明治以来日本が師としたイギリスの覇権確立(パクス・ブリタニカ)の歴史 第14回
第9講 帝国と大衆社会(20世紀前半)
1900年10月夏目漱石はロンドンに到着した。「南アより帰る義勇兵歓迎のため非常の雑踏にて困惑せり」と書いている。南アフリカで始まったオランダ系移民とのボーア戦争(1899-1902)は、チェンバレン率いる統一党と保守党の連合政権ではじまりゲリラ戦で泥沼化して、翌1901年ヴィクトリア王女が死し、エドワード7世(1901-1910)が継承した。中国では義和団事件に出兵した。1902年保守党ソールズベリー内閣は「日英同盟」に調印し、以降イギリスは孤立政策を転換し1904年英仏協商が結ばれた。中国ではイギリスの綿製品は日本やインド製品と競合して追い立てられていた。日本は1895年日清戦争に勝ち、1905年日露戦争で英国から軍艦を買付け、軍事費は政府外債で賄った。イギリスにとって日本はいい投資先であった。日本は1911年には念願の不平等条約を約半世紀ぶりに解消した。こうして日本は軍拡競争、郵船業で世界の列強の仲間入りを果たすのであった。イギリスにとって日本は「舎弟」として扱われた。ヴィクトリア女王の時から「グレートブリテンとアイルランド連合王国の王」と「海外のブリテン人自治国の王」および「インド皇帝」を名乗っていたが、「海外のブリテン人自治国の王」とはカナダ、オーストラリア、ニュージランド、南アフリカのことであり、第2次世界大戦後にはアイルランドが加わる。1907年に植民地会議が「帝国会議」に、1944年から「英連邦会議」と呼ばれるようになった。1931年のウエストミンスター憲章は英連邦の参加国の形式的な対等性を謳っているが、実質的には国家主権を持つ自治国と植民地の2層構造から成っていた。社会層の階級制も堅固で、「トーリーデモクラシー」は階級統合を目指したが、チャーチル(1874-1965)は君主制と国教会による保守的統合と改革を訴えた。自由党が政権を担当したのは、バナマン首相(1905-08)、アスクィス首相(1906-16)、ロイド・ジョージ首相(1916-22)という逸材がいたからであった。特にロイド・ジョージ首相は福祉政策、植民地統治といった難問題にチャレンジした。彼には20世紀前半の大衆社会と国際情勢に対応する自由党の危機意識が顕著にみられた。ケインズの経済学は19世紀の個人主義・放任主義を放棄し、国家の介入による総需要喚起による福祉と戦争遂行であった。ケインズ経済学については、宇沢弘文著 「ケインズ一般理論を読む」(岩波現代文庫)を参照して頂くとして省略する。貧困・労働問題・社会主義に対する精一杯の対抗策であった。ピット、ピール、グラッドストンとロイド・ジョージを比べると、前3者が超エリート校出身の優等生で国教徒であったが、ロイド・ジョージだけは非国教徒で学歴もないたたき上げであった。とはいえ、4人ともに強い意志を持つステイツマンであり、リベラルで、自由貿易主義、権益に縛られない、財政規律派の名宰相であった。
第1次世界大戦(1914-18)でドイツ・ロシアの戦死者(各200万人)は別格として、イギリスも多数の死亡者(100万人)をだし、その数は第2次世界大戦(45万人)の2倍に上ったという。大戦中イギリスは1916年から徴兵制の施行に踏み切った。戦争中にアイルランド独立蜂起と内戦がおき、1921年にアイルランド自由国が独立した。1919年「インド統一法」によって2重権力が定められたが、独立運動はガンジーが不服従・非暴力・スワデシ運動を続けた。イギリスはパレスチナのユダヤ人問題ではオスマントルコに対して「シオニズム運動」を支持し、これが1948年のイスラエル建国につながる。イギリスは中国の上海に多くの権益を持ち、日本と強調して対中国強硬路線を取ったが、日本が中国に軍事進出するにつれ、1932年の満州事変後にはむしろ中国寄りになって日本と対立姿勢を取った。第1次世界大戦後、イギリスでは大衆社会と労働問題が重要な政治課題となった。1918年21歳以上の男性に普通選挙権を定め、1928年には男女に普通選挙権を定めた。1922年にラジオ番組が始まり大衆社会が前面に出た。そして中流階級の下層の社会が形成された。1918年にウエブ夫妻のフェビアン協会が労働党を作り、1924年には労働党内閣が実現した。1920年イギリス共産党が結党された。