ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2020年11月30日 | 書評
「本能寺」 京都右京区太秦 「広隆寺 総門」

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅱ部 (第13巻~第21巻)

太平記 第17巻(年代:1336年)(その4)

12、山門より還幸の事
尊氏、浄土寺の忠円僧正を使者とし、主上に都に還幸されるように説いた。今回の天下の騒乱は尊氏が反逆をを企てものではなく、ただ義貞が一族を亡ぼし讒臣を断たんがためのこと、京にお帰りになられたら、供奉の諸卿、降参の者に所領を戻し天下の政務は公家にお任せするという内容であった。主上は側近にも相談せず還幸すると言い出した。
13、堀口還幸を押し留むる事
還幸の支度が秘かに進められているころ、気の早い新田の一族である江田行義、大館佐馬助氏明らは降参の準備を始めた。新田義貞はこのことは何も知らされていないようで、堀口美濃守貞満は山上の内裏にゆき事の次第を見に行った。帝の輿が用意され三種の神器などが運び出だされようとしているの見て貞満は輿に縋り付いて帝を留めた。中先代の乱では忠義の大功のある義貞を棄てることは主上のために戦死した数百人の新田一族の霊をないがしろにすることになり、京都に臨行なる前に山にいる義貞一族50余名の首をはねてから行うべきだと泣いて主上を諫めた。主上も誤りに気が付いたようであった。(しかし還幸を取りやめるのではない)
14、儲君を立て義貞に付けらるる事
主上の態度に怒った新田義貞、貞満ら三人で参内した。すると主上はあれは尊氏に一日の和睦で時間稼ぎに出たまでの事で、貞満の言い分にも一理はあるが深い配慮が足りないと言い訳をくだくだしく述べた。そして義貞に越前国の河島惟頼の敦賀城に下って北陸の兵を集め再興を図ることを命じた。そしてなお朕を信用できなければ、皇太子恒良親王を天子として擁して北陸に下るべしという。(敗軍の将新田を眼の前から排除し、怒る新田に対してこの親王を後醍醐の人質にやるということで、子だくさんの天皇として驚くべき無情な人質作戦である。こんな回答で新田の怒りが収まるのだろうか疑問、しかし武家として戦に勝たなければ存在価値はない。公家・天皇に従っても戦に勝てるわけではないので苦渋の納得の風を装ったというべきか)
15、鬼切日吉に進せらるる事
10月9日親王の受禅の儀、還幸の準備で一日が暮れた。新田義貞は夜更けに日吉大宮権現に参社し、朝敵征伐の祈願を立てられ、家累代の太刀鬼切を社壇に献じられた。
16、義貞北国落ちの事
明けて10月10日、主上は輿にのって西坂から都に還幸になり、東宮は馬に乗って戸津から北へ向かった。還幸に供奉した人々は公家では吉田定房、御子為定、中納言公明、坊門清忠、勧修寺経顕、民部卿光経、左中将藤長ら、武家では大館氏明、江田行義、宇都宮公綱、菊池武俊、仁科、春日部、南部、伊達、江戸、本間ら700余騎であった。北国に行かれた人々は公家では一宮親王、洞院実世、三条侍従泰季、、御子為次、頭大夫行房、武家では新田義貞、脇屋義助、義詮、堀口貞満、一井、額田、里見、大井田、鳥山、桃井、山名、千葉介、宇都宮、狩野、河野、土岐出羽守頼直、ら7000余騎であった。このほか宗良親王は遠江国に落ち、懐良親王は吉野へ落ち、四条隆資は紀伊国へ、少将定平は河内国に隠れた。(この時点で後醍醐帝の新政は公式に終焉した。あとは残党による反乱とみなされる)
17、還幸供奉の人々禁獄せらるる事
主上の還幸が岡崎法勝寺に近づいて、足利直議500騎で迎え、三種の神器を受け取り光明帝に渡すことを告げる。(南朝側はこれを偽の神器という) そして主上を花山院御所に押し込め四門を閉じ警護の兵を置いた。降参の武士は大名預かりの身になり囚人扱いとなる。新田はこうなるものと分かっていたが、後の祭りである。菊池肥後守はしばらくして逃げだし本国へ戻った。宇都宮は逃げずに法体となる。本間孫四郎は六条河原で首を斬られた。道場房猷覚は12月29日阿弥陀峯で斬首される。主上に供奉してきた三公九卿は死罪になるものはいなかったが、解官停任され、あるかなきかの身となった。

