ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

後醍醐天皇

2020年09月30日 | 書評
金木犀

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期

2)  松村剛 著 「帝王後醍醐」 (中公文庫 1981年)(その7)

5) 湊川の戦いから吉野行幸 南北朝時代の戦い (その2)

1337年1月北陸の新田軍に対して小笠原、村上に追討を命じ、高師直を総指揮官として派遣した。3月6日金崎城が落城し、尊良親王と世尊寺行房は自害し、恒良親王は捕縛され京に護送されて殺された。後醍醐帝系の阿野廉子が生んだ皇子は奥州にいる義良親王を除いて皆殺しにされた。奥州の北畠顕家に西上を命じる帝の勅使が12月25日に出発した。吉野南朝にはせ参じた公卿には、近衛経忠、吉田定房、二条師基、坊門清忠らであった。後醍醐帝系の公卿に対する粛清が勢いを増したのでいたたまれなくなった公卿らが吉野へ逃れた。北畠顕家の軍は8月にようやく奥州を発ち4ヶ月かかって利根川に達し12月14日には鎌倉を攻撃して斯波家長を戦死させ一時鎌倉を占領した。翌1338年1月に新田義興の兵を合わせて美濃で高師冬軍を破ったが、背後から今川範国に攻撃されて敗れた。顕家は伊勢に進路を変え吉野へ向かったが、奈良で高師直軍に敗れた。顕家は京への進出を諦めず、河内に出て5月22日和泉堺で討ち死にした。名和義高も戦死している。7月2日福井藤島庄の燈明寺畷で新田義貞はあっけなく戦死した。これを最後に南朝の組織だった反攻は後を絶つのである。8月11日をもって尊氏は北朝から正式に征夷大将軍に任じられた。おなじ8月南朝では義良親王を天皇に禅譲し、翌日帝は崩御した。52歳であった。1347年8月楠木正行が挙兵した。南朝のイデオローグ北畠親房が常陸の小田城、関城で結城親朝の決起を要請したが、結城は動かず関城は落城した。そして親房は各地を転転として伊勢に流れ吉野に入ったようだ。伊勢では北畠顕能の活動が活発化してきた。南朝のゲリラ戦が各地で活発化する。1349年1月楠木正行は四条畷の戦いで戦死し、2月始め高師直軍は吉野を攻撃して行宮を焼き払った。とはいうものの足利幕府の中で内紛が激化し、1352年2月直義と高一族の対立によって高一族は湊川で滅亡した。尊氏は嫡子義詮に命じて直義を攻めた。この内紛につけ込んで1352年から1361年の間に南朝は4回(1352,1353,1355,1361年)京都に攻め込んだことがある。北畠親房は1355年に62歳で死亡し、足利尊氏は1359年に54歳で死亡した。1360年帝の寵妃の阿野廉子は死亡した。なぜか1392年まで南朝は存在していたようだ。

(終わり)


後醍醐天皇

2020年09月29日 | 書評
夕焼け

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期

2)  松村剛 著 「帝王後醍醐」 (中公文庫 1981年)(その6)

5) 湊川の戦いから吉野行幸 南北朝時代の戦い (その1)

