ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 読売新聞戦争責任検証委員会著  「検証 戦争責任」(中公文庫 2009年)

2015年08月31日 | 書評
日本はなぜ「昭和戦争」を引き起し、多大な犠牲を生むことになったのか、日本人自ら戦争責任を問う 第22回

下巻 6) 戦争責任者総括 (その1)

いよいよ本書「検証 戦争責任」の中心をなす戦争責任の総括に入る。満州事変から14年間なぜ、あのような無謀な戦争に突入したのか、どうして早期に止められなかったのか、日本の政治・軍事指導者や幕僚・高級官僚の責任の所在と軽重を日本人自らの手で明らかにしてゆきたい。戦争責任の検証は前半で時代時代の局面において責任のあった人々を明らかにし、後半で天皇に始まり東条英機から近衛文麿そして軍人・官僚・政党人個人の責任を問うてゆく。

① 戦争局面での戦争責任者

[満州事変 戦火の扉を開いた石原、板垣]
責任の重い人物:石原莞爾関東軍参謀、板垣征四郎関東軍参謀、土肥原賢二奉天特務機関長、橋本欣五郎参謀本部第2部ロシア班長
満州事変を引き起したのは、「木曜会」の石原莞爾関東軍参謀、板垣征四郎関東軍参謀の二人である。「謀略により国家を強引する」という陸軍中佐石原莞爾の行動は文字通り日本を戦争へと引きずり込んでいった。石原の軍事思想は「世界最終戦争論」で西側では英米を覇者として、東アジアでは日本を覇者とする構図を描かき、中国を全面的に利用すれば20年でも30年でも戦えるという持久戦論であった。土肥原賢二奉天特務機関長が奉天市長に就任した。石原は「桜会」の橋本欣五郎参謀本部第2部ロシア班長と密接に連絡を取り合っていた。橋本欣五郎とは3月事件、10月事件というクーデター未遂事件の主犯であった。南次郎陸相は対満蒙強硬論者で、若槻礼次郎首相はあっさり朝鮮軍の無断越境を容認した。1932年3月満州国建国がせんげんされるが、廃帝溥儀を担ぎ出したのは土肥原賢二奉天特務機関長であった。5.15事件で犬養首相が暗殺され、後継の斎藤実首相は満州国を承認した。内田外相は「焦土演説」を行い満州国を支持した。国際連盟のリットン調査団報告を罵倒した荒木陸相、国際連盟を脱退した松岡洋右の国際情勢の読みのまずさも後押しした。
[日中戦争 近衛、広田無策で泥沼化]
責任の重い人物: 近衛文麿首相、広田弘毅首相・外相、土肥原賢二奉天特務機関長、杉山元陸相、武藤章三部本部作戦部長
満州事変から日中戦争へ発展させた責任はだれにあるのだろうか。盧溝橋事変が起きた1か月後に近衛文麿内閣が発足した。近衛は当初の不拡大方針を変更し、華北への派兵声明を出した。広田弘毅外相は日中戦争に至る過程で外相と首相を長く務め、外交政策に責任があった。1936年の2.26事件後、軍部大臣現役武官制の復活、南方進出、日独防共協定を決めた首相として禍根を残した。「華北分離工作」を担ったのは、土肥原賢二奉天特務機関長、酒井駐留軍参謀長らであった。板垣征四郎関東軍参謀は中国を分離し「分治合作論」を主張した。石原莞爾参謀本部作戦部長は不拡大方針であったが、田中新一軍事課長と武藤章作戦課長、陸相の杉山の拡大派が主導権を握った。南京攻略の司令官は松井石根であった。
[三国同盟 松岡、大島外交ミスリード]
責任の重い人物: 近衛文麿首相、松岡洋右外相、大島浩駐ドイツ大使、白鳥敏夫駐イタリア大使、永野修身軍令部総長、石川信吾海軍省軍務局第2課長
米国の対日圧力は日本側が情報の読み方を誤ったことが原因している。妥協の道はいくつもあったという。その最大の綾m利が1940年日独伊三国同盟の締結であった。それを推進した松岡洋右外相はさらにソ連をくわえた「四国協商」で米国に圧力を加えた。ドイツの勝利を盲信し本国へ誤った情報を送り続けたのが大島浩駐独大使と、白鳥駐イタリア大使であった。三国同盟と並ぶ致命的な誤りは1941年7月の南部仏印進駐であった。南部仏印進駐を主張したのは海軍軍令部総長の永野修身であった。永野に侵攻を強く迫ったのは軍務局第2課長の石川信吾であった。それらの策を承認したのは近衛首相であった。
[日米開戦 東条 戦争を主導]