従来の自由党と保守党の2大政党ゲームは、これ以降労働党と保守党の2大政党に代った。1929年には労働党が再度組閣し、世界恐慌に見舞われると保守党・自由党と大連立の挙国一致内閣(1931-35)が組まれた。中流階級の下層の社会とは別に、ブルジョワ層は新エリートの社会的結合が形成された。これを「ブルームズベリ・グループ」と呼んだ。ブルームズベリとはロンドンの高級住宅街の名前である。エドワード8世(1910-1936)「伊達男王」が退位し、1936年末にヨーク公がジョージ6世(1936-52)として即位した。1939年9月第2次世界大戦がはじまり、1940年ウインストン・チャーチル(1940-45)が挙国一致内閣の首相となった。チャーチルはドイツ軍のロンドン空襲にも耐え、フランスのドゴール将軍の亡命を受け入れて対独・対日戦争を指導し、アメリカのヨーロッパ戦線参加を強く要請した。チャーチルがアメリカとソ連の大国の間で大きな顔ができたのは1945年のヤルタ会談までであった。総選挙で労働党首アリリーに破れ退いた。労働者とインドに敵対したチャーチルをイギリスの有権者がお払い箱にしたのであった。アトリー労働党政権はまず「国民健康サービスNHS」を実現し、次に中央銀行、電信電話などの基幹産業を国営化した。戦後の日本以上に社会主義政策を取った。労働党の福祉政策を理論的に支えたのは、リベラルなケインズ経済学であった。労働党が新自由主義経済学の受け皿となった。ハイエクの新自由主義経済学とケインズ派の論争については宇沢弘文著 「ケインズ一般理論を読む」(岩波現代文庫)を見てください。第2次世界大戦後の世界は圧倒的なプレゼンスを持つアメリカとソ連の間のあいいれない「冷戦」であった。戦中の亡命者を含めて中欧からアメリカ・イギリスへの人材と科学技術の流入は知的プレゼンスの格差をもたらした。イギリスもその恩恵を受けた。アメリカの参戦なしには勝てなかった英仏のアメリカへの従属は、NATOとOECDとなって、欧州経済共同体という可能性を追求することになった。戦後イギリスが直面する課題は帝国と植民地問題であった。1947年インドとパキスタン共和国が独立し、1949年アイルランド共和国が独立した。アジアと中国の権益(香港を除いて)もすべて失った。
(つづく)
第9講 帝国と大衆社会(20世紀前半)
1900年10月夏目漱石はロンドンに到着した。「南アより帰る義勇兵歓迎のため非常の雑踏にて困惑せり」と書いている。南アフリカで始まったオランダ系移民とのボーア戦争(1899-1902)は、チェンバレン率いる統一党と保守党の連合政権ではじまりゲリラ戦で泥沼化して、翌1901年ヴィクトリア王女が死し、エドワード7世(1901-1910)が継承した。中国では義和団事件に出兵した。1902年保守党ソールズベリー内閣は「日英同盟」に調印し、以降イギリスは孤立政策を転換し1904年英仏協商が結ばれた。中国ではイギリスの綿製品は日本やインド製品と競合して追い立てられていた。日本は1895年日清戦争に勝ち、1905年日露戦争で英国から軍艦を買付け、軍事費は政府外債で賄った。イギリスにとって日本はいい投資先であった。日本は1911年には念願の不平等条約を約半世紀ぶりに解消した。こうして日本は軍拡競争、郵船業で世界の列強の仲間入りを果たすのであった。イギリスにとって日本は「舎弟」として扱われた。ヴィクトリア女王の時から「グレートブリテンとアイルランド連合王国の王」と「海外のブリテン人自治国の王」および「インド皇帝」を名乗っていたが、「海外のブリテン人自治国の王」とはカナダ、オーストラリア、ニュージランド、南アフリカのことであり、第2次世界大戦後にはアイルランドが加わる。1907年に植民地会議が「帝国会議」に、1944年から「英連邦会議」と呼ばれるようになった。1931年のウエストミンスター憲章は英連邦の参加国の形式的な対等性を謳っているが、実質的には国家主権を持つ自治国と植民地の2層構造から成っていた。社会層の階級制も堅固で、「トーリーデモクラシー」は階級統合を目指したが、チャーチル(1874-1965)は君主制と国教会による保守的統合と改革を訴えた。自由党が政権を担当したのは、バナマン首相(1905-08)、アスクィス首相(1906-16)、ロイド・ジョージ首相(1916-22)という逸材がいたからであった。特にロイド・ジョージ首相は福祉政策、植民地統治といった難問題にチャレンジした。