ブログ 「ごまめの歯軋り」

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アリストテレス著 「詩学」  ホラティウス著 「詩論」

2021年08月29日 | 書評
結城市鬼怒川の鴨

 アリストテレス著 「詩学」 
ホラティウス著 「詩論」
 
     
岩波文庫(1997年1月)

概論
1) アリストテレス 「詩学」

(1) 論述の範囲、詩作と再現、再現の媒体について
この書で論じる範囲について決めておく。詩作の種類がそれぞれどの様な機能を持っているか、詩作が優れたものになるには筋がどのように組み立てなければならないか、詩作がどれだけの要素から、またどの様な種類の要素から成り立っているのかについて論じることにする。叙事詩と悲劇の詩作、そして喜劇とディーチュラボスの詩作、アウロス笛とキタラ―琴の音楽、これらすべてはまとめて再現といえる。これらは、媒体、対象、方法を異にしている。叙事詩らの技術においても、すべてリズムと言葉と音曲によって再現を行う。音曲なしでリズムだけ再現するのは舞踏家の技術である。舞踏家はリズムによって人間の性格、苦難、行為を再現するからである。言葉だけを用いるかあるいは韻律を伴う言葉を用いる再現がある。韻律には二種類ある。韻律に詩作する(ポイエイン)を結び付けて、エレゲイア詩人とか叙事詩人と呼んでいる。詩人をポイエーテースと呼ぶのは韻律によってである。韻文で論文を発表するなら詩人といわれる。すべての媒体、すなわちリズム、歌曲、韻律を使用している再現がある。ディーテゥラムボスの詩作とノモスの詩作、悲劇と喜劇である。

(2) 再現する対象の差異について
再現をする者は行為する人間であるから、優れた人も劣った人も再現する対象となる。ホメーロスはより優れた人物を、クレオポーンは普通の人物を、パロディを創ったヘーゲモーンはより劣った人物を再現した。悲劇はより優れた人物の再現を狙い、喜劇は劣った人物の再現を試みるのである。

(3) 再現の方法の差異について 劇という名称の由来について 悲劇・喜劇の発祥地についてのドーリス人の主張
再現は次の三つの違いがある。
①どのような媒体で
②何を対象として
③どのような方法でおこおなわれるかという点である
ソホクレーヌはホメーロスと同じ種類(悲劇)の再現者である。それゆえ悲劇と喜劇はドラマ(劇)という名前で呼ばれる。悲劇と喜劇は行為する人間を再現するからである。ドーリス人は悲劇も喜劇も自分たちが創ったという。ギリシャ本土のメガラ人、シケリアのメガラ人なども自分らこそがと名乗りを上げている。

(4) 詩作の起源とその発展について
一般に二つの原因が詩作を生み、それらは人間の本性に根差しているようである。
①再現(模倣)することは子供のころからの人間の本性であり、再現によってものを学ぶのは、ほかの動物と違って人間の特性である。
②再現されたものを喜ぶことも人間の自然な傾向である。学ぶことは哲学者のみならず、他の人にとって最大の楽しみである。絵の鑑賞の喜びも似たところがある。
再現することが音曲、リズム(韻律)とともに人間の本性に備わっている。作者固有の性格によって詩作は二つの方向に流れたまじめな人は優れた人間の行為を好む人を描いた賛歌と頌歌を作り、軽い性格の人は劣った人間を再現する諷刺詩を作った。ホメーロスは高貴なことがらに関して最大の作者であった。劇的な再現を行った。諷刺詩の作者は喜劇作者となり、叙事詩の作者は悲劇作者となった。そして舞踏、韻律、合唱団コロス、役者の要素が時代とともに変遷した。(劇の発展史についてはアリストテレスの見解は錯誤しているので注意)

(5) 喜劇について 悲劇と叙事詩の相違について
喜劇は比較的劣っている人たちを再現するものである。劣るといっても劣悪ではなく、滑稽である。滑稽は苦痛を与えず、危害も加えない一種の欠陥である。喜劇の来歴は、最初まじめに扱われなかったのでよく分からないままである。喜劇の筋を作ることを始めたのはエピカルモスとボルミスで、シケリアから伝わった。アテーナイのクラケースが最初に普遍的な筋書きを作った。叙事詩が韻律を伴う高貴な事柄の再現である点は悲劇と同じである。叙事詩と悲劇が異なるのは、叙事詩がテキスト形式で、韻律の使用は一部であり、その再現の長さが大きく異なる。構成要素は悲劇にあるものすべてが叙事詩にあるわけではない。