責任の重い人物:東条英機首相兼陸相、杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長、嶋田繁太郎海相、岡敬純海軍軍務局長、田中新一参謀本部作戦部長、鈴木貞一企画院総長、木戸幸一内大臣
日本の国力で米国と戦えるのかという冷静な判断を失った陸軍の主戦論を導いたのは、杉山元参謀総長、塚田攻参謀次長、田中新一作戦部長、服部卓四朗作戦課長、佐藤賢了軍務課長らであった。海軍は戦争に勝てる確信は持てなかった。政権を投げ出した近衛に替わって木戸幸一内大臣は主戦論の東条英機を首相に推した。木戸には木戸の目論見があったのだが、東条を首相にしても主戦論を抑えることはできず、木戸の読みは外れた。開戦決定の主たる責任は東条首相、東郷外相、賀屋蔵相の閣僚にある。
[戦争継続 連敗を無視した東条、小磯]
責任の重い人物: 東条英機首相兼陸相、小磯国昭首相、永野修身軍令部総長、杉山元参謀総長、嶋田繁太郎海相、佐藤賢了陸軍省軍務課長、岡敬純海軍省軍も局長、福留繁軍令部作戦部長
1942年6月ミッドウエー海戦で大敗し、1943年2月ガダルカナル島抜海に失敗した。制海権制空権を失った日本軍には補給は難しく対米戦争の継続は困難であった。1944年反東条運動を切り返すため東条首相は陸相と参謀総長を兼ねた。しかし7月サイパン島が陥落し、絶対国防線は破れ、東条は退陣した。継いだ小磯首相は戦争終結の議論を行わないまま「一撃講和論」で本土決戦を決意した。8月の最高戦争指導者会議で、梅津参謀総長、杉山元陸相、及川軍令部総長らは「戦争完遂」という勇ましい言葉に酔った。10月フィリッピンレイテ島で大敗を喫し、ほとんど陸海の戦力を失った大本営は沖縄・本土最終決戦を決意した。
[特攻・玉砕 統帥の外道を行く大西、牟田口]
責任の重い人物: 大西滝次郎第1航空艦隊司令官、中沢佑軍令部作戦部長、黒島亀人軍令部第2部長、牟田口廉也陸軍第15軍司令官
大本営は1944年7月大本営海軍部は「敵空母輸送艦を必殺する方針を協議した。中沢佑軍令部作戦部長、及川古志郎軍令部総長、伊藤整一軍令部次長、大西滝治郎第1航空隊司令官らは体当たり攻撃を主張し、大西はマニラで第1神風特別攻撃隊を編成した。フィリッピン決戦で1945年1月までに航空特攻による戦死者は700人になった。陸軍も南方の戦地では「玉砕」が続いた。1944年全く無謀なインド侵攻であるインパール作戦で牟田口司令官部隊は英国軍の前に玉砕した。戦死者は72500人という。大本営の「増援せず、撤退は認めず、降伏捕虜も許さない」という人命・人権無視の作戦は狂気の沙汰である。
[本土決戦 阿南、梅津徹底抗戦に固執]
責任の重い人物: 小磯国昭首相、及川古志郎軍令部総長、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長、阿南惟幾陸相
小磯内閣は小磯首相と米内海相に二人が戦争指導に当たった。戦争指導力もない小磯は「1億総武装」という掛け声だけで沖縄戦を前に退陣した。及川軍令部総長は、神風特攻隊や戦艦大和特攻を承認した。長崎に原爆が落ちた日、8月9日の御前会議で阿南陸相は「死中に活を求め、本土決戦を」と力説した。梅津参謀総長も豊田軍令部総長も同じ意見であった。大本堤は本土決戦に備えて、陸軍315万、海軍150万の配備を計画したという。宮崎周一参謀本部作戦部長は「勝つ見込みなし」と言って、国民には竹槍を渡した。本土決戦を前にして河辺虎四朗参謀次長は「うのぼれ、自負心、自己陶酔、自己満足…の軍人心理が今日の悲運を招いた」と日記に書いた。
[原爆投下・ソ連参戦 東郷和平で時間浪費]
責任の重い人物: 梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長、阿南惟幾陸相、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相
1945年4月に鈴木貫太郎内閣が発足し、東郷茂徳外相はポッツダム宣言への解答を前に、ヤルタ会談の結果も知らずにソ連に和平交渉を頼むという愚策を行った。ポッツダム宣言を無視すると発言した鈴木首相の指導力にも疑問が多い。彼は陸軍のクーデターを恐れたのである。それでも6月6日の最高戦争指導者会議では戦争遂行能力を失った事実が報告されたにもかかわらず、「精神力で戦争継続は可能」という呆れた戦争指導大綱を決めたという。

