである。コノリーのようなポストモダニストからすると、過剰なのはむしろ多数派のアイデンティティなのである。こういう観点から、正義の原則について一般的な合意を目指すロールズや、コミュニケーションの条件さえ整えば倫理的問題の合意は可能だとするハーバーマスの考え方をコネリーは批判しているのである。こうしてコミュニタリアンとリベラルの双方を攻撃するコノリーの議論は、アイデンティティ問題のジレンマとなっている。コノリーのニーチェ=フーコー主義的な議論は、あらゆるアイデンティティは、人間を一定の型に押し込む点で抑圧的だというのである。コノリーはアイデンティティの偶然性を意識するように説いているが、リベラルの寛容論に通じている。リベラルはロールズのように個人の属性の恣意性と共存を強調してきたからである。しかしリベラルは他者の存在は厭うべきだが受忍しなければならないとする。他方ニーチェ=フーコー=コノリーの系譜では、他者の存在はむしろ積極的に歓迎される。

(完)


読書ノート 杉田 敦著 「権力論」 (岩波現代文庫 2015年11月)

2017年02月26日 | 書評
ミッシェル・フーコーの政治理論と権力論の系譜  第22回

Ⅱ部  権力の系譜学
5) アイデンティティと政治

  (2) 多文化主義とリベラリズム


多文化主義という言葉は、今北米で勢いを持ってきた、極めて多様な思想的・政治的運動の総称である。それは大学のカリキュラムに様々な民族集団の固有文化を加えるべきだという運動から始まった。例えばアフリカ系の学生たちにとって、西洋異文化への同化を強いられるのは、学ぶ労力の点からも、自分たちの文化への無視という点からも不合理であるというものである。そこには西洋文化がそれほどのものかというポストモダニズム的な発想も混ざっている。あるいはフーコーが検証したように、西洋文明とは自然や人間を抑圧するだけのものではないかという反省からきている。西洋文化は植民地への反省が全くないことへの不満も存在する。多文化主義は西洋文明の相対化につながる。カナダのケベック州住民にように、地域的まとまりがより強い民俗的マイノリティからは、カリキュラム変換要求だけでなく、文化的な切断や分離要求がなされている。多文化主義は思想的にはまずリベラリズムを標的にする。ロールズの議論によれば、リベラルは人間を徹底的に抽象化する。人間の属性をすべて剥ぎ取って、個人としての情報を一切考慮しないのである。そうしないと個人間の利益がぶつかって正義のルールに到達することが困難になるからだとする。コミュニタリアンのマイケル・サンデルは一切のアイデンティティを持たない人間に倫理的能力があるのかという疑問が投げられた。コミュニタリアンの考えは、倫理能力はその人をはぐくんだ特定のアイデンティティによって形成されるのである。この批判についてロールズも、リベラリズムがその普遍主義的外観にも拘わらず、現代の北米の社会を前提としていることを認めざるを得なかった。北米社会の多数派であるアングロサクソン系市民の英語圏の文化的背景にほかならず、多文化主義からすると、リベラルの普遍主義とは実は多数派の専制に過ぎない。公民権運動を始めとして、アメリカ合衆国の反差別運動は普遍主義を旗印にしたものだが、リベラルが支援した反差別運動は最初から少数派が参加しやすいように特別枠を設けた。リベラル対保守派という対立軸で成立した。ところが、多文化主義者によると、今やリベラルは少数派の敵であることが明らかになったと主張する。リベラルはアフリカ系住民の同化政策をモデルとしているため、原住民や少数派移民など少数派を考慮していないとして、多文化主義は分離的運動を展開し、リベラル多数派主義者と反目するのである。

  (3) 多文化主義とコミュニタニズム
コミュニタリズムは一見多文化主義と相性がいい。伝統や文化の重要性を強調し、人間のアイデンティティが分化的共同体の中で形成されると説くコミュニタリズムは、少数派のアイデンティティを尊重するからである。実際テイラーはケベック州擁護運動を支持した。最近テイラーは本来性の概念の思想的対立に注意を喚起している。18世紀以降、人間は現世においても本来性を獲得しなければならないが、普遍性尊重の政治か、差異の政治かをめぐって対立しているという。前者はルソー、カント、ヘーゲルの系譜のように、平等な市民権を持つことに本来性を求める立場である。それに対して後者は独自性や違いを重視する立場である。テイラーは後者の立場を代表している。テイラーは帰属意識との関連でケベック州少数派の分離を主張しており、その限りでは多文化主義と同じ思想である。コミュニタリズムと多文化主義はあらゆる文化共同体をすべて尊重するかどうかで軌を別にする。そもそも多文化主義は、異なる文化を相互に比較する普遍的な基準なるものはないとする立場である。多文化主義者のキムリッカはすべての文化的共同体を尊重すべき理由があるとした上で、自由なライフスタイルの選択というリベラリズムの基本的原則を継承しつつ、多文化社会に合った形に修正するのである。彼はコミュニタリアンは文化的共同体の絆にこだわり過ぎているが、伝統的文化共同体は保護しなければならないという。テイラーの基本的な考え方は、「普遍的尊重の政治」に対置される「差異の政治」とは、それぞれの文化が承認を求めて激しく自己主張し合う世界である。多文化主義が保護を求めることは、ためにならないという。テイラーは文化を比較する基準を否定するフーコーやコノリーのようなニーチェ主義者を厳しく批判してきた。テイラーがキリスト世界とイスラム世界の「地平の融合」をどう試みるのか、しかし言葉通りの期待はできない。

(つづく)

読書ノート 杉田 敦著 「権力論」 (岩波現代文庫 2015年11月)