建武の中興は天皇親政の建前から公卿を多数国司に任命し、在来の地頭武家の勢力と対立した。新田はとても武家の立場を代弁できる立場ではなかった。現実には中興の政治といっても、鎌倉以来の武家政治と摂関政治の折衷的なもので、矛盾ばかりが吹き出す始末であった。いつ崩壊してもおかしくは無い政治状況であったので、楠木正成は後醍醐帝を守るにはむしろ尊氏との妥協を図る公武合体論を主張した。建武3年(1336年)2月15日、持明院統の光厳上皇よりの使者日野賢俊が義貞追討の院宣を持って尊氏の陣営に到着した。新田義貞は播磨まで進んだが京に引き返した。このへんの詰めの甘さが新田の命取りとなるのである。2月20日尊氏は下関に着いて、小弐頼尚の出迎えを受けた。尊氏がはるばる九州まで落ち延びたのは、小弐、大友、島津の援助を期待したからである。大宰府の権師および大弐は京にいた名前だけの不在官吏であったので、小弐一族が実権を握っていた。尊氏は博多に上陸して菊池武敏と阿蘇大宮司惟直の軍を3月2日多多良浜で破った。3月20日新田義貞は西へ向かい、3月30日白旗城に籠る赤松一族を攻撃した。義貞は包囲戦に手間取り、一隊を福山に向けた。尊氏は4月11日門司→5月1日厳島→5月5日尾道→5月10日福山鞆浦に到着した。海陸両面で東上する尊氏軍に対して、義貞軍は5月18日福山を撤兵して援軍を待った。水軍の上陸地は兵庫と予測されるので、楠木正成が正面軍として兵庫へ進んだ。正成には正面衝突の騎馬戦に勝算は全くなく、死に地を求めた観が強い。正成は戦略上の退却と京の明け渡をし主張し、帝は再度比叡山に御幸し、正成軍は河内に籠って京の背後を突く戦術であったが、朝議はこの策を一蹴した。こうして帝が墓穴を掘ったのである。湊川の戦いは楠木正成にとって義のための戦いとなり、正成と正行の桜井の別れは涙を誘うのである。尊氏の水軍は須磨に、陸上軍は塩屋に構え(平家の須磨の戦いと義経の鵯越の再現である)5月25日湊川の戦いが火蓋を切って落とした。6時間の白兵戦で正成軍は全滅した。5月27日帝は比叡山へ逃げ、29日足利直義が京に入った。6月5日から叡山へ総攻撃が開始され、6月20日まで攻撃が行われたが、尊氏軍の損傷が大きく直義は全軍を撤収し三条口に司令部を移した。叡山では千種忠顕が戦死している。6月30日叡山を下りた新田軍と名和軍は京へ入り東寺八条口で挟撃され名和長年は討ち取られ、義貞は虎口を辛うじて脱した。叡山を封じ込め疲弊させるには琵琶湖の水路を断つことであるので、尊氏は小笠原貞宗に近江路を攻撃させ、近江在住の佐々木高氏と協力し琵琶湖東岸を押さえた。高師泰は山崎から摂津をおさえて尊氏軍の兵糧を確保した。8月15日尊氏は光厳上皇の奏請して豊仁親王の践祚に踏み切った。北朝第1代天皇光明院の出現である。8月22日より叡山より新田義貞は全面攻勢に出たが失敗して、帝側の最後の攻撃となった。叡山で帝らが冬を越せるわけはなく、10月10日和議が成立して後醍醐帝は京に降りた。尊氏は帝に退位と光明院への神器の授与、後醍醐帝の皇太子の東宮と両皇統迭立の復活、帝の廷臣の身分保証を提案した。新田義貞は承服できず恒良親王と尊良親王を守って叡山を脱出し敦賀へ向かった。洞院実世、世尊寺行房が同行した。11月2日帝から神器が返され、帝には上皇の尊号が贈られ、成良親王が皇太子になった。11月7日尊氏は幕府を室町に開き「建武式目17条」を制定した。新上皇は花山院に幽閉し12月10日光明院は室町御所に入った。12月21日伊勢にいた北畠親房が画作して後醍醐帝を吉野に脱出させた。こうして北陸にいた恒良親王を南朝第1代天皇とする南北朝時代が1337年から1392年までの55年間続くのである。

(つづく)



後醍醐天皇

2020年09月28日 | 書評
稲 穂

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期

2)  松村剛 著 「帝王後醍醐」 (中公文庫 1981年)(その5)

