ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 丸山眞夫著 松本礼二編 「政治の世界」 (岩波文庫2014年)

2016年09月30日 | 書評
科学としての政治学の創造を試みた戦後初期の評論集 第10回

5) 「支配と服従」

甲という者が乙という者に足して多少とも継続的に優位に立ち、乙の行動様式を規定する時、甲と乙の間には一般的な従属関係が生じる。支配。・服従関係とはそうした従属関係のことをいう。教師と生徒には利益は共通するが権威と権力が存在し、奴隷と奴隷所有者には利益が対立する支配関係が存在する。ここには搾取が存在する。奴隷に残された道は反乱か逃亡である。氏族共同体には権威関係が存在する。支配者と被支配者の利害関係に基づく緊張関係があらゆる支配関係の決定的な契機である。だから支配関係にはその社会における社会的価値を支配者が独占し、被支配者の参加をできるだけ排除するという要素を伴う。そのためにこそ支配者は物理的強制手段(軍隊・警察)を組織化するのである。しかし現実の政治的支配関係は純粋の(むき出しの)支配関係の実では成立しない。そこで今日まであらゆる統治機構は、権力・富・名誉・知識・技術などの価値を、様々な形態において被支配者に分配し中和する機構と、統治を被治者ンp心情に内面化(納得)させることによって、服従の自発性を喚起してきた。一切の政治的社会は制度的にも精神的にもこうした最小限のデモクラシー装置が必要なのである。今日では被治者は憲法に定められた制度的保障によって治者の権力に参加し、選挙や議会内の数によっって政権交代を可能にした。こうして治者はあらゆる手段を動員して被治者の意見をまとめ上げ被治者の同意を得たという形式で、誰はばかることもなく権力を行使することができるのである。つまり治者による民意の操縦が容易になった。寡頭支配やカリスマ支配が人民の同意を得て実現することが可能となった。ルソーがいう人民の権力とは虚構かもしれない。実質的に主権在民を実行する方法がなければ、支配者にとって恐ろしいものではない。むしろ巧みに制度を操って主権在民を統治の手段とするのである。露骨に支配関係を表現するとそれは右翼となる。右翼とは赤裸々な支配関係の表現者のことである。政治的イデオロギーが好んで用いるのは、集合概念としての人民に支配の主体を移譲することによって、少数の真の支配者が多数の人民を支配する本質を隠ぺいするやり方である。支配の非人格化のイデオロギーとは「法の支配」である。支配者に都合のいい法を作って「合法的」に従わせることである。国民協同体とか国家法人説などもやはり支配の非人格化であろう。後ろめたい支配の「虚偽意識」に留まらないで、デモクラシーという制度による支配の表現になっている。

(つづく)

読書ノート 丸山眞夫著 松本礼二編 「政治の世界」 (岩波文庫2014年)

