ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

慎改康之 著 「ミッシェル・フーコー」

2021年09月14日 | 時事問題

慎改康之著 「ミッシェル・フーコー」 自己を逃げ出す哲学
岩波文庫 (2019年10月刊)
第1章 人間学的円環 「狂気の歴史」とフーコ―の誕生 自明であると思われることを問い直すことを特徴とするフーコ―の歴史研究が開始されたのは、1961年ソルボンに大学に博士論文として提出された「狂気の歴史」以来の事である。この論文がフーコ―の処女作となった。フーコ―にとって自分自身からの離脱の最初の契機、根本的な契機となった。そこでそれ以前のテキスト(1950年代)を「前フーコ―」と特徴づけ、この問題を投げかけることでフーコ―は何を研究の軸にしたのかを振り返っておこう。フーコ―はそのキャリアーを心理学者として開始した。1946年エリート校パリ高等師範学校に入学し、1948年に哲学学士号をソルボンヌ大学で受け、翌年心理学学士号を得て1951年より高等師範学校で心理学教師となり、1952年リール大学の心理学助手となった。5年間国外に留学し、1960年にクレルモン=フェラン大学で心理学講師を務めた。1950年代はまさしくフーコ―は心理学者として専念していた時期であった。1954年ルートヴィヒ・ビンスワンガー著「夢と実存」の序文を書き、学生向きに小著「精神疾患とパーソナリティ」というテキストを書いた。 精神病理学者であるビンスワンガー著「夢と実存」序文において、フーコ―は「世界内存在」としての人間の実存という現象学的ないしは実存主義的着想を念頭に置いた。人間学的探究を師ビンスワンガーと同じく「夢」に問うた。夢が「私的世界」であるとして、主体の自由と世界の必然を同時に示す道義性を持つ。夢は全面的に自由な人間主体が、必然に支配された世界に自らを投げ入れるという、実存の根元的な運動を解読する手がかりを与えるだろうと考えたのである。精神分析学による夢解釈とは、覚醒した意識に与えられた夢の顕在的内容から出発し、帰納的なやり方で夢の潜在的意味を再構成するものであるが、フーコ―は夢の意味を内側から構成する表現の働きと、その意味を外側から指し示す指標的機能は違うものである点から出発する。フッサールの現象学は、「表現」と「指標」を区別するべきだという。しかし内から外へ向かう夢の形成メカニズムは、覚醒した意識から失われている。問題は失ったものをどのように回収するかということである。 「精神疾患とパーソナリティ」は第1部に精神の病気がどのような心理的要素からなるか、第2部に現実の社会における様々な矛盾の経験に結びつけるものである。フーコ―は精神の病のメカニズムを「退行」、「防衛」、「病的世界」という3つの心理学的要素によって特徴づけた。「病的世界」は自分自身にとってのみ近づき得るものであると同時に自分自身の放棄を意味する。病的世界に個人が閉じ込められ「退行」するのは、子供が必要以上に社会との壁をこしらえてしまったためである。このように失われた人間性を取り戻すこと、病を克服するために人間を「脱疎外」することが必要だという。この二つの「前フーコ―的」テキストは当時のフランス社会の支配的風潮に全面的に依拠している。人間主体の自由を絶対的な出発点として人間の実存に関する問いに解消するならサルトルの実存主義となり、構造主義にとってかわられた。現実の社会における疎外とその克服というテーマは、人間主義的マルクス理解を根拠にするならばヒューマニズムとマルクス主義という所期のマルクス著作を踏襲するに過ぎない。時代はそのように動いており、それに連動してフーコ―も自分が固執していたものから根本的に異なる者に移ってゆくのである。 フーコーは1955から1958年までスウェーデンのウプサラで「狂気の歴史」をほぼ完成し、1961年書物として刊行し、ソルボンヌ大学博士号を取得した。