ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 水野直樹・文京洙 著 「在日朝鮮人ー歴史と現在」  (岩波新書 2015年1月)

2016年04月30日 | 書評
植民地時代の在日朝鮮人社会の形成から、戦後70年の歴史と在日三世の意識の変化を追う 第6回

第3章 戦後 開放後の在日朝鮮人社会の形成 (その1)

この章より文京洙氏の執筆となる。1945年8月日本の無条件降伏によって東アジア・太平洋戦争は終わり、朝鮮は解放された。10月占領軍は「人権指令」をだし、特高の廃止と治安維持法違反で拘禁されているものを釈放を命じた。祖国を目指す朝鮮人の帰国者が、舞鶴、下関、博多に殺到し、およそ140万人の在日朝鮮人が、戦地引き揚げ船の片航路を利用して本国に帰還した。大都市では在日朝鮮人の機関支援や生活防衛を目的とする各種の朝鮮人団体の結成が相次いだ。9月には朝鮮人連盟準備委員会が結成された。夕張や常磐炭鉱を始め朝鮮労働者の争議が全国的に広がった。また闇市で荒稼ぎをする朝鮮人も多かった。在日を代表する経済人として活躍する朝鮮人が生まれたのもこの時期であった。徐は坂本紡績を、辛はロッテを起業した。朝鮮半島が米ソの覇権争いの場となる可能性が濃厚となる1946年には帰国者は激減し、逆流してくる事態となった。朝鮮半島を米英中ソの5年間の信託統治とする案が出されると、朝鮮社会は対立と混乱の坩堝と化した。在日2世は朝鮮語を話せないこともあり、日本へ逆戻りするものが相次いだ。占領軍は最渡航を固く禁じたので、密航という形で日本へ再入国した。1946年に密航者は2万人を超え、1947年に「外国人登録令」が公布されて、一時密航者は減少したが1949年に1万人近くに増加した。1946年4月より「計画送還」による帰還者は約8万3000人にとどまり、結局150万人の朝鮮人は帰国したが、約55万人が引き続き日本に留まった。占領軍は在日朝鮮人には「すべての日本国内法に従うべき」だとして、居住証明発行と朝鮮人登録の実施を行った。1945年10月朝連中央総本部の結成大会が開かれ、親日派を排除して社会主義者が指導部を独占した。全国に540の支部を持つ強力な大衆団体となった。朝連は日本革命を目的とする日本共産党の戦略に引き寄せられ、日本の「民主民族統一戦線」の一翼に位置づけられた。朝連から排除されたたり不満を持つ一派は、建青や建同を結成し在日朝鮮人居留民団(1948年より在日大韓民国居留団)を結成した。朝連と民団の抗争は武闘派抗争となり数々の乱闘事件を引き起こした。占領軍は在日朝鮮人を日本占領秩序のかく乱要因とみなし、共産党と在日朝鮮人運動の結びつきが明らかになると、吉田内閣の朝鮮人非難につながった。1947年、旧植民地出身者の参政権を停止し、「外国人登録令」が新憲法施行前のどさくさに制定された。1947年に「二・一ゼネスト」中止命令があり、革命的な民主改革を主導してきた占領政策は、反共と経済復興を中心とした安定重視政策に変更されつつあった。参政権の停止や外国人登録令は在日朝鮮人を戦後の普遍的価値である人権の埒外に追いやった。戦後朝連など在日朝鮮人団体は民族教育を重視し、民族学校を全国的に設置したが、一九四七年10月占領軍は「朝鮮人学校は、正規教科以外に朝鮮語を教えることは許されるが、日本のすべての指令に従う様に」命令した。すなわち朝鮮学校は「教育基本法」や「学校教育法」に従わなくてはならないということであった。翌年5月の文部省は「教育基本法」や「学校教育法」に従わうと同時に、民族教育を否定するという文脈で朝鮮人学校を私立学校としての自立性の自立性の範囲内で認めるという覚書を交わした。米国は、ソ連と北朝鮮の反対を押し切って単独憲法制定議会選挙を控え、暴動化する南朝鮮での反対運動に在日の民族運動が結びつくことを恐れて、朝連を解散させた。朝連の解散は政治運動だけでなく、在日朝鮮人の生活や権益擁護の取り組みに深刻なダメージを与えた。1947年の在日朝鮮人の失業者は20万人(対稼働人口比67%)であり、朝鮮人の就職差別問題も絶望的な壁に阻まれていた。

