西洋哲学の祖プラトンが説くイデア論の意義 第2回
第1章 「眩暈」 哲学者としての出発 (その1)
「ソクラテスの弁明」で「金や評判・名誉のことばかりに汲々として、恥ずかしくないのか。知と真実のことには、そして魂をできるだけ優れたものにする事には無関心で、心を向けようとはしないのか?」とソクラテスはアテナイ市民に問いかけますが、そのアテナイ市民によってソクラテスは死刑の判決を受けます。なんとソクラテスの2500年前の言葉がそのまま現代人に問いかけているように錯覚を覚えます。今ではこういうことを言っても死刑にはなりませんが、軽く鼻であしらわれて無視されるだけです。ソクラテス亡き後30代のプラトンは師の遺志をついで、哲学者として思想的闘いに入る。ギリシャ文化の伝統に著しい知的側面を加えて、全一的な哲学思想を結実させた。先のソクラテスの言葉に言う「知と真実」とはイデア論という思想へ、「魂をできるだけすぐれたものに」という要請は魂(プシュケー)の動因に発展していった。プラトンの対話集が第1級の資料とすると、アリストテレス以降の教説や学説・情報は2次資料といわれ、相反するものが多く無理に取り入れる必要はないと著者藤沢氏は切り捨てる。「プラトン著作集」とは紀元前4世紀のパピロス紙による巻物から始まり、5世紀からコーデクス皮紙に写し取られ冊子本となり、そして15世紀には活字印刷本となって今日に伝えられてきた希有の著作集である。ローマ時代トラシュロスはプラトン著作集を九つの四部作に纏めた。この36篇が「プラトン著作集」として今日に伝わる。16世紀末のステファヌス版全集が定本となっている。20世紀に入ってプラトンはその「国家論」と政治思想によって注目の的になった。第1次世界大戦後から第2次世界大戦後までプラトンを巡る30年戦争といわれている。プラトンは右翼か左翼か全体主義者かという不毛の政治議論が一時盛んであったことは時代とはいえあまりに皮相なことであった。それよりプラトン哲学の根幹にかかわる問題は、19世紀後半から21世紀前半の科学主義のイデオロギー対決にあったと言える。科学が自然哲学の一分野から独立してから久しい時間がたった。サイエンティストか今や一般的な「知識者」ではなく、「物質世界の研究者」という特定の専門家(科学者)となっている。哲学では、論理実証主義から分析哲学へと続く流派がこの科学主義の担い手となった。マルクス主義もこの科学主義イデオロギーの一形態といえよう。ギリシャ哲学の評価は、デモクリトスの原子論が科学的とされ、プラトン哲学は科学に対して反動的と批判された。英国の論理実証主義哲学者(数学者)バートランド・ラッセルは科学主義に立って、検証できない超感覚的な原理を立てる形而上学的思想とは反対の立場である。しかし第2次世界大戦後1950年以降になると、科学技術主義の行き詰まりとマイナス面(原爆、自然破壊など)の波及効果が顕在化した。こうして科学の進歩が無条件に人類の幸福を約束するという科学主義的楽観論は大きな転換期を迎え、哲学界では科学主義への批判、反科学主義が生まれることになった。ハイデガーやニーチェらは科学主義の根源をその西洋哲学の源であるギリシャ哲学に求め、特にアリストテレス以前のプラトン哲学を批判した。その傾向は日本の哲学界はいち早く輸入されてきた。(京都大学はプラトン派、東京大学はソクラテス派と色付けすることも可能) 物質的自然観では形相と質料の対立概念で捉えるアリストテレスとは、プラトンのイデア論は決定的に異なる。プラトン哲学の入門としてアリストテレスの著作を勧める新プラトン派(6世紀エリアス)もいて、プラトンの姿は「海神グラウコス」のように見分けがつかないことになった。この点を18世紀の哲学者バークリーは「プラトン自身をプラトンの著作の解釈者とする」といっている。プラトンにまとわりついている貝殻やごみを払い落として、現れる本来の姿を再生することが本書の狙いである。