4) 建武の中興から足利尊氏の反乱

帝が京を追われてから約1年2ヶ月ぶりに京への道に着いた。5月18日船上山を出御され、足利の押さえている山陰道を取らずに南下し、5月30日に大塔宮系の赤松円心の支配する赤穂に到着し、赤松と正成の護衛で6月4日京都の東寺、そして5日に内裏に入られた。信義山を攻めている大塔宮のシナリオでは天皇親政とするならば、楠木、名和の軍を引きいて直ちに尊氏を追い出すべきであったのだが、宮の足利討滅計画は帝は採用しなかった。新田義貞の挙兵は5月8日で、鎌倉幕府の滅亡は22日となった。九州探題が滅亡したのは5月25日である。帝は大塔宮を征夷大将軍に任じたので、6月13日大塔宮は入京した。建武の中興は帝と尊氏との騙しあいの政治の場となった。建武中興の人事はいわゆる「位打ち」と称するいつもの武家に対する懐柔策であった。尊氏、正成が従三位に特進した。尊氏にとって位よりも、北条家の所領を弟の直義とともに二分して獲得したことの方が重要であった。尊氏は従来の上総、三河に加えて新しく常陸、下総、武蔵の国司職を得、直義は相模の国司職を得た。一族の上杉重能は伊豆の国司職を得た。九州まで恩賞が議論されないうちに菊池を抑えて、尊氏はすばやく九州の小弐、大友、島津の諸侯に守護識をもって答えた。乱後の武家への恩賞は護良親王と尊氏派の草狩場となったようだ。新田義貞は最初から無位無官であったので、名門の守護識に割って入ることは難しいようで越後の守護識と官位従四位を得たにすぎず、足利派と新田派の対立は鎌倉幕府崩壊後の直後から起った。帝は新たに設けた武者所に新田派を多用し、足利との分割統治に適用したようだ。そして帝は足利への牽制策として東北の経営に乗り出し奥州鎮守府を設置し大守に義良親王を任じ、出羽に寵臣葉室光顕を、陸奥守に北畠顕家を任じた。この二人の寵臣に尊氏の本貫地の背後を脅かそうという策である。公卿も武をかねて藩屏たるべしという政策によって千種忠顕を丹波に、洞院公賢を若狭に、成良親王を上野の太守に任じた。阿野廉子の長男の恒良親王を皇太子とした。成良親王(後征夷大将軍)の補佐は相模国守の足利直義であり、鎌倉府を設置した。

後醍醐帝は復位し、持明院統の光厳院には上皇の尊号が贈られ、その父後伏見院は出家した。新朝廷のなかでも分裂があった。建武の中興の朝廷人事でときめいたのは、隠岐・船上山派であった。千種忠顕、名和一族、結城親光、皇妃阿野廉子らの勢力である。名和一族への恩賞は楠木一族をしのいだのは、楠木は大塔宮の吉野派と見られていたからであろう。冷や飯を食らったのが吉野派である。高間氏、村上水軍の大三島祝、赤松氏らは碌な恩賞を得ていないばかりか、赤松氏は新田氏に所領を奪われている。吉野派の正規軍といえば楠木氏と赤松氏の軍だったので、赤松氏の没落は大塔宮の翼をもぎるようなものだった。帝の寵妃阿野廉子の第1皇子恒良親王が皇太子となったため、年長の親王5人(尊良、宗良、護良、玄円、躬良)の立場は一挙に不安定となった。