2016年09月29日 | 書評
科学としての政治学の創造を試みた戦後初期の評論集 第9回

4) 「権力と道徳」

この章では「政治と倫理」に絞った話になる。政治権力の悪魔的な性格と道徳規範との合一と分離の関係を見ることになる。古代には道徳と権力が一体化した除隊が存在していた。祭政一致(神政)のような、道徳が権力的拘束の中だけに存在し、権力もまた一つの道徳的権威の体系内に留まる社会のことである。その道徳とは宗教的権威であった。たとえば豊作を約束する宗教上の神をまつる祭礼行事が政治のことであった石器時代の原始農耕社会のことである。とはいえ、氏族共同体に内部に社会的分業が進み、氏族の共同事業が氏族の宗長に集中することによって、政治統治が彼に専門的に帰属するようになった段階からが我々の考察の出発点となる。司祭者の権威が集団内部の階級的分化(格差)とともに恒常的な権力体にまで発展する。田や畑の分割・配分の権力、灌漑事業の推進が首長の仕事になってくると、配分や受益をめぐって争いが生じたり、裁定が必要になる場合、対内的には司祭者的権威者に有利に運ぶために格差による実力がものをいう。対外的には他の部族との水利権、領土権をめぐる争いから軍事権が発生した。こうした神政政治体制が大規模に表現されたのは、チグリス・ユーフラテス川都市国家、エジプト、中国の古代帝国であった。権力の集中と共に権力の道徳性が実在性から遊離し「虚構性」が目立ってくる。そこで権力は道徳性に依拠するのではなく、法体系に依拠する方向になった。法はどこまでも人為的(目的合理的)である。ローマ帝国において一切の公的規範は最高権力結合し、ローマ法の壮大な形式亭支配となった。民主政を古典的に完成させたギリシャ都市国家では市民の自由とはポリスへの参加に尽きた。合法性と正統性は分裂していなかった。これに反抗したのがキリスト教の人格性の道徳(個人の独立)であり、ローマ皇帝への合一性・正統性を拒否したのである。キリスト教的倫理が政治権力への合一を原理的に拒否する思想として登場したことは、社会的または政治的平面では解消しえない人格の次元を人間に植え付けたことによって、「カイゼルのもの」の絶対化を拒否し、彼岸的な活動が権力と道徳の間に一定の緊張を生んだことである。つまり欧州において教会と国家という二元的な関係が作り出され、そして宗教革命「プロテスタント」は、中世を通じて固定化された集団道徳をふたたび人格の内面性に引き戻した。プロテスタントの「抵抗こそが倫理的義務である」とテーゼは近世の革命権・抵抗権の思想に大きな影響を与えた。教皇と神聖ローマ帝国という二重の神政体制から近世国民国家が誕生し、絶対君主は主権の絶対不可分を主張し、権力的統一を完成した。王は神聖であるから最高権力を持つのではなく、逆に最高権力を持つから神聖となった。こうして国家権力は宗教的道徳から独立し、自己の存在根拠と行動原理を自覚した。マキャベリは政治権力の行動原理を明確にした。プロテスタントの宗教倫理はマックス・ウェーバーが言う様に、産業ブルジョワジーに担われて、資本蓄積のみならず思想・信仰・言論の自由など基本的人権獲得のために闘った。キリスト教倫理社会と国家権力の二元論に基づいて権力を不断にコントロールする必要を説く自由主義国家間が生まれた。西欧においては近世自然法思想が優位を占め、これに反してドイツでは国家理性の思想が急速に成熟した。国家に最高の価値を置く思想がヘーゲルからビスマルクによって定着した。その結果ドイツ国家思想にはシ二ズム(悲観思想)が付き纏い、潔癖な倫理観と過剰な国家権力の間でバランスがとれなかったことが「ドイツの悲劇」と呼ばれた。ニーチェがドイツシ二ズムの代表であり、それはナチズムに転落した。

(つづく)

読書ノート 丸山眞夫著 松本礼二編 「政治の世界」 (岩波文庫2014年)

2016年09月28日 | 書評
科学としての政治学の創造を試みた戦後初期の評論集 第8回

3) 「政治の世界」 (その3)

政治的状況の発生の出発点は、権力、財貨、尊敬、名誉と言った社会的価値の獲得、維持、増大を巡る争いです。C-Sで紛争が解決された時から、社会的価値の配分帰属が決定される。統治を安定させ強固にするには、治者は自己の重大な権益が侵されない限りにおいて、そうした社会的価値を被治者に配分する方が得策なのです。立身出世は大衆の経済的かつ上昇志向を満足させ、権力側の有能な使用人(官吏)供給源となった明治震為雷の教育政策の成功例です。そうした上昇志向は政治的自由の欠如を補完する役割を果した。治者が絶対に手放さなかった価値は政治権力であって、権力はただ被治者からの圧力によってのみ譲渡されてきた。連合国に無条件降伏した戦前の支配者は、軍隊関係者のみを除去して、そのまま権力を握り続けた。そして彼らが占領軍の命令によって民主革命を遂行したのだから、その成果は不完全であった。民衆の力によって成し遂げられた民主改革ではなかったことが、いまなお大衆の権利が不十分であることの遠因となっている。フランスの自由主義デモクラシーの根本的な建前は、市民階級を構成する人間の具体的な生活条件を不平等なままにして、抽象的な公民としての平等の権利を与えたことです。逆に言うと、法的地位の平等によって、各階層(資本家、労働者、自作農)の不平等が裏付けられている。民意とは各人が意見・利益を主張することではなく、抽象的公民として持っている一票の投票権の算術的和に過ぎない。民主主義とは頭の数を数えることだいう見解がある。ルソーは言う、彼が自由なのは投票の日だけで、仕組まれた一票を投じれば、あくる日からは再び奴隷に戻るのです。「政治的権力が大衆に与えられているのに、経済的権力は少数の支配階級が握っていることが、社会の不安定要因である。金権政治がデモクラシーを買い取ってしまうか、デモクラシーが金権支配者を排除するかのどちらかである」というアメリカの経済学者がいる。支配権力が均衡を維持するとき安定を確保することができる。均衡が破れるとき政治権力の変革が引き起こされる。権力の変革には程度の激しさの順に、
①支配関係の変革、
②権力の最高担当者の変革、
③統治組織内部の変革に分けられる。