(つづく)

読書ノート 水野直樹・文京洙 著 「在日朝鮮人ー歴史と現在」  (岩波新書 2015年1月)

2016年04月29日 | 書評
植民地時代の在日朝鮮人社会の形成から、戦後70年の歴史と在日三世の意識の変化を追う 第5回

第2章 戦中 国民総動員体制と朝鮮人強制連行

第2章は外村大 著 「朝鮮人強制連行」 岩波新書(2012年3月)の内容とほぼ重なります。戦時体制下の強制動員計画による植民地からの労働移民としての在日朝鮮人の生活を扱います。1920年代後半の昭和恐慌に時期に朝鮮人労働者が増え続けたことは日本政府当局者には審固酷な事態と映った。特に大阪などの大都会では失業救済事業の55%(1928年)は朝鮮人で占めらた。日本人失業者を圧迫する存在と見なし、朝鮮人の内地渡航を制限するため調査報告書が作成された。対策として「労働手帳」制度を設け、登録朝鮮人失業者を制限することによって、1932年には失業救済事業の24%まで低下した。1931年の満州事変と翌年の満州国樹立により、日本が中国東北部を支配下に置いたので、日本に渡航する朝鮮人を満州へ振り向けることになった。1934年閣議で「朝鮮移住者対策」を決定した。朝鮮の工業化方針により朝鮮内で安住する環境を作ること、満州へ移住させること、内地での在日朝鮮人の統制管理機構として「協和会」を設け皇民化を進める、そして密航を取り締まるというものである。在日朝鮮人居住区では商業活動が活発化し、朝鮮料理屋、服飾店、漢方薬店などを営み、小規模工場(大阪・神戸のゴム工業、京都の染織工業)の経営者は次第に経済的地位を向上させ、1930年代から朝鮮人コミュニティ内で階層分化が進んだ。東京や大阪では在日朝鮮人による新聞発行が試みられ、朝鮮語による「民衆時報」、「東京朝鮮民報」が発行されたが、警察の弾圧で解散に追い込まれた。朝鮮人の文化活動も活発化し、小説家金史良、舞踏家崔承喜らが生まれるに至った。戦前の日本在住の朝鮮人には参政権が与えられ、1925年普通選挙法で納税額に関係なく参政権が認められた。しかし在日朝鮮人の選挙への参加は低調であった。1930年代には地方レベルの議員選挙に立候補し当選する人も現れた。1934年に設立された協和会は1936年財団法人中央協和会となり、総督府や内務官僚(特高)らが統括した。日中戦争が勃発した後は協和会は総動員体制の下で在日朝鮮人を「皇民化」し、戦争に動員する活動を展開した。勤労奉仕・国防献金・貯蓄奨励・金属類供出など戦時体制を支えた。1940年から協和会会員章が発行され、警察が朝鮮人を管理するシステムとなった。1939年日本の戦争遂行を目的として朝鮮人強制連行と強制労働が始まった。1938年には国家総動員法が成立していたので、1939年より労務動員計画が策定され、朝鮮人労働力も計画的に動員配置されることになった。1939年から募集、1942年から官斡旋、1944年から徴用という形で行われたが、事実上は強制連行と言って差し支えない強権的政策であった。日本人の徴兵、学徒動員、工場動員も有無を言わせない罰則付きの強制連行である。1939年から1945年までの内地への動員数は実数で67万人(計画は91万人)とされる。朝鮮人の日本での行く先は、炭坑48%、鉱山11%、土建16%、工場他25%と推定される。有期間制であったが、2年の契約期間を過ぎても帰ることはできなかった。日本人も嫌がる過酷な労働で逃亡する朝鮮人労働者は32%を上回った。労働争議も続発し、1941年で492件をピークとし、毎年300件以上の労働争議が発生した。1935年より朝鮮人の会合などでの朝鮮語使用を禁止し、1940年には朝鮮で実施された創氏改名を在日朝鮮人にも強要した。1940年代より治安維持法で検挙される朝鮮人が増えた。治安維持法で検挙された者の3割は朝鮮人であったといわれる。1944年協和会は「中央興生会」に変更され、一層の朝鮮人の協力が強要された。1945年8月時点で200-210万人の朝鮮人が内地に居住していた。