(つづく)

太平記

2020年11月29日 | 書評
「本能寺」 京都中京区木屋町通御池

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅱ部 (第13巻~第21巻)

太平記 第17巻(年代:1336年)(その3)

9、隆資卿八幡より寄する事
京都での合戦は13日午前10時と決まった。東坂本から寄せた官軍が逢坂関や西坂で控えて時間を待っているころ、尊氏軍は北白川に火をかけた。八幡から寄せる四条中納言資介卿は卿の煙を見てすでに合戦が始まったとばかり、官軍の合戦開始の合図も待たずにわずか3000騎ほどで鳥羽街道から東寺の南門へ寄せた。官軍は鳥羽の田から羅生門あたりから散々矢を射るので、高師直500騎は次第に退いた。東寺の尊氏は少しも慌てず東寺の鎮西八幡宮で読経をしていた。将軍の前に詰めていた土岐伯耆守入道存孝(頼貞)は息子悪源太(頼直)を呼びこれに敵を打ち払うように命じた。尊氏は悪源太に自分の太刀を賜り、悪源太は敵の先陣に向かっていった。十数人を切り落とすと官軍は浮足立ち、そこへ高武蔵守師直は1000余騎で鳥羽街道を南に追いかけ、師泰700余騎は竹田から横合いに攻めた。官軍は散々打たれて八幡に退いた。
10、義貞合戦の事
官軍はすでに八幡軍が敗れていたのも知らず、時刻通りに、大手の総大将新田義貞、大将脇田次郎義助2万騎は西坂を下って三手に分かれて打ち寄せた。一手は義貞、義助、江田、大舘、千葉、宇都宮ら一万余騎が糺森から西へ大宮から南へ下って寄せた。一手は名和長年、仁科、高梨、土居、得能、春日部の五千余騎は大宮より二筋東の猪熊通りを下った。一手は二条大納言、洞院左衛門督を大将にして五千余騎は敵に道を遮断されないよう四条通の被害に陣をとり先へは進まなかった。阿波、淡路の兵千騎は今熊野の阿弥陀ヶ峯(東山九条の東の山)に陣を取り、洛中には入らず泉涌寺前まで下った。大覚寺の宮を大将とする長坂(鷹峯)に陣取った侍大将の額田の勢800余騎は合図があれば、嵯峨、仁和寺に出て火をかける予定であった。六条大宮より合戦が始まり、足利将軍の20万騎と義貞の10万騎の激しいつばぜり合いが開始され、尊氏の勢は討ち散らされ、義貞の軍は東寺の門前に出た。義貞は尊氏に寄せたことを喜び「これ国主両統の御事とは申しながら、ただ義貞と尊氏卿のなす所なり」 東寺の門の前で一対一の決戦を申し込んだ。