ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 近藤和彦著 「イギリス史10講」 岩波新書(2013年)

2015年02月28日 | 書評
明治以来日本が師としたイギリスの覇権確立(パクス・ブリタニカ)の歴史  第14回

第9講 帝国と大衆社会(20世紀前半)

 1900年10月夏目漱石はロンドンに到着した。「南アより帰る義勇兵歓迎のため非常の雑踏にて困惑せり」と書いている。南アフリカで始まったオランダ系移民とのボーア戦争(1899-1902)は、チェンバレン率いる統一党と保守党の連合政権ではじまりゲリラ戦で泥沼化して、翌1901年ヴィクトリア王女が死し、エドワード7世(1901-1910)が継承した。中国では義和団事件に出兵した。1902年保守党ソールズベリー内閣は「日英同盟」に調印し、以降イギリスは孤立政策を転換し1904年英仏協商が結ばれた。中国ではイギリスの綿製品は日本やインド製品と競合して追い立てられていた。日本は1895年日清戦争に勝ち、1905年日露戦争で英国から軍艦を買付け、軍事費は政府外債で賄った。イギリスにとって日本はいい投資先であった。日本は1911年には念願の不平等条約を約半世紀ぶりに解消した。こうして日本は軍拡競争、郵船業で世界の列強の仲間入りを果たすのであった。イギリスにとって日本は「舎弟」として扱われた。ヴィクトリア女王の時から「グレートブリテンとアイルランド連合王国の王」と「海外のブリテン人自治国の王」および「インド皇帝」を名乗っていたが、「海外のブリテン人自治国の王」とはカナダ、オーストラリア、ニュージランド、南アフリカのことであり、第2次世界大戦後にはアイルランドが加わる。1907年に植民地会議が「帝国会議」に、1944年から「英連邦会議」と呼ばれるようになった。1931年のウエストミンスター憲章は英連邦の参加国の形式的な対等性を謳っているが、実質的には国家主権を持つ自治国と植民地の2層構造から成っていた。社会層の階級制も堅固で、「トーリーデモクラシー」は階級統合を目指したが、チャーチル(1874-1965)は君主制と国教会による保守的統合と改革を訴えた。自由党が政権を担当したのは、バナマン首相(1905-08)、アスクィス首相(1906-16)、ロイド・ジョージ首相(1916-22)という逸材がいたからであった。特にロイド・ジョージ首相は福祉政策、植民地統治といった難問題にチャレンジした。彼には20世紀前半の大衆社会と国際情勢に対応する自由党の危機意識が顕著にみられた。ケインズの経済学は19世紀の個人主義・放任主義を放棄し、国家の介入による総需要喚起による福祉と戦争遂行であった。ケインズ経済学については、宇沢弘文著 「ケインズ一般理論を読む」(岩波現代文庫)を参照して頂くとして省略する。貧困・労働問題・社会主義に対する精一杯の対抗策であった。ピット、ピール、グラッドストンとロイド・ジョージを比べると、前3者が超エリート校出身の優等生で国教徒であったが、ロイド・ジョージだけは非国教徒で学歴もないたたき上げであった。とはいえ、4人ともに強い意志を持つステイツマンであり、リベラルで、自由貿易主義、権益に縛られない、財政規律派の名宰相であった。