(つづく)

読書ノート 水野直樹・文京洙 著 「在日朝鮮人ー歴史と現在」  (岩波新書 2015年1月)

2016年04月28日 | 書評
植民地時代の在日朝鮮人社会の形成から、戦後70年の歴史と在日三世の意識の変化を追う 第4回

第1章 戦前 植民地下の在日朝鮮人世界の形成

第1章は1910年朝鮮合併後から1939年の国民総動員体制までの、平常時の植民地移民という観点での在日朝鮮人の生活を扱います。本書で「在日朝鮮人」と呼ぶのは、明治時代以降に朝鮮半島から日本に渡ってきて、一定期間在住する人々のことをいう。朝鮮合併前までは、外交官、商人、留学生、炭坑労働者など数十人が在日していた程度であったが、合併後は宇治川発電所工事などに百名単位の朝鮮労働者が働いた。朝鮮半島でも鉄道工事に多数の朝鮮労働者が動員された。工事が終われば多くの朝鮮労働者は帰国したが、中には工事現場を渡り歩く人や、行商などで生計を立てる人もいた。合併後に朝鮮人は日本国籍を持つ「帝国臣民」とされ、1923年「朝鮮戸籍令」ができ、戸籍の移動は結婚や養子縁組を除いて禁止されていた。徴兵制度はまだ朝鮮人には適用されなかったので、日本人の兵役逃れに本籍の移動を禁止したのである。警察や特高は居住朝鮮人の名簿を作成し監視・警戒の対象とした。朝鮮人女性が紡績工場などの集団募集で内地に移住することが多くなった。1915年には朝鮮人居住者は四千人弱であったが、1920年には4万人に急増した。朝鮮総督府は労働者募集を認可制とし、警察署が管轄した。1919年朝鮮独立運動(三一独立運動)と呼ばれる抗日運動が起こり、日本に居住する留学生学友会が朝鮮での動きと連動して独立運動を主導した。このため1919年朝鮮総督府は、朝鮮人が国外に出るときは「旅行証明書」の発給が必要とした。在日朝鮮人人口は1920年に4万人であったが、1925年には21万人、1930年には41万人、1935年には61万人、1940年には124万人、1945年には210万人に急増していった。1923年関東大震災では「朝鮮人暴動」というデマによって多くの朝鮮人が虐殺されるという悲劇が発生した。吉野作造の調査では2711名が殺されたという。政府が自然災害に対して「戒厳令」を出すのも異常であるが、警察や軍人、在郷軍人を中心とする自警団の偏見や差別に基づく過剰な警戒心がなさしめた蛮行であった。このように朝鮮からの渡航者が増え続けた理由にひとつは、植民地下での農村のコメ増産計画が思うように行かず、農村が疲弊したため都市に流出する流れの中で日本への渡航が増えたことである。2つめの理由は日本語による教育が進み就学率は増加していったが、朝鮮では就職先がなかったためである。また交通や通信技術が社会インフラとして整備されて渡航しやすくなったので、主に中階層の人々が渡航する例が多かった。最下層の者は、「土幕民」、「作男」、「火田民」などとなって朝鮮内や満州に移住するケースが多かった。1928年から「渡航証明書」制度が導入され、朝鮮総督府は渡航を制限する措置をとった。それでも先に日本に渡った親戚や友人の呼びよせによる渡航者は増加の一途となった。1930年の朝鮮人在住者42万人の生活の道は、「土工」と言われる土木建築の肉体労働者が半数以上を占めた。紡績工場で働く女性労働者にくわえて、京都の友禅染の過酷な労働に就く人が多かった。工業では炭鉱労働者、土砂採取労働者、沖仲氏の荷役労働、露天・行商、廃品回収など日本の都市の下支えの雑業に従事した。居住地では、炭坑や土木作業の「飯場」という集団生活であったり、「労働下宿」であったりしたが、次第に朝鮮人集住地区が形成されていった。そこでは衣食住の暮らしと朝鮮文化を守る空間ができ、大正時代には家族形態での居住が増えた。渡航者の男性比率は1920年では8対1であったが、次第に女性居住者が増えるに従い男性比率は低下し1940年には1.5対1となった。植民地下の朝鮮では義務教育は実施されていなかったが、日本内地の学校では朝鮮人の子どもの受け入れを嫌がった。朝鮮人居住地区では「書堂」という寺小屋や、1935年には夜学が盛んとなり朝鮮語の教育が行われた。日本政府は朝鮮語の教育を嫌い、1934年の閣議決定で警察が朝鮮人教育機関の閉鎖を命じ、日本の学校に通わせる措置をとった。日本で働く朝鮮人労働者の間では早くから親睦団体が作られていった。1914年には朝鮮労働者を組織するも大阪で作られた。三一独立運動や日本の大正デモクラシーなどの刺激を受けて、1920年代から労働民友会や労働共済会などの団体が各地で作られた。そして1922年に東京・大阪で朝鮮労働同盟会が作られ社会主義労働者組織として活動した。1925年には全国組織である「在日本朝鮮労働総同盟」が結成された。朝鮮総督府の支援で「相愛会」が対抗して結成されたが渡航者を搾取するなど腐敗していった。「在日本朝鮮労働総同盟」は日本共産党系の労働組合全国協議会(全協)に統合された。1930年代には在日朝鮮人の生活を守る活動が展開され、各地で消費組合が結成された。