彼には20世紀前半の大衆社会と国際情勢に対応する自由党の危機意識が顕著にみられた。ケインズの経済学は19世紀の個人主義・放任主義を放棄し、国家の介入による総需要喚起による福祉と戦争遂行であった。ケインズ経済学については、宇沢弘文著 「ケインズ一般理論を読む」(岩波現代文庫)を参照して頂くとして省略する。貧困・労働問題・社会主義に対する精一杯の対抗策であった。ピット、ピール、グラッドストンとロイド・ジョージを比べると、前3者が超エリート校出身の優等生で国教徒であったが、ロイド・ジョージだけは非国教徒で学歴もないたたき上げであった。とはいえ、4人ともに強い意志を持つステイツマンであり、リベラルで、自由貿易主義、権益に縛られない、財政規律派の名宰相であった。
第1次世界大戦(1914-18)でドイツ・ロシアの戦死者(各200万人)は別格として、イギリスも多数の死亡者(100万人)をだし、その数は第2次世界大戦(45万人)の2倍に上ったという。大戦中イギリスは1916年から徴兵制の施行に踏み切った。戦争中にアイルランド独立蜂起と内戦がおき、1921年にアイルランド自由国が独立した。1919年「インド統一法」によって2重権力が定められたが、独立運動はガンジーが不服従・非暴力・スワデシ運動を続けた。イギリスはパレスチナのユダヤ人問題ではオスマントルコに対して「シオニズム運動」を支持し、これが1948年のイスラエル建国につながる。イギリスは中国の上海に多くの権益を持ち、日本と強調して対中国強硬路線を取ったが、日本が中国に軍事進出するにつれ、1932年の満州事変後にはむしろ中国寄りになって日本と対立姿勢を取った。第1次世界大戦後、イギリスでは大衆社会と労働問題が重要な政治課題となった。1918年21歳以上の男性に普通選挙権を定め、1928年には男女に普通選挙権を定めた。1922年にラジオ番組が始まり大衆社会が前面に出た。そして中流階級の下層の社会が形成された。1918年にウエブ夫妻のフェビアン協会が労働党を作り、1924年には労働党内閣が実現した。1920年イギリス共産党が結党された。従来の自由党と保守党の2大政党ゲームは、これ以降労働党と保守党の2大政党に代った。1929年には労働党が再度組閣し、世界恐慌に見舞われると保守党・自由党と大連立の挙国一致内閣(1931-35)が組まれた。中流階級の下層の社会とは別に、ブルジョワ層は新エリートの社会的結合が形成された。これを「ブルームズベリ・グループ」と呼んだ。ブルームズベリとはロンドンの高級住宅街の名前である。エドワード8世(1910-1936)「伊達男王」が退位し、1936年末にヨーク公がジョージ6世(1936-52)として即位した。1939年9月第2次世界大戦がはじまり、1940年ウインストン・チャーチル(1940-45)が挙国一致内閣の首相となった。チャーチルはドイツ軍のロンドン空襲にも耐え、フランスのドゴール将軍の亡命を受け入れて対独・対日戦争を指導し、アメリカのヨーロッパ戦線参加を強く要請した。チャーチルがアメリカとソ連の大国の間で大きな顔ができたのは1945年のヤルタ会談までであった。総選挙で労働党首アリリーに破れ退いた。労働者とインドに敵対したチャーチルをイギリスの有権者がお払い箱にしたのであった。アトリー労働党政権はまず「国民健康サービスNHS」を実現し、次に中央銀行、電信電話などの基幹産業を国営化した。戦後の日本以上に社会主義政策を取った。労働党の福祉政策を理論的に支えたのは、リベラルなケインズ経済学であった。労働党が新自由主義経済学の受け皿となった。ハイエクの新自由主義経済学とケインズ派の論争については宇沢弘文著 「ケインズ一般理論を読む」(岩波現代文庫)を見てください。第2次世界大戦後の世界は圧倒的なプレゼンスを持つアメリカとソ連の間のあいいれない「冷戦」であった。戦中の亡命者を含めて中欧からアメリカ・イギリスへの人材と科学技術の流入は知的プレゼンスの格差をもたらした。イギリスもその恩恵を受けた。アメリカの参戦なしには勝てなかった英仏のアメリカへの従属は、NATOとOECDとなって、欧州経済共同体という可能性を追求することになった。戦後イギリスが直面する課題は帝国と植民地問題であった。1947年インドとパキスタン共和国が独立し、1949年アイルランド共和国が独立した。アジアと中国の権益(香港を除いて)もすべて失った。
(つづく)