(つづく)

読書ノート 読売新聞戦争責任検証委員会著  「検証 戦争責任」(中公文庫 2009年)

2015年08月30日 | 書評
日本はなぜ「昭和戦争」を引き起し、多大な犠牲を生むことになったのか、日本人自ら戦争責任を問う 第21回

下巻 5) 東京裁判

 東京裁判については多くの刊行物があるが、日暮吉延著 「東京裁判」 (講談社現代新書 2008年)と中里成章著 「パル判事ーインドナショナリズムと東京裁判」 (岩波新書 2011年) に詳しいので、本章は簡単にする。日本が無条件降伏した9月2日以降、中国では国民党と共産党は分裂し、日本軍の装備と残留軍100万人の争奪が始まった。蒋介石はシナ派遣軍総司令官の岡村寧次に国民党軍への投降と所在地の秩序維持に当たるように命じた。1949年上海で行われた戦争裁判において岡村は無罪となり、反共のために協力した部隊には蒋介石は寛大に処したという。そして1949年の共産党が全国制覇をなしとげ中華人民共和国が成立した。ベトナムではホーチミンが率いるベトミンが蜂起し1945年9月2日ベトナムの独立を宣言した。フランスはベトナム南部の再支配をもくろんだ。第1次インドシナ戦争の始まりである。1954年ディエンビエンフーの戦いでフランスの支配は終止符を打った。インドネシアではスカルノ議長が独立を宣言したが、オランダと英国が再支配を目指して戦争となった。1949年12月ハーグ円卓会議でオランダはインドネシア独立を承認した。ソ連軍は9月2日まで南進を続け、関東軍の戦死者は8万人を超えた。満州に居住していた民間人の犠牲者は20万人と言われる。スターリンは日本軍将兵50万人を捕虜としてソ連に移送し、シベリアでの建設労働に従事させた。抑留された57万人の日本人のうち5万人以上が死亡した。ロシアのエルツイン大統領は1993年訪日し「シベリア抑留は全体主義の犯罪だ」と謝罪した。1945年8月30日マッカーサー連合軍最高司令官は厚木飛行場に降り立った。ポッツダム宣言の降伏条件のなかに戦争犯罪人の処罰があった。マッカーサーは戦犯の逮捕命令を数次にわたり実施し、A級戦犯人の逮捕者は百人に達した。近衛文麿は12月16日自決した。1946年1月には公職追放令が発令された。連合軍総司令部GHQにキーナンを首席とする国際検察局が設立された。1946年3月にはA級戦犯を26人に絞り込んだ。連合軍の米国以外の国は天皇制に強い不信感を持っていたが、4月3日米国の強い意向で天皇は不起訴と決まった。東京裁判は1946年5月3日東京市ヶ谷の旧陸軍省ビルで始まった。BC級戦犯裁判は国内外の49ヶ所で行われ、5700人が戦争法違反に問われ、山下奉文、本間雅晴ら920人が処刑された。A級戦犯の東京裁判は1948年11月12日判決がいい渡された。判決は以下である。なお裁判中死亡した松岡洋右、永野修身、精神病で除外された大川周明らは対象より除かれた。
「絞首刑」: 東条英機、広田弘毅、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章
「終身刑」: 荒木貞夫、橋本欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎、星野直樹、賀屋興宣、木戸幸一、小磯国昭、南次郎、岡敬純、大島浩、佐藤賢了、嶋田繁太郎、白鳥敏夫、鈴木貞一、梅津美治郎
「禁固20年」: 東郷茂徳
「禁固7年」: 重光葵
なお、米英仏ソ4か国は「国際軍事裁判条令」を定め、第6条で「平和に対する罪」(A級)、「通例の戦争犯罪」(BC級)、「人道に対する罪」(ナチスホロコースト)の3つの戦争犯罪を定義した。「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は事後法であった。

