ブログ 「ごまめの歯軋り」

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石母田正 著 「日本の古代国家」 岩波文庫(2017年)

2019年05月21日 | 書評
我が家のあやめ

推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を論じた7世紀日本古代国家論  第15回

第2章 「大化改新の史的意義」(第5講)
4) 改新政権の軍事的性格:

 一般に唐制に基づいた王権を軸とした中央集権国家の樹立が改新政府の設定した課題であり理念であった。大化の改新、天智朝、天武朝と浄御原令の施行および大宝律令の制定・施行という一連の律令制国家の前史である。前史をなす7世紀後半の時期においては、内乱・謀反および対外戦争があり、律令制国家の樹立は紆余曲折を伴い約半世紀の時間を要した。国家という機構はそれ自体が目的となるのではなく、何かを解決するための手段であり、媒介である。この節では大化改新体制の軍事的側面を中心に6つの特徴を見てゆこう。
①兵器の規定: 改新詔第二条以下の諸規定には日本書紀の編者の転載に相当する現詔(第1次史料)によって確認できる。第四条の兵器のきていがそれである。一人一人に与えられる兵器には、刀、甲、弓、矢、幡、鼓があり兵庫に収められる。兵器収公・兵庫設置は政府の重要課題であり、改新の政変があった月から使者を諸国に派遣して兵器を兵庫に集めさせた。
②官馬の規定: 第四条の官馬の規定は、中馬を百戸に一匹、細馬を二百戸に一匹、馬の値は布一丈二尺という規定である。東国の在地首長の支配下の田部、湯部から軍馬を徴した。
③国造軍: 令制下の防人の制度に遺制が見られる国造軍の特徴はその内部序列が、国造丁ー助丁ー主帳丁ー火丁ー上丁(一般兵士)として制度されていた。国造軍組織は6世紀からから成立するが、在地首長および旧連の伴造軍は軍組織としてはせいぜい親衛隊的であり、国軍としての強力な軍隊の編成原理には成り得なかった。旧名門貴族であった物部氏や大伴氏の伴造制は組織として弱体であった。
④惣領ー国造の体制: 改新前の東国では令制の国家はまだ成立しておらず、統治体系は、惣領のもとに国造と評が併存してとみられる。惣領ー国造の体制は軍事的な性格が強かった。惣領とは太宰と同じ官職であるが、軍政官(兵馬徴発権をもち、惣領所在地は軍事基地であった)というべきである。東国八道に派遣された惣領も若干の「国」からなる地域ブロックを所轄した。令制下の「国司」は惣領ー国造の軍事的機能を引き継いでいる。郡制と軍団組織の成立が国造軍と関連しており、在地首長層に深く依存していた。唐の制度にならった行政組織は、日本の在地貴族の軍事組織を再編成したのである。
⑤惣領ー評制の系列: 大化に始まる「評」が朝鮮の制度に起源をもつ。新羅の「啄評」、高句麗の「内評・外評」、百済の「評」が軍事と行政との不可分の統一体であった点である。「評」とは改新の際に諸国に設置された兵庫を中心とする軍事的拠点に起源があるようだ。
⑥畿内制度: 改新詔第二条に規定された畿内の範囲は原詔に基づく規定とみなされる。しかも中国の畿内制ではなく、朝鮮の畿内制をモデルとした可能性が高い。中でも百済の制「五方五部」制は、
ⅰ)王都周辺を畿内と呼び五部に別れる。
ⅱ)畿外の地方は「方」に分割され五方が置かれる。
ⅲ)五方には郡がおかれ、一方に十郡が属する。
この畿内と五方の組織は百済の場合と同じように軍事的編成である。畿内の特別の軍事的重要性が認識されその武装化を推進し、方面軍に相当する「八道」制の成立を対応している。改新の諸制度が行政と軍事の分離が不十分で一体化していたが、唐が高句麗征服、百済征服後に採用した行政組織は旧国の国制の原理的変更を伴わず、高句麗の場合は九都督府、42州、百県に再編成し、安東都護府が統括するものであった。純粋に居住地地域的に把握する行政的なものであった。大化改新は転換期の所産で、王民制を元にいずれ高句麗・百済の水準に達するという観点であった。日本の支配階級が組織された強力な国家を完成された形でまだ持っていなかったということである。

(つづ く)
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石母田正 著 「日本の古代国家」 岩波文庫(2017年)

2019年05月20日 | 書評
我が家の芍薬園

推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を論じた7世紀日本古代国家論  第14回

第2章 「大化改新の史的意義」(第4講)

