ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

公明党の腐敗が進行している。

2006年11月30日 | 時事問題
asahi.com 2006年11月30日10時12分
東京目黒区議会が大混乱、公明党区議団は総辞職 
 議員報酬とは別に支給される政務調査費の使い道が不適切だったとして、東京都目黒区の公明党区議6人全員が30日に辞職する。同日の区議会本会議で認められる見通し。05年度に同党区議団の政務調査費として受け取った1224万円のうち約773万円を24日付で返還したが、6人とも開会中の区議会を欠席し続け、使途の詳細を明らかにしていない。

与党公明党の腐敗は自民党以上かも
 
 もう本当に座頭一のセリフ「いやなご時勢になった」といいたくなるような全日本的腐敗の進行。公金の私用、たいした金額ではないけれどやはり不正は不正だ。

議会の辞職勧告を受けても辞めない強弁の安藤知事の逮捕間近

2006年11月30日 | 時事問題
asahi.com 2006年11月30日03時15分
宮崎談合「知事の指示受けた」 容疑の出納長を逮捕
 宮崎県発注の災害復旧工事の設計入札をめぐる官製談合事件で、同県警は29日、県出納長の江藤隆容疑者(63)が受注調整に関与していたとして競売入札妨害(談合)の疑いで逮捕した。江藤出納長は容疑を認めたうえで「(安藤忠恕(ただひろ))知事から(落札業者を優遇するよう)指示を受けた」と供述しており、県土木部長らの逮捕後2週間足らずで、事件は一気に核心に迫る。県警は安藤知事(65)からも事情を聴く方針をすでに固めている。一方、県議会は同日、安藤知事の辞職勧告決議案を全会一致で可決。安藤知事の進退は窮まりつつあるが、知事は改めて事件への関与を否定、辞職しない構えだ。

あの言語明瞭の強弁は確信犯のものだ。天の声は知事からに違いない。全国の県の発注事業をすべて洗いなおしてみるべきだ。知事の役得とは発注権にある。同じような構図は企業の社長にもある。企業内は背任行為で追求できるがやれる人がいないだけだ。金亡者の腐敗構造は何処にも見受けられる。

環境書評  佐久間充 著「山が消えた」 岩波新書(2002年6月初版)

2006年11月30日 | 書評
 千葉県内房総の市原市、木更津市、君津市から養老渓谷にかけての地帯は砂利採取場として有名である。著者は1984年に「ああダンプ街道」(岩波新書)で千葉県中西部の砂利採取の状況を報告したが、約20年後には砂利山が消え建設残土埋立場に変身していたという。千葉県中西部の山砂層は70~50万年前に形成されたが、この40年間に約12億㌧の山砂利が採取され1300を超える東京のビル建設・東京湾の埋立に利用された。高度経済成長の時代からバブル経済の時代まで一貫して首都圏の近代化に貢献した。建設資材は日本の天然資源使用量の約55%を占め数少い自給資源の一つである。現在では建材の採取と廃棄物の投棄は表裏一体の関係にあることが多い。本書では山砂利採取による環境影響と残土・産廃戦争、その後のダンプ街道沿道の人々の暮らし、ダンプ運転手の生活、今後への提案が述べられている。
「土建業者栄えて山河消え、里はゴミ山とゴルフ場だらけ」と言う過去の状況はバブル後確かに変化しつつある。建設業界は負債で倒産し株価は額面割れ、土建公共事業による景気回復は望むべくもないほどに産業構造がシフトした。千葉県中西部の砂利山をどう再生するか、その解決の一つが山に緑を回復することかもしれない。

1)千葉県の残土・産廃戦争   
 市原市武士に約200万m3の残土が投棄され、600×350mの地に高さ45mの山が出現した。これを「平成新山」と言うそうである。新山の近くには清掃工場と「産廃銀座」が建設されており砂利の「お返し」が「ゴミの山」だったとは皮肉である。又市原市石塚には廃車処分場(車のお墓)となっており、養老渓谷の景観を著しく害している。この他市原市上高根、市原市川在、富津市田倉、君津市糸川にも残土・産廃埋立場があり、今や千葉県は関東のゴミ捨て場に化し不法投棄も後を絶たない。しかし廃棄物処理場を殆ど認可してきた厚生省と開発第一の沼田県政から堂本県政に移行したことで県の調整能力が期待される。