(つづく)

読書ノート 読売新聞戦争責任検証委員会著  「検証 戦争責任」(中公文庫 2009年)

2015年08月29日 | 書評
日本はなぜ「昭和戦争」を引き起し、多大な犠牲を生むことになったのか、日本人自ら戦争責任を問う 第20回

下巻  4) 終戦工作

 太平洋戦争を開始する前、戦争終結の見通しはなくはなかったが、それは①自存自衛体制の確立、②中国蒋介石政府の転覆、③独伊との協力で英国の屈服、米国の戦意喪失という、まことに身勝手な自分の願望が全部かなえられたら戦争を止めるというのに等しいもので、パワーポリティ-クの上で妥協点を探るという政治・外交上の代物ではなかった。ことにソ連との関係はことごとく齟齬しており、日本政府は一体ソ連を全く理解できていなかったようだ。短期決戦早期和平派の海軍と、占領地域拡大による持久戦争派の陸軍との間で、数々の人は和平について語っている。戦後、自分自身を良識派として装いたい打算があってのことだろうが、実際どういう行動をしたのか定かではないが。細川護貞の語る近衛首相、内田信也の語る連合艦隊司令長官山本五十六、皇族の東久邇宮稔彦、駐英大使吉田茂、牧野伸顕、原田熊雄、樺山愛輔、真崎甚三郎、鈴木貫太郎、宇垣一成、若槻礼次郎らの名が挙がっているが、軍部や憲兵は早期和平派の動きに圧力をかけた。東条英機は憲兵隊の中枢を加藤泊次郎、四方涼二らで固め反東条勢力を弾圧した。翼賛選挙の非推薦の当選者には「戦争非協力」のレッテルがはられた。1943年9月イタリアが降伏し、日本もソロモン諸島での敗戦が濃厚になってきたとき、岡田元首相、近衛文麿、平沼騏一郎らの重臣が反東条運動を起した。ところが逆に東条首相は参謀長を兼ねることで権力を強化した。1944年7月サイパンが陥落した。木戸内大臣は東条退陣を促した、1944年7月18日東条は内閣改造を図るが、岸信介と米内の入閣拒否によって瓦解した。お鉢は小磯国昭内閣に回った。その時の重臣会議では真剣な終戦工作が議論されることはなく、「一撃講和論」で終始した。それは憲兵による監視やテロやクーデターを恐れるあまり大きな声では講和を言えなかったのである。1945年に入ると近衛ら宮中グループもようやく終戦工作に本格的に動き出した。木戸内大臣は終戦を本格的に考えだしたのは45年2月ごろだという。近衛上奏文によると「敗戦はもはや必至」と天皇に述べた。小磯内閣は実現性の薄い蒋介石政府と南京政府の統一政府を作り英米軍を撤退させる工作をしたが、汪兆銘の死亡でとん挫した。また重光外相は対ソ工作を支持したがソ連側は拒否した。こうして時間を空費するだけで4月5日内閣は総辞職した。1945年2月4日、ソ連南部のヤルタにルーズベルト大統領、チア―チル首相、スターリン首相が集まり、第2次世界大戦の戦後処理が話し合われた。米英仏ソ4か国によるドイツ分割統治、ポーランド国境策定、ソ連のバルト海諸国領有の容認の「ヤルタ協定」が結ばれた。さらにソ連の対日参戦の時期が話し合われた。ソ連参戦の条件とは①外蒙古(モンゴル人民共和国)の現状維持、②日露戦争で失われたロシア領の旧権利の復活(樺太南部のソ連への返還、大連・旅順の租借、満州鉄道の中ソ共同運営)、③千島列島のソ連への引き渡し(これが現在の「北方領土4島」問題の原因である)であった。ルーズベルトは大幅にスターリンの要求を飲んだ。ルーズベルトはソ連参戦を終戦の条件と考え、関東軍を満州に釘付けにしておきたかったといわれる。1945年7月「マンハッタン計画」の原爆実験が成功した。ルーズベルト大統領は英国の了解を取り付け、「原爆は降伏まで繰り返し日本に対して使われる」と確認した。アイゼンハウアー元帥は原爆の使用に反対したが、バーンズ国務長官は「米国は原爆を投下して日本を降伏させ、ソ連の参戦前に戦争を終わらせたかった」と述べた。1945年7月25日トルーマン米国大統領は原爆投下をこう指令した。「第20航空軍第509混成部隊は8月3日以降天候の良い日を選んで最初の特殊爆弾を、広島、小倉、新潟、長崎に投下せよ」と。