3) 改新と東国首長層: 
大化改新が政治改革であるなら、政策問題(公民制)のみならず、政策を実行する権力の所在を問題としなければならない。政策を決定した朝廷がこの権力を持っていないし、朝廷中央と地方組織の脆弱さからして、改新期に中央から派遣された「東方の八道」(東国の惣領)は中央の政策を在地に命令するだけで、彼らは直接人民への支配権はない。校田と民戸一般の調査・登録をおこない、租税と賦役を人民に強制する事実上の権力を持っている階級は、国造・伴造として存在する在地首長層以外にはない。彼らに政策を無視されたり、骨抜きにされると政策の実効はでない。(現在でいうと政治家立法と官僚層の関係に似ている) 大化改新詔関係史料a),b),c),d)にしきりに現れる「国造」への指示を見ると、国造が在地における改新の主体として全面にでてきたことが明白である。国制の身分的・族制的編成から領域的国家への転換の政策は、改新政府にとってその権力基盤を、国造制におくか、伴造制におくかの問題である。東国において典型的に見られることは、国造も伴造も、在地首長制が王民制の中で再編成される二つの形式であった。国造・伴造制の根底にある実体は、自律的独立的な在地首長制に他ならない。大化改新前の6世紀における在地首長制の王民制の編成は、部民制や屯倉性を通じて在地の支配形態の変化に大きな変化をもたらしたが、彼ら在地首長の独自の支配体系を変えるものではなかった。古墳時代の毛野(群馬県と栃木県地方)の豪族の古墳群はヤマト王権の古墳制度を見習ったものであるが、形式の上で大王間の身分的格差が見られないこと、および毛野の首長層らがヤマトの勢力に対して独立した支配権を有していたことを示している。5,6世紀西国の国造の反乱が頻発したことと東国の首長らは相反するようだが、首長の支配体系全体が名代・子代とされるような東国型の方が独立性が高かったと思われる。6世紀東国で多くの屯倉が設置されたが、大和朝廷の直轄地の鉄器農具による生産性向上は見られたが、中央から「田令」、「捉稲使」が派遣されたとしても、制度があれば官僚だけで生産できると考えるのは早計である。これらの実務を行ったのは在地首長層である。屯倉における剰余生産物の収奪は、屯倉を管轄する在地首長制における支配力、強制力に基礎をおいていた。在地首長層の権力関係は、軍事賦役と裁判権である。裁判と刑罰による強制力が支配の手段として不可欠である。在地の裁判権が中央の部民ー伴造の系列で構成されていたと考えることはできない。在地首長が領地内の民戸に対して一律に裁判権を行使した。出雲の国では、裁判権を有する出雲国造とそれに従属する首長層の領域支配力の協力なしには裁判の行使は不可能であった。推古朝を最盛期として伴造制は律令国家の発展により、王民制とともに没落する。大化改新の意義は次の点に要約できる。①国造の領域支配が制度化された。在地首長は王民制の秩序では部民の管轄者「伴造」として、特定地域の支配者としては「国造」として存在する。「国造」が「評造」(群制)に転化することで、人民の地域的編成・領域支配へ転嫁する。②国造から評造への移行に伴って、国造の支配領域の分割や統合、再編成が行われた。国造から評造への移行において、新しい評造に国造でない者も選任された。彼らは在地の首長層から選ばれた。すなわち在地首領層内で従来とは違う分化や発展が見られ、群小首長層(中間層)から中央が旨く吸い上げたということである。校田や民戸の調査・登録という政策が、東国だけでなく全国の在地首長層の階級的利害と結びついて進行した事業と成り得た。

(つづく)
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石母田正 著 「日本の古代国家」 岩波文庫(2017年)