2)今後砂利採取場をどうするのか   
 千葉県中西部の山砂利の埋蔵量は約75億m3であるが、採取可能量はその数分の一になる。掘り易いところはあらかた掘り尽くしているので今後は採取コストの上昇が問題になり採取業者の転廃業が進んでいる。採取跡地をどうするかについては京都府城陽市、大阪府阪南市、兵庫県淡路島の例が役に立つと思われる。京都城陽市では「城陽市砂利採取地整備公団」を設立し建設残土処理を行い、採取跡地には各種スポーツ施設、緑化が進行中である。関西国際空港に砂利を供給した阪南市では跡地をニュータウンに、淡路島では花博開催、県立淡路公園が建設された。貝原俊夫兵庫県知事は「一つの役割を終えた遊休地に森を作ってはどうだろうか。利用されなくなった農地山林等は元の姿つまり自然豊かな環境に戻すことである。」と提案した。  循環型社会形成関連法案においても建設資材のリサイクルが求められている。寿命がきたビルコンクリート廃材が今後大量に発生する。高度経済成長期の建築物の廃棄時期は2010年ごろだという。埋立以外に廃材用途を開拓しないと埋立場のキャパシティの限界が迫っている。祭りの後はゴミだらけというのは町内の祭りだけにして欲しい。



小林秀雄全集第6巻 私小説論より「新人Xへ」

2006年11月30日 | 書評
新人Xへ

私小説論の結論からこの「新人論」がはじまる。当時の若者の悲劇は「告白に堪えないだけの君の生活は文学的表現に適さぬほど充分に壊れている。」にある。ではどのような活路が残されているのか小林氏は極めて冷淡に突っ放す。「純文学から通俗小説に逃げるかい、一切の文学は面白いだけが能なのさ、あるがままのリアリティだけが面白いのさ、映画やラジオに勝てるかい、材料になる僕らの生活自体がみじめなのさ。」という風に小林氏は私小説・純文学に引導を渡した。小林氏が日本の文藝批評を停止するのも間近い。

書評   茂木健一郎 「脳と創造性ーこの私というクオリアへ」 PHP出版(2005年4月初版)

2006年11月30日 | 書評
人間は予測不可能の世界で一回きりの生を生きる。これが創造的生き方である。

脳科学に関する書評において、茂木健一郎氏の著作は何回も取り上げてきた。「脳の中の人生」、「脳整理法」、「意識とはなにか」、「脳と仮想」などである。今回取り上げたのは「脳と創造性」であるが、氏のキャッチフレーズである「クオリア」(脳が生む質感豊かな生の体験)で新潮社小林秀雄賞を受賞した。養老孟司氏の脳が生み出した文明の予測可能性世界の限界に対して、茂木健一郎氏はその解法になるかどうか分からないが予測不能性の中にこそ生の躍動があると力説する。

茂木健一郎氏の経歴が面白い。東大理学部を卒業してから彼女の影響からか自己否定して法学部に学士入学して、恐らく彼女に振られてためか法学部を卒業して大学院は理学部物理学科を卒業した。現在は脳科学者としてソニーコンピュータサイエンス研究員である。恐らくこの会社も直ぐにやめるのは目に見えている。なんと回りくどいことをやっている。彼女の影響で自身喪失というところが面白い。お門違いの法学部に何をしにいったのか?現在の職業である脳科学の本道は医学部の大脳生理学か精神医学か、心理学あたりからであろうが、氏の経歴ではどうも物としての脳は扱った経験はないようだ。したがって氏の脳科学はどうみても情報辺りから入ってきたようだ。そのため脳の解剖的な部位や機能論を前面に出さないためか、氏の説くところは私たちには文学論として、生き方の問題として心に迫るものがある。氏自身は脳科学者というが、これは科学なのか。科学のあつかう実証可能性と反証可能性の限界領域で個々の生を実り多いものしてゆく活動は宗教家のようでもあり、教育者でもあるようだ。