尊氏はこれを聴いて受けて立とうとしたが、上杉伊豆守が挑発に乗るなと尊氏を止めた。そこへ足利方の土岐弾正少弼頼遠(頼貞の子)が300騎で上賀茂から五条大宮に駆け付け新田義貞の背後を襲った。鬨の声を聴いてあちこちの兵が集まり数千騎で大宮を下って義貞の後ろに出た。二木、細川、吉良、石塔らの二万騎は西八条に押し寄せ、小弐、大友、大内、四国・九州の兵三万余騎は七條河原を下り唐橋(西寺跡)に出た。こうして義貞軍を三方から囲んだ。義貞は三条河原から脱出し、官軍の大将の軍も散りじりになったので、義貞、義助、江田、大館は万死に一生を得てまた坂本へ引返した。
11、江州軍の事 併 道誉を江州守護に任ずる事
官軍またも京攻めで負けたので、八幡にいた四条中納言資介卿も山門の坂本へ上った。阿弥陀が峯にいた四国、淡路の兵も坂本に帰ったし、長坂を堅めていた額田も坂本に帰った。都から敵兵がいなくなり、逆に官側はすべて山門に閉じ込められた観になった。南都の大衆は北嶺との約束をしたものの、尊氏側から荘園を寄付されて心が変り武家合体の約束をした。官軍の望みとしては備後、備前の児島、今木、大富、伊勢の愛曾であった。山門としては官側の二十万人の兵糧の負担は限界を越し、さらに北国への道は足利高経が塞ぎ、近江の国には小笠原の軍が陣取って往来の船を止めているので、経済封鎖で息も絶え絶えの状態となった。官軍はこのままでは餓死による降参を余儀なくされるので、9月17日山門の衆徒5000人草津志那より上陸し野路、篠原に押し寄せたが悉く討たれた。20日には山門より二万余人船に乗って対岸に上陸した。小笠原の勢三百騎は多賀に陣を張った。山徒は討たれて堅田に逃げだした。この時、佐々木佐渡守判官入道道誉、将軍尊氏の前に出てこの地はもともと佐々木の守護職であった。江州の管領に任命くださればこの地の敵を平らげ敵を兵糧攻めにして見せると申し出たので、尊氏は江州の管領職、闕所数か所を道誉に与えて、彼を江州に派遣した。佐々木道誉は野洲郡三上山の麓に陣をとり、国を管領し、手の者に闕所を分配し、坂本を厳しく監視した。干上がった官側は脇屋右衛門を大将にして二千余騎で江州に打って出た。脇屋が志那より上陸しようとするところを阻止すべく道誉は三千余騎で攻撃した。散々に討たれて脇屋は坂本に戻った。これよりのちは山上、坂本はいよいよ兵糧がなくなり、兵が逃げ散じた。

