植民地時代の在日朝鮮人社会の形成から、戦後70年の歴史と在日三世の意識の変化を追う 第6回
第3章 戦後 開放後の在日朝鮮人社会の形成 (その1)
この章より文京洙氏の執筆となる。1945年8月日本の無条件降伏によって東アジア・太平洋戦争は終わり、朝鮮は解放された。10月占領軍は「人権指令」をだし、特高の廃止と治安維持法違反で拘禁されているものを釈放を命じた。祖国を目指す朝鮮人の帰国者が、舞鶴、下関、博多に殺到し、およそ140万人の在日朝鮮人が、戦地引き揚げ船の片航路を利用して本国に帰還した。大都市では在日朝鮮人の機関支援や生活防衛を目的とする各種の朝鮮人団体の結成が相次いだ。9月には朝鮮人連盟準備委員会が結成された。夕張や常磐炭鉱を始め朝鮮労働者の争議が全国的に広がった。また闇市で荒稼ぎをする朝鮮人も多かった。在日を代表する経済人として活躍する朝鮮人が生まれたのもこの時期であった。徐は坂本紡績を、辛はロッテを起業した。朝鮮半島が米ソの覇権争いの場となる可能性が濃厚となる1946年には帰国者は激減し、逆流してくる事態となった。朝鮮半島を米英中ソの5年間の信託統治とする案が出されると、朝鮮社会は対立と混乱の坩堝と化した。在日2世は朝鮮語を話せないこともあり、日本へ逆戻りするものが相次いだ。占領軍は最渡航を固く禁じたので、密航という形で日本へ再入国した。1946年に密航者は2万人を超え、1947年に「外国人登録令」が公布されて、一時密航者は減少したが1949年に1万人近くに増加した。1946年4月より「計画送還」による帰還者は約8万3000人にとどまり、結局150万人の朝鮮人は帰国したが、約55万人が引き続き日本に留まった。占領軍は在日朝鮮人には「すべての日本国内法に従うべき」だとして、居住証明発行と朝鮮人登録の実施を行った。1945年10月朝連中央総本部の結成大会が開かれ、親日派を排除して社会主義者が指導部を独占した。全国に540の支部を持つ強力な大衆団体となった。朝連は日本革命を目的とする日本共産党の戦略に引き寄せられ、日本の「民主民族統一戦線」の一翼に位置づけられた。朝連から排除されたたり不満を持つ一派は、建青や建同を結成し在日朝鮮人居留民団(1948年より在日大韓民国居留団)を結成した。朝連と民団の抗争は武闘派抗争となり数々の乱闘事件を引き起こした。占領軍は在日朝鮮人を日本占領秩序のかく乱要因とみなし、共産党と在日朝鮮人運動の結びつきが明らかになると、吉田内閣の朝鮮人非難につながった。1947年、旧植民地出身者の参政権を停止し、「外国人登録令」が新憲法施行前のどさくさに制定された。1947年に「二・一ゼネスト」中止命令があり、革命的な民主改革を主導してきた占領政策は、反共と経済復興を中心とした安定重視政策に変更されつつあった。参政権の停止や外国人登録令は在日朝鮮人を戦後の普遍的価値である人権の埒外に追いやった。戦後朝連など在日朝鮮人団体は民族教育を重視し、民族学校を全国的に設置したが、一九四七年10月占領軍は「朝鮮人学校は、正規教科以外に朝鮮語を教えることは許されるが、日本のすべての指令に従う様に」命令した。すなわち朝鮮学校は「教育基本法」や「学校教育法」に従わなくてはならないということであった。翌年5月の文部省は「教育基本法」や「学校教育法」に従わうと同時に、民族教育を否定するという文脈で朝鮮人学校を私立学校としての自立性の自立性の範囲内で認めるという覚書を交わした。米国は、ソ連と北朝鮮の反対を押し切って単独憲法制定議会選挙を控え、暴動化する南朝鮮での反対運動に在日の民族運動が結びつくことを恐れて、朝連を解散させた。朝連の解散は政治運動だけでなく、在日朝鮮人の生活や権益擁護の取り組みに深刻なダメージを与えた。1947年の在日朝鮮人の失業者は20万人(対稼働人口比67%)であり、朝鮮人の就職差別問題も絶望的な壁に阻まれていた。