(つづく)

読書ノート 水野直樹・文京洙 著 「在日朝鮮人ー歴史と現在」  (岩波新書 2015年1月)

2016年04月27日 | 書評
植民地時代の在日朝鮮人社会の形成から、戦後70年の歴史と在日三世の意識の変化を追う  第3回

序(その3)

金賛汀 著 「朝鮮総連」 新潮新書(2004年5月)は戦後の在日朝鮮人を指導した北朝鮮系の組織(韓国系は民団という組織)であるが、帰国事業を成功させ、北朝鮮の金日成体制の忠実な奉仕者となった全盛時代から、朝銀破綻で没落してゆく経過を描いている。朝鮮銀行と朝鮮総連はいわば一体化した北朝鮮政府の政治経済機関であり、金正日軍事独裁国家北朝鮮の謀略と経済破綻した北朝鮮への送金を担当する機関であった。朝銀の経済的救済問題から端を発した問題は、北朝鮮政府と朝鮮総連による政治的問題が裏にあることは明白で、日本政府も拉致問題や昨年9月の核実験問題から急速に経済制裁の動きを強め、総連から北朝鮮への送金を断つことが急務であると判断した。総連の身から出たさびであるが、整理回収機構は朝銀の破綻の不良債権の返済を総連に命令し、総連関連施設の殆どは差し押さえか抵当権設定に組み込まれた。これにより経済的にも朝鮮総連は崩壊しつつあった。日本が太平洋戦争で敗北した1945年時点で日本国内にいた朝鮮人は200万人であった。このとき強制連行者の帰還問題で1945年10月10日に朝連結成大会が開かれた。その結果共産主義者が指導する左派グループが支配権をとり活動した。そのときの活動費は強制労働者の未払い賃金であった。これらの豊富な活動資金は日本共産党再建資金としても使用された。在日朝鮮人の殆どは南朝鮮(韓国)出身者であったが、この帰還運動で200万人いた朝鮮人のうち140万人が帰国した。帰還者も1946年で頭打ちになり在日朝鮮人数は60万人前後で推移することになる。そして在日朝鮮人問題も占領軍の管轄となった。1946年10月南朝鮮出身者による民団が結成され1948年に建国された李承晩独裁政権の大韓民国系として組織された。しかし当時の民団は組織力もなく在日朝鮮人の指示は圧倒的に朝連にあった。1949年になると日本国内での占領軍による赤狩りが浸透し日本共産党と朝連は解散させられた。そして日本政府は「外国人登録令」を改定し、在日朝鮮人を外国人として扱った。1950年朝鮮戦争が勃発し、朝連の中では民戦日本共産党派と民族派の主導権争いが激化し、朝鮮戦争停戦によって1955年5月朝鮮総連が民族派によって結成され、日本共産党と朝鮮総連は組織としても運動としても一線を画して干渉しないという取り決めになった。朝鮮総連の綱領には①在日同胞を北朝鮮に結集する②韓国から李承晩を追放し祖国の平和的統一③在日の民主的民族権益と自由の擁護④民族教育⑤国籍選択の自由⑥朝日人民の友好⑦原爆や大量破壊兵器の製造使用禁止⑧世界の平和友好を掲げた。 在日朝鮮人の生活面では、就職の場は差別され、職業としてはくず鉄屋、パチンコ屋、ホルモン焼き屋ぐらいで就業率も1956年では40%にすぎなかった。被保護世帯は14000世帯で在日の24%に達した。朝鮮総連の中には1957年「がくしゅう」組みという地下組織が設けられ、朝鮮労働党に日本支局を目指し、益々先鋭化していった。1956年北朝鮮より「教育援助金」の支援によって民族教育が始まり生徒数は35000人が勉強できるようになり、かつこの資金は1970年代半ばまで実質的な朝鮮総連の活動資金になった。