 1945年4月7日小磯内閣の後を継いで、鈴木貫太郎内閣が発足した。戦争貫徹か和平化かの議論も十分にせずに、77歳という高齢の軍人鈴木貫太郎が担ぎ出されたのである。陸相に阿南、海相に米内、外相に東郷を充てた。戦艦大和が撃沈された日であった。4月5日ソ連のモロトフ外相は日ソ中立条約の延長破棄を通告してきた。ヤルタ協定があることは日本では誰も知らなかったので、梅津参謀総長らはソ連に和平斡旋を工作するよう東郷外相に次げたという。最高戦争指導会議に諮って、天皇の親書を携えて近衛を派遣する旨をモロトフに伝える決定をした。しかし7月18日ソ連側に拒否された。交渉を行った佐藤大使は「日本の壊滅が迫っているとき、こんな生易しい考えでソ連を味方に付けるなどは児戯に等しい」と回顧している。1945年7月26日ポッツダム宣言が発表された。米、英、ソの3国首脳会談の結果であった。日本の降伏条件を次のように定めた。①連合国は指定する日本の国内地点を占領する。②日本の主権を本州、北海道、九州、四国および我らが決定する小島に限る、③全日本軍は完全に武装解除する、④捕虜を虐待した者を含む戦争犯罪人に対して、厳重な処罰を加える、⑤日本政府は日本国軍隊の無条件降伏を保障する。又第12項で日本国民の自由に表明する意志に従い平和的責任ある政府が樹立されれば、占領軍は撤退するということであった。しかし鈴木首相は7月28日の記者会見でポッツダム宣言を「ただ黙殺する」と述べたことが、拒否表明であると見た米国は原爆投下を急いだのである。原爆開発に成功した米国のトルーマン大統領はソ連外しの挙に出て、8月6日に広島に原爆を投下した。続いて9日に長崎に原爆が投下された。ソ連はマリク駐日大使より、9日より日本と戦争状態に入ると宣戦布告をしてきた。8月9日の最高戦争指導者会議は「国体維持」に絞って宣言受諾やむなし」となり、陸軍のクーデターぎりぎりのタイミングにおいて、14日御前会議を開いて終戦への聖断を仰いだ。阿南陸相は聖断を是としクーデターを防いだ。天皇は最後まで口を開かなかったが、「自分は外務大臣の意見に同意する」と決断した。10日の閣議でポッツダム宣言受諾の条件は正式決定された。8月15日12時天皇による終戦の詔勅がラジオで放送された。9月2日東京湾に停泊するミズリー号上で降伏文書に調印した。この戦争による軍人・軍属の戦没者は約230万人、一般市民の死者は内外で80万人、併せて310万人の犠牲者を出した。

(つづく)

読書ノート 読売新聞戦争責任検証委員会著  「検証 戦争責任」(中公文庫 2009年)

2015年08月28日 | 書評
日本はなぜ「昭和戦争」を引き起し、多大な犠牲を生むことになったのか、日本人自ら戦争責任を問う 第19回

下巻 3) 太平洋戦争 (その2)

