日本はなぜ「昭和戦争」を引き起し、多大な犠牲を生むことになったのか、日本人自ら戦争責任を問う 第22回
下巻 6) 戦争責任者総括 (その1)
いよいよ本書「検証 戦争責任」の中心をなす戦争責任の総括に入る。満州事変から14年間なぜ、あのような無謀な戦争に突入したのか、どうして早期に止められなかったのか、日本の政治・軍事指導者や幕僚・高級官僚の責任の所在と軽重を日本人自らの手で明らかにしてゆきたい。戦争責任の検証は前半で時代時代の局面において責任のあった人々を明らかにし、後半で天皇に始まり東条英機から近衛文麿そして軍人・官僚・政党人個人の責任を問うてゆく。
① 戦争局面での戦争責任者
[満州事変 戦火の扉を開いた石原、板垣]
責任の重い人物:石原莞爾関東軍参謀、板垣征四郎関東軍参謀、土肥原賢二奉天特務機関長、橋本欣五郎参謀本部第2部ロシア班長
満州事変を引き起したのは、「木曜会」の石原莞爾関東軍参謀、板垣征四郎関東軍参謀の二人である。「謀略により国家を強引する」という陸軍中佐石原莞爾の行動は文字通り日本を戦争へと引きずり込んでいった。石原の軍事思想は「世界最終戦争論」で西側では英米を覇者として、東アジアでは日本を覇者とする構図を描かき、中国を全面的に利用すれば20年でも30年でも戦えるという持久戦論であった。土肥原賢二奉天特務機関長が奉天市長に就任した。石原は「桜会」の橋本欣五郎参謀本部第2部ロシア班長と密接に連絡を取り合っていた。橋本欣五郎とは3月事件、10月事件というクーデター未遂事件の主犯であった。南次郎陸相は対満蒙強硬論者で、若槻礼次郎首相はあっさり朝鮮軍の無断越境を容認した。1932年3月満州国建国がせんげんされるが、廃帝溥儀を担ぎ出したのは土肥原賢二奉天特務機関長であった。5.15事件で犬養首相が暗殺され、後継の斎藤実首相は満州国を承認した。内田外相は「焦土演説」を行い満州国を支持した。国際連盟のリットン調査団報告を罵倒した荒木陸相、国際連盟を脱退した松岡洋右の国際情勢の読みのまずさも後押しした。
[日中戦争 近衛、広田無策で泥沼化]
責任の重い人物: 近衛文麿首相、広田弘毅首相・外相、土肥原賢二奉天特務機関長、杉山元陸相、武藤章三部本部作戦部長
満州事変から日中戦争へ発展させた責任はだれにあるのだろうか。盧溝橋事変が起きた1か月後に近衛文麿内閣が発足した。近衛は当初の不拡大方針を変更し、華北への派兵声明を出した。広田弘毅外相は日中戦争に至る過程で外相と首相を長く務め、外交政策に責任があった。1936年の2.26事件後、軍部大臣現役武官制の復活、南方進出、日独防共協定を決めた首相として禍根を残した。「華北分離工作」を担ったのは、土肥原賢二奉天特務機関長、酒井駐留軍参謀長らであった。板垣征四郎関東軍参謀は中国を分離し「分治合作論」を主張した。石原莞爾参謀本部作戦部長は不拡大方針であったが、田中新一軍事課長と武藤章作戦課長、陸相の杉山の拡大派が主導権を握った。南京攻略の司令官は松井石根であった。
[三国同盟 松岡、大島外交ミスリード]
責任の重い人物: 近衛文麿首相、松岡洋右外相、大島浩駐ドイツ大使、白鳥敏夫駐イタリア大使、永野修身軍令部総長、石川信吾海軍省軍務局第2課長
米国の対日圧力は日本側が情報の読み方を誤ったことが原因している。妥協の道はいくつもあったという。その最大の綾m利が1940年日独伊三国同盟の締結であった。それを推進した松岡洋右外相はさらにソ連をくわえた「四国協商」で米国に圧力を加えた。ドイツの勝利を盲信し本国へ誤った情報を送り続けたのが大島浩駐独大使と、白鳥駐イタリア大使であった。三国同盟と並ぶ致命的な誤りは1941年7月の南部仏印進駐であった。南部仏印進駐を主張したのは海軍軍令部総長の永野修身であった。永野に侵攻を強く迫ったのは軍務局第2課長の石川信吾であった。それらの策を承認したのは近衛首相であった。
[日米開戦 東条 戦争を主導]
責任の重い人物:東条英機首相兼陸相、杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長、嶋田繁太郎海相、岡敬純海軍軍務局長、田中新一参謀本部作戦部長、鈴木貞一企画院総長、木戸幸一内大臣