建武の中興は僅か二年半でその間も戦乱は絶えなかった。建武元年1334年だけでも北条の残党が起こした乱は2ヶ月に一度ぐらいで頻発し、紀州飯盛山の大仏・長崎らの北条残党の乱やなかでも1335年7月の北条時行の中先代の乱では一時鎌倉が占領された。そして朝廷では恩賞方と雑訴決断所を設けて戦後処理を行なったが混乱を極めたという。建武朝廷の無能ぶりと社会の混乱は二条河原の落首にも書き残されている。諸国荘園の検注の2年間停止や公卿らの借金の徳政令は混乱に拍車をかけたといわれる。1334年10月突然クーデタ未遂事件が起きる。足利尊氏が阿野廉子に大塔宮謀反を讒訴したのである。大塔宮は逮捕され鎌倉に流罪となり、親王の直臣である日野浄俊らは斬られた。足利直義の手に大塔宮が渡されたと言うことは、これはいかに帝が大塔宮に冷淡であったということでそれが大塔宮の悲劇となった。1335年7月の中先代の乱で北条時行が鎌倉を攻めたとき、直義はまず手足纏となる大塔宮を刺殺した。8月上野太守であった成良親王を征夷大将軍とし直義が占領された鎌倉を攻めて奪い返した。尊氏はこの功で従2位と昇進し、勝ってに斯波家長を奥州管領に任命した。これは北畠顕家の奥州鎮守府に対抗させるためであった。建武2年10月15日に尊氏は鎌倉に下り実質的に幕府を創設し、地頭職や荘園を与えた。鎌倉幕府の再興であり、天皇親政の建武朝廷への反逆となった。源頼朝の義仲・義経追討宣旨と同じ手法で、11月18日尊氏は朝廷に新田義貞追討の奏請をおこなった。朝廷は驚愕し翌日、尊良親王を上将軍とし新田義貞を総師とする足利征伐を発進させた。上将軍尊良親王と二条為冬が東海道を下り、洞院実世を将軍とする第2軍が東山道を下った。尊氏謀反によって朝廷内の政治力学に影がさしてきた。反護良派としての隠岐派は立場に窮し、吉野派の楠木らが復権してきた。新田軍は12月始め手越河原で直義軍を破ったが追撃しなかった。尊氏は小山、結城の諸将を率いて箱根越えで三島を奪回して、大友軍の裏切りで官軍を崩壊させた。新田は逃げ帰って、楠木と名和の軍が宇治瀬田の守りについた。尊氏のほうも東山道を引き返す洞院実世軍と南下する奥州の北畠顕家の軍を背にして、一気に宇治瀬田を打開しなければならなかった。瀬田の守りは名和、千種、結城の軍で、宇治の守りは楠木正成であったが、尊氏の京都攻略は建武3年(1336年)1月1日より開始された。尊氏は宇治突破を諦め山崎へ迂回して京に入った。京都の占領は足利軍の威信を高め、軍事支配者としての名を確実なものにした。北畠顕家と洞院実世が比叡山に到着したのが13日となって、後醍醐派の京都攻撃は16日に開始された。尊氏は大敗し丹波篠山に引いた。1月30日帝らは叡山から降りて内裏に還御された。2月10日に西宮の打出浜で再び破れた尊氏は船で九州へ脱出し、こうして建武の中興は分裂し終わりを告げたのである。