精神の病と歴史及び社会との関係をであった。西洋において狂気と理性との分割はどのようになされ、狂気は病という唯一の形象に還元されたのだろうかというテーマであった。とりわけフーコ―は17世紀から18世紀の「古典主義時代」の監禁制度の創設とその変遷に注目した。17世紀、理性が完全に狂気を退けたのである。モンテーニュは、人間は神ではないのだから、理性と狂気の間に絶対的な線引きを行わなかった。デカルトは「省察」に語るように、狂気が理性に影響する懸念は払しょくされている。理性的省察の主体においては、狂気はあらかじめ理性の外に置かれた。フーコ―は理性の勝利を合理主義の進歩によるなどという説明は採用せず、それはヨーリッパ全土における監禁制度の創設であるという。16世紀から17世紀初頭にかけて狂気は日常生活の中でよくあった。狂者は自由を享受し街を徘徊していたという。17世紀中頃から大規模なやり方で監禁施設が設けられ、貧者、物乞い、性病患者、禁治者、痴呆者らを一緒くたに監禁していた。当時形成されつつあった資本主義社会にとっての邪魔者(無能者)を集めて隔離したのである。フーコ―はデカルトのような理性と狂気に分かつことなく監禁制度の変遷を見てゆく。18世紀半ばになると、政治的、経済的な理由で監禁施設は次々と解体され解放されたが、狂気だけは社会にとって危険であるとされ監禁の対象となった。狂気はついに精神の病という唯一の形象に還元された。監禁空間が狂者専用となって、そこへの収容が狂気の理由を研究し、狂気を治療に導く医学的な価値を帯びていった。監禁空間の再編成の中で、狂気が医学化され、客体化され、内面化された。狂気は以降、客観的に把握可能な精神の病として表面化した。狂気をめぐる新たな考えが、実は知の固有の領域における「一つの隠された整合性」をよりどころにしているとして、「人間学的思考」が健在化した。 18世紀末に狂気は一つの客体として人間の認識に曝されるようになったとフーコ―は主張する。「人間から真の人間に至る道は狂気の人間を経過する」というわけである。狂気が人間本来の主体性喪失をその本質とするならば、「真なる存在」としての人間は疎外という形態においてしか与えられない。「狂気の歴史」は19世紀以降に狂気が人間認識のために果たした役割が、一つの人間学的公準に準拠する。その公準とは「人間存在は、一つの真理を与えられると同時に、隠された形で自らに固有に帰属するものとして保持する」というのである。人間に関する探究において喪失したものを回収するという任務が可能となる。ではそれがどのようにして構成されたかは、1966年「言葉と物」において取り組むことになる。「狂気の歴史」とともにソルボンヌ大学に提出された論文はカントの「人間学」への序論である。この序論において、フーコ―はカントが告発した「超越論的錯覚」から派生した「人間学的錯覚」を問題とした。カントが認識にとって不可避なものとみなした「自然な」錯覚が、意味が移って有限な人間の本性とみなされた。超越的錯覚がいわば「真理の根源」のようなものになってしまった。人間と真理を取り結ぶ関係の基礎にある者は「有限性」である。こうして人間学的錯覚のなかで、人間の有限性をめぐる際限のない議論が繰り広げられた。批判哲学と人間学的探究の結びつきを指摘し、人間存在を「現存在」と名付けたハイデガーは、人間の根源的有限性の問題化をカント哲学の本質的帰結と意義付けた。1961年の「カント論」はハイデガーに対する根本的な異議申し立てであった。これはカント哲学のみならず西洋哲学に係わる「人間の出現」、すなわち人間学的思考の歴史的考察となった。1950年代のフーコ―が探究していたものは、人間主体から逃れ去るものの回収という人間学的研究であった。1961年以降のフーコ―は人間存在に絶対的な特権を与える探究から距離を取り始める。 (つづく)