③統治組織内部の変革とは各機関御階層関係が逆転する場合です。立法機関の優位性が崩れて、内閣府という執行機関(官僚機構)に権力が集中する場合が相当します。官僚機構にとって国会は嫌な存在で、むしろ内閣を乗っ取って権限を強化する方が好ましいと考える。これは合法的ですが、非合法に行われ軍部が優位に立つことをクーデターと呼びます。②権力の最高担当者の変革とは、人が変わるだけです。反対党に政権が移る場合「政変」、選挙結果に根拠を置けば「政権交代」です。元首の首だけ暴力的に挿げ替えて東一機構には手を付けない場合もこれに当たります。合法的に資本主義政党が政権を取っている場合、選挙で社会主義国になることはまず考えられませんが、社会主義的政策をより多く採用する政権であれば、これは②と③の範囲になります。①支配関係の変革の典型は「革命」です。毛沢東は「革命は鉄砲の先から生まれる」と言いました。戦争と革命は武力を使用する点において似ていますが、戦争は組織された国の間の権力争いで、革命は下からの自発的な反権力の内乱です。だから戦争は少数の権力者の冒険や陰謀によって起される可能性が強いのです。やむを得ざる自衛のための戦争というのは真っ赤なウソです。戦争までに無数の選択肢があります。ほとんどは権力を維持強化するための侵略戦争です。弱い国が戦争を起すことはあり得ないし、戦争に訴えるのは強い国です。戦争の性格は時代と技術の進歩に従って変化し、昔は諸侯の雇い兵だけの殺し合いだったのが、近代国家では常備軍のみならず国民全員が戦争に巻き込まれ被害を受けます。現代における「政治化」の意味を考えましょう。国民の日常生活が根本的に政治の動向によって左右される時代において、かえって多くの人が政治的な問題に関して積極的興味を失い、無批判的な態度のなり、政治的状況から逃避するというパラドックスが生まれている。「政治化」と「政治的無関心」がどうして結合するのだろうか。選挙の投票率は次第に50%を切ることが多くなった。政治的無関心が権力の乱用や腐敗を生み、それが国民の政治に対する嫌悪感と絶望感を掻き立てるという悪循環に陥っている。この大衆の非政治的受動的態度をはぐくむ地盤は、現代の機械文明の進歩がもたらしたものです。社会機構が複雑化するにつれ人間(個人)が疎外される状況です。現代国家の権力の組織化は分業の原則で官僚的権限強化の方向に傾き、一律平等の原則に従い格差は固定されたまま政策の平等化が行われます。これを人間のアトム化と呼びます。新聞・テレビメディアはニュースの選択、解説に一定の傾向をつけて。読者や聴取者の思考判断をステレオタイプ化する。これは世論誘導であり、大衆の非政治化に拍車をかけています。大宅氏はかってこれを「一億総白痴化」と言った。メディアの役割は一定のイデオロギーを大衆に注入することより、大衆の生活態度を受動化し、批判力を麻痺させることにある。現代民主主義がこうしたアトム化された大衆の行使する投票権に依存しているところに、形式的民主主義に依拠した実質的な独裁政治が容易に成立する由縁です。これに対して丸山氏の書く処方箋は、民衆の日常生活の中で政治的社会的問題が討議される場として、各種の民間の自主組織が活発に活動することが必要だと言います。だがそれから半世紀以上が過ぎた今日、新自由主義を根拠とする右傾化傾向と独裁制の危険性は強まっています。各種の民間の自主組織の組織化のエネルギーが足らなかったのか、権力側の物量作戦(無制限の国家予算)の効果が強力だったのか、少数エリートの寡占支配権力の危険性は増大するばかりである。対米従属の保守権力が崩壊するのは、米国の覇権主義とドル基軸通貨制が崩壊する時である。そこで世界は大きく変わる。

(つづく)

読書ノート 丸山眞夫著 松本礼二編 「政治の世界」 (岩波文庫2014年)