 第1次世界大戦(1914-18)でドイツ・ロシアの戦死者(各200万人)は別格として、イギリスも多数の死亡者(100万人)をだし、その数は第2次世界大戦(45万人)の2倍に上ったという。大戦中イギリスは1916年から徴兵制の施行に踏み切った。戦争中にアイルランド独立蜂起と内戦がおき、1921年にアイルランド自由国が独立した。1919年「インド統一法」によって2重権力が定められたが、独立運動はガンジーが不服従・非暴力・スワデシ運動を続けた。イギリスはパレスチナのユダヤ人問題ではオスマントルコに対して「シオニズム運動」を支持し、これが1948年のイスラエル建国につながる。イギリスは中国の上海に多くの権益を持ち、日本と強調して対中国強硬路線を取ったが、日本が中国に軍事進出するにつれ、1932年の満州事変後にはむしろ中国寄りになって日本と対立姿勢を取った。第1次世界大戦後、イギリスでは大衆社会と労働問題が重要な政治課題となった。1918年21歳以上の男性に普通選挙権を定め、1928年には男女に普通選挙権を定めた。1922年にラジオ番組が始まり大衆社会が前面に出た。そして中流階級の下層の社会が形成された。1918年にウエブ夫妻のフェビアン協会が労働党を作り、1924年には労働党内閣が実現した。1920年イギリス共産党が結党された。従来の自由党と保守党の2大政党ゲームは、これ以降労働党と保守党の2大政党に代った。1929年には労働党が再度組閣し、世界恐慌に見舞われると保守党・自由党と大連立の挙国一致内閣(1931-35)が組まれた。中流階級の下層の社会とは別に、ブルジョワ層は新エリートの社会的結合が形成された。これを「ブルームズベリ・グループ」と呼んだ。ブルームズベリとはロンドンの高級住宅街の名前である。エドワード8世(1910-1936)「伊達男王」が退位し、1936年末にヨーク公がジョージ6世(1936-52)として即位した。1939年9月第2次世界大戦がはじまり、1940年ウインストン・チャーチル(1940-45)が挙国一致内閣の首相となった。チャーチルはドイツ軍のロンドン空襲にも耐え、フランスのドゴール将軍の亡命を受け入れて対独・対日戦争を指導し、アメリカのヨーロッパ戦線参加を強く要請した。チャーチルがアメリカとソ連の大国の間で大きな顔ができたのは1945年のヤルタ会談までであった。総選挙で労働党首アリリーに破れ退いた。労働者とインドに敵対したチャーチルをイギリスの有権者がお払い箱にしたのであった。アトリー労働党政権はまず「国民健康サービスNHS」を実現し、次に中央銀行、電信電話などの基幹産業を国営化した。戦後の日本以上に社会主義政策を取った。労働党の福祉政策を理論的に支えたのは、リベラルなケインズ経済学であった。労働党が新自由主義経済学の受け皿となった。ハイエクの新自由主義経済学とケインズ派の論争については宇沢弘文著 「ケインズ一般理論を読む」(岩波現代文庫)を見てください。第2次世界大戦後の世界は圧倒的なプレゼンスを持つアメリカとソ連の間のあいいれない「冷戦」であった。戦中の亡命者を含めて中欧からアメリカ・イギリスへの人材と科学技術の流入は知的プレゼンスの格差をもたらした。イギリスもその恩恵を受けた。アメリカの参戦なしには勝てなかった英仏のアメリカへの従属は、NATOとOECDとなって、欧州経済共同体という可能性を追求することになった。戦後イギリスが直面する課題は帝国と植民地問題であった。1947年インドとパキスタン共和国が独立し、1949年アイルランド共和国が独立した。アジアと中国の権益(香港を除いて)もすべて失った。

(つづく)

読書ノート 近藤和彦著 「イギリス史10講」 岩波新書(2013年)

2015年02月27日 | 書評
明治以来日本が師としたイギリスの覇権確立(パクス・ブリタニカ)の歴史 第13回

第8講 ヴィクトリア時代(19世紀) (その2)