日本の国力で米国と戦えるのかという冷静な判断を失った陸軍の主戦論を導いたのは、杉山元参謀総長、塚田攻参謀次長、田中新一作戦部長、服部卓四朗作戦課長、佐藤賢了軍務課長らであった。海軍は戦争に勝てる確信は持てなかった。政権を投げ出した近衛に替わって木戸幸一内大臣は主戦論の東条英機を首相に推した。木戸には木戸の目論見があったのだが、東条を首相にしても主戦論を抑えることはできず、木戸の読みは外れた。開戦決定の主たる責任は東条首相、東郷外相、賀屋蔵相の閣僚にある。
[戦争継続 連敗を無視した東条、小磯]
責任の重い人物: 東条英機首相兼陸相、小磯国昭首相、永野修身軍令部総長、杉山元参謀総長、嶋田繁太郎海相、佐藤賢了陸軍省軍務課長、岡敬純海軍省軍も局長、福留繁軍令部作戦部長
1942年6月ミッドウエー海戦で大敗し、1943年2月ガダルカナル島抜海に失敗した。制海権制空権を失った日本軍には補給は難しく対米戦争の継続は困難であった。1944年反東条運動を切り返すため東条首相は陸相と参謀総長を兼ねた。しかし7月サイパン島が陥落し、絶対国防線は破れ、東条は退陣した。継いだ小磯首相は戦争終結の議論を行わないまま「一撃講和論」で本土決戦を決意した。8月の最高戦争指導者会議で、梅津参謀総長、杉山元陸相、及川軍令部総長らは「戦争完遂」という勇ましい言葉に酔った。10月フィリッピンレイテ島で大敗を喫し、ほとんど陸海の戦力を失った大本営は沖縄・本土最終決戦を決意した。
[特攻・玉砕 統帥の外道を行く大西、牟田口]
責任の重い人物: 大西滝次郎第1航空艦隊司令官、中沢佑軍令部作戦部長、黒島亀人軍令部第2部長、牟田口廉也陸軍第15軍司令官
大本営は1944年7月大本営海軍部は「敵空母輸送艦を必殺する方針を協議した。中沢佑軍令部作戦部長、及川古志郎軍令部総長、伊藤整一軍令部次長、大西滝治郎第1航空隊司令官らは体当たり攻撃を主張し、大西はマニラで第1神風特別攻撃隊を編成した。フィリッピン決戦で1945年1月までに航空特攻による戦死者は700人になった。陸軍も南方の戦地では「玉砕」が続いた。1944年全く無謀なインド侵攻であるインパール作戦で牟田口司令官部隊は英国軍の前に玉砕した。戦死者は72500人という。大本営の「増援せず、撤退は認めず、降伏捕虜も許さない」という人命・人権無視の作戦は狂気の沙汰である。
[本土決戦 阿南、梅津徹底抗戦に固執]
責任の重い人物: 小磯国昭首相、及川古志郎軍令部総長、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長、阿南惟幾陸相
小磯内閣は小磯首相と米内海相に二人が戦争指導に当たった。戦争指導力もない小磯は「1億総武装」という掛け声だけで沖縄戦を前に退陣した。及川軍令部総長は、神風特攻隊や戦艦大和特攻を承認した。長崎に原爆が落ちた日、8月9日の御前会議で阿南陸相は「死中に活を求め、本土決戦を」と力説した。梅津参謀総長も豊田軍令部総長も同じ意見であった。大本堤は本土決戦に備えて、陸軍315万、海軍150万の配備を計画したという。宮崎周一参謀本部作戦部長は「勝つ見込みなし」と言って、国民には竹槍を渡した。本土決戦を前にして河辺虎四朗参謀次長は「うのぼれ、自負心、自己陶酔、自己満足…の軍人心理が今日の悲運を招いた」と日記に書いた。
[原爆投下・ソ連参戦 東郷和平で時間浪費]
責任の重い人物: 梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長、阿南惟幾陸相、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相
1945年4月に鈴木貫太郎内閣が発足し、東郷茂徳外相はポッツダム宣言への解答を前に、ヤルタ会談の結果も知らずにソ連に和平交渉を頼むという愚策を行った。ポッツダム宣言を無視すると発言した鈴木首相の指導力にも疑問が多い。彼は陸軍のクーデターを恐れたのである。それでも6月6日の最高戦争指導者会議では戦争遂行能力を失った事実が報告されたにもかかわらず、「精神力で戦争継続は可能」という呆れた戦争指導大綱を決めたという。