平成経済 衰退の本質

2021年04月25日 | 時事問題
京都市中京区麩屋町通三条上がる 「旅館 柊屋」

金子勝 著 「平成経済 衰退の本質」 

岩波新書(2019年4月)

第3章 転換に失敗する日本 (その1)

② 周回遅れの「新自由主義」

2000年代前半の小泉首相の「構造改革」は周回遅れの新自由主義であった。市場原理に任せることで経済が成長するというシンプルなスローガンであった。2003年より構造改革特区が始まり04年に道路公団などの特殊法人が民営化された。そして郵政民営化は大波乱があったが、小泉首相は解散総選挙で「小泉劇場」選挙(観客民主主義)に勝った。そして小選挙区制度では、自民党本部の公認が得られないと当選できないため、旧派閥は没落しタカ派が主流になり、かつ当選第一に有利な地盤・看板を引き継ぐ2世3世議員の比率が高まった。そして自民党内部では派閥色が薄れ多様性を失った。経済政策としての規制緩和、構造改革によって経済成長は実現しなかった。小泉政権の雇用規制緩和や社会保障費削減は格差を一層広げ、地域はますます格差が広がり(東京1極主義)弱体化した。外交的には小泉首相はブッシュの大義なき対テロ戦争に関与し、自衛隊海外派兵の道を開く法案が目白押しに成立した。小泉政権では竹中平蔵経済再生財政相が金融危機対応にあたった。97年の金融機関の経営破綻には公的資金が投入されたが、金融危機は収拾せず政府系金融機関の一時国有化がなされた。99年竹中ら経済戦略会議は、銀行経営者の責任を3年間棚上げして申請方式で公的資金の注入(7兆4500億円)が行われた。2002年10月に金融再生プログラムが作成され、ようやく10年遅れで不良債権の厳格な査定とりそな銀行と足利銀行の国有化、そして公的資金投入となった。こうして公的資金は12兆4000億円がずるずると注入された。結局48兆円もの公的資金が注入されたが、経営者はだれも責任を問われるものはいなかった。そして大手銀行は「三大メガバンク」に再編され大きくて潰せない状況を作り出した。財政出動に加えて金融緩和もエスカレートし、ついに99年にゼロ金利政策が導入された。日銀としてはこれ以上金利政策は取りようがないので、政策目標を金利から、民間銀行が日銀に預け入れる当座預金残高という「量」に変更し、市場に潤沢な資金を供給する「量的金融緩和政策」に転換した。

小泉首相の「構造改革」は結局なにも新しい産業は生まなかった。それどころか規制改革会議のメンバーは「改革利権」をあさった。国家戦略を欠如した成長政策はIoT、ICTといった情報通信産業の発展に乗り遅れ、労働規制緩和によって若い労働力の使い捨て、キャリアーづくの機会を奪った。大学予算を毎年1%ずつ削り、研究者の有期雇用を進めた結果、基礎研究と基盤技術開を弱体させた。小泉政権は長期化したが、2008年のリ―マンショックではその経済の脆弱性が露呈した。直接サブプライムローン関係証券を買っていないにもかかわらず、先進諸国間で一番GDPの落ち込みが激しかった。小泉構造改革の最大の弊害は年金制度の切り下げであった。「三位一体改革」という名で行われた地方自治体の予算削減は地域経済を疲弊させ、地方から若者がいなくなった。診療報酬改定で3回連続の引き下げが行われ、中小市町村の中核病院は大きな打撃を受けた。赤字が拡大し、大学医局から派遣されてくる医師の引き揚げによって経営が成り立たなくなった。地方交付税削減政策が続いたため自治体の財源不足から病院の赤字補填も出来なくなった。こうして地方の中核病院は閉鎖され、統廃合、民営化、診療所への格下げなどに追い込まれた。2025年までに政府はベット数を最大20万床減少させ、30万人を自宅や2000年から始まった介護保険の介護施設へ移す計画である。要介護3以上でないと特老ホーム施設への入所が認められなくなった。欧州では1990年代に財源と権限を地方へ移す地方分権改革が行われたが、日本では10年遅れの改革でも、財源も権限もない改革に終わり、予算削減に伴う「改悪」だけが目立った。これはずるずるしたバブル処理のための公共事業政策に地方財政が動員されたためである。小泉首相の「三位一体改革」という地方財政改革は、①国から地方へ財源を移す、②国庫補助金を削減する、③地方の自主税源が増えた分だけ地方交付税を削減することであった。欧州では地方分権化の流れに沿って地方税源を充実させるものであったが、日本ではこれに財務省の予算削減だけが目立った財政再建「改革」に終わってしまった。国の所得税の10%を減税し、その部分を地方の個人住民税に10%上乗せする形であったが、3兆円の財源移譲は2006年まで行われなかった。その一方で国庫補助金は4.7兆円削減、地方交付税は5.1兆円も削減された。その結果2004年地方財政危機がもたらされた。これは国の地方に対する約束違反もしくは「詐欺」である。こうして夕張市が財政破綻した。この地方財政危機を背景に市町村合併が推進された。「平成の大合併」である。3213あった市町村は2010年には1727と半数近くまで減少した。その結果国の地方財政管理を強め「財政健全化指標」が課せられた。国の約束違反の結果を地方の財政放漫にすり替えたデマゴギーである。こうして地域の格差が拡大した。

(つづく)