ヴィクトリア女王の治世(1837-1901)の即位後はホイッグ貴族メルバン首相の後見でドイツ貴族アルバートと1839年に結婚した。アルバートは聡明な貴族で1851年「大博覧会」を成功させ、各国での「万博」の基となった。アルバートは美術学校、王立音楽学校、自然史博物館などを集積する学芸地区を建設した。ヴィクトリア女王とアルバートの家庭生活は「ヴィクトリア風の価値感」、「近代ブルジョワ理念」として理想視された。バジョットは「イングランドの憲政・国制」(1867)の中でこう述べている。「国制は尊厳と実行の2面から成り立ち、君主と貴族院は尊厳を代表する。国民的アイデンティティを具現化し表象すればいい。実効統治は首相と内閣が行う、王は君臨し内閣が統治するのである」 これが現代立憲君主の課題であるという。イギリス社会のチャリティの時代は強力であった。1601年「チャリティ用益法」は今も生きているし、4つの公益、貧困救済・教育・宗教・コミュニティに関係することをすべて含み、慈愛より「信託法」による任意活動であることが重要である。チャリティは「小さな国家」の福祉政策まで侵入し代行したといわれる。イギリス社会では民間公共社会が強靭で、革命によって社団を否定し中央集権に走ったフランス、あらゆる場面に行政が顔を出すドイツとは異なる。さて現在の日本型福祉はフランス・ドイツの性格が強いと思うがどうだろうか。1848年ヨーロッパの革命とその敗北から亡命者がロンドンに集結した。ロンドンはコスモポリタンな世界都市となった。1851年は近代史の指標となる年である。大博覧会の成功、英仏海峡の海底電線敷設、国内信教調査であった。教会に礼拝に行く人が3割くらいで、特に国教徒はさらににその半分であった。つまりイギリスもはや国教会の信教国家ではなかった。少数派のカトリック解放は1829年に実現した。ロンドン大学が脱信教の大学ベンサマイト大学として設立され、1858年には議員の信教宣誓義務を廃止し、1871年には教職員・学生の国教会信奉のテストを廃止した。1853年に日本に開国を迫ったのはアメリカのペリー提督だが、その後アメリカは南北戦争で騒然として出てこなかったが、イギリスが西洋事情の情報発信国であった。日本の幕末の海外留学生152名中、56名の渡航先がイギリスであった。徳川幕府を支援したのはフランス、薩長を支援したのは英国で、大砲から軍艦、明治入って郵便、海軍もイギリスの技術導入に依った。福沢諭吉は1862年幕府使節団としてヨーロッパに派遣され、後に「西洋事情」を著し主として英国事情を紹介して読者に近代日本の選択肢を示した。福沢諭吉著 「学問のすすめ」、「文明論之概略」は西洋文明を採用するほかには、日本の近代化はあり得ないと断言し、とりわけ日本の独立のためにも文明開化を強調した。1871年岩倉具視使節団が欧州とアメリカを訪問し、日の没することがない大英帝国を目の前にした感慨を「米欧回覧実記」に述べている。逆にイギリス人外交官から見た幕末日本の状況はアーネスト・サトウ著 「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫)に詳しい。
19世紀のイギリスの輸出品第1位は綿製品、2位は鉄鋼、そして機械、石炭であった。アメリカやドイツとの競争の結果イギリスはいつも貿易赤字が続いた。先進国は貿易赤字、後進国は貿易黒字という構図は今も昔も変わらない。今のアメリカの貿易赤字、中国の貿易黒字(かっては日本が貿易黒字であった)である。しかしイギリスは経常収支は19世紀中は黒字であった。つまり海運や保険業、海外投資による貿易外収支が貿易赤字を上回っていた。特に19世紀後半から黒字幅は大幅に拡大した。ブリタニカの繁栄は「ものつくり」よりも、非製造ビジネスからの収入に依った。イギリスの教育は多様な形態の基金立のグラマースクール、パブリックスクールがエリート養成を行った。19世紀のイギリスの労働者は友愛組合に依った。ロバート・オーエン(1771-1858)はユートピア社会主義者で労働組合を組織した。1851年「労働組合評議会」が労働貴族の指導するところとなり、自由党の支持基盤となった。1871年「労働組合法」ができて団結権を得たが、主人と召使の関係は長く続いた。世紀末にはグラスゴーの工業地帯では労働運動や社会主義運動が目立ってきた。1883年マルクスは資本論を完成しないままロンドンで亡くなった。1884年「セツルメント」としてトインビーホールが設立され、人口の3割が貧困層であるという調査結果が出た。同年バーナード・ショーが「フェビアン協会」を設立した。1887年トラファルガー広場で失業者が集まり「血の日曜日事件」となった。ガンディが青年弁護士としてインドで活動を開始したのが1991年であった。