(6) 悲劇の定義と悲劇の構成要素について
悲劇とは、一定の大きさを具えた完結した高貴な好意の再現であり、麗しい言葉を使用し、叙述ではなく、行為する人物によって行われ、憐れみと怖れを通じて感情の浄化を達成するものである。韻律と音曲によって仕上げる。悲劇では行為する人びとが再現を行うのであるから、視覚的効果が要素の一つとなる。次に歌曲と語法が悲劇の要素となる。行為する人々には性格と思想によって行為の二つの原因をなす。行為の再現とは筋(ミュートス)のことである。筋とは出来事の組み立て方のことである。従ってすべての悲劇は必ず六つの構成要素をもち、これらの要素によって悲劇の性質が決められる。
①筋
②性格
③語法
④思想
⑤視覚的装飾
⑥歌曲である
これら六つの要素の中で最も重要なものは筋、すなわち出来事の組み立て方である。悲劇は行為と人生の再現である。人生の目的は行為であって性質ではない。筋は悲劇の目的であり、目的は何にもまして重要である。悲劇が人の心をもっともよく動かす要素は、筋を構成する部分としての反転と認知である。従って住自派悲劇の原理であり、いわば魂である、二番目に性格である。三番目に思想である。思想とは語るにふさわしいことを語る能力の事である。これは弁論では政治学の事である。四番目に語法がくる。語法とは言葉による意味伝達のことである。残った要素のなかで、歌曲は感覚的な魅力を添える。視覚的装飾は観客の心を惹きつけるものであるが、詩作には一番遠い要素である。

(7) 筋の組み立て、その秩序と長さについて
悲劇は一定の大きさを持つと定義したが、全体ははじめと中間と終りを持つ。巧みに組み立てられた筋は、この形式(はじめ、中間、終り)を守らなくてはならない。正しく配列されているだけでなく、全体の大きさと秩序が重要である。筋の場合もそれは一定の大きさを持ち、しかもその長さは容易に全体を記憶できるものでなくてはならない。

(8) 筋の統一について
筋は登場人物が一人であれば統一があるというものではない。人物には数限りない出来事が起きるからである。「へ―ラクレース物語」や「テーセウス物語」の作者は、登場人物は一人だからといって統一は出来上がらなかった。ホメーロスはこの点でも「オデュセイア」は、起こったすべての事を取り込まなかった。出来事は関連性を持って次から次へ連なっていなければ、話の筋は流れない。統一ある行為とは一つの全体としての行為を再現するものでなければならない。

(9) 詩と歴史の相違、詩作の普遍的性格、場面偏重の筋、驚きの要素について
詩作は、すでに起こったことを語るのではなくて、起こりそうなこと、ありそうな仕方で起こる可能性を語ることにある。歴史家と詩人は韻文で語るかどうかではなく、歴史家は起こったことを、詩人は起こる可能性のあることを語る点で大きく異なる。従って詩作はむしろ普遍的なことを語り、歴史は個別的なことを語る。喜劇については、ありそうにもないことに基づいて筋を作る。悲劇の場合、作者らは実在した人物たちに固執する。詩人は再現を行う故に詩人であり、行為を再現するので、韻律よりはむしろ筋を作るものでなかればならない。再現は完結した行為だけでなく、怖れと憐れみを引き起こす出来事の再現である。このような出来事は予期に反して因果関係によって起こる場合に最も効果的である。

(10) 単一な筋と複合的な筋について
筋には単一なものと複合的なものがある。単一な好意というものは、継続的な一つのまとまった行為がなされ、逆転、認知を伴わないで変転が生じる場合である。複合的な行為とは、その行為の結果として認知あるいは逆転を伴って変転が生じる場合である。逆転と認知は筋の組み立てから生じるものでなくてはリアリティがない。先に生じた出来事から必然的に起こる結果であるか、ありそうな仕方で怒る結果でなくてはならない。

(11) 逆転と認知、苦難について
逆転とはこれまでとは反対の方向に行為(劇の筋)が転換(劇的転換)することです。ありそうな仕方で、必然的な仕方で起こることが求められます。認知とは無知から知ることによって、例えば愛から憎しみへと転換することです。それは逆転と同時に起こります。認知によっては逆転を伴う場合、憐れみとか恐れがを引き起こす。悲劇とはこういった行為の再現であることを前提とする。逆転と認知は筋の二つの要素であるが、第三の要素は苦難である。苦難とは人が破滅したり苦痛を受けたりする行為のことである。死、負傷、裏切りなどがそれにあたる。

(12) 悲劇作品の部分について
量的な意味での区分で悲劇作品が区分けされる部分は次のようである。
①はじまりの部分
②俳優の対話と所作の部分
③終りの部分
④合唱隊コロスの部分である。俳優の歌や哀悼の歌は特定の悲劇作品にしか認められない。

(13) 筋の組みたてにおける目標について
優れた悲劇の組み立ては単一なものではなく、複合的なものでなければならない。そして怖れと憐れみを引き起こす出来事の再現でなければならない。そのために避けるべきことは、
①善い人が幸福から不幸に転じることは避ける
②悪人が不幸から幸福になってはいけない
③全くの悪人が幸福から不幸になることは憐れみも恐れも起こさないから避けるべきである
④中間にある人間は何らかの過ちによって不幸になる者であり、大きな名声や富を持つものである
したがって優れた悲劇の筋は、むしろ単純である。伝承に基づく話は何でもかんでも筋に取り込んではならない。

(つづく)

アリストテレス著 「詩学」  ホラティウス著 「詩論」

2021年08月29日 | 書評
県西公園の鴨

 アリストテレス著 「詩学」ホラティウス著 「詩論」
 
     
岩波文庫(訳書版 1997年1月)

序論(概論)