読書ノート 石井哲也著 「ゲノム編集を問うー作物からヒトまで」  岩波新書

2019年04月09日 | 時事問題
水ぬるむ春 水辺の風景

第3世代のゲノム編集技術「クリスパー・キャス9」によるゲノム改変がもたらす諸問題を検証する 第6回

2) 品種改良とゲノム編集 (その2)

こうした新しい育種技術は、生態系への影響や食品安全性を評価し、問題がなければ商業栽培が許可される。2000年生物多様性条約国特別会議が採択した「カルタヘナ議定書」では、「生きている改変生物」として無秩序な利用の悪影響を考慮し取り扱いや輸送、利用について取り決めがなされた。170か国が批准したが、世界最大の農産物生産国アメリカは批准していない。遺伝子組み換え技術の規制は、商品のリスク評価を行う「プロダクトベース:と、開発の全課程にわたってリスク評価を行う「プロセスベース」の規制に大別される。一般的にはプロダクトベースの規制の方が緩い。遺伝子組み換え作物の作付面積では、アメリカ、ブラジル、アルゼンチンの上位3国はプロダクトベース規制であるが、作付面積では桁違いに少ないインド、中国などはプロセスベース規制を採用している。一方食用を目的とする家畜の遺伝子組み換え事例は世界において1件もない。遺伝子組み換え作物の作付面積の段違いに多い北米や南米を合わせると世界の半分以上を占める。多国籍育苗会社(モンサントなど)による除草剤耐性作物と除草剤の抱き合わせ販売のビジネスモデルが世界を支配している。2005年まではアメリカには遺伝子組み換えの表示制度がなかった。しかし2016年連邦法で「安全性食品表示法」が制定されたが、企業のロビー活動で骨抜きされその効果を疑う声も多い。日本では1996年厚生省が作物の「組み換えDNA技術応用食品・食品添加物安全性評価指針」を定めた。2001年食品衛生法改正によって、食品安全基本法の規制と相まって、JAS法と食品衛生法に基づいた表示が義務付けられた。ところが日本では多国籍育苗会社日本法人が2017年1月段階で168作物について輸入や日本での栽培許可申請をしている。そのうち輸入・栽培許可がいずれも承認されたものは125作物であるが、生産者は栽培しないのが現状である。日本は遺伝子組み換え作物の輸入大国である。全輸入量はほとんどアメリカからで、約1471万トンである。味噌、豆腐の大豆や菓子のトウモロコシなどの遺伝子組み換え作物を日本人は相当食べている。にも関わらず、日本の食卓では心理的に遺伝子組み換え作物は歓迎されていない。意識調査ではいつも敬遠され、なぜが不信感が強い。その原因の一つが表示制度への不信である。日本では「全重量の5%以上を占めるものにしか表示義務はない」が、世界のほとんどの国では0.9%以下あるいは1%以下は表示は免除という。この意識と実態のアンバランスはひとえに日本の食料自給率の低さ(39%)にあり、原料で組み換え作物の痕跡をとどめない加工食品に表示を義務付けていないので、つまり知らぬ間に食べていることが現状である。組み換え大豆がもしこぼれて日本で自生しても生物多様性には影響ないという立場を環境省はとっている。またこうした不信感の本になっているのは、生産育苗会社が多国籍企業の巨大コングロマリットで多額な開発費を掛けらる超独占企業で、かつ農薬生産企業でもありかってべトナム戦争で枯葉剤を生産し健康被害をまき散らした企業への市民の反感が強いからである。遺伝子組み換え作物の食品として安全性は「科学的には問題ない」として、消費者との対話・コミュニケーションを促進すルということが政府の方針である。しかし害虫耐性を持たせるため、細菌由来の毒素(Bt毒素)遺伝子を導入された作物は人間に対して有毒性は大丈夫なのかという疑問があるが、厳格な食品安全性試験で毒性は否定された。「こぼれ落ち問題」は耕作地付近の生態系への影響が考えられる。除草剤耐性遺伝子を持つ雑種が耕作地域に自生すると、社会的な問題となる。有機農法農産物に混入すると商品ブランドを侵害することになる。日本では都道府県の一部で別途許認可制度を採用するところが、北海道、新潟県、神奈川県や一部の市町村に見られる。まだまだ心配の種は尽きないのである。遺伝子組み換え家畜は食品安全性だけでなく、動物愛護の観点からの反対がある。体細胞クローンによる家畜育種をめぐる論争も絶えない。2009年日本の食品安全性委員会は「クローン家畜由来の食品は安全」との見解をとったが、体細胞クローンでは高頻度に先天性異常が発生し殺生処分をすることが多かった。欧州議会では動物愛護を踏まえてこの方法の規制を求める投票を実施した。養殖魚では成長ホルモン遺伝子を導入したサケの養殖承認をアメリカは2015年に、カナダでは2016年に承認された。FDAの表示方針が決まるまで販売停止となっている。遺伝子組み換え作物や家畜が歓迎されない理由は、規制制度への疑義、拡散の危険性、企業への不信、リスクコミュニケーションの不調、倫理感などが存在する。 