(つづく)

読書ノート 近藤和彦著 「イギリス史10講」 岩波新書(2013年)

2015年02月26日 | 書評
明治以来日本が師としたイギリスの覇権確立(パクス・ブリタニカ)の歴史 第12回

第8講 ヴィクトリア時代(19世紀) (その1)

 ヴィクトリア女王の治世(君臨すれども統治せずであるが)(1837-1901)を「栄光のヴィクトリア時代」とよぶ。パクス・ブリタニカの時代に合致する。ボラニーは19世紀イギリス史を市場経済の人類史における「大変動・大転換」と呼んだ。国の体制に関する考え方を近代的に変換することである。国教会とカトリック問題、議会の選挙法、国家財政健全化と金融不安、「穀物法」関税問題、アジア貿易とインド統治問題、外交方針、社会福祉問題、産業政策など、旧秩序原理が立ち行かなくなっていた。19世紀になって改革の時代に突入したのである。近代化問題に取り組んだ国民的リーダー(国家指導者)はまず、トーリー党のウィリアム・ピット(1759-1806)であった。1783年に首相になって、ピットは対フランス同盟からルイ13世の処刑後の1793年から戦線に参加した。ナポレオンのヨーロッパ帝国に対決した自由主義者であった。1800年「グレートブリテン・アイルランド連合王国法」を制定した。イギリス近代の経験主義とは、フランスの理想主義とは対比をなす。世の中の秩序は複合的な要素の調和にあるとして、状況に応じて適応する「時効取得のシステム」こそイギリス憲政であり、古来の国制であると自由主義者バークはいう。公共精神の立場から国家政策を考え行動する政治家をステイツマンと呼ぶ。ピット、ピール、グラッドストンの系列のステイツマンが「改革の世紀」19世紀にイギリスの諸問題に取り組んだ。ステイツマンを導いた精神は、①プロテスタントの福音伝道主義、②功利主義すなわちブルジョワ合理主義、③古典派経済学であった。ピットの後の首相は、カースルレイ、キャニング、リバプール、ハスキン、ウエリントンと続いたが、1830年よりホイッグ党に政権は移った。グレイ、メルバン、パーマストン、ラッセル、ブルーム、ミル親子らがいた。財政やインド問題について説明責任が問われる中、ホイッグ党はベンサム(1748-1832)流の功利主義であった。1832年に選挙法改正、33年の奴隷制廃止、工場法、東インド会社法、34年に貧民知策法、35年に都市自治体法を実現した。問題別に勅任国家公務員が辣腕を発揮したのもこのころであった。1838年男子普通選挙権、秘密投票の「人民憲章」というチャーティズムが提出された。貴族・富裕者にかわる人民の政治を求めたのである。ブルジョワ急進主義者は地主貴族階級が敵であるとして勤労者階級と「穀物法反対協会」を作った。1842年にかけて運動は大きく盛り上がり階級闘争に発展した。トーリー党のロバート・ピール(1788-1850)が1834年に首相となって、ピット、ピール、グラッドストンの系列のステイツマンは健全国家財政であったので、1846年についに穀物法すなわち地主保護法は廃止された。チャーティスト運動は無視された。トーリ党の首相グラッドストン(1809-1898)はアヘン戦争に反対したが、首相になってからは予算案を重視した近代議会政治の伝統を作ったといわれる。トーリー党のディズレーリ(1804-1881)は1850年ピールの死後、トーリ党の分解をへて首相となり、国教会・君主制・家父長主義によって秩序維持をはかり階級問題にあたった。貴族的自由主義ではもはやイギリスの難問題は解決できないことは明白であった。

