「本能寺」 京都右京区太秦 「広隆寺 総門」
兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期
「太平記」 第Ⅱ部 (第13巻~第21巻)
太平記 第17巻(年代:1336年)(その4)
12、山門より還幸の事
尊氏、浄土寺の忠円僧正を使者とし、主上に都に還幸されるように説いた。今回の天下の騒乱は尊氏が反逆をを企てものではなく、ただ義貞が一族を亡ぼし讒臣を断たんがためのこと、京にお帰りになられたら、供奉の諸卿、降参の者に所領を戻し天下の政務は公家にお任せするという内容であった。主上は側近にも相談せず還幸すると言い出した。
13、堀口還幸を押し留むる事
還幸の支度が秘かに進められているころ、気の早い新田の一族である江田行義、大館佐馬助氏明らは降参の準備を始めた。新田義貞はこのことは何も知らされていないようで、堀口美濃守貞満は山上の内裏にゆき事の次第を見に行った。帝の輿が用意され三種の神器などが運び出だされようとしているの見て貞満は輿に縋り付いて帝を留めた。中先代の乱では忠義の大功のある義貞を棄てることは主上のために戦死した数百人の新田一族の霊をないがしろにすることになり、京都に臨行なる前に山にいる義貞一族50余名の首をはねてから行うべきだと泣いて主上を諫めた。主上も誤りに気が付いたようであった。(しかし還幸を取りやめるのではない)
14、儲君を立て義貞に付けらるる事
主上の態度に怒った新田義貞、貞満ら三人で参内した。すると主上はあれは尊氏に一日の和睦で時間稼ぎに出たまでの事で、貞満の言い分にも一理はあるが深い配慮が足りないと言い訳をくだくだしく述べた。そして義貞に越前国の河島惟頼の敦賀城に下って北陸の兵を集め再興を図ることを命じた。そしてなお朕を信用できなければ、皇太子恒良親王を天子として擁して北陸に下るべしという。(敗軍の将新田を眼の前から排除し、怒る新田に対してこの親王を後醍醐の人質にやるということで、子だくさんの天皇として驚くべき無情な人質作戦である。こんな回答で新田の怒りが収まるのだろうか疑問、しかし武家として戦に勝たなければ存在価値はない。公家・天皇に従っても戦に勝てるわけではないので苦渋の納得の風を装ったというべきか)
15、鬼切日吉に進せらるる事
10月9日親王の受禅の儀、還幸の準備で一日が暮れた。新田義貞は夜更けに日吉大宮権現に参社し、朝敵征伐の祈願を立てられ、家累代の太刀鬼切を社壇に献じられた。
16、義貞北国落ちの事
明けて10月10日、主上は輿にのって西坂から都に還幸になり、東宮は馬に乗って戸津から北へ向かった。還幸に供奉した人々は公家では吉田定房、御子為定、中納言公明、坊門清忠、勧修寺経顕、民部卿光経、左中将藤長ら、武家では大館氏明、江田行義、宇都宮公綱、菊池武俊、仁科、春日部、南部、伊達、江戸、本間ら700余騎であった。北国に行かれた人々は公家では一宮親王、洞院実世、三条侍従泰季、、御子為次、頭大夫行房、武家では新田義貞、脇屋義助、義詮、堀口貞満、一井、額田、里見、大井田、鳥山、桃井、山名、千葉介、宇都宮、狩野、河野、土岐出羽守頼直、ら7000余騎であった。このほか宗良親王は遠江国に落ち、懐良親王は吉野へ落ち、四条隆資は紀伊国へ、少将定平は河内国に隠れた。(この時点で後醍醐帝の新政は公式に終焉した。あとは残党による反乱とみなされる)
17、還幸供奉の人々禁獄せらるる事
主上の還幸が岡崎法勝寺に近づいて、足利直議500騎で迎え、三種の神器を受け取り光明帝に渡すことを告げる。(南朝側はこれを偽の神器という) そして主上を花山院御所に押し込め四門を閉じ警護の兵を置いた。降参の武士は大名預かりの身になり囚人扱いとなる。新田はこうなるものと分かっていたが、後の祭りである。菊池肥後守はしばらくして逃げだし本国へ戻った。宇都宮は逃げずに法体となる。本間孫四郎は六条河原で首を斬られた。道場房猷覚は12月29日阿弥陀峯で斬首される。主上に供奉してきた三公九卿は死罪になるものはいなかったが、解官停任され、あるかなきかの身となった。
(つづく)