(つづく)


後醍醐天皇

2020年09月27日 | 書評
利根川(坂東太郎)香取・潮来付近

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期

2)  松村剛 著 「帝王後醍醐」 (中公文庫 1981年)(その4)

3) 護良親王の活躍と六波羅滅亡

楠木正成は金剛山の麓を要塞化するのに懸命で、かつ食糧を貯えるため秋をすぎるまでは出ることは出来なかった。そして1332年11月、元弘の変より1年以上たって正成は再挙兵した。鎌倉は再度大兵を動かすことはせず、畿内の武将に動員令を出した。正成は下赤坂から紀州隅田攻め、藤井寺攻め、紀見峠を往復し、翌元弘3年1333年1月に河内和泉両国で守護の軍を破った。大塔宮は吉野を居城として隠岐と連絡を取りながらゲリラ活動を始めた。1月19日六波羅は取りあえず50騎の小隊で天王寺を攻めたが、正成500騎に攻められて敗北した。宇都宮公綱の関東の精兵が天王寺へ向かったが、すでに正成の兵は撤兵していた。2月初め幕府軍が派遣され、大仏高直軍が大和路をゆき、阿曽時春軍が河内道へ、名越入道軍が紀伊道を攻めた。総勢10万人が向かったと思われる。2月22日上赤坂城攻めでは幕府軍の500人以上が死傷したという(上赤坂戦では幕軍は合計1800人の死傷者をだした)。城郭攻撃という戦法が騎馬軍団に経験がなかったために、幕府軍はいたずらにせめて甚大な損傷を蒙った。正成の砦を守る数々の戦法が工夫され、幾多の武功が伝えられている。城郭が日本に出現するのは戦国時代からであり、豊臣秀吉は封鎖戦術に巧であった話が伝わっている。とはいえ正成の上赤坂城は3月1日に落城した。大和国司興福寺一乗院派の支配を出してから、吉野金峯山は昔から一種独立王国の様であった。吉野は蔵王堂を中心として天台系の本山派と真言系の当山派が混在する修験道のメッカであった。吉水院真遍が実権を握ってからは宮方となり、大塔宮は吉野全山を要塞化した。常時の兵力はせいぜい1500程度であった。幕軍の前に吉野から脱出した大塔宮は高野山に移ったという噂もあるが、全国の武将に宣旨を飛ばした。この時代の戦費は御家人の自前であったので、戦いが長引けば費用がかさみ、宮方の土地をとっても恩賞は期待できるほどでもなく、北条得宗家に対する不満は高まっててきた。逆に宮方について鎌倉を倒した方が広大な北条知行地の恩賞は大きいと計算する御家人も出る始末であった。大塔宮の友軍であった赤松円心という武将は播州で反幕の旗揚げをして、赤穂から摂津、神戸の麻耶山に進出した。水軍や物資輸送の要である神戸の要衝を取った。赤松円心は大塔宮の宣旨だけで行動し、後醍醐帝に拝謁した楠木正成とは立場が異なっていた。建武の中興で赤松を冷遇した後醍醐帝が楠木正成の戦死後有力な武将の援護がなく窮地に陥るは自業自得といえる。このように後醍醐帝勢力の内部には隠岐派と吉野派という派閥が形成された。隠岐派はいうまでもなく千種忠興、阿野康子、名和長年らの寵臣をさす。吉野派とは大塔宮を中心とし楠木正成、赤松円心、四条隆資らをさす。後醍醐帝が隠岐を脱出したのは閏2月24日であった。後醍醐帝は出雲の守護の一族富士名三郎、隠岐の守護の一族佐々木塩治の案内で隠岐を脱出した。鳥取県の伯耆の名和海岸に上陸し名和長年に迎えられ、船上山に入った。1284年の北条家の家騒動「霜月騒動」以来鎌倉を快く思わない名和氏は、後醍醐帝を戴いて鎌倉打倒に向かった。翌日隠岐の守護佐々木清高は60騎で立て籠もる船上山を攻撃したが成功しなかった。3日後赤松円心は山崎から京都に入り六波羅を攻撃した。六波羅攻撃に驚愕した幕府は4月中旬再度遠征軍を編成し、足利尊氏らも遠征軍に加わり京に向かった。下野足利を本貫地とする足利家は4代にわたって北条家と婚姻関係を結び、北条氏一門に準じる武家の名門であった。幕軍の将軍は金沢、江馬、名越と北条家の一族が占めるが、足利尊氏は例外的に司令官職についた。新田家は足利家の分家であったが、代を重ねるにつれ格が下がりむしろ地方の悪党にすぎなかった。北条の幕府に足利尊氏が反旗を翻すに至った事実は全く重みが異なる。尊氏は北条守時の娘赤橋登子を妻にしている。北条と同じ重みを持っているため、北条幕府は滅んでも足利幕府が生まれるの為御家人には抵抗が少ない。旗頭が交替したに過ぎないからである。1333年2月から3月にかけて幕府の3つの探題が攻撃された。菊池武時が鎮西探題北条英時を攻め、村上水軍は長門周防探題北条時直を攻撃し、赤松円心が六波羅探題を攻めた。3月17日帝は千種を上将とし名和高重、源盛房を指揮官として東進を開始した。4月8日には千種忠顕の征東軍は京に入ろうとしたが嵯峨で撃退された。大塔宮の宣旨により菊池、阿蘇氏が九州で挙兵したが、鎌倉幕府の有力御家人であった小弐、大友、島津は慎重であった。(この三氏に後ほど尊氏は大いに助けられる運命にあった) 4月16日足利尊氏は京に入り、後伏見院に六波羅で拝謁した。この時点で尊氏は腹心に鎌倉謀反を告げている。幕軍は4月27日、正面の山陽道を名越高家が進み、山陰道を足利尊氏が進んだ。ところが名越は伏見で戦死し全軍は撤退した。尊氏は丹波篠山に陣を張った。5月9日(織田信長を討った明智光秀と同じ行動をとって)尊氏は急遽反転し六波羅を攻めた。5月8日新田義貞が挙兵し鎌倉を襲ったのである。

(つづく)


後醍醐天皇

2020年09月26日 | 書評
花水木の紅葉の初め

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期

2)  松村剛 著 「帝王後醍醐」 (中公文庫 1981年)(その3)