第1章 創造性の脱神話化
創造性とは一人天才のものではなく、誰にでも備わっている無意識の脳機能である。有意義な会話は状況判断、思いやりなどの高度な創造性を支える脳の働きなしには不可能である。価値の相対性、おかれた文脈の相対性において人間の内なる創造性を十分に発揮することが生きることであり、個人と社会の幸福にもつながる。人間が生きるために働かせる当たり前の機能が創造性であり、結果としての歴史的重要性には違いがあってそれが天才たる所以であろう。

第2章 論理と直感
リアルタイムに情況を把握して判断する能力(直感)、はコンピュータのアルゴリズムにはない人間の高度な脳機能である。情況に応じて新しいものを生み出す創造性は、そのような直感に基づいて生きる力である。直感を支える脳機能が人間には備わっている。

第3章 不確実性と感情
脳は自発的に絶えず学習し続けている。情報は不十分でコントロールも不可能な情況でも何とか生きてゆくために、脳の感情系システムが重要な働きをしていることが最近明らかになってきた。生存を可能ならしめる価値体系の探索に、脳の感情システムの方向つけがなくてはならないである。予測不可能な情況でもリスクを負って飛び込む勇気が生物進化に繋がる。安全地帯とリスクのバランスをとるのが感情システムである。この脳の感情システムは人間の欲望を形成する。即ち資本主義という貪欲な装置である経済活動を生むのも感情システムの働きである。これを最近の学説では神経経済学という。

第4章 コミュニケーションと他者
創造のプロセスには本質的に人と人とのコミュニケーションがかかわっている。創造は偶然に起きるものではあるが、なかば起きそうな雰囲気が醸される環境が必要である。誰かがやりそうな雰囲気が必要だ。これを遇有性という。これにはコミュニケーションによる意思伝達が発生しなければならない。(神経学的にはミラーニューロンという)

第5章 リアルさとずれ
私たちの脳はそもそも出力をおこなう環境なしでは情報のループが完成しないような構造をしている。私達はなにか言いたいことがあっても、書いたり、話したりしてその結果を見ながら言いたいことを構成してゆかざるを得ない。頭の中で全てを構成して完結できる人はいない。「運動し出力する自分」と「感覚し受容する自分」の二人が存在する。頭の中だけで立案したことは実際やってみてだめな場合が多い。出してみて外部性を通じてのずれが脳の中を生き生きと活動させるのである。即ち私たちの脳はオープンシステムである(自己完結型ではない)。人や環境に教わりながら自分を是正する学習能力の問題とも言える。

第6章 感情のエコロジー
第3章 不確実性と感情でみたように、感情はこの世界で生きるということに必然的に伴う不確実性に対処する仕組みである。創造性を支える直感や判断の背景にはこの感情システムの働きがある。苦しい経験の時に確実に脳が鍛えられている。乗越えられた時の成功体験が学習能力をアップする。しかし成功ばかりが人生ではない。暗澹たる気持ち、流れなくて澱んだ気持ち、退屈という空白感もすべて糧にしなければならない意味のある状態である。

第7章 クオリアと文脈
ハイパーリンクという形で高度に文脈化されたインターネットの世界(受験戦争から官僚社会、会社社会の人生の文脈)から一旦停止して、そのような現代社会の文脈に回収されないユニークなクオリアに満ちた日常体験の質を高めることを「クオリア原理主義」という。これが氏の伝教師面目たる所以だ。本来的には私的な経験である内なるクオリアに立脚することが、多くの人の心を動かす創造性作品につながる。(内なる感動なくしては人を動かすことはできない)

第8章 一回性とセレンディピティ
人生は有限だということはよく分かっている。人生は一回性だからこそ普遍につながる共感を受ける。だから有意義なすばらしい生にしようと努力するものだ。これをセレンディピティという。初めは間違いでも良いものに変えようとする努力、偶然の出来事を良い方向へ持ってゆく能力がそれである。発見という出来事も偶然にやってくる。しかし何もなくてやってくるのではない。長い間脳に記憶された事象が脳の自発活動によって変容を受けたり、組みかえられたりしてとんでもないことを表現することがある。これが大発明につながる。だから人間はすばらしい。捨てたものではない。