(つづく)
下巻 6) 戦争責任者総括 (その1)
いよいよ本書「検証 戦争責任」の中心をなす戦争責任の総括に入る。満州事変から14年間なぜ、あのような無謀な戦争に突入したのか、どうして早期に止められなかったのか、日本の政治・軍事指導者や幕僚・高級官僚の責任の所在と軽重を日本人自らの手で明らかにしてゆきたい。戦争責任の検証は前半で時代時代の局面において責任のあった人々を明らかにし、後半で天皇に始まり東条英機から近衛文麿そして軍人・官僚・政党人個人の責任を問うてゆく。
① 戦争局面での戦争責任者
[満州事変 戦火の扉を開いた石原、板垣]
責任の重い人物:石原莞爾関東軍参謀、板垣征四郎関東軍参謀、土肥原賢二奉天特務機関長、橋本欣五郎参謀本部第2部ロシア班長
満州事変を引き起したのは、「木曜会」の石原莞爾関東軍参謀、板垣征四郎関東軍参謀の二人である。「謀略により国家を強引する」という陸軍中佐石原莞爾の行動は文字通り日本を戦争へと引きずり込んでいった。石原の軍事思想は「世界最終戦争論」で西側では英米を覇者として、東アジアでは日本を覇者とする構図を描かき、中国を全面的に利用すれば20年でも30年でも戦えるという持久戦論であった。土肥原賢二奉天特務機関長が奉天市長に就任した。石原は「桜会」の橋本欣五郎参謀本部第2部ロシア班長と密接に連絡を取り合っていた。橋本欣五郎とは3月事件、10月事件というクーデター未遂事件の主犯であった。南次郎陸相は対満蒙強硬論者で、若槻礼次郎首相はあっさり朝鮮軍の無断越境を容認した。1932年3月満州国建国がせんげんされるが、廃帝溥儀を担ぎ出したのは土肥原賢二奉天特務機関長であった。5.15事件で犬養首相が暗殺され、後継の斎藤実首相は満州国を承認した。内田外相は「焦土演説」を行い満州国を支持した。国際連盟のリットン調査団報告を罵倒した荒木陸相、国際連盟を脱退した松岡洋右の国際情勢の読みのまずさも後押しした。
[日中戦争 近衛、広田無策で泥沼化]
責任の重い人物: 近衛文麿首相、広田弘毅首相・外相、土肥原賢二奉天特務機関長、杉山元陸相、武藤章三部本部作戦部長
満州事変から日中戦争へ発展させた責任はだれにあるのだろうか。盧溝橋事変が起きた1か月後に近衛文麿内閣が発足した。近衛は当初の不拡大方針を変更し、華北への派兵声明を出した。広田弘毅外相は日中戦争に至る過程で外相と首相を長く務め、外交政策に責任があった。1936年の2.26事件後、軍部大臣現役武官制の復活、南方進出、日独防共協定を決めた首相として禍根を残した。「華北分離工作」を担ったのは、土肥原賢二奉天特務機関長、酒井駐留軍参謀長らであった。板垣征四郎関東軍参謀は中国を分離し「分治合作論」を主張した。石原莞爾参謀本部作戦部長は不拡大方針であったが、田中新一軍事課長と武藤章作戦課長、陸相の杉山の拡大派が主導権を握った。南京攻略の司令官は松井石根であった。
[三国同盟 松岡、大島外交ミスリード]
責任の重い人物: 近衛文麿首相、松岡洋右外相、大島浩駐ドイツ大使、白鳥敏夫駐イタリア大使、永野修身軍令部総長、石川信吾海軍省軍務局第2課長
米国の対日圧力は日本側が情報の読み方を誤ったことが原因している。妥協の道はいくつもあったという。その最大の綾m利が1940年日独伊三国同盟の締結であった。それを推進した松岡洋右外相はさらにソ連をくわえた「四国協商」で米国に圧力を加えた。ドイツの勝利を盲信し本国へ誤った情報を送り続けたのが大島浩駐独大使と、白鳥駐イタリア大使であった。三国同盟と並ぶ致命的な誤りは1941年7月の南部仏印進駐であった。南部仏印進駐を主張したのは海軍軍令部総長の永野修身であった。永野に侵攻を強く迫ったのは軍務局第2課長の石川信吾であった。それらの策を承認したのは近衛首相であった。
[日米開戦 東条 戦争を主導]
責任の重い人物:東条英機首相兼陸相、杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長、嶋田繁太郎海相、岡敬純海軍軍務局長、田中新一参謀本部作戦部長、鈴木貞一企画院総長、木戸幸一内大臣