1. アリストテレス 「詩学」

アリストテレスの文学に関連する著作としては、伝説には「ホメーロスの諸問題」、「詩人たちについて」、「詩作の諸問題」などもあったというが、現存の「弁論術」と「詩学」を除いてすべて失われたという。「詩学」のテキストは不自然、不一致、切り取りなどが散見されるので、系統的に述べた講義ノートではなく草案、メモの類ではないかと想定される。アリストテレスの哲学者としての経歴は、
①プラトンのアカデミアで学んだ時期(前376-347)
②アッソス、ミュティレーネに滞在した時期(前347-342)
③マケドニアの王子アレクサンドロスの家庭教師の時期(前342-335)
④アテーナイに開いた学校リュケイオンで教えた時期(前335-323)
の四期に分けられるが、「詩学」はいつの時期に書かれたかは不明である。
本書のギリシャ語の原題は「詩作の技術について」であった。ポイエーシス(詩作)がいつか専ら詩を作ることを意味するようになった。ギリシャ文学作品は叙事詩、抒情詩のみならず、悲劇、喜劇などもすべて韻律を用いて作られた。それは人間の行為の再現(模倣)である。自然学者の詩も韻律(六脚律)で作られているが、これは哲学であって文学ではない。詩(文学)は作るもので、神から与えられたものではない。しかし合理的な原理(技術)によって、はたして詩が作れるのだろうか。アリストテレスが技術という時、一般的・常識的な意味を超えた面がある。アリストテレスは。技術は自然を模倣するという。後代「芸術は自然を模倣する」と理解されているが、自然と技術(芸術のみならず、技術一般)との間には類比関係が認められ、自然と技術には合目的性が共通して存在することを言っている。技術の合目的性は自明として、自然の合目的性とは最も優れたものを作る(生物については生物の概念に完全に具現した状態が発生の目的である)ことである。再現(模倣)をおこなうことのみならず、再現されたものを喜ぶことも人間の本性(自然)による。

文学史的によれば、詩作の起源は、再現に長けた人間が即興の作品から始めて、少しづつ発展させて詩作を生み出したといわれる。軽い性格の人は劣った人間の行為を再現する諷刺詩を作った。ホメーロスは優れた人間の行為を再現する叙事詩「イーリアス」、「オデュッセイァ」を、諷刺詩として「マルギーテース」を作った。諷刺詩は喜劇となり、叙事詩からは悲劇が生まれた。アリストテレスは、詩(文学)悲劇の成立を自然の合目的な生成として発展を終えて、テキストの韻文は今日の文学的詩文と転化したと考えた。技術の合目的性は自然の合目的性に従うので、技術そのものが自然の可能性を実現する方向に向けて発展する。ホメーロスが偉大なのは、彼が独創的な二大叙事詩を作っただけでなく、劇的再現によって悲劇と喜劇への道を切り開いたからである。すなわちもっとも優れた再現形式としての劇の可能性を最初に発見したからである。ソホクレース、アイスキュロスが対話を劇中に持ち込み、悲劇の本性を実現のために尽くした。詩人の最終的評価は、個々の作品の詩的卓越性や独創性によってではなく、詩作の本性を実現するにあたっての貢献度によって決定される。アリストテレスにとって重要なのは、原初的な賛歌や頌歌あるいは悲劇の起源とみなされるサテュロス劇、合唱叙情詩ではなく。完全に発達した形の詩作、悲劇であった。彼は詩作全般を扱うと言いながら、実際は悲劇についてだけ論じている。悲劇こそが再現による詩作(文学)の可能性を実現したと考えるからである。三大悲劇詩人の中でも。アリストテレスはアイスキュロスの作品は無視し、ソポクレースとエウリーピデースの作品を中心に論じている。彼はこの二人の作品から、悲劇のより優れた、より完全に近い形を理論的に抽出しているのである。悲劇の目的(機能)はどうすれば最もよく達成できるのかが議論の中心である。従って教訓的叙事詩はオミットされている。
ギリシャ悲劇は、ギリシャ神話・伝説からとった題材に基づいている。それは神の支配する世界(偶然、と運命の支配する世界)において人間がどう生きるかを問うものである。悲劇詩人は出来事の背景の神の意思があるという設定で劇を作るが、アリストテレスは、劇は人間の行為の再現であり、その行為は有りそうな仕方で、あるいは必然的な仕方でなされるべきだと考える。