2016年09月27日 | 書評
科学としての政治学の創造を試みた戦後初期の評論集 第7回

3)「政治の世界」 (その2)

次に支配権力の正統化をみてゆこう。被征服者がもし徹底抗戦し最後の一人が殺されるまで戦ったとすれば、これは資源の掠奪であって近代統治ではない。被治者の能動的な服従は、被治者が治者の支配に何らかの意味を認め仲なければ成立しない。その意味が権力の正統性的根拠である。正統性がなければ統治は成立しない。マックス・ウェーバーは歴史的に①伝統的支配、②カリスマ支配、③合法的支配の3つを分類した。丸山は支配の類型を5つとした。第1の類型は家父長制や君主制に見られる伝統的支配です。歴史的伝統はそれ自体が最高の権威をもって被治者のみならず治者をも拘束している。中国の伝統的王朝はいったん成立すると数百年は続くという慣性(惰性)を持っている。第2の類型は統治の正統性を「自然法」に求める場合です。中世から近世にかけての王侯貴族の支配がそれです。第3の類型は近世の絶対君主制の「王権神授説」がそれです。中国王朝の「天命」もそれに近い。第4の類型は統治のエキスパートあるいはエリートが治者となる観念です。いわばカリスマ的正統性となる。カリスマ相続制である天皇制はこれに相当します。宗教的革命者もカリスマ性をもっていました。大衆デモクラシーの人民が卓越した指導者を選択し、その指導者に白紙委任をする傾向が強くなっている。アメリカの大統領制もカリスマ支配である。第5の類型は、近代の正統性的根拠として人民による授権です。フランス革命のときのルソーは「社会契約説」で主権在民を主張した。支配者は自己の支配を人民にょる承認ないしは同意の上に根拠づけます。ヒトラーのファッシズムも最初は人民の同意でスタートしました。社会主義のプロレタリア独裁の人民の意志に基づく権力と主張しました。現在の主要な政治思想は悉く民主主義的正統性に帰一したと言える。これを虚構としないためにも、人民は権力に対して厳しく監視しノーと声を上げなくてはなりません。これはウェーバーのいう合法性に基づく支配です。ただそうした形式的合法性はどこまで行っても実質的正統性とは異なる。つまり人民が作った法に人民が従うという観念が合法性を正当化している。ここに「合法性の虚構」が発生する危険がある。選挙で公約通りに動いた議員はいないのに、彼らの決めることが人民を支配できるとする点に虚構が存在するのだ。ルソーは結局直接民主主義に到達した。効率重視なら議会への白紙委任になる。効率を無視したら一つ一つの重要政策は国民投票となる。我々はいったい何に投票しているのか。小選挙区制では候補者のパーソナリティに、比例投票では政党という政策立案機構に投票し、小選挙区と政党比例投票は真っ向から矛盾している。一旦議員になったら政党の決定(支配)に抵抗できる議員はいない。すると比例投票は意味をなさない。こんな鵺的選挙制度で法の合法性を言われても納得はできない。次に権力行使のための組織化(政府組織・官僚機構)について考える。組織とは構成員・秩序関係・常設機関の要件を備えた、集団の作用能力のことである。こうして現代国家において統治体系をいかに組織化するかが決定的に重要となった。組織原理とされる三権分立を中心に、専門的な官僚制(軍隊を含む)が必要です。議会が統治機構の中で立法機関として重要な地位をしめ行政機関と並立するが、、イギリスの議院内閣制は議会で内閣を選出し官僚の任命権を持つ議会が優位に立ちます。つまり立法府が行政府の根拠を作るからです。ところが、1980年以降新自由主義が盛んになるにつれ官邸の機能強化が図られ、権力の分立では何も決められないという理由で、権力の統合と集中が行われてきた。権力の分立ではなく諸機能の分化と分業であったという統治機構の面目が益々はっきりしてきたのである。こうした傾向をさらに進めると議会政治の実質的な否定になり、ナチスの授権法、日本の国家総動員法などファッシズムの寡占支配の足場となった。組織の高度化や官邸機能の強化集中は少数エリートによる寡占支配となり、社会のエネルギーが低下する。

(つづく)

読書ノート 丸山眞夫著 松本礼二編 「政治の世界」 (岩波文庫2014年)