(つづく)

太平記

2020年11月28日 | 書評
京都右京区花園 「妙心寺」総門

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅱ部 (第13巻~第21巻)

太平記 第17巻(年代:1336年)(その2)

4、般若院の童神託の事
越前の守護尾張守高経北陸勢を引き連れて仰木から押し寄せて横川を攻めるという噂が立ったので、逆木・木戸で要塞を堅めるため材木の運び上げが行われた。そこに般若院の法印に使われる童がにわかに物の怪が付き、「我は大八王子権現なり、材木は不要なので元に戻せ」といった。そしてなお、主上の叡慮はひたすら自分のためであって利民治世のためではない。宗徒の心も皆驕慢放逸で私のみ考え、仏法は置き去りにされている。明日正午に権現を遣わして、逆徒を四方に散じるゆえに材木は不要なりというのだ。
5、高豊前守虜らるるの事
6月20日西坂の八瀬、薮里、東坂の志賀、大津の寄り手に官軍が木戸を開いて打って出た。東西の寄り手80万騎山から雪崩を打つように転げ落ち多数の死傷者を出した。なかでも西坂の搦め手の大将高豊前守師久(高師直の弟)は自分の刀で足をさし動けない官軍に捕らえられた。新田義貞は「重衡の例に倣って山門に任す」といって渡した。山門の大衆は唐崎の浜で首をはねた。(この話は明らかに平家物語の平重衡が南都焼き討ちの張本人として木津川で切られた話を踏まえたパロディである。為に作った架空の話であろう。だいたい官側の少ない軍勢で大手、絡め手の両面合戦はできない。猿が鐘をうって、東西どちらから敵が攻めてきたかを知らせる合図を混乱させたことはちぐはぐで理解できない。第2章から第5章まで面白さに重点をおいたエピソードで話の本筋には関係ないようだ)
6、初度の京軍の事
6月5日から20日まで山門側の死傷者は数知れず、東西の寄り手が引き退くとき京にとどまらず、四方へ散った。そのため京中は空っぽとなった。そこを義貞の長詮議によってすぐさま京に寄せなかったため、10日間ほど無為に過ごした。これが山門の運命を決めた。その間尊氏側の軍勢はまた京に集結した。それを正確に知らなかった山門は、京中無勢なりとして、6月30日十万騎を二手に分け、今路、西坂より京に入った。敵を近づけ東寺に集結した五十万騎が襲い掛かった。官側山門勢は千葉伸介ほか宗徒1000名討たれて西坂に戻った。
7、二度の京軍の事
7月5日、二条師大納言基卿が北陸より3000騎を擁して東坂本に着いた。山門は18日また京に兵を出した。今度は御所の西、二条大宮通と東の鴨川の二手に分かれて京を焼く方針であった。それが尊氏側に漏れ聞こえて、50万騎を三手にわけ20万騎を東山と七條河原に置き、20万騎を船岡山(紫野)の麓に置いた。残る10万騎を東寺、西八条に置いた。明けて18日午前6時北白川から入った山門の軍勢は東西の二軍に分流した。新田一族5万騎は糺森そして紫野から内裏に向かう。二条師大納言基卿、千葉、宇都宮、仁科、高梨らは真如堂から河原を下って押し寄せた。五条河原から戦が始まり新田兄弟の軍は包囲されたが切り抜けまた山門に帰った。官軍の負けであった。
8、山門の牒南都に送る事
官側は二度の京戦に敗れて軍勢はやせ細った。主上は東坂本に謀反者が出ないかどうか心配でならなかったので、山門及び宗徒に気をつかって数ヶ所の庄を山門に寄付したり、数百ヶ所の欠所を軍兵糧に与えた。寺に土地を与えることがはたして仏法にとって好ましいことなのが識者は却って法滅の基だとこの措置を喜ばなかった。北嶺(叡山)は天子の危機を救うことが目的で、南都東大寺、興福寺は摂関家(藤原家)の不遇を救うことが目的である。であるから南都に諜書を送って正義の戦いに力を合わせるべしと山門の衆徒3000人が詮議して、六月諜書を作成した。南都の衆徒山門に同心して返書を送った。こうして北嶺南都の衆の同意が成立した。畿内近国の兵らは山門に味方をするにも、叡山は包囲されているので近づくことはできないので、軍の大将にふさわしい人を派遣して戴いて、軍を組織し京都に攻め入ると申し込んだ。そこで八幡へは、四条中納言資介卿を差し遣わされた。真木、葛葉、禁野、宇殿、神崎、天王寺、賀茂らの者ら3000余騎が淀の大渡に陣をとった。宇治へは中院中将定平を遣わし、宇治、田原、醍醐、小栗栖、木津、梨間、市野辺、山城脇の者が集まって2000余騎宇治橋に陣をとった。北丹波路には大覚寺宮を大将として額田左馬助を遣わされた。その勢300余騎、嵯峨、仁和寺、高雄、栂ノ尾、山内らの者1000余騎、嵐山、高尾に陣をとった。唐櫃越(丹波篠山に越える道)だけは残った。合戦ばかりの京の疲弊は地獄絵のようであった。7月13日新田義貞は主上に挨拶をして京に攻め入った。これを最後の決戦と心得て東寺に向かった。
(つづく)


太平記

2020年11月27日 | 書評
京都市中京区 二条城大手門

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅱ部 (第13巻~第21巻)

太平記 第17巻(年代:1336年)(その1)