従ってアリストテレスは、神あるいは偶然が劇の中に這いこむことを認めない。アリストテレスはミュートス(物語、フィクション)という意味で、出来事(行為の結果)の組み立てすなわち劇の構造とその原理を重要視するのは、合理を排し因果関係を重視するからに他ならない。ソポクレースの「オイディプース王をギリシャ悲劇の代表作とみなしている。彼はソポクレースの「オイディプース王」をギリシャ悲劇の代表とみなしている。オイディプース王が破滅するのは神の働きではなくて、彼自身の過ちの因果応報によることになる。この劇は神の働きが取り除かれ人間だけの悲劇になるのである。オイディプース王の様に不幸になる理由がないと思われる男にさえ、神(偶然)が入り込むわずかな隙間(悲劇的不安定の世界)がある。しかし神(偶然)のような不合理な要素を「劇の外」に置くのでなければ、悲劇は人間の行為を統一的に再現することはできないとアリストテレスは考えるのである。これがアリストテレスの悲劇理論の根幹にある。アリストテレスの文学理論は、悲劇を叙事詩に勝るものとみなした。劇は有りそうなこと、必然的なことを再現するのでなければ成立しないとするならば、神の行為は予測不可能、説明不明であるので、劇の筋を破壊することになる。ホメーロスの叙事詩には神がしばしば登場し人間の行為に介入するが、悲劇では神が直接当事者になることは少なく、舞台上の人間の行為が中心となる。悲劇が人間の行為だけからなるとするならば、歌い踊るコロス(合唱)は行為しているのだろうか。悲劇は合唱抒情詩の音頭取りから始まった。俳優の会話には加わらないし、その韻律も役者のそれとは異なる。アリストテレスはコロス全員に対して、叙情的要素を棄てて俳優の役割を果たすよう要求する。アリストテレスの時代には、コロスの役割は減じ、悲劇は写本を読むだけで味わうことができる文化的状況となった。所謂読者層ができたのである。悲劇の機能を考えると、テキストを読むだけで、コロスの踊りと歌、俳優の所作、舞台装置などを伴う総合技術たる劇の上演を想定することができる。

アリストテレスはホメーロスを褒め称えて、「ホメーロスが偉大なのは、彼が独創的な二大叙事詩を作っただけでなく、劇的再現によって悲劇と喜劇への道を切り開いたからである。すなわちもっとも優れた再現形式としての劇の可能性を最初に発見したからである。」という部分と、文学史的な著述で劇の歴史的成り立ちを「悲劇はコロス合唱抒情詩の音頭取りから始まった。コロス合唱者は俳優の会話には加わらないし、その韻律も役者のそれとは異なる。」といった伝説的な見解をそのまま書いているが、かれの詩作理論・劇理論にも合致しないし、統一的な見解もない。悲劇は完結した一つの全体としての行為の再現であることを要求するアリストテレスの見解にも一致しない。プラトンは、詩は感覚される世界の個々の事物を模倣し再現するものであると考えた。だから感覚世界の模像によって人を喜ばせるものであるから衝動的なものが理知的なものに勝るという誤った結果を生む。とりわけ影響力の大きいホメーロスと悲劇詩人がプラトンのイデーの世界から追放された。一方アリストテレスは、模倣・再現は人間の本性に基づくものであり、悲劇という形において具現化したと考えた。模倣・再現性の最も大きな悲劇をもっとも発達した形、すなわちすぐれた文学作品とみなした。アリストテレスは悲劇がありそうなことと必然的なことの原理に基づく出来事(行為)の組み立てを通じてその目的を達成するならば、神の介入のような不合理な要素は劇の外に置かなければならないとした。アリストテレスがあらゆる学門分野にわたって思索する哲学者として、詩作を考察の対象に取り上げたのは当然である。出来事を生起の順序に従って記述するという形は年代記的・羅列的記述であるが、歴史が人間の行為の再現でないことは言うまでもない。もし歴史がアリストテレスの言う普遍的なことを目指すとするならば、それはもはや個別事件の記述にとどまらず、人間の行為の再現、すなわち詩(文学)に限りなく近づくであろう。普遍的という点では哲学も同じである。本書「詩学」の中心部は、主として筋の構造・組み立てとその機能の考察である。悲劇の構造と機能、変転、転換、認知、逆転を伴う複雑な筋を考察する。(起承転結に相当する)劇の中の出来事は、予期に反して厳密な因果関係によって場合最も大きな効果を上げる。すなわち驚きが生まれ、憐れみと恐れの感情を引き起こす。よって筋の展開が最も重視される。筋と悲劇は同一視される。「詩学」は神・運命などの、ギリシャ文学の伝統的要素を捨象することによって、文学理論としての普遍性を獲得したのである。

(つづく)

大木毅著 「独ソ戦争―絶滅戦争の惨禍」

2021年08月27日 | 書評
真岡市 井頭公園

大木毅著 「独ソ戦争―絶滅戦争の惨禍」 

岩波新書(1940年11月初版)


第4章 ソ連の反攻 (4-3)
司令官パウルス元帥は第6軍を数グループに分け強行突破を図る許可を総統大本営に求めたが、ヒトラーはこれを握り潰した。1943年1月30日司令官パウルスはソ連軍に降伏した。2月2日要塞の軍も投降した。スターリングラードで包囲されたドイツ軍と枢軸軍の兵力は20万人を超えると推測される。捕虜になったドイツ軍将兵の数9万人のうち、故国に生きて帰れたのは約6000人であった。ドイツ軍はソ連を打倒する能力を永遠に失ったといえる。
ソ連赤軍大本営はウクライナを奪回するため、1月20日「疾走」と「星」作戦を承認した。「疾走」は南西正面軍によって実施されドニエプル川の渡河点を奪取することが目的である。南正面軍が支援にあたりロストフ・ナ・ドヌーを解放することである。「星」作戦はヴォロニェシ正面軍が担当し、ウクライナの重要都市ハリコフを目指して攻勢を行うものである。この作戦のソ連軍の軍備はドイツ軍を圧倒し、歩兵で二対一、戦車で四対一であったという。この攻勢を受けとめるドイツ軍ドン軍司令官マンシュタインは、一旦ドン川からドニエプル川まで撤退し、ドイツ軍をかき集めてソ連軍の側面を攻撃する腹積もりであった。それの結果によってはソ連軍に大反攻をかけることができると信じていた。ドイツ軍の東部戦線南翼は壊滅寸前の状態になった。「星」作戦のヴォロニェシ正面軍は急進して2月8日にはクルクスを奪回した。さらにハリコフ解放にかかり2月16日にハリコフ市を占領した。南西正面軍もドニエッツ川北部を突破しアゾフ海に迫った。ドイツ軍ドン軍集団とA軍集団の退路を断った。