 海軍は東部ニューギニアのオーストラリア軍の拠点ポートモレスビー基地を討って米国からオーストリアへの物資・兵員輸送を断つため、ガダルカナル島に飛行場建設を始めたのが1942年7月の事であった。米軍は日本最大の航空基地ラバウルを攻撃する作戦を立て、まずはガダルカナル島に1万人の海兵隊を送投入し、飛行場を奪った。ラバウルの日本軍基地とガダルカナル島は1000kmも離れているので、飛行機の日帰り攻撃は困難で、ガダルカナル島攻防戦は約半年間続いた。陸軍は海軍の要請を受け参謀総長の杉山元は2400人の攻撃隊を島に上陸させた。米軍の攻撃の前に日本軍は全滅した。こうして何回も小規模の兵力を上陸させ奪回を試みたがそのたびごとに部隊は全滅させられた。大本営は1942年大晦日にガダルカナルからの撤退を決めた。これで陸軍不敗の神話は消滅し、戦争の主導権は完全に米国に移った。航空機搭乗員2300人が戦死し、上陸した3万人のうち2万人が死亡したが、その7割は餓死もしくは病死であったという。玉砕という言葉が初めて使われたのは1943年5月アッツ島であった。アッツ島の日本軍飛行場に米軍1万1千人が投入され、2600人の日本軍が全滅した戦いである。海上権を奪われていた日本軍は増援部隊を送ることもできず、5月23日樋口北方軍司令官は現地隊に玉砕を打電し、残存兵は手りゅう弾で自決した。こうした自決を求める玉砕「処置」は東条英機の「戦陣訓」からきている。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」とあって、捕虜になることを禁止していたからである。こうして戦局は一層悪くなり、サイパン島、テニアン島、グアム島、硫黄島などで日本軍は玉砕していった。1944年6月サイパン島に米軍?が上陸し、南雲海軍中将は自決し、残存兵は最後の総攻撃で玉砕した。南太平洋で日本軍が既知を設けたのは25島で米軍が攻撃したのは8島にすぎず、残る17島は補給も援軍も放棄され捨てられた。8島で玉砕した人は11万人、取り残された17島の人は16万人で、うち4万人は飢餓と病気で死亡した。1943年9月に「絶対国防圏」を設定して、広がった戦線縮小が行われたが、陸海軍の対立は激しくなるばかりで、天皇は立憲制では発言権はなく、「統帥権」という枠内での統制不能の状態になっていた。1944年2月東条英機首相は杉山参謀総長を更迭し自ら参謀総長を兼ねた。東条は戦後「根本は不統制が原因である。総理大臣が軍の統制に干与する権限のない国体で戦争に勝つわけがない」と述懐したという。総理大臣になって初めて、昔現役将校の時に振り回した統帥権の凶暴さに気づいたという笑うに笑えない思慮のなさであった。1943年5月「大東亜政略指導要綱」が決定され、11月に東条の指揮下で「大東亜会議」が東京で持たれたが、誰も信用しない茶番劇であった。インドのチャンドラ・ボーズにそそのかされ、日本軍は無謀にもインドへの侵攻を考えたのは、1944年1月のことである。ビルマ防衛のためとしてインド北東部のインパール占領作戦を決めた。牟田口司令官の構想に大本営が反対したが、英軍を見くびり全く無謀にも3個師団で侵攻し、英軍の前に苦戦を重ね、3師団長は解任されたが、その一人の師団長は「撃つに弾なく、飢餓と傷病のため戦闘力を失った・・・・軍と牟田口の無能のためなり」と罵ったという。7月に停止命令が出されたが、死傷者は7万2500人に達した。1944年7月には国防の中心にあったサイパン島が陥落し、サイパン島から米軍のB29が日本を空襲するようになった。そして7月18日に東条内閣が瓦解した。