朝鮮戦争で労働力を失った北朝鮮政府は在日朝鮮人の帰国運動を国際赤十字を通じて働きかけ、1959年日本政府と合意に到った。「地上の楽園」と朝鮮総連は在日同胞に帰国建国を働きかけ、実情を知らない人々はこれに乗って1984年までに93000人が帰還した。しかし北朝鮮の実態と生活の惨状を見た帰還者からの手紙などで、早や1962年から帰還者は激減した。1963年ごろには、朝鮮総連は韓徳銖、金炳植らが組織を私物化して、北朝鮮への従属を強めていった。北朝鮮の直接的指導は新潟港に入港する「万景峰号」船内で行われていた。1967年ごろまで朝鮮総連を支配していた思想は共産主義思想であったが、1967年6月労働党中央委員会で主体思想(チュチュ思想)を党の唯一思想体系とし、朝鮮総連の指導もチュチュ思想学習に変わった。チュチュ思想は理論的というに価しない「金日成の命令は絶対だ」ということである。1971年の金日成還暦祝いの50億円送金以降、北朝鮮は彼らの計画経済の失敗から在日同胞の献金がきわめて重要な資金源になっていた。1980年より北朝鮮としては輸入代金の支払いが何処の国へも滞り、利子さえ払えない状況であった。1979年より始まった「短期祖国訪問団」で同胞の財産を寄付させる運動を展開した。年間15から20回おこなうと北朝鮮への収入が30億円から60億円にもなったようだ。たとえば1000万円寄付すれば北にいる家族の特権を付与するというものである。朝鮮信用組合は在日商工人の相互扶助組合として発展してきた。1955年ごろから設立され1990年には日本全国で38組合176店舗、預金総額約2兆円の巨大信用組合に成長した。本の敗戦後150万人が南に帰還した。北へは北朝鮮帰還運動で10万人が帰還した。その後日本の高度経済成長と日韓条約締結によって在日社会の生活レベルは上がり、永い間日本で生活した人々にとって生活習慣や、意識の極端な相違から帰国しても生活できないことを実感させた。又総連の民族教育の眼目である金日成親子へ忠誠を誓う教育は世界の民主主義や基本的人権運動にも背を向けた教育であり、在日の人々は朝鮮総連系民族学校へ子女を送らなくなった。1975年には約3万人いた学生数も2004年には1万人を切るまでになった。そして日本での生活向上に目を向け、さまざまな制度的差別問題に取り組むことに視点が変った。まず地方自治体での地方公務員就職運動である。そしてなによりも在日の人々の明確な日本定住の意思表示はさらに多様な動きを生んだ。1990年代はじめには「日本社会との共生」という考えが芽生えていた。地方参政権と住民投票権運動は、2001年滋賀県米原市は定住外人を住民と認定し住民投票参加を認めた。2004年現在95の自治体が住民投票参加への道を開いた。日本社会の拉致問題批判の前に総連幹部は窮地に陥った。外国人登録証明書の国籍を朝鮮から韓国へ書き換える人が増加し、また日本国籍取得者も増加して、2003年では「朝鮮国籍所有者」は約65万人の在日のうち10万人を切っている。朝鮮総連の財政も破綻し朝銀融資の担保物件となった学校や本部建物は不良債権の担保として既に幾つかは差し押さえられている。こうして朝鮮総連の組織は軋みを上げて崩壊の過程にある。

(つづく)

読書ノート 水野直樹・文京洙 著 「在日朝鮮人ー歴史と現在」  (岩波新書 2015年1月)

2016年04月26日 | 書評
植民地時代の在日朝鮮人社会の形成から、戦後70年の歴史と在日三世の意識の変化を追う 第2回

序(その2)