図9 「疾風」「星」「マンシュタイン」の戦い(1943年1月―3月 ウクライナ攻勢)

猛攻を続けるソ連軍はすでに伸び切った状態にあり、マンシュタインの「後手からの一撃」作戦に気が付いていなかった。ドニエプル川沿いに退却しながらドイツ軍が終結しつつあるのを見て、退却のための動きだとした。1943年2月20日南方軍集団は反攻を開始した。ヴォロニェシ正面軍を攻撃し撃破した。予想外の事態にソ連軍はドニエッツ川に退却し防御態勢となった。3月14日ハリコフは再びドイツ軍の手に落ちた。ドイツ軍は青号作戦開始時の地域を回復した。そして3月の「泥濘期」は訪れ両軍は作戦を中止した。クルクスだけはソ連軍が支配していたので、ドイツ軍の攻撃対象として残った。1943年初夏期の作戦準備に専念した。ドイツ軍がクルクスを奪取して「城塞」化する作戦を計画し、ソ連軍は強力な縦深陣地を築きドイツ軍の攻撃を阻止する準備を行ったとされる。いずれの憶測にせよ、スターリングラードの敗戦以来、ドイツが戦略的守勢に立たされたことを、ヒトラー、陸軍首脳、国防軍首脳は認識したと思われる。戦力が減衰した1943年のドイツ軍にはもはや戦略的攻勢は不可能であると認識した。残された道は小規模の地域での戦術的攻勢のみであるとマンシュタインは考え、クルクス周辺のソ連軍戦線突出部はその絶好の標的であった。マンシュタインのクルクス挟撃論はツアイツラ―陸軍参謀長の賛意を得て、4月15日に作戦命令が下達された。この命令書には「敵軍需物質、戦争遂行のために必要な捕虜、民間人労働者を捕獲すること」と、対ソ戦の略奪(収奪)戦争の性格を規定している。一方ソ連側でもクルクス突出部戦線にドイツ軍が攻撃してくることは想定済みであった。スターリンは軍の意見を取り入れ攻勢よりも防御を優先すべきことに同意した。ドイツ軍の攻勢に備えてクルクス突出部に戦略的防御陣を敷いた。東側には縦深防御帯が築かれた。こうして戦術的にもソ連軍の準備は万全であった。野戦築城と地雷、大砲網が張り巡らされ陣地を固めた。 軍体制も増強し、ヴォロニェシ正面軍の背後に戦略予備ステップ正面軍が新設された。赤軍は東部戦線におけるドイツ軍撃破という戦略目標のため、クルクス方面に敵主力を誘引・拘束する、次にオリョールで中央軍を撃破する戦い、クルクス南部からハリコフを目指す戦いを組んだ。
               
図10 クルクス会戦とソ連の攻勢(1943年7月)

ドイツ軍は新型戦車ハンターやティーガーの配備、輸送能力の問題、パルチザン対策といった問題に何度も「城塞」作戦の発動は延期された。1943年7月5日城塞作戦は開始された。ドイツ中央軍集団の中心であった第9軍は北のブリヤンスク正面軍に背を向けながら、南のクルクスを狙う攻撃であった。城塞作戦は発動以前から失敗を運命づけられていた。第9軍の戦果ははかばかしくはなかった。ソ連軍は戦車隊を投入したが、ドイツ軍の新型戦車軍によって撃破された。一進一退を繰り返しながら7月12日ソ連ブリヤンスク正面軍が西正面軍と協力してオリョールを目指して攻勢をかけた。ドイツ中央軍はオリョールが危ないとみて救援に向かった。ドイツ南方軍集団は7月5日にクルクスの南で城塞作戦を開始した。ドイツ装甲車軍は二日間の戦闘で、ソ連軍の第1線、第2戦を突破した。ソ連軍はステップ正面軍を投入し、7月12日ヴォロニェシ正面軍の背後をついた。ソ連軍はみじめな戦術的敗北を喫した。ところが7月13日米英連合軍がシチリアに上陸したという報を受けたヒトラーは「城塞」作戦中止を軍に伝えた。7月17日ソ連軍はドニエッツ方面で連続打撃の支援を発動した。こうして「城塞」作戦は崩れ去った。

(つづく)

大木毅著 「独ソ戦争―絶滅戦争の惨禍」

2021年08月25日 | 書評
渡良瀬遊水地 旧谷中村墓地

大木毅著 「独ソ戦争―絶滅戦争の惨禍」 

岩波新書(1940年11月初版)

第4章 ソ連の反攻 (4-2)