(つづく)

読書ノート 近藤和彦著 「イギリス史10講」 岩波新書(2013年)

2015年02月25日 | 書評
明治以来日本が師としたイギリスの覇権確立(パクス・ブリタニカ)の歴史 第11回

第7講 産業革命と近代世界(18世紀~19世紀前半)

 本講は前の第6講と次の第8講に交錯する(重複する)過渡期の話題(テーマ的著述)が中心である。だから18世紀から19世紀にまたがる問題を議論する。まず国制については、1707年のスコットランド併合による連合王国グレートブリテンの誕生、1714年ハノーヴァー王朝の同君連合、1750年インド植民地の開始、1760年からのアメリカ植民地13州問題、1780年からアイルランド問題、1789年フランス問題であるが、第2次百年戦争の流れでイギリスの国制が変化したのである。アメリカとアイルランドへの植民は17世紀初頭ジョージ1世から始まる政策の一環であって、「迫害されたピュリタン教徒の移民」というのは後世の虚構に過ぎない。スペイン継承戦争(1701-13)の結果、イギリスはジブラルタル港を得ただけでなく、ポルトガル通商同盟、アフリカ奴隷のスペイン領供給契約という特権を得た。西インド諸島にアフリカ黒人をサトウキビ栽培奴隷として輸出し、できた砂糖を本国へ輸出するという三角貿易であった。この多角貿易の利益なくしては産業革命はなかったといわれる。北アメリカへの入植者エリートは忠実なジョージ3世(1760-1820)の忠臣であったが、イギリス本国が7年戦争後の財政再建のために印紙税や茶税を次々と課したため、アメリカ属州は反抗した。そして1776年の独立宣言となった。フランスはアメリカ独立軍を支持し、スペイン、ロシアも追随したためイギリスは孤立し敗北した。1786年英仏は通商条約をむすび、フランスのワインとイギリスの綿織物を交換する条約である。イギリスではビット内閣(1783-1806)の経済行政改革が成功したが、フランスの財政改革は貴族の反動によって挫折し経済状況は明暗を分けた。1789年はイギリスでは蒸気機関によるマンチェスター綿紡績工場が始動し、フランスでは革命となった。産業革命とは19世紀のエンゲルス・トインビによる命名である。機械性工場、蒸気機関、貧富の差、景気変動と言った近代の問題に結びつけた。18世紀後半から始まった生産力の革新に伴う世界経済の再編成のことである。工場生産による産業資本主義が確立した。科学革命、啓蒙思想、消費生活、旺盛な商品需要による貿易赤字が刺激し続けた結果であった。インドのキャラコと言った贅沢衣料、中国の陶磁器などの舶来品、染料などの国内生産のために、特許、立法、金融、司法が起業家を育成した。機械学や化学、農業の発明や技術革新がその後押しをした。イギリスの輸出品の第1位であった毛織物が綿製品に取って代わられたのは19世紀初めであった。ウエジウッドの陶磁器、蒸気機関の実用化は18世紀末、鉄道の営業開始は1825年と続いた。統計経済学によると、1700-1800年の間のGDPは年0.7%にすぎず、1800年を過ぎて1.3%から1.97%に達した。本格的な経済成長が始まったのは鉄道が開設された1825年の好景気になってからであり、それまでは1780年代の産業革命の進展といっても経済的富は遅々たる歩みであった。産業革命は第2のグローバル化の契機となった。イギリスは資本主義の世界システムの中核となって、以降の世界史はイギリスのパクス・ブリタニカの歴史として語られるのである。18世紀後半には海外貿易、産業技術は、オランダ、イギリス、フランスの間で拮抗していたが、オランダの技術はイギリスに移行し、イギリスでは議会制政治と財政軍事国家システムがうまく機能し、大国フランスは覇権主義によるうち続く戦争が財政赤字を生み、革命とナポレオン戦争(1789-1815)によって経済的に脱落した。イギリスは世界経済の中心となって、「世界の工場」、「世界の銀行(ロスチャイルド金融ネットワーク)」、「世界の司令部(大英艦隊)」となった。ロンドンの人口は240万人となって「世界の首都」となった。それに対抗する群と従属する群の世界の3層構造システムが出来上がった。1840年には日本はイギリス資本主義の世界システムに編入され、明維新後は従属群から対抗群への変身が図られるのである。