小熊英二・姜尚中 編 「在日一世の記憶」 集英社新書(2008年10月)は日本に移住した在日一世の戦後の苦労をインタビュー形式で記録した分厚い本である。本書の冒頭に、東大教授で在日二世の姜尚中氏の格調高い序文が添えられている。姜尚中氏は企画段階で本書に参画したようであるが、実務はしておられない。しかし集英社文庫に「在日」という名著があり、自身の在日経験が語られている。本書の序は歴史家マルク・ブロックの言葉「現在の無知は運命的に過去の無知から生まれている。逆に過去を知るにも始めに精神がなければ何も見えてこない」で始まる。現在の在日の姿を知らなければ、日韓歴史問題や外交問題という高度に抽象的な問題は何も見えない。在日はマイノリティとして「歴史のあぶく」みたいな存在なのか。いやそうではない。歴史の真実は細部に宿るというように、朝鮮と日本をまたぐ在日一世の生涯には、20世紀極東アジアの「異常な時代」の陰影がしっかりと刻み込まれているのである。インタビューされた在日一世の方々の発言には、共通した事件と歴史的事実が必ず出てくる。そういった事件を契機として在日一世の運命が振舞わされた。それに対して本人の意識レベルによって政治的に発言する人、しない人など色々態度は変わってくるが、在日一世の共通した戦後の歴史をまとめておこう。
1945年8月  日本は太平洋戦争で連合軍に降服  終戦時に在日朝鮮人は二百数十万人に達していた。
1945年10月 在日朝鮮人連盟(朝連)が結成され、速やかな帰国活動を行う。全国に国語講習所を設置して民族教育事業を開始した。
1945年11月 左翼的な朝連メンバーは朝鮮建国促進青年同盟を発足させた。
1946年10月 在日朝鮮居留民団結成 同年12月日本駐留連合軍は朝鮮人の帰国事業は終了とした。日本に残留していた50数万人の朝鮮人は在日として生きる運命となった。
1947年5月  外国人登録令が公布され、朝鮮人への管理政策に転換した。
1948年1月  GHQの指示で文部省は朝鮮人学校の閉鎖令をだした。 同年4月「4.24阪神教育闘争」で死亡者が出た。 国連が朝鮮南半分だけの単独選挙を実施すると発表。全国で反対闘争がおきたが、済州島では共産党による武装蜂起(4.3事件)がおき鎮圧で多くの島民が虐殺された。同年8月南に大韓民国樹立、9月北に朝鮮民主主義人民共和国が樹立され南北分断が固定された。在日大韓民国居留民団(民団)結成。
1949年9月 日本政府は朝連を解散、10月には学校閉鎖令を出した。
1950年6月 朝鮮戦争勃発 在日朝鮮人統一民主戦線(民戦)が結成され、日本共産党の指導の下で過激な革命闘争を展開した。
  1951年9月 日本はサンフランシスコ講和条約により独立した。朝鮮人の法的地位は「日本国籍を離脱するもの」とし差別的なかんり体制を強化した。
1953年7月 朝鮮戦争休戦 
1955年5月 民戦が解散し、朝鮮総連が結成された。総連は北朝鮮支持、祖国統一、民族教育をスローガンとした。
1959年   日朝赤十字の調印に基づいて北朝鮮への帰国事業が開始された。(1984年までの帰国者は9万3340人)
1965年10月 日韓条約締結 韓国を朝鮮唯一の合法政府とし、韓国へ補償が実施された。
1970年   日立製作所就職差別問題で裁判闘争(74年勝訴)
1980年   指紋押捺拒否運動起る(1999年 すべての外国人に対する指紋押捺義務の廃止になった)
1981年   「出入国管理および難民認定法」の改正により在日外国人に対する差別制度が大幅に改善された。しかし地方参政権運動、公務員採用問題、民族教育権の問題については未解決である。
1995年   従軍慰安婦賠償訴訟が起きたので、日本政府は「女性のためのアジア平和国民基金」を設立し実質上の賠償に応じた。、韓国併合・強制連行論争・従軍慰安婦論争などに見られるような南北朝鮮への日本による植民地統治についての歴史認識について、閣僚の靖国神社参拝問題と教科書問題に対する韓国政府(盧武鉉大統領)の抗議が続いた。

(つづく)