それは、ドン川沿いの戦線に枢軸側のイタリア、ハンガリー、ルーマニア派遣軍を当てたことである。これら3か国の軍隊はドイツ軍より装備や熟達度においてソ連軍に対抗できるような状態になかった。ソ連軍の反攻の突破口になったのである。スターリンはドイツの攻勢を吸収してから反攻に出る戦略的防衛を基本方針としたが、ドイツ軍の目的はモスクワにあると思い込んで、ソ連軍の総守備であるジューコフ元帥をモスクワ地区に置いたことは前哨戦の手痛い失敗であった。ソ連軍はハリコフ攻勢に出たがドイツ軍の反撃により撃退され、クリミア半島も打撃を受けた。6月2日勢いをつけたドイツ軍はセヴァトリス要塞を攻略し、7月1日要塞は陥落した。しかしソ連軍の攻勢に驚いたヒトラーは攻勢発動日を6月1日から28日に延期した。6月17日ドイツ軍将校を乗せた航空機が撃墜されソ連側後方に落ちた。そこから青号作戦の機密情報がソ連軍に察知された。それでもドイツ軍は6月28日ハリコフの奇襲攻撃を遂行した。ハリコフで経験の浅いソ連の大規模機動戦車隊は各個撃破された。7月10日になってスターリンは南方の部隊の撤退を開始した。ドン川東側に軍を配置しスターリングラードに向けたドイツの東進部隊の防御に充てた。ドイツ軍は東、南の2面に分離して南方軍集団の指揮系統を改めた。A軍集団はコーカサス、B軍集団はドン川とヴォルガ川の間を制圧することに変更した。ドイツ軍の華々しい攻勢にもかかわらず、青号作戦で捕まえたソ連軍捕虜の数は5万人程度に過ぎなかった。それは前回の大包囲撃滅戦の経験からソ連軍は現在地死守という作戦は取らなくなったためである。

表面的な勝利に酔ったヒトラーは7月23日総統指令第45号を発した、「東部戦線南翼における諸目標は達成された。南進A軍集団はコーカサス作戦(エーデルワイス作戦)にあたりバクー油田を占領する。東進B軍集団はスターリングラードを占領し、ドン川とヴォルガ川の水上運輸を遮断する」という目標が与えられた。スターリングラードとコーカサスの同時攻略の2面作戦となった。スターリングラードは制圧ではなく占領する目標に格上げされた。7月26日A軍集団はコーカサス作戦を遂行し1週間で240Kmも東進した。しかし8月になるとA軍集団の足が止まった。補給の困難とソ連軍の立て直しのためである。ベルリンからドン川まで2500Kmも離れて鉄道・空輸能力を超えた。8月9日マイコープ油田の占領に成功したが、ソ連軍は撤去前に油田施設を破壊しつくしたので、ドイツ軍は油を採掘することはできなかった。こうしてエーデルワイス作戦は効果が薄れ、1942年9月9日ヒトラーは軍首脳部の更迭を行った。A軍集団司令官、陸軍参謀本部長らをナチス派の将校に変えた。ヒトラーはいよいよ陸軍首脳部に対する統制を強めた。一方スターリングラードを目指す青号作戦も停滞期を迎えた。東進するパウルス司令官が指揮するB軍集団第6軍は8月23日補給を待ってようやく作戦は再開された。ドイツ軍の主力が南部のコーカサス油田地域に向いていたことを察知したソ連軍は1歩もスターリングラードから引かなかった。ヴォルガ川を背水の陣とするスターリングラード守備隊とドイツ軍との市街戦(白兵戦)が展開された。双方の消耗戦となった。ドイツ軍は空軍の支援を得てスターリングラードへの大規模空襲を行った。瓦礫の山となった市街で「ねずみの戦争」と呼ばれる白兵戦が行われた。(パリの地下水道パルチザン戦を思わせる) 9月末にはドイツ軍はスターリングラード市街地の80%を占領した。10月6日ヒトラーは軍略上無意味に近いスターリングラードの完全占領を命じた。ヒトラーにとってスターリングの名を冠するスターリングラードはボリシェヴィキの象徴と映ったのであろう、収奪戦争の極致の色合いを増していた。ソ連守備隊長チュイコフは9月14日から10月26日まで二個戦車隊の補給を受けた。ドイツ軍の打撃力は尽き始め、ロシアの冬が忍び寄ってきた。ドイツ軍の最も脆弱な翼であるイタリア、ルーマニア、ハンガリー枢軸軍を狙って、11月19日26万の兵と戦車1000両、大砲17000門をもって、ソ連軍三個正面軍が反攻を開始した。目標はスターリングラードに迫るドイツ軍第6軍の包囲殲滅である。

ドイツ第6軍を左右を守っていたルーマニア軍はソ連戦車部隊によって撃破され、11月22日には第6軍の背後カラチ・ナ・ドヌ―において集結し、ヴォルガ川東岸にいるアウターリングラード正面軍と手を結びドイツ第6軍の包囲を完了した。ソ連軍の反攻作戦「天王星」は第1段階の目的を達した。これはソ連の作戦術に基づく戦略的反攻の一環であった。戦争に勝つための戦略と、戦闘に勝つための戦術の間に重要な作戦という段階がある。ソ連の作戦術理論はトリアンダフィーロフが構築した「連続縦深打撃理論」に導かれている。トハチェフスキー元帥は空軍、戦車、機械化部隊、空挺部隊という新しい軍備は連続縦深打撃を可能にし、世界初の機械化旅団を編成した。ソ連軍は一時粛清の嵐で作戦将校の多くを失ったが、大祖国戦争においてこの作戦理論が復活した。スターリングラードのドイツ軍殲滅を企画する「天王星」作戦、ロフトフ・ドヌー市を占領し、ドイツのA軍集団とB軍集団の後方を遮断し壊滅させる「土星」作戦、もう一つはドイツ中央軍集団の戦線突出部を攻撃する「火星」作戦からなる。火星作戦の後ドイツ中央軍を壊滅させる「木星」作戦(海王星作戦)も発動された。1942年末から1943年春までのソ連冬季攻勢はいくつもの作戦を組み合わせていた。