(つづく)
第1章 「眩暈」 哲学者としての出発 (その1)
「ソクラテスの弁明」で「金や評判・名誉のことばかりに汲々として、恥ずかしくないのか。知と真実のことには、そして魂をできるだけ優れたものにする事には無関心で、心を向けようとはしないのか?」とソクラテスはアテナイ市民に問いかけますが、そのアテナイ市民によってソクラテスは死刑の判決を受けます。なんとソクラテスの2500年前の言葉がそのまま現代人に問いかけているように錯覚を覚えます。今ではこういうことを言っても死刑にはなりませんが、軽く鼻であしらわれて無視されるだけです。ソクラテス亡き後30代のプラトンは師の遺志をついで、哲学者として思想的闘いに入る。ギリシャ文化の伝統に著しい知的側面を加えて、全一的な哲学思想を結実させた。先のソクラテスの言葉に言う「知と真実」とはイデア論という思想へ、「魂をできるだけすぐれたものに」という要請は魂(プシュケー)の動因に発展していった。プラトンの対話集が第1級の資料とすると、アリストテレス以降の教説や学説・情報は2次資料といわれ、相反するものが多く無理に取り入れる必要はないと著者藤沢氏は切り捨てる。「プラトン著作集」とは紀元前4世紀のパピロス紙による巻物から始まり、5世紀からコーデクス皮紙に写し取られ冊子本となり、そして15世紀には活字印刷本となって今日に伝えられてきた希有の著作集である。ローマ時代トラシュロスはプラトン著作集を九つの四部作に纏めた。この36篇が「プラトン著作集」として今日に伝わる。16世紀末のステファヌス版全集が定本となっている。20世紀に入ってプラトンはその「国家論」と政治思想によって注目の的になった。第1次世界大戦後から第2次世界大戦後までプラトンを巡る30年戦争といわれている。プラトンは右翼か左翼か全体主義者かという不毛の政治議論が一時盛んであったことは時代とはいえあまりに皮相なことであった。それよりプラトン哲学の根幹にかかわる問題は、19世紀後半から21世紀前半の科学主義のイデオロギー対決にあったと言える。科学が自然哲学の一分野から独立してから久しい時間がたった。サイエンティストか今や一般的な「知識者」ではなく、「物質世界の研究者」という特定の専門家(科学者)となっている。哲学では、論理実証主義から分析哲学へと続く流派がこの科学主義の担い手となった。マルクス主義もこの科学主義イデオロギーの一形態といえよう。ギリシャ哲学の評価は、デモクリトスの原子論が科学的とされ、プラトン哲学は科学に対して反動的と批判された。英国の論理実証主義哲学者(数学者)バートランド・ラッセルは科学主義に立って、検証できない超感覚的な原理を立てる形而上学的思想とは反対の立場である。しかし第2次世界大戦後1950年以降になると、科学技術主義の行き詰まりとマイナス面(原爆、自然破壊など)の波及効果が顕在化した。こうして科学の進歩が無条件に人類の幸福を約束するという科学主義的楽観論は大きな転換期を迎え、哲学界では科学主義への批判、反科学主義が生まれることになった。ハイデガーやニーチェらは科学主義の根源をその西洋哲学の源であるギリシャ哲学に求め、特にアリストテレス以前のプラトン哲学を批判した。その傾向は日本の哲学界はいち早く輸入されてきた。(京都大学はプラトン派、東京大学はソクラテス派と色付けすることも可能) 物質的自然観では形相と質料の対立概念で捉えるアリストテレスとは、プラトンのイデア論は決定的に異なる。プラトン哲学の入門としてアリストテレスの著作を勧める新プラトン派(6世紀エリアス)もいて、プラトンの姿は「海神グラウコス」のように見分けがつかないことになった。この点を18世紀の哲学者バークリーは「プラトン自身をプラトンの著作の解釈者とする」といっている。プラトンにまとわりついている貝殻やごみを払い落として、現れる本来の姿を再生することが本書の狙いである。
(つづく)