(つづく)

読書ノート 柄谷行人著 「憲法の無意識」 (岩波新書 2016年4月)

2017年06月29日 | 時事問題
悲惨な戦争体験によって日本人は内発的に普遍的価値である憲法9条を選んだ。これは誰にも変えられない日本人の無意識となった。 第5回

2) カントの平和論―哲学的平和論 (その2)

柄谷行人著「世界共和国へ」〈岩波新書 2006)には政府形態を比較して、その進むべき方向を述べています。1990年ごろから資本主義のグローバリゼーションということが言われるようになった。旧ソ連圏が崩壊し、資本主義的な市場経済がグローバルになって、そしてロシア・東欧・中国をも巻き込んだ世界市場が出来た。もはや外部がなくなったのだ。このグローバリゼーションによって国民国家の影が薄くなったかといえば、そんな事はおきていない。国連が世界政府になるなんて夢のまた夢である。欧州統合も経済だけのことで、欧州政府・憲法はまだ現実には拒否されたままである。ではなぜ経済の統一によって国家はなくならないのかというと、国民国家は資本主義のグローバリゼーションのなかで形成されてきたからである。資本主義経済は放置すれば、かならず経済格差と対立を生む。国民(ネーション)は共同性と平等を要求するから、経済格差は是正されなければならない。国家は規制・税・再配分(福祉)によってそれを実現しようとする。資本と国民、国家は別の原理で動いているが、その3要素は堅く結びついている。たとえば福祉国家においては、資本=国民=国家は三位一体で最もうまく機能している状態である。国家は内向きだけで存在するわけではなく、国の間の関係はいつも緊張をはらんでいる。国がなくなったら戦争や経済競争にも負けるのである。では国とは何かというと、官僚と軍隊をさす(頂点に天皇がいなくてもいい)。これは政権や社会や時勢にかかわらず国の自律性を保つ「ホメオパシー」であるらしい。これは20世紀後半、資本主義体制が社会主義国に対抗する危機感からとった形態が福祉国家であった。ところが1990年以降社会主義圏が消えると、福祉国家への動機がなくなった。そして「安い政府」(小さな政府)が主張され、自国の労働者が失業しても構わない、資本の利潤を優先する「新自由主義」の時代になった。ここに著者はノーム・チョムスキー「未来の国家」(1971年)から4つの国家形態を持ち出す。その分類の特徴を示した。リバタリアン社会主義は現実には存在しない。いわばカントの「統整的理念」といえるものなのだろう。1848年の革命では国家社会主義運動もアソシエーショニズム運動も敗退した。そしてフランスのボナパルトとプロシアのビスマルクの福祉国家資本主義が勝利したといえる。イギリスの圧倒的な経済的ヘゲモニーに対抗するには、大陸は福祉国家資本主義を選択した。イギリスでも対抗上福祉政策は急速に進んだことはいうまでもない。国家資本主義で力をつけたフランスとプロシアが1870年晋仏戦争を起こし、勝利したプロシアはアメリカと組んでイギリスの自由主義帝国に対抗した。帝国主義時代は実質的1870年から開始された。日本はプロシアに倣って近代国家と産業化を成し遂げ、この帝国主義時代に参加する。