2019年05月19日 | 書評
芍薬

推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を論じた7世紀日本古代国家論  第13回

第2章 「大化改新の史的意義」(第3講)
2) 人民の地域的編成 王民制から公民制:
 エンゲルスは「家族・私有財産・国家の起源」において「国家を特徴づけるものは第一に領域による人民の区分である」という。近代国家において生活する人間にとって当然に思われることも、それ自体が歴史の所産である。律令制国家では明確そして典型的な形で存在する。人民の戸籍・計帳による把握がそれであり、それに対応する行政権力の構造は、里(郷)から郡、さらに国にと領域区分を基礎として重層的に構築されてきた。先行する時代には身分的・部族的編戸・雑戸籍が特徴であったが、律令の特徴は地域的編戸・公民籍に特徴があるといえる。雑戸とは領域内に散在分布する雑戸という身分(世襲職業)に属する民戸だけを抄出して戸籍を作る。令制における雑戸は大化の改新前には部民の遺制であったが平安時代には消滅する。大化の改新前の編戸には二つの方式があった。一つは屯倉に付属する田部の「丁籍」、「名籍」は「雑戸」と同じ身分的・部族的編戸である。二つは帰化人の集団を戸として編成する場合で、「田部」に近い編戸である。また戸を単位とする集団の編成の仕方はおそらく朝鮮から学んだとみられる。大化改新後の編戸(庚牛年籍、庚寅年籍)の特徴は、以前とは異なった統治様式または人民編成原理の上に立つ。地域的な編成を確立した庚牛年籍の端緒は、族制や身分、支配・統族関係にかかわりなく領域内のすべての民戸を、その居住地において把握することであった。推古朝における支配体制の基礎にある一つの秩序は「王民制」である。王民制の起源は5世紀にあって、「氏姓」として政治体制になるのは6世紀以降のことであった。ヤマト王権を中心に結集していた畿内・近国の臣連・伴造、推古朝の群卿・大夫層は一つの統一体を形成していた。それは内廷・外廷と官吏の総体としての一個の政府として存在するが、それは国家としては未熟であった。王民制においては「最高の統一体」としての王権は、「有姓階級」の唯一の贈与者としてその秩序の形成主体であった。大伴・物部・忌部をはじめとする伴造制の発展は、統一体の内部において分業の発展の結果、多数の伴造や伴部を分化させた。それらの伴造はその根拠地において部民を保有し、それによる分業と私有制の展開が王民制を土台にして発展した。王権に代表される統一体の国制は、王権内部の家産的組織(内廷)にせよ、またはその外部の統一体全体に関する組織(外廷)にせよ、姓を負うことによって王権に奉仕する「氏」の集合体となる。氏が伴・部という民を地方諸国に保有する独立(縦割り)秩序を作る。公民制は王民制とは異なる原理であるので、姓による王民秩序(氏姓制)の複雑な分化が国としての秩序を持たないので、改新政府はこれを改めることが課題となった。第2の課題は王民制内部での私有制の発展が税収を阻害するので、税制の基礎となる公民の編戸原理を導入することであった。大化改新の史的意義は、王民制から公民制に基づく国家への転換にある。しかし公民的編戸の発展は、王民制を排除しない。地域的編戸は身分的・部族的編戸を取り込んでそれを体制化することにあった。天智朝の「定姓」や天武朝の「八姓」も王民制を支配層の内部秩序として役割を果たした。

(つづく)
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石母田正 著 「日本の古代国家」 岩波文庫(2017年)

2019年05月18日 | 書評
浜名湖 (2019年5月16日午前 新幹線車窓より)

推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を論じた7世紀日本古代国家論  第12回

第2章 「大化改新の史的意義」(第2講)

1) 改新の課題 史料の問題:(その2)
史料批判の第一の注意点は、第一条を全体として読むことであり、むしろ食封制・禄制に関する事項が冒頭に置かれるほど重要事項であったかという問題である。それは官人貴族層の第一の関心事が給料にあったからである。a)b)東国国司への詔との関連は後に考察するとして、e)の皇太子奏と改新詔との関連性を見てゆこう。e)の皇太子奏は次の二つの部分からなっている。1)万民を使役できるのは天皇のみ、2)入部および所封民(屯倉)より仕丁を選ぶこと、仕丁の私的な使用は止めると宣誓している。「改新詔」にある「部曲の民、処々の田荘」という言葉がe)の皇太子奏(入部および屯倉の所封民より)には見えない。そこで言っていることは徭役制で使う「仕丁」をどこから持ってくるかということである。改新詔の処置に従い(50戸あたり2人)の仕丁を徭役に供出しましょうとする皇太子側の通知です。仕丁を入部と言っているのは、改新前の慣例で後続に使われる仕丁は子代入部の部民としてしたからです。仕丁がなぜ皇太子奏でわざわざ言及されているのは仕丁が唯一の徭役であったからで、改新以前から在地首長層はその支配地内部の農民に対して広汎な徭役労働賦課権をもっていたからです。大化改新政府はこの首長による労働搾取の体制を公的なものに編成することが目的であった。法的規制は浄御原令から始まった。しかし首長層の裁判権には全く手を触れえなかった。皇太子奏における仕丁の言及は、伝統的な首長層の部民や屯倉の撤廃や収公を意味しないばかりか、その権限の存続を前提として述べている。大化の改新の第一義的課題が私地・私民の撤廃や収公すなわち所有形態の根本的改変でなかったことは、第1次史料a-eをよく読めば明白である。支配層の土地・人民支配の根幹は、「貸稲」という出挙制によって保障され、本稲(出資金)の増幅で潤うからである。大化改新の土地政策の課題は、屯倉・田荘の撤廃や収公ではなく、「田畝を校」すること、すなわち校田にあったと考えられる。所有者に関係せず、条里制的地割に基礎を置いた一般的な校田は農民の族制や身分にかかわりなく地域的・包括的な把握を可能とする公田性に道を開くものであった。六世紀後半の在地首長層が己が民をこき使って開拓を進め、その所有を正当化するために屯倉などを称していた。これらの詐称を調べて「校田」を行い、正統性のない土地を整理し公に収めることもあった。大化の一般的校田の第2の目的は、税制との関係にある。詔第4条の田調・戸調・調副物がその課題であった。改新前の調の制度は極めて不安定で不確実なものであった。大化の新税制を媒介とする一般的校田と賦課制は、在地首長層と人民の間に存在する収奪関係(生産関係)を基本的に改変する性質のものでなく、屯倉や田荘の存続と矛盾するものではない。大化改新の課題は部曲などの私民を含めてすべての民戸が調査・登録の対象となった点である。それが将来の統一的な税制の基礎となるのである。改新後の弱体な政府権力では、支配層の経済的基盤を揺るがすような改革ができるわけはなく、私地・私民制を廃棄して食封制に転換することは、理念として示されただけで実現可能制は非常に少なかった(古代から中世を経て、全国が政府支配の公地公民制が敷かれたことは一度もない。基本所有形態は私有制であった)日本書紀編者に令制国家の起源を大化改新に設定しようとする意図が詔第一条に明白であるが、そのような強力な政権ができるのは壬申の乱で権力を握った天武天皇の専制時代まで待たなければならなかった。