2016年09月26日 | 書評
科学としての政治学の創造を試みた戦後初期の評論集  第6回

3) 「政治の世界」 (その1) 

本書前半部の中心をなす章である。ラスウエルらのアメリカ政治学の研究から「政治状況の循環モデル」をまず紹介し、そして権力の成立から崩壊までの過程を分析した。現代は情報技術の発達で生活の隅々まで政治化された時代であるという。すなわち政治権力が未曾有の数の人を把握でき、支配できる時代という意味である。横方向の広がりは国際政治(国連と冷戦、広域ブロック化)の圧倒的重要性で、縦方向への広がりはテレビ・映像を通じて個人の生活の内部への政治の浸透状況である。これほど政治が私たちの生活を自由に左右する力を持つからこそ、政治を我々のコントロール下に置くことが死活問題となってくるのです。政治的状況の一番基本的な特徴は、それが一瞬間も静止せず不断に移行することです。つまり政治は運動するという理論だ。政治的常キュの移行ををひとつの循環法則として理解する仕方を「政治力学」と呼ぶ。紛争Cが起き、それが解決されるS過程をC-Sとする。紛争とは広い意味では社会的な価値を巡る争いです。社会的価値とは財貨、資源、知識、威信、勢力、権力のことです。紛争の条件とは当事者が向かい合って、論争による説得から直接暴力行為によって相手を圧伏させることで、そこには紛争は政治的色彩を増す。本来政治的状況は暴力を前提とするのではなく、むしろそれを避けるための方策です。政治的解決は相手に対する何らかの制裁力を背景として、行使の威嚇(暴力、戦争)によってなされる解決のことです。国家間では紛争を最終的に解決する力を「主権」と呼ぶ。政治権力Pが紛争解決の媒介になる構図はC-P-Sとなる。ここに権力の自己目的化(権力のために権力を追求する)傾向が発生する。権力は不断の止むことのない権力の欲望を持つのだ。権力を獲得すると、現在持っている権力を守るためにさらにそれ以上の権力を求めるのだ。戦前の日本軍のように朝鮮ー満州ー中国へと侵略を進めたのと同じ構図です。どこまでが防御的で、どこからが攻撃的かという限界をつけがたい状況である。権力自体の獲得・維持・増大を巡って紛争が起き、その紛争を媒介として権力がさらに肥大してゆく構図は、P-C-S-P'(P<P')となる。権力拡張は国際政治では帝国主義政策です。これは威信誇示の政策とも呼ばれる。政治権力の発生過程を分析するにあたり、まず支配関係の樹立から見てゆこう。支配とは、その社会の最も主要な社会的価値を支配者が占有し、その帰属配分決定権を恣にするためです。だからその支配の出発点は、被支配者の武装解除、その物理的強制装置の解体です。ポツダム宣言によって占領軍が日本を解体した過程を考えましょう。法に依らずいわゆる力による解決が取って代ります。統治関係は典型的には国家において現れ、支配関係は基本的には国家権力を媒介して実現される。資本主義社会を基本とする近代国家の統治関係には2つの顕著な特徴がある。一つは政治権力の直接的な担当者(政府)と、実際上の支配階級との間に一種の分業が成り立っている。つまり政府は支配階級のの代弁者、執行者であり、支配階級そのものではない。支配者とはブルジョワジーのことで自らは手を下しません。第2の特徴は近代国家がいわゆる法治国家という構造を持っていることです。すべての人が社会的地位に関係なく同じ法の下に平等であるという原則です。ブルジョワジーは自身を特別な支配者だとは考えていません。ただ資本家の言うとおりに政府・官僚機構が動くことを陰に陽に要求するだけです。彼らが現代の最も重要な社会的価値である生産手段(資本も含めて)を排他的に所有することによって実質的支配関係は貫徹されるのです。資本と労働の関係も支配関係です。企業体の支配者(古くは財閥、今はホールディング)を「独占政治家」と国家権力の融合が顕著になってくると、近代国家の理念はなくなり、法治主義もかなぐり捨てて、潜在していた支配関係を露骨に主張することを「保守化」と呼び、安倍首相の手法はこの赤裸々な支配者像を見せつけることです。そしてこの寡占支配機構はファッシズムに転化してゆきます。無論それを支持し推進しているのは独占資本家ですが、彼らの支配力の強化維持というよりは、崩壊する支配機構の断末魔の悲鳴です。

(つづく)