図7 ソ連軍冬季大攻勢(1942年末―1943年春)

作戦・戦術に秀でたドイツ陸軍であったが、こういった一連の軍略思考法はドイツ軍にはついにできなかった。スターリングラードの第6軍に危機が迫っていることはヒトラーも感じており、11月20日レニンラード攻略に当たったマンシュタイン元帥を、スターリングラード救出のため派遣することになった。空輸補給でその戦力維持をはかり、パウルス司令官に現地死守の命令を発した。11月22日マンシュタインは新編のドン軍集団の司令官に任じた。マンシュタインは「冬の雷雨」と呼ぶ第6軍救援作戦を計画し12月12日作戦は開始された。ソ連軍は土星作戦よりレニングラード包囲戦を優先した。12月19日マンシュタインの第6装甲師団が包囲されたスターリングラードの部隊まで約50Kmに接近した。スターリングラードの第6軍は動けなかったため、結局救援部隊もソ連軍によって押し戻された。包囲された第6軍は消耗の域に達した。中央軍集団の地区では1942年11月から1943年1月の戦いでソ連軍に抵抗していたが、南部ロシアとコーカサスの諸部隊は無数の地点で寸断された。ヒトラーは1942年12月29日、A軍集団の一部を撤収させることに同意した。1943年1月9日ソ連軍はドイツ第6軍司令官パウルスに降伏を勧告した。降伏勧告を拒否したため、ソ連軍は第6軍撃滅を狙った「輪」作戦を遂行した。

(つづく)







大木毅著 「独ソ戦争―絶滅戦争の惨禍」

2021年08月24日 | 書評
渡良瀬遊水池 旧谷中村への道

大木毅著 「独ソ戦争―絶滅戦争の惨禍」 

岩波新書(1940年11月初版)

第4章 ソ連の反攻 (4-1)

バルバロッサ作戦の初期の失敗から、ヒトラーと国防軍の短期決戦構想は挫折し、独ソ戦が長期化するkとは決定的になった。軍事的合理性に基づく「通常戦争」の側面は退き、「世界観戦争」と「収奪戦争」といった戦争様態の色彩が強まった。まず「世界観戦争」の基底にあったヒトラーのイデオロギーに焦点を当てた英国のトレヴァー・ローパーは、ヒトラーは1923年から1945年まで対ソ戦の遂行とゲルマン民族による植民地帝国の建設を一貫して主張してきたと述べた。西ドイツのヒルグルーバーは「ヒトラーの戦略」において、ヨーロッパ多陸においてソ連を征服し、東方植民地帝国を建設し、ナチズムのイデオロギーにもとづく欧州の人種的再編成を行うことを第1段階として、東方植民地帝国を築いて自立できる資源を築き第2段階の海外進出に乗り出す。アメリカと英国との戦争になる。これがヒトラーの「プログラム論」である。ドイツの支配層である経済・財界は1929年以来の恐慌以来、列強のブロック経済化による海外市場の縮小に悲鳴をあげていたので、ヒトラーの広域経済圏(日本では大東亜共栄圏構想)は歓迎された。さらにヒトラーの人種主義はドイツ社会の格差と分裂の現状をごまかすため、ゲルマン民族以外のユダヤ人を劣等民族と決めつけ、社会の福祉の負担となる障害者や反社会分子を虐める構造はドイツ国民の感情をなだめる効果があった。社会的な不満を発散させるため弱い者いじめの構造は、大衆の不満がドイツの支配者に向かわないための装置であった。ドイツ社会の分裂を回避するためヒトラーの人種主義とヒトラーの広域経済圏構想は理念(妄想)であるからこそ「イデオロギーメタファー」となりえた。戦後のヒトラー狂人説とプログラム論はいまなお論争中であるが、両者を止揚した方向が真なのかもしれない。1933年に権力を握ったヒトラーは最初大規模な財政出動によって「大砲もバターも」狙った不況脱出策を図った。内政策と戦争準備策の両方は、国内政治に緊張をもたらし財政のひっ迫を招いた。持たざる国であるドイツは1936年には資源備蓄と外貨準備高はほとんど底を打つ状態となった。再軍備は産業界に好景気をもたらしたが、工業界は逆に深刻な労働力不足が生じた。1938年の労働統計によると約100万人の労働者不足となり、「四か年計画」の実行は危ぶまれた。ドイツの海外占領政策は、資源や工業製品の徴発、労働力の強制動員に傾いた。