2) 元弘の乱と後醍醐帝隠岐配流

後醍醐帝の妃はその数30人を超え、皇子・皇女は少なくとも32人を数えたという。1320年ごろ後醍醐帝の妃となった右中将阿野公廉の娘廉子は正中の変の年に恒良親王を生み次に成良親王、義良親王を生んだ。遊義門一条との間の第2皇子世良親王が病没すると、目立たない第1皇子尊良親王よりは第3皇子の護良親王の威信が強まり、成良親王を生んだ阿野廉子と大塔宮護良親王の間に微妙な対立が生じ、南北朝の混乱を引き起こした要因となった。後醍醐帝は権謀術数と同じく閨房術数によって人脈を広げ、後醍醐派廷臣を数多く任命し、近侍する謀臣には四条隆資、平成輔、洞院実世、怪僧弘真などがいた。皇子の宗教界への布陣も怠りなかった。約束の皇位10年となる1327年ごろから倒幕計画は具体化してきた。1329年の正中の変では失敗したが、後醍醐帝にはお咎めはなかった。後醍醐帝が密かに御所を脱出し奈良の東大寺に向かったのは、元弘元年(1331年)8月24日のことであった。急ぎの事として洞院公敏、万里小路藤房、四条隆資だけと若干の武士を伴った。ところが東大寺は必ずしも後醍醐派一色ではなく鎌倉派もいたため、入山を拒否されやむなく鷲峯山から笠置山に移動した。翌25日から六波羅の一斉逮捕が行われ万里小路宣房、洞院実世、平成輔、藤原公明らが逮捕された。今回の元弘の乱の作戦本部は北畠具行だった。計画は比叡山の大塔宮護良親王から全国に宣旨を出し蜂起を促すものであったが、すでに吉田定房の密告により4月25日に事は漏れており、弘真、円観、仲円、知教らの僧侶と日野俊基は逮捕されていた。朝廷が改元を布告した8月14日には幕府の後醍後廃帝の意思が決まっていた。六波羅は後醍醐帝が比叡山にいると見て、8月27日在京の兵で3方から延暦寺攻撃を開始した。29日には比叡山は崩壊した。9月5日鎌倉幕府は大仏貞直を大将軍とする「20万人」の兵を発進させた。(実勢は5万くらいか、関東軍を主力とし東北と九州の軍は派遣されなかった) この大軍の派兵が二度の元寇とならんで鎌倉幕府の寿命を蝕んだ。鎌倉から笠置攻めの指令が出たのが9月2日で、その頃には楠木正成は笠置行在所についていた。後醍醐帝側の布陣は、尊良親王と護良親王に四条隆資をつけて正成とともに河内に向かった。宗良親王は笠置山に残った。これは幕府軍が笠置を包囲するだろうから背後から糧道を脅かすためである。大塔宮護良の命で周辺寺院と連携を持ちゲリラ的に幕府軍の背後を襲うという戦略である。それ以外の方法は貧弱な戦力の野武士正成軍には考えられなかった。正成の戦略は関東武士団の騎馬武者の動きを封じる戦術、陣地は必然的に山城になる。金剛山葛城山系に下赤坂砦と千剣破城を建造した。9月20日ごろに関東幕府軍本体が笠置山に集結し包囲戦によって9月28日には笠置は陥落した。後醍醐帝は宗良親王と忠臣ら笠置を脱出したが、9月30日に一行は逮捕され京へ護送された。朝廷では持明院統の公卿が復権し後醍醐帝時代の公卿は一掃された。そのころ楠木正成、護良親王、四条隆資らは河内で挙兵したので、幕府軍の一部を割いて下赤坂城と天王寺に向かった。山腹にあった小さな砦の下赤坂城では大軍を防ぐべくもなく主力が到着後の3日目の10月21日には落城した。 元弘の戦乱の実質的指揮官は大塔宮護良親王であった。戦乱は2ヶ月で終息したが、正成の対応に兵力の1/3を駐屯させて幕府軍主力は撤兵した。大塔宮は吉野に向かったが、吉野の執行は鎌倉側であったので山伏の案内で十津川の奥をさ迷った。元弘の乱による公卿の逮捕者は、藤原師資、万里小路宣房、洞院公敏、三条公明、北畠具行、洞院実世、平成輔ら10名となり、出家2名、四位以下の逮捕者2名であった。後醍醐帝は承久の乱に倣って隠岐へ配流、尊良親王は土佐へ、宗良親王は讃岐へ、恒性親王は越中へ、静尊法親王は但馬へ配流となった。帝に付き従ったのは千種忠顕と世尊寺行房の二人である。後醍醐帝の流刑後、翌年1332年3月22日に光厳院が即位した。6月には日野資朝、日野俊基、北畠具行、平成輔の四名が斬首された。ほかに流罪、軟禁された公卿は8名に及んだ。6月19日には撤兵は完了したが、それと同時に大塔宮の軍が伊勢に進出したのは6月24日であった。

(つづく)