(つづく)
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石母田正 著 「日本の古代国家」 岩波文庫(2017年)

2019年05月17日 | 書評
富士山 (2019年5月11日午前 新幹線車窓より)

推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を論じた7世紀日本古代国家論  第11回

第2章 「大化改新の史的意義」(第1講)
1) 改新の課題 史料の問題: (その1)

日本の古代国家は、浄御原令(689年天武・草壁皇子)または大宝律令(701年刑部皇子・藤原不比等ら)の制定による律令国家という形において、7世紀末または8世紀初頭において完成される。しかしそれには半世紀にわたる前史がある。国内的には645年の大化の改新と、対外的には663年の白村江海戦での唐・新羅連合に敗戦したことを契機として律令制国家体制への転換を進めてきたことが先行していた。推古朝の国制とは異なる新しい国家が成立するための出発点であった。推古朝とは何がどのように転換したかが問題である。大化の改新は一般に私地・私民の停廃・収公とされ、あるいは唐の国制をモデルとする中央集権国家の樹立、または天皇絶対主義の確立、または律令制の起点と描かれてきた。それは日本書紀の孝徳紀に基づいている。日本書紀は奈良時代の初めに支配層の思想や意図から編纂された史書であり、第1次資料ではない。改新の史料批判は非常に困難で、石母田正氏は646年正月の「改新詔」(本書付録大化改新関連資料のより)の問題を指摘する。「改新詔」は以下の四条から構成されている。①改新の根本課題である私地・私民の停廃・収公または公地・公民制、②京師・畿内および郡司などについて、③戸籍・計帳・班田収授法について、④調・官馬・仕丁・采女などについて規定されている。もっとも重要な①については3つの部分からなる。ⅰ)昔より天皇の持つ、子代の民、屯倉ならびに臣・連・伴造・国造・村首の持つ部曲の民、田荘を罷めよ、ⅱ)食封を大夫以上に与える、それには差がある。布を官人や百姓に与えることにも差がある、ⅲ)大夫は民を治め信頼を得ること、よって禄を与える。この第1条は原詔か原史料を基礎としているか、または編者の著述(虚構では決してないが)かという史料批判がある。石母田氏は日本書紀がいう第1条の内容を第1次史料とはみなさず、次の資料を第1次史料とみている。
a)大化元年八月庚子の詔、
b)大化二年三月甲子および辛巳の詔、
c)大化二年三月甲申の詔、
d)大化二年八月癸酉の詔、
e)大化二年三月壬午の皇太子奏(a-eは本書付録に収録されている)である。
石母田氏は改新詔全体が後世の潤色や作文だというわけでなく、問題は第一条にあるとしても、第二条の畿内制、第四条の田調・戸調・調副物および官馬・兵器・仕丁・采女などの規定は第一次史料の可能性を持つと考える。

(つづく)
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