1、山攻めの事 併 千種宰相討死の事
この第17巻は岩浪文庫本で100頁以上を占め、全26章からなる最大の容量である。南北朝時代の内乱の開始の年で、後醍醐帝・新田義貞という最大のライバルを京都から追い払い、尊氏は念願の武家幕府を樹立するのである。1336年5月27日後醍醐天皇は再び叡山の山門に逃げ上った。そこで内乱の芽を小さいうちに摘み取るため、尊氏、直議、高、上杉らは東寺において山門攻めの評定を行った。6月2日大手・搦め手50万騎の軍勢を山門に差し向けた。大手には、吉良、石塔、渋川、畠山」を大将として五万余騎が大津、三井寺。唐崎に寄せた。搦め手第1陣は二木、細川、今川、荒川を大将にして八万騎を三石の麓から無動寺東塔へ向かった。搦め手第二陣は、高豊前守、土佐守、大高、南遠江守、岩松らを大将にして30万騎が西坂本を固めた。その勢は八瀬、一乗寺、修学院、北白川まで及んだ。山門の宮側ではまさかここまで厳しく囲むとは考えていなかったのでその備えはできていなかった。宮側の軍勢の主力は東坂本にあって、山上にはめぼしい軍勢はいなかった。もしも西坂から四明嶽の頂まで敵が占領すれば、死命を握られた東坂本が用意に落ちることは日の目を見るより明白であった。西坂で合戦が始まり、志賀・唐崎の寄せ手十万騎が東坂に押し寄せた。官側は二万騎が柵を設けて固めていたので寄せ手もうかつに進めず遠矢を射るばかりであった。6月6日大手から西坂へ使者が出て、東坂本は新田、宇都宮、千葉、河野が固めてるが、西坂には山法師がいるだけで手薄なので攻めて、火をかけろと指示が出た。西坂の大将高豊前守20万騎が夜が明けて、三石、松尾より総攻撃を開始した。官側の副将軍千種宰相中将忠顕、坊問少将正忠が300騎で迎えたが千種宰相ら全員が討ち死にし、後陣の宗徒7000余人は次第に引き退いたので、高軍は雲母坂、蛇の池、大嶽まで攻めあがった。西坂が破れたとの報を受けた官側は、宇都宮500騎、新田貞義6000騎が四明嶽に駆け上がり寄せ手を谷に突き落とした。寄せ手は西坂に退却しその夜は合戦は止んだ。6月7日翌朝西坂の大将高豊前守は大手の大津の軍に使者を立て、宗徒がみな山に上った、急ぎ大手の合戦を始めるようにと依頼した。そこで大手の吉良、石堂、二木、細川十八万騎を三手に分け東阪に寄せた。官側の陣の大将脇屋義助二万余騎、在地の兵5000余名、船700余艘で向かった。尊氏軍の寄せ手は城の中の6万騎を相手にはかばかしい戦果はなかった。(見事な両面作戦、連係プレーですね。官側は振り子のように山を登ったり、浜に降りたりして消耗作戦になったようです)
2、熊野勢軍の事
6月16日熊野の八か所の代官(庄司)500騎が新手の勢として上洛し、西坂に向かった。山岳狩猟民の風体で強そうに見えたので高豊前守は頼もしく感じて彼らの戦の意見を聞いた。弓矢、長刀に長じて険阻な山も平地のように動けるので、叡山攻略は難しくはないと答えた。(楠木正成もそうであった) 6月17日20万騎の大勢が、熊野の八庄司を500騎を先に立てて雲母坂の松尾から楯をかざして攻め上った。官軍より池田、本間、相馬の弓の名手を選び熊野勢に当たることとし、他の軍勢は手出しをしないで見物に回った。(戦場は勝敗を度外視した個人芸のアクロバットなショーの観劇会となった。というより架空のお話のエピソード) 
3、金倫院少納言夜討の事
矢戦ばかりでは決着はつかないし山門は落ちない。攻めあぐんでいるところに、山門の金輪院律師光澄というものの使い今木隆賢が高豊前守にやってきて官方を裏切った。兵400騎ほどを添えてもらえれば、山の地理をよく知っているので四王院あたりで時の声を上げたなら光澄の衆徒が呼応して山門を攻め落とすことは容易だ進言した。ところがいざ実行すると天罰なのか右往左往するだけで道を見失った。夜が明けて敵に見つかり全員が討ち取られた。隆賢は首をはねられ、光澄も殺された。叡山は仏法と王法の守護山でそれに背いた者には神罰が下るということを説いた(架空の)お話です。

(つづく)


太平記

2020年11月26日 | 書評
京都東本願寺 御影堂門前 噴水と銀杏

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅱ部 (第13巻~第21巻)

太平記 第16巻(年代:1336年)(その3)