晋仏戦争に敗れたフランスでは1871年パリコンミューンが起き、アソシエーショニズム最後の革命であったが、もろくも崩壊した。このときマルクスはどこにいたかというと、マルクスはプルードンの理念の近くにいたのだ。決して国家社会主義の立場ではなかった。マルクスはプルードンとともに、共産主義を「自由なアソシエーション」と呼び、パリコンミューンを支持した。国家社会主義者ラッサールの「ゴータ綱領」を批判した。プルードンは経済的な階級対立を実現すれば国家は消滅すると考えた。それに対してブランキの戦略は「一時的に国家権力を握りプロレタリア独裁によって資本経済と階級社会を揚棄する」ということであった。社会運動の主流でなかったマルクスの非現実性は、国家の自立的存在ををみないアナキズムにあった。1870年までのプロレタリアとは職人的自由労働者であり、重工業の進展による大規模産業労働者は未だ成立していなかったからである。職人の気質は自由でアナキズム・反抗者である。19世紀末の大規模産業労働者の時代から社会主義運動は社会民主主義(福祉国家主義)かロシアのマルクス主義(ボルシェヴィズム)に分かれた。レーニンはこの上なく官僚主義的国家社会主義を創設し、スターリンに受け継がれた。アソシエーショニズムは資本・国民・国家を否定するが、それが強固に存在する事を理解していない。従って本書は、新自由主義独りがちによって経済格差が進み社会福祉が放棄される中で、新自由主義を超える社会を作る事を目的とする。しかしその前に資本・国民・国家が出来た道筋を明らかにし、「世界共和国へ」の道筋を考えることにある。 資本主義の20世紀は帝国主義が顕著になる。レーニンなど社会主義者は帝国主義は「資本主義の最高段階」とよび、産業資本に替わって金融資本が支配を確立した段階と捉える。グローバル資本が世界を支配しても国家はなくなっていない。どうしてかというと国家の自律性を見逃しているからだ。国家と資本が結合したのは、絶対主義国家(主権国家)においてであり、帝国主義はそこに始まっている。主権国家は膨張して他の主権国家を侵すことが宿命であり、多民族統治の原理(オスマントルコのような統治して侵さず)が働かない。ハンナ・アーレンは国民国家の延長としての帝国主義は、古代の世界帝国(中国・ローマ・マホメットイスラム帝国など)にような法による統治形態をもたず、国民国家は絶対主義国家の時代から、国民の均質性と住民の同意を厳しく求めるものであるという。アメリカの「人権」という干渉(非寛容性)は国民国家の典型である。古代世界帝国は税さえ納めれば国家・民族の慣習には無関心であった。またアーレンは「国民国家は征服者として現れれば必ず被征服者の民族意識と自治を目覚めさせる」という帝国主義のジレンマを指摘している。イギリスなどの帝国主義がオスマントルコ帝国を解体し、アラブ民族を「解放」したと称したが、それが今日の中東の民族国家分裂とイスラエル問題を引き起こした。アラビアのローレンスが中東問題の元凶である。ナポレンオンは欧州に「フランス革命」を輸出したが、それがプロシアの興隆をもたらしたのである。こうして帝国主義は世界各地に国民国家を作り出した。

