ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

環境問題  ブライアン・フェイガン著 「古代文明と気候大変動」 河出文庫

2008年12月31日 | 書評
人類の運命を変えた気候2万年史 第4回

序 (4)

 どのようなシステムでも、小さな変動にたいして強くなるために規模を大きくする。企業組織をみればわかる。しかし耐えられない想定外の変動に対して、組織はもろくも崩れる事がある。金融不安でグローバル金融機関が簡単に倒産した事を我々は2008年に見てきた。文明とは人類の共同体システムだとすれば、大規模になった事で他の集団にたいして強くなるが、多くの人口を抱えて居る事で変動への対応が鈍く、急速な転換が出来ない。小規模であれば波に乗って容易に逃げられたのに、図体が大きいばかりに波に沈むこともあるのだ。紀元前6000年前からメソポタミアには人が住み着いて、紀元前3000年以上前から都市文明が各地で興り農耕と通商で栄えた。紀元前2300年前シュメールの第3王朝(ウル王朝)ができて、灌漑用水路が張り巡らされ、エジプトのファラオに並ぶ世界最強の都市国家となった。ところが火山爆発や旱魃はユーフラテス川付近を砂漠に近い荒廃した地に変え、紀元前2000年にはシュメール人の人口は半減した。高原に移った別の部族が王朝を立てたが、ウル王朝は完全に崩壊して、人々は死に絶えたか離散した。小規模の災害に対して万全の対策として興隆した都市は、より大きな災害に対してますます脆弱になっていた。生存できるか否かは、往々にして規模の問題となる。

読書ノート 「梅棹忠夫著 「文明の生態史観」」 中公クラシックス

2008年12月31日 | 書評
京都学派文化人を代表する文化人類学者 第8回

東南アジアの旅からー文明の生態史観つづき

1958年8月「中央公論」に発表。1957年11月大阪市立大学の東南アジア学術調査隊に出かけた著者のタイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの旅行記である。5ヶ月間で4カ国をジープで回ったそうだが、兼高かおるの旅行記や世界中を回るビジネスマンに較べて、このような学術調査にどのような意味があるのだろうか。冒頭に述べられていることは「文明の生態史観」の繰り返しになるので省く。世界を第1地域と第2地域に分けて、東南アジアは第2地域に属して中国とインドの中間の周辺地域にある。高度資本主義国は一つも無い。中国は漢民族であるが、東南アジアは小国の集合で優勢な民族というものは存在しない。言語、文字、宗教もモザイク模様である。民族は激しい移動をして国家の交代も頻繁であった。気候は湿潤地帯、亜熱帯地帯である。原始森林に覆われている。東南アジアと東ヨーロッパは気候はまったく違うが、小国の集団で三つの世界に囲まれた中間地帯という点はにている。第1次世界大戦後に東ヨーロッパ諸国が出来たが、東南アジアは第二次世界大戦後にフランス、イギリス、オランダ、日本から独立した。著者は東南アジアに同質感をもつという。

アラブ民族の命運
1958年8月「週刊朝日」に中東動乱の危機に応じて書いた短文である。アラブ人は東洋とは言わない。それは地中海・詩スラム世界である。イランはアラブ人ではない。アラブ語を話すアラブ民族とはイランより西へ地中海の北アフリカまでのイスラム圏の民族である。著者はアラブ民族の共産化を心配しているところがユニークであるが、特筆するところはない。



読書ノート 今西錦司著 「生物の世界」  中公クラシックス

2008年12月31日 | 書評
棲み分け理論からダーウインの自然淘汰進化論批判ま 第13回 最終回

第5章 「歴史について」 (2)

 種の起源は遺伝学の範疇にあるが、ダーウインの自然淘汰進化論には今西氏の世界観が立脚する進化論と相容れないという。支配者階級の生物(人間)には頭を押さえつける生物が居ないため進化を続ける所謂創造的進化ができるが、被支配者階級の動物は家畜や栽培植物のような変異が利用されるに過ぎないと今西氏はいう。ダーウインの云う気まぐれな無方向な変異は人為淘汰のことを云うのだろうか。気まぐれな無方向な変異の中で生存競争という篩をかける適者生存のみが栄えるという自然淘汰説は間違っていると今西氏は訴える。自然淘汰説は生物の環境への働きかけというものを全然認めないで、環境の生物への働きかけだけをt里あげていると今西氏は非難するのである。生物の主体性には選択の自由があり、環境の生物による選択であり、本能でもあるのだと云う。要するに自然淘汰説ではあまりに生物が悲しい存在に過ぎないといいたいのだ。生物には環境の主体化という創造性がある。これを適応の原理とも云う。初めから変異は生活の方向性に導かれている。360度の全方向変異はありえない。そして今西進化論の本論に入る。「種自身に変異の方向が決まっていて、種自身が変わるのである。」これを種変異論といい、個体変異論と対照をなす。生物には現状維持主義・保守主義があって、種の維持強化作用とも言われる主体性の表れがある。そして変異があっても統計的に変異が中庸を保つ、変異の集中化というのが種の維持強化作用である。これは遺伝的形質の均質化になっている。生物にあっては種の歴史が生物の歴史であると、今西氏は確信した。生存に直接関係しない形質の変異は特殊化・適応に向かい、種の文化的特徴を形成するのである。種は交雑しないから種の純系を守るので、種としての独立分離が確立するのだという。当たり前のことかもしれない。

自作漢詩 「歳晩夜」

2008年12月31日 | 漢詩・自由詩
城市蒼蒼欲盡     城市蒼蒼 盡んと欲する天

貧窮陋屋正凄     貧窮陋屋 正に凄然

酔顔今夜逢三朔     酔顔今夜 三朔に逢い

霜鬢明朝又一     霜鬢明朝 又一年 

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(赤い字は韻:一先 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)

CD 今日の一枚 バッハ 「カンターター選集 22」

2008年12月31日 | 音楽
バッハ 「カンターター撰集 22」BWV38,55,115,60
カール・リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団と合唱団
ソプラノ:エディット・マティス アルト:トゥルデリー・シュミット
テノール:ペーター・シュライヤー バス:フィッシャー・ディースカウ
ADD 19591964,1978 ARCHIV

BWV38 「深き悩みの淵より、われ汝に呼ばわる」
BWV55 「我哀れなる人、我罪の下僕」
BWV115 「備えて怠るな、我が霊よ」
BWV60 「おお、永遠、そは雷のことば」
BWV55 「我哀れなる人、我罪の下僕」は唯一テノールのためのカンターター BWV115 「備えて怠るな、我が霊よ」は冒頭の合唱でイキイキとした各声部の動きが現れる名曲であろう。