9、本間重氏鳥を射る事
このエピソードは明らかに平家物語の那須与一の話を踏襲(パロディ)している。戦いの前、新田の陣より馬に乗って一騎波打ち際に立ち、弓の腕を自慢するため5、600メートル先の波のうえの鶚を射て、見事片翼を打ち抜き、矢は大内の船の帆に立ち、鳥は将軍の船に落ちた。この矢の射手は相模国本間孫四郎重氏という。尊氏側には彼に勝る弓の上手はいなかったのでこれに答られなかった。さて陸と海の戦いは開始され、四国の兵は700艘が上陸を開始した。それに沿って迎え討つ官側の陣営が伸びてゆく様は逃げるかのように見えた。上陸作戦に掛け合う新田勢の兵は薄くなり支える兵もいなくなった。これによって九州、四国の船6000艘は容易に和田の岬に上陸した。
10、正成討死の事
楠正成軍では弟正氏に「もはや前後を塞がれた。700騎を二つに分けて突撃すべし」といった。これに対する尊氏軍は左馬頭直義の軍50万騎がかかった。楠正成・正氏兄弟はひたすら左馬頭直義を探して突き進んでゆくので、直義の軍は須磨まで引いた。これを見た将軍は直義に援軍7000騎を送って正成を取り囲んだ。正成軍は次第に消耗し今や70騎にまで減少した。死を覚悟していた正成は一歩も引かず力の限り戦った。傷つき疲れた楠一族16人、従者50人は農家に入り一度に腹を切った。官側の菊池七郎武朝は楠の自害を見て、農家に火をつけ自分も自害した。
11、義貞朝臣以下の敗軍帰洛の事
新田義貞は足利の御紋の旗を見て、これを敵に選んで生田の森を後ろにして4万騎で前の敵の三方に当たった。一番手は大館、江田の兵3000騎で、敵尊氏軍の二木、細川、斯波、渋川六万騎と闘ってさっと引いた。二番手は中院定平、大井田、里見5000騎で、敵の高、佐々木、赤松八万騎と揉み合ってひいた、三番手は脇屋、宇都宮、菊池、土居、得能一万騎で、敵の吉良、石塔、畠山、一色十万騎に掛け合って、死傷者を多く出して引いた。四番手は既に新手はなくなったので義貞総大将が二万騎で、尊氏の二十万騎の中に懸け行った。すさまじい消耗戦で官軍の小勢は残る勢は3000余騎になったので、生田の森から丹波路をさして京都に退却となった。義貞の乗る馬が射ち倒され、代わりの馬を探す間の危機一髪のところ小山田太郎高家に救われ虎口を脱した。
12、重ねて山門臨幸の事
義貞の兵は一千騎に討たれてすでに帰洛してので、京の中は周章狼狽、公家の逃げ足は空に舞った。1336年の正月のようにまた山門に御幸しなければならない。5月25日主上は三種の神器を奉って叡山に向かわれた。山門の臨行に参じた卿相雲客、殿上人の名前を列記しているが省略する。また山に供奉した武家は義貞、義顕、脇屋、堀口、大館、江田、大井田、岩松、鳥山、額田、羽川、桃井、里見、田中、千葉、宇都宮、狩野、武田、小笠原、仁科、春日部、名和、土屋、今木、頓宮以下その勢六万騎である。
13、持明院殿八幡東寺に御座の事
さてここで問題なのは持明院殿の君主、法皇、上皇、親王の進退である。洞院大納言公泰卿は後醍醐帝の勅使として、大田判官を警護として山門に遷るべきことを伝えた。御政務のこと、尊氏に院宣を下した光厳院の事も頭にあり、尊氏の内内の申し入れもあったのだろう、混乱のなか輿に乗ってから急病(おそらく仮病)となり、軍勢が迫る中全職は山に上った。尊氏は持明院殿に兵をさし向け、山門へ出御と称して輿に乗せて、六条御所(持明院統)に向かった。6月3日京の合戦の勝劣がまだ落ち着かない間は三王(花園法皇、光厳上皇、豊仁親王)を石清水八幡宮に遷され、14日東寺灌頂堂を御所とされた。8月15日豊仁親王を皇位に定められた。これが尊氏の目論見どおり運の開く始めとなった。ここで朝廷から逆賊指定された者たちのレビューが荒唐無稽ながら披露される。
14、正行父の首を見て悲哀の事
湊川の戦いで討たれた楠木正成の首が都の六条河原にかけられた。正行これを見て桜井の宿で父が正行に残した遺訓「今度の戦いにはかならず死ぬだろう。正行を道連れにしないのは後栄のため」が思い起こされてならない。正行11歳になるが、やるせない気持ちに押されて持仏堂へ行き自害に及ぼうとしたとき、仇に報いるのが親孝行だ、当座の感情に流されてはいけないと母が寄り添って自害を止めた。

(つづく)