(つづく)

読書ノート 柄谷行人著 「憲法の無意識」 (岩波新書 2016年4月)

2017年06月28日 | 時事問題
悲惨な戦争体験によって日本人は内発的に普遍的価値である憲法9条を選んだ。これは誰にも変えられない日本人の無意識となった。 第4回

2) カントの平和論―哲学的平和論(その1)

 本書には柄谷氏の好みかもしれないが、無意識を表現するためにフロイトを持ち出し、平和を述べるためにカントが出てきます。人間の所作で会う限り、歴史、政治、経済行為に心理学を持ってくることは不自然ではない。しかし科学的研究に自然を主体とみた心理学をもってきたら、「進歩主義的進化学」や「利己的な遺伝子」のように擬人的と言われて笑われるだけであるが、動物行動学では結構人間の心理学が目的意識的な説明に使われている。しかしそれは理解しやすい説明というだけで、科学的事実であるかどうかはわからない。しかし私にはフロイトの精神病理学を政治や歴史の「深層」として捉えるのは、似ているかもしれないだけで、納得できない。だから本書はフロイトを冒頭から持ち出すが、オカルトめいて私はその説は採用しなかった。フロイトの学説は無くても著者の言いたいことは分るからである。では18世紀末に書かれたルソーやカントの平和論は、第2次世界大戦前後の世界情勢に適応出来るのかと考えると、思想の歴史的価値は揺るがないつぃても、実際その状況でカント説を公言して動いた政治家がいて、その効果があったかというとが問われなければ、政治理論を哲学で潤色するだけの著者の衒学的姿勢かもしれない。日本の戦後憲法の前文には「我々は平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」という言葉があります。この前文の背景を考えるについてカントが1795年に書いた「永遠平和のために」が見えてくると著者は言います。カントが言う永遠平和とは戦争をもたらす一切の敵対状態が無くなることを意味します。そのためにカントは諸国家間の連合によって創出する智う構想を述べたのです。カントの平和論が日本の憲法9条に結実するに至った過程を検討しようとするのが本章の目的です。明治の段階で西洋の平和論はかなり普及していた。横井小楠、小野梓、植木枝盛、中江兆民、北村透谷らがいました。中江兆民はルソーの「釈迦契約論」を翻訳しました。また「三酔人経綸問答」を書き、サンピエールからルソー、カントに至る平和論を紹介しています。サンピエールは欧州諸侯による国家連合体を構想しました。ルソーは民主革命なしには国家連合が達成できるわけはないと言いました。明治時代初期に自由民権運動の闘士は、帝国主義の時代には「国権論」(民権ではない国家主義)に転じていました。帝国主義の時代に、民権論から社会主義と平和の思想に向かったのはアナ―キスト幸徳秋水です。日本で最初のカントの平和論を取り上げたのは詩人北村透谷でした。彼は自由民権論の活動家になりましたが、政府の弾圧の下、「政治から宗教・文学へ」転向しました。キリスト教徒として平和運動の中心的存在でしたが、同時に「文学界」のリーダでした。日清戦争、日露戦争に対して戦争廃止論を訴えましたが、惜しくも日露戦争の三か月前に自殺しました。25歳でした。カントが「永遠平和論」を書いた1989年はフランス革命と干渉してくる諸国に対する祖国防衛戦争の時期であった。まもなく台頭してくるナポレオンは世界戦争を7引き起こしますが、そんなことはカントの目には映っていなかった。これまでの平和条約はいわば休戦条約であって、戦争を廃止するようなものではない。カントは平和条約に代わって平和連合を提起したのです。国家間の敵対性を解消する連合アソシエーションによってのみ可能だと考えました。彼は世界政府を目指すのではなく、諸国間が戦争を防止する連合を目指すものです。革命防衛からナポレオンは世界戦争を起したのです。ナポレオンの啓蒙主義は欧州各地にフランス革命を輸出するようなもので、それは国民ネーションを各地に生み出しました。ヘーゲルがナポレオンを評価します。それはナポレオンの戦争によって結果的に諸国民に普遍的な理念を実現したという評価です。ヘーゲルはカントの「永遠平和」で提起した諸国民連合について、1821年にカントの平和論は諸国民の国益の前にはリアリティがないと批評しました。こうして19世紀の間カントの平和論は忘却されました。むしろ大国間の覇権争いが普遍的概念を実現するというヘーゲルのリアリティ論が主流となった。20世紀初頭にはカントの平和論、国際連邦論はある程度浸透したかに見えましたが、第1次世界大戦後にできた国際連盟は極めて無力でした。国連もいつも非現実的な理想主義として嘲笑されてきました。カントは1784年に書いた「世界市民的見地における普遍史の理念」では、人類史は「世界共和国」に向かって進むと述べています。戦争という悲惨な国家エゴの結果が世界連合をもたらすのだということです。ヘーゲルとどう違うのかというと、世界連合は無力で国家エゴがリアリティ現実的な力を持つとするヘーゲルに対して、そういう争いの結果人類は世界共和国に向かって行くのだという観点です。二人とも違ったことを言っているのではなく、カントは世界の歴史的普遍化を言っているのです。これを「自然の狡知」と呼ぶ人もいます。フランス革命以前に書いた「普遍史」で、カントが考えたのは「平和」よりも「市民革命」です。カントは「普遍史」では、ルソーの市民革命と平和に関する理論を検討して、サンピエール説の王侯連合は期待できないとしました。それゆえ永遠平和は、諸個人の社会契約によって形成された国家間の契約でしかあり得ないのでルソーは革命が不可欠であると結論しました。ルソーは革命と永遠平和については懐疑的でした。しかしカントの考えは、そもそも一国の革命派他国との関係を離れて考えられないとしました。革命を封じ込める諸侯連合の干渉とフランス革命政府の「恐怖政治」は表裏一体の関係です。市民革命の土岐はカントの永遠平和論は全くの無力でしたが、世界戦争が起きる19世紀末の帝国主義時代になってカントの平和論は市民革命とは切り離されて、異議を持つようになったのです。

(つづく)