このようにドイツの戦争は対ソ戦に至る前から次の3つの様相を帯びるようになった。①資源収奪戦争、②ユダヤ人・東欧人への人種戦争、③反ソ・イデオロギー世界観戦争。ナチスが敵とみなした者への「絶滅戦争」が全面的に展開された。いわば国防軍統帥部が遂行する「通常戦争」、「収奪戦争」に併せてヒトラー指令による「絶滅戦争」の3つの戦争の性格が重なっていた。対ソ短期決戦の挫折と戦局の悪化に伴い「収奪戦争」と「絶滅戦争」の色合いが強くなり、軍事的合理性の働かない狂気の戦争となったのである。東方植民地帝国の建設とは軍部、官僚、外交官による政策立案が必要となる。(満州国の建設と同じ)中核となるのはチェコ、ポーランド、フランス領を併合した「大ドイツ帝国」である。このドイツを支える植民がロシア西部において、北部「オストランド」、南部「ウクライナ」、中央部「モスクワ」、「コーカサス」の4つの国家弁務官区であった。ナチ親衛隊SS警察長官ヒムラーは東方ゲルマン化構想を練った。1939年の第2次世界大戦開始に伴った連合軍の封鎖を受け、食料資源をソ連に頼らざるを得なかった。950万人の国防軍を養うことも難しかった。国防軍も戦争遂行上必要な資源をソ連から収奪する計画を立案した。ウクライナ油田の獲得が大目的であったが、「飢餓計画」の作成にも関与した。1942年から1943年にかけてソ連から奪った食料品総量は350万トンから878万トンに上がった。飢餓に追いやられたのはソ連の居住民であった。280万人の居住民が強制労働にドイツへ送り込まれた。占領区の住民を飢えさせただけでなく、戦争合理性をはるかに逸脱した無意味な虐殺行為が繰り返された。その実行部隊は国家公安長官ハインドリッヒが指揮する「出動部隊」であった。敵地に侵入した国防軍に後続してナチス体制にとって危険人物を殺害排除することを目的とした。対ソ戦ではクリミヤ半島の第11軍に配属され、600-900名が占領地に送り込まれた。占領地でユダヤ人などの虐殺を実行した。これには国防軍の協力は必須でヒトラー指令には「相当の委任に基づき、親衛隊指導者ヒムラーが政務行政の特別任務を帯びる」と述べられている。1941年9月のキエフ郊外バビ・ヤールの虐殺を始め推定約90万人が銃殺他の刑に処せられたという。

絶滅戦争の犠牲者は民間人の反抗運動に立ちあがった人びとだけでなく、ソ連軍の各部隊に派遣された「政治委員」(政治将校)も殺害の対象となった。1941年3月30日ヒトラーは「対ソ戦において政治委員は捕虜に取らず殺害する」との方針を出した。これを「コミッサール指令」と呼ぶ。この指令は6月6日に三軍の総司令官に通達された。指令は1941年秋にはユダヤ系ソ連軍捕虜にも適用された。ユダヤ人兵士は約5万人が殺され、捕虜となった政治委員は1万人が殺害された。この指令はソ連軍の抵抗を一層強固なものに変え、ドイツ軍を悩ませた。手甲の強さに根をあげたドイツ軍指揮官はこの指令の撤回を求め、1942年5月に停止された。ヒトラーはソ連軍捕虜兵士には西側諸国の捕虜とは全く違う過酷な扱いを受け死に追いやられたものが多い。それはヒトラーの世界観に基づくもので、ソ連人は永久に友人扱いをしないと言った。570万人のソ連軍捕虜のうち300万人が死亡した。戦争におけるのとは別に、ナチ政権は成立当初からユダヤ人の国外排除を進めた。裕福なユダヤ人はドイツを去ったが、最後までドイツにとどまったのは最貧層のユダヤ人であった。ナチスはユダヤ人をポーランド、マダガスカル、ロシアに移住させる政策が破綻し、1941年7月31日ゲーリングは、「ユダヤ人問題の最終的解決」に当たっての全権をハイドリッヒに授けた。9月ハイドリッヒはナチ親衛隊大将に任命された。独ソ開戦後に組織的な殺戮方法を、射殺から毒ガスへと効率化が図られ、9月アウシュヴィッツ捕虜収容所でソ連軍捕虜600人のガス殺が試行された。12月にはポーランドに絶滅収容所が設置された。1941年9月ドイツ北方軍集団はレニングラードの占領ではなく、レニングラードへの連絡路を遮断し消滅作戦を取った。市民の飢餓死亡者は10月に2500人、11月には5500人、12月には1万人と増加した。900日に及ぶ包囲作戦の結果100万人以上が犠牲になった。スターリンとソヴィエト政府は独ソ戦を「大祖国戦争」と定めて、ナショナリズムと共産主義体制を融合させた。ソ連軍の国民動員は祖国愛というナショナリズムで正当化された。ファッシスト抑圧者に対する祖国国民戦線すなわちパルチザンが組織された。1941年秋以降有力なパルチザン部隊がドイツ軍後方を脅かし、1942年春にはモスクワの「中央参謀部」の統一指揮を受ける大戦闘組織に生まれ変わった。ソ連のパルチザンは、ドイツ軍前線の戦闘部隊の制圧作戦が必要なほどに強力となった。

(つづく)