日本の国力で米国と戦えるのかという冷静な判断を失った陸軍の主戦論を導いたのは、杉山元参謀総長、塚田攻参謀次長、田中新一作戦部長、服部卓四朗作戦課長、佐藤賢了軍務課長らであった。海軍は戦争に勝てる確信は持てなかった。政権を投げ出した近衛に替わって木戸幸一内大臣は主戦論の東条英機を首相に推した。木戸には木戸の目論見があったのだが、東条を首相にしても主戦論を抑えることはできず、木戸の読みは外れた。開戦決定の主たる責任は東条首相、東郷外相、賀屋蔵相の閣僚にある。
[戦争継続 連敗を無視した東条、小磯]
責任の重い人物: 東条英機首相兼陸相、小磯国昭首相、永野修身軍令部総長、杉山元参謀総長、嶋田繁太郎海相、佐藤賢了陸軍省軍務課長、岡敬純海軍省軍も局長、福留繁軍令部作戦部長
1942年6月ミッドウエー海戦で大敗し、1943年2月ガダルカナル島抜海に失敗した。制海権制空権を失った日本軍には補給は難しく対米戦争の継続は困難であった。1944年反東条運動を切り返すため東条首相は陸相と参謀総長を兼ねた。しかし7月サイパン島が陥落し、絶対国防線は破れ、東条は退陣した。継いだ小磯首相は戦争終結の議論を行わないまま「一撃講和論」で本土決戦を決意した。8月の最高戦争指導者会議で、梅津参謀総長、杉山元陸相、及川軍令部総長らは「戦争完遂」という勇ましい言葉に酔った。10月フィリッピンレイテ島で大敗を喫し、ほとんど陸海の戦力を失った大本営は沖縄・本土最終決戦を決意した。
[特攻・玉砕 統帥の外道を行く大西、牟田口]
責任の重い人物: 大西滝次郎第1航空艦隊司令官、中沢佑軍令部作戦部長、黒島亀人軍令部第2部長、牟田口廉也陸軍第15軍司令官
大本営は1944年7月大本営海軍部は「敵空母輸送艦を必殺する方針を協議した。中沢佑軍令部作戦部長、及川古志郎軍令部総長、伊藤整一軍令部次長、大西滝治郎第1航空隊司令官らは体当たり攻撃を主張し、大西はマニラで第1神風特別攻撃隊を編成した。フィリッピン決戦で1945年1月までに航空特攻による戦死者は700人になった。陸軍も南方の戦地では「玉砕」が続いた。1944年全く無謀なインド侵攻であるインパール作戦で牟田口司令官部隊は英国軍の前に玉砕した。戦死者は72500人という。大本営の「増援せず、撤退は認めず、降伏捕虜も許さない」という人命・人権無視の作戦は狂気の沙汰である。
[本土決戦 阿南、梅津徹底抗戦に固執]
責任の重い人物: 小磯国昭首相、及川古志郎軍令部総長、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長、阿南惟幾陸相
小磯内閣は小磯首相と米内海相に二人が戦争指導に当たった。戦争指導力もない小磯は「1億総武装」という掛け声だけで沖縄戦を前に退陣した。及川軍令部総長は、神風特攻隊や戦艦大和特攻を承認した。長崎に原爆が落ちた日、8月9日の御前会議で阿南陸相は「死中に活を求め、本土決戦を」と力説した。梅津参謀総長も豊田軍令部総長も同じ意見であった。大本堤は本土決戦に備えて、陸軍315万、海軍150万の配備を計画したという。宮崎周一参謀本部作戦部長は「勝つ見込みなし」と言って、国民には竹槍を渡した。本土決戦を前にして河辺虎四朗参謀次長は「うのぼれ、自負心、自己陶酔、自己満足…の軍人心理が今日の悲運を招いた」と日記に書いた。
[原爆投下・ソ連参戦 東郷和平で時間浪費]
責任の重い人物: 梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長、阿南惟幾陸相、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相
1945年4月に鈴木貫太郎内閣が発足し、東郷茂徳外相はポッツダム宣言への解答を前に、ヤルタ会談の結果も知らずにソ連に和平交渉を頼むという愚策を行った。ポッツダム宣言を無視すると発言した鈴木首相の指導力にも疑問が多い。彼は陸軍のクーデターを恐れたのである。それでも6月6日の最高戦争指導者会議では戦争遂行能力を失った事実が報告されたにもかかわらず、「精神力で戦争継続は可能」という呆れた戦争指導大綱を決めたという。
(つづく)