 1944年夏「絶対国防圏」の崩壊を受けて、大本営海軍部は本土決戦を意識した「捷号作戦」を立てた。第1段階はフィリッピン、第2段階は台湾沖縄諸島、第3段階は本土である。東条の後に1944年7月小磯国昭内閣が成立した。小磯首相は「最高戦争指導会議」の新設をきめ、首相の発言権拡大を狙った。しかし1944年10月日本軍はフィリッピン・レイテ島での陸海戦に破れ、米軍は1945年1月ルソン島に上陸しマニラは陥落した。これで第1段階は突破され、大本営は沖縄と本土での最終決戦に臨むことになった。日本軍は6月のマリアナ開戦で大敗し航空戦力はほぼ壊滅していたが、大本営は沖縄を不沈空母(中曽根首相の日本列島不沈空母発言はここに由来している)として、米軍が上陸する前の航空攻撃で撃滅すると言い張っていた。12月に大本営の作戦部長になった宮崎修一は台湾に第9師団を移駐させた。実はその前の10月に米軍は沖縄上陸占領作戦を決定していた。ここにも軍令部と海軍の作戦の齟齬がみられた。1945年1月に決定された「帝国海軍作戦計画大綱」では「皇土防衛のための前線として、沖縄・小笠原を設定する」というものであった。つまり沖縄は米軍に出血を強要する持久作戦と位置づけ、消耗した米軍を本土決戦で叩くことが目的であった。沖縄は捨石にされたのである。1945年2月小笠原諸島の硫黄島に上陸した米軍は、栗林中将が率いる守備軍2万人を殲滅した。引き続いて米軍は沖縄攻略作戦に移り、3月26日沖縄けらま島に上陸し、沖縄本島攻略の後方基地を築いた。4月1日米軍は219隻の艦船と準用戦から艦砲射撃を行い、嘉手納海岸に上陸した。この上陸作作戦に参加した米軍は上陸部隊183000人、支援の海軍部隊35万人の規模で、太平洋戦争史上最大の作戦となった。これに対して沖縄本島に配備された日本軍は陸軍86000人、海軍1万人に過ぎなかった。陸軍部隊は首里に立てこもり持久戦を取った。嘉手納海岸から南に侵攻した米軍は首里に迫った。5月5日の時点で日本軍の兵力は半分に減り、あと2週間しか持たないと判断した牛島長官は首里を放棄し摩文仁に退却したが、戦況は凄惨を極めた。退却した兵は3万人、10万人を超す住民と洞穴に逃げ込んだ。米軍の流し込んだ石油で焼き殺される者、手りゅう弾で自決する者で惨状は筆では言い尽くせない。牛島司令官と長参謀長は自決し6月23日に戦いは終わった。日本軍の戦死者94000人、住民の死者は94000人だった。沖縄作戦での米軍の死者は12800人、62800人が負傷した。沖縄県民の疎開と動員は表裏一体であった。17-45歳の男子2万人以上を根こそぎ防衛隊に動員し、生徒たちは学徒隊として男子は基地建設労働や自爆隊に、女子は看護婦などに動員された。海軍部隊の太田実少将は6月6日に自決する直前大本営に「沖縄県民かく戦えり、県民に対して、後世特別の御高配を賜らんことを」と打電した。戦後日本政府は沖縄を米軍の戦略基地として差出、1970年に沖縄が日本に返還された後も「本土並み基地」には程遠い。こうしていまもなお沖縄は本土の犠牲として活用され、「後世特別の御高配」はなかった。4月6日沖縄戦に航空特攻「菊水1号」が沖縄の米軍艦船に体当たり攻撃を加えたがことごとく撃ち落とされ、毎回数百機の飛行機と若者の命が失われた。特攻は8月まで続けられた。死ぬことだけが目的の戦術でなんと愚かな大本営であった。4月7日伊藤司令官は戦艦「大和」を沖縄戦に突入させた。万に一つの成功の見込みもないまま、このまま大和が残れば「無用の長物」と罵られることを恐れた連合艦隊の豊田司令長官は出撃の命を出した。米軍機386機の攻撃を受け大和以下6隻は沖縄のはるか北の手前の海で撃沈された。死に花を咲かせるというやけくそ的日本的情緒が3000人の命を奪った。特攻飛行隊と戦艦大和の2つのエピソードは永遠に残る愚かな行為の象徴か、180度裏返して美しき日本かはそれを見る立場で異なる。

(つづく)

読書ノート 読売新聞戦争責任検証委員会著  「検証 戦争責任」(中公文庫 2009年)

2015年08月27日 | 書評
日本はなぜ「昭和戦争」を引き起し、多大な犠牲を生むことになったのか、日本人自ら戦争責任を問う 第18回

下巻 3) 太平洋戦争 (その1)