2017年02月25日 | 書評
ミッシェル・フーコーの政治理論と権力論の系譜  第21回

Ⅱ部  権力の系譜学
5) アイデンティティと政治
  (1) リベラルーコミュニタリアン論争


20世紀末の10年はリベラリズムとコミュニタリア二ズムの対立が、アメリカの政治哲学、法哲学、倫理哲学の世界で華々しく議論されてきた。現在はポストモダニズム(脱近代主義)や多文化主義などの見解が、リベラル、コミュニタリアンの双方に論争を挑んでいる。この章ではポストモダニズム(脱近代主義)や多文化主義によって政治哲学がどう論議されてるかを見てゆこう。まず最初はリベラリズムとコミュニタリア二ズム論争をまとめる。現在北米の思想界で代表的なリベラリストと言われるジョン・ロールズ、ロナルド・ドゥオーキンや、コミュニタリアンと言われるチャールズ・テイラー、アラスデス・マッキンタイアーの間では直接手的な議論はないが、リベラル陣営とコミュニタリアン陣営の論議を対照的に捉えてゆくと、第1に個人と社会の関係について個人が社会に先立って主体として存在するとするリベラルに対して、コミュニタリアンは逆に個人は社会の中で人間となると強調する。リベラルにとって社会は選択的契約として成立する。コミュニタリアンによれば人間はある社会に属し、伝統の中で習慣的な行動様式を習得して人間となる。第2に共通善に関してリベラルはいかなるライフスタイルを選択するかは個人に委ねられており社会は干渉すべきでないとする立場である。リベラルとしても最低限度守るべき社会のルール(正義)はあるとして、正義の共有は「善」について各人の判断を保障する条件で干渉ではないという。コミュニタリアンは社会は一定の徳ないし善を満っていなければ、正義も定義できないとするのである。第3に価値痴女を巡る問題に対してリベラルは善相互の序列はなく、どの善を選択するのも自由であるという。コミュニタリアンは相対主義は有害であり、社会に共有された善の相互比較は可能であるとする。両者の差異は断絶的ではなく、強調点がずれているだけのことかもしれない。テイラーは「帰属意識」つまり社会の結合力をいかに確保するかの問題であり、リベラル派の選択が社会を破壊するわけでもないとしている。リベラル派の確信は「啓蒙された自己利益」という概念からきている。文明が進めば人はそれほどバカでなないということである。ちゃんとバランスを取っているから大丈夫というわけである。この20年ほど新自由主義の猛威により、自分自身の短期的利益だけを追求して負担は回避する風潮(ただ乗り)が進んだ。このため家族や地域共同体を失って、心がすさんできている。テイラーらは集合的なアイデンティティを回復する必要性を訴えた。共和制的な意識を植え付けることをしないと社会は破壊されるという。これは誰に向かって言っているのか分からないが、資本家や企業に向かっているのか、労働者や貧困層に向かっているのかそこが問題なのだが。

(つづく)

読書ノート 杉田 敦著 「権力論」 (岩波現代文庫 2015年11月)

2017年02月24日 | 書評
ミッシェル・フーコーの政治理論と権力論の系譜  第20回

Ⅱ部  権力の系譜学
4) リベラル・デモクラシーのディレンマ  R・ダ―ルをめぐって
  (4) ダールと政治的なるもの


ダールは1980年代の議論においてリベラリズムからデモクラシーの側へ傾斜した。多元的に存在するアソシエーションに競争がある限り、それぞれのアソシエーション内部のデモクラシーが実現されることが、上位の政治的単位におけるデモクラシー実現にとって不可欠と考えた。だからと言ってダールがあらゆる局面において政治参加と自己決定を重視するラジカルなデモクラシーの転向したわけではない。最終的なデモクラティックコントロールッシュ体が連邦なのか州なのか、どの大衆によってなされるのかいわゆる「管轄争い」が起きるが、それを民主的に解決する方法は容易ではない。またダールはヨーロッパ連合のような、国民国家より大きな単位のデモクラシーの可能性についても懐疑的である。近代の政治理論の大勢は現状追認的に国民を特権的にデモスと認め、それによって国家間対立の意義を強調してきた。ダールは複数の主権国家が防衛上の見地から結合したものを連邦と呼ぶが、対外的に備えるためのものであるがため連邦内部の対立は避けなければならない。連邦内部に高度の同質性が必要とされるわけである。連邦という概念によって主権が相対化されることを恐れるシュミットは、主権国家が結合した結合体に国家以上に国家的に振る舞うことを要求する。ダールは決定権を小さな単位に委譲する連邦主義は、大きい単位のデモスの多数決を否定する「少数者の専制」につながると主張する。問題解決能力ではデモスは大きい方がいいので、両者のバランスを取り得る最適な単位こそが重要であるとする。それがコミュニタリアン(共同体論)とリベラルの論争と規を一にする。コミュニタリアンのロールズは「正義論」において、連帯を回復するのは共通の善を共有する濃密な共同体を復活するしかないという。コミュニタリアンのは、社会的財の配分基準は財の種類ごとに別々であるべきだとしたが、政治的共同体ごとの正義の基準(利益配分の基準)は同じでなければ名rないとした。ダールは正義の基準が違うことは悪しき相対しゅぎになり、政治的な対立を招くとして反対した。ウォルツァーの議論は、単位内の同質性と単位間の多元主義が相互に支え合うていう点で、リベラルデモクラシーの一つの典型かもしれない。これに対してダールは「管轄争い」を強く意識しており、コントロールの掌握を巡ってアソシエーションの間に対立が起る可能性がある。ダールの「自治企業」の概念は、産業企業の影響力がここまで強くなっている現状を見ると、政治経済体制つまり産業主義と主権国家体制との相互依存構造を変えることは容易ではないだろう。労働者=消費者と同じ論理で、労働者=投票者という考えも重要である。

(つづく)