(つづく)
第3章 戦後 開放後の在日朝鮮人社会の形成 (その1)
この章より文京洙氏の執筆となる。1945年8月日本の無条件降伏によって東アジア・太平洋戦争は終わり、朝鮮は解放された。10月占領軍は「人権指令」をだし、特高の廃止と治安維持法違反で拘禁されているものを釈放を命じた。祖国を目指す朝鮮人の帰国者が、舞鶴、下関、博多に殺到し、およそ140万人の在日朝鮮人が、戦地引き揚げ船の片航路を利用して本国に帰還した。大都市では在日朝鮮人の機関支援や生活防衛を目的とする各種の朝鮮人団体の結成が相次いだ。9月には朝鮮人連盟準備委員会が結成された。夕張や常磐炭鉱を始め朝鮮労働者の争議が全国的に広がった。また闇市で荒稼ぎをする朝鮮人も多かった。在日を代表する経済人として活躍する朝鮮人が生まれたのもこの時期であった。徐は坂本紡績を、辛はロッテを起業した。朝鮮半島が米ソの覇権争いの場となる可能性が濃厚となる1946年には帰国者は激減し、逆流してくる事態となった。朝鮮半島を米英中ソの5年間の信託統治とする案が出されると、朝鮮社会は対立と混乱の坩堝と化した。在日2世は朝鮮語を話せないこともあり、日本へ逆戻りするものが相次いだ。占領軍は最渡航を固く禁じたので、密航という形で日本へ再入国した。1946年に密航者は2万人を超え、1947年に「外国人登録令」が公布されて、一時密航者は減少したが1949年に1万人近くに増加した。1946年4月より「計画送還」による帰還者は約8万3000人にとどまり、結局150万人の朝鮮人は帰国したが、約55万人が引き続き日本に留まった。占領軍は在日朝鮮人には「すべての日本国内法に従うべき」だとして、居住証明発行と朝鮮人登録の実施を行った。1945年10月朝連中央総本部の結成大会が開かれ、親日派を排除して社会主義者が指導部を独占した。全国に540の支部を持つ強力な大衆団体となった。朝連は日本革命を目的とする日本共産党の戦略に引き寄せられ、日本の「民主民族統一戦線」の一翼に位置づけられた。朝連から排除されたたり不満を持つ一派は、建青や建同を結成し在日朝鮮人居留民団(1948年より在日大韓民国居留団)を結成した。朝連と民団の抗争は武闘派抗争となり数々の乱闘事件を引き起こした。占領軍は在日朝鮮人を日本占領秩序のかく乱要因とみなし、共産党と在日朝鮮人運動の結びつきが明らかになると、吉田内閣の朝鮮人非難につながった。1947年、旧植民地出身者の参政権を停止し、「外国人登録令」が新憲法施行前のどさくさに制定された。1947年に「二・一ゼネスト」中止命令があり、革命的な民主改革を主導してきた占領政策は、反共と経済復興を中心とした安定重視政策に変更されつつあった。参政権の停止や外国人登録令は在日朝鮮人を戦後の普遍的価値である人権の埒外に追いやった。戦後朝連など在日朝鮮人団体は民族教育を重視し、民族学校を全国的に設置したが、一九四七年10月占領軍は「朝鮮人学校は、正規教科以外に朝鮮語を教えることは許されるが、日本のすべての指令に従う様に」命令した。すなわち朝鮮学校は「教育基本法」や「学校教育法」に従わなくてはならないということであった。翌年5月の文部省は「教育基本法」や「学校教育法」に従わうと同時に、民族教育を否定するという文脈で朝鮮人学校を私立学校としての自立性の自立性の範囲内で認めるという覚書を交わした。米国は、ソ連と北朝鮮の反対を押し切って単独憲法制定議会選挙を控え、暴動化する南朝鮮での反対運動に在日の民族運動が結びつくことを恐れて、朝連を解散させた。朝連の解散は政治運動だけでなく、在日朝鮮人の生活や権益擁護の取り組みに深刻なダメージを与えた。1947年の在日朝鮮人の失業者は20万人(対稼働人口比67%)であり、朝鮮人の就職差別問題も絶望的な壁に阻まれていた。
(つづく)