1941年12月8日、山本五十六司令官の率いる連合艦隊の6隻の空母から発進した南雲攻撃機隊は、米国太平洋艦隊が保有する8隻の戦艦に対して壊滅的な打撃を与えた。一方南方戦線では陸軍山下奉文司令官が率いる軍はマレー半島に上陸、台湾の航空基地を出た零戦隊は数日間でフィリッピンの制空権を獲得した。1942年2月には英領シンガポールは陥落し、3月マッカーサー総司令官はオーストラリアに脱出した。この緒戦の華々しい大勝利を東条英機が天皇に報告した際、天皇は「この戦争の大義名分をどう考えるか」と問うと、東条は「目下研究中であります」と言ったという。世界に発信する大義名分があやふやなまま戦争が始まった。海軍は「自存自衛」で「短期決戦」を前提とする意見だが、陸軍は「大東亜共栄圏」を基本とし「長期持久戦」を考えていた。12月8日の宣戦詔書は「自存自衛」を強調したが、2日後の大本営政府連絡会議は「大東亜戦争」と決めた。1942年4月海軍連合艦隊はハワイとオーストラリアの連絡を絶つ目的で、ミッドウエーに米国空母艦隊を誘い出しせん滅する計画を立て始めた。ところが5月海軍軍令部永田修身総長は、ミッドウエーとアラスカのアリューシャン攻略という2面作戦を発令した。全力で当たっても米艦隊より少ないのにこれを2分するという過ちを犯したのだ。ミッドウエー作戦に反対する軍令部とこの作戦で米艦隊を殲滅し講和に持ち込む短期決戦派の山本連合艦隊司令巻の意見が齟齬していた。連合艦隊は空母4隻、艦載機285機を持つ南雲忠一中将率いる第1機動部隊は5月27日広島を発った。山本司令官率いる連合艦隊主力部隊も500km後方に付いた。ところが敵空母は出ないだろうとみて、偵察任務の潜水艦11隻のうち予定通り任務に就いたのは1隻のみであった。米軍は日本軍の暗号を解読し米艦隊はすでに移動し、機動部隊を待ち伏せにしていた。こうして運命の6月5日を迎えた。敵は出てこないとみてミッドウエー島への攻撃のため艦載機は陸上用爆弾を積んでいたが、敵艦隊発見の報を受けて魚雷に積み替える作業を行った。山口多門司令官は南雲長官に対して他d地に出撃を進言したが、まだ時間があると判断した南雲長官と源田実参謀は第1次攻撃隊の帰還を優先した。その1時間後、赤城、加賀、蒼竜の3空母は米軍機の攻撃を受けて大火災を起し航行不能となった。最後の空母飛龍も鉄器の攻撃を受け航行不能となった。こうして連合艦隊が保有する空母6隻のうち4隻が失われた。残った2隻はアリューシャンにいたのである。世界の海軍は伝統的に艦隊決戦思想(大艦巨砲主義)を取ってきたが、日本海軍も日米間戦前には米本土から来航する米艦隊をマリアナ諸島付近で迎え撃つシナリオを描いてきた。山本五十六司令官は「航空主兵論」を主張し、真珠湾攻撃で実証してみせたはずである。ところが軍令部は戦艦が主力で、空母部隊は従とする考えであった。もし米艦隊のように主兵である空母の周囲を戦艦や巡洋艦などで護衛する編成を取っていれば、敵機来襲の対応も違ってきたはずである。主力空母4隻と艦載機285機を失ったミッドウエー海戦の敗北を、海軍はその理由を解析せず学ぶことをしなかった。そして責任追及もなく一切の敗戦情報を遮断秘匿した。米国では真珠湾攻撃で査問委員会が開かれキンメル太平洋艦隊司令官が罷免されたのとはあまりに対照的である。米海軍はこれを教訓として空母中心の艦隊を編成し、艦載機を新鋭のグラマンF6Fに替え空母支援体制の防空システムを徹底させた。この後、連合艦隊は戦うたびに破れ、1944年10月レイテ沖海戦を前に大西第1航空艦隊司令官は特攻隊を編成した。

(つづく)