(つづく)

読書ノート 近藤和彦著 「イギリス史10講」 岩波新書(2013年)

2015年02月24日 | 書評
明治以来日本が師としたイギリスの覇権確立(パクス・ブリタニカ)の歴史 第10回

第6講 財政軍事国家と啓蒙(18世紀)

 16-18世紀を近世と呼ぶが、長期の社会経済を「統計」から見てゆこう。イングランドの人口は1550年ごろ300万人に満たなかったが、1650年ごろには500万人に増加した。その後100年間は人口は停滞し、1750年以降急速に人口が増加する。1800年には人口は1000万人1850年ごろには2000万人と爆発的に増加した。ヨーロッパ各地での小麦価格の最高と最低の幅を見ると、1500年ごろ10倍以上の価格差があったが、1600年ごろは5倍に縮小し、1700年には2.5倍に、1750年頃には2倍の価格差に収れんしていった。小麦価格が平準化し、ヨーロッパ全域が一つの市場圏として機能してきた兆しであった。価格が高かったのは地中海沿岸国で、価格が低かったのは北方諸国であった。ヨーロッパの商業が地中海から北漸する「商業革命」のテーゼを示す。北ヨーロッパを中心とする広域経済システムへの統合が進み、18世紀にはイギリスがその頂点に立つ「近代世界システム」が形成された。農業革命は17世紀末からバルトの小麦に競争するべく、オランダ、フランス、イギリスで潅漑技術や農法改良による農業生産力が高まった。では目をイングランドとフランスの政治情勢に移そう。ジェームス2世が亡命先のフランスで亡くなると、ルイ14世はジェイムス3世を立ててイギリス王位継承に干渉し、スペイン継承戦争(1701-13)の開始に重なって、英仏の抗争「第2次百年戦争」(1689-1815)が1815年ナポレオン敗北まで続いたのである。フランスが援助するジェームス王派「ジャコバイト」の暗躍はスコットランドでくすぶり続けた。1702年ウィリアム3世の死によって、イギリス・オランダ連合は解消したが、議会は「王位継承法」によって王位継承順を先取りし、アン女王(1702-13)の次はハノーヴァ選帝侯ジョージ1世と決めていた。名誉革命体制を守るため議会の決定が優先した。1707年スコットランドのジャコバイト対策として、スコットランドの主権を吸収し連合王国グレートブリテンが誕生した。1714年ジョージ1世(1714-27)が即位しハノ-ヴァ―朝が始まった。1698年より議会の承認により常備軍を維持できるようになり、ロジスティックにかかる財政、国富、国民のコンセンサスが要となった。議会は関税と臨時税だけでは戦費が賄えないので、直接税を創設し、国債を発行し、特定商品には消費税をかけ、イングランド銀行という中央銀行を作り、財政の充実を図った。こうしてウィリアム3世のイギリスは王家の家産国家ではなく、議会の決定による近代的な財政国家となった。フランスのような絶対主義の官僚国家ではなく、「財政軍事国家」がイギリスに出現した。イギリスの国制の要は議会である。議会という統治機関は、国制、税制、外交、予算ばかりでなく、地方の請願、利害関係者のロビーイングを受けて立法による国民の合意を図った。長い18世紀の百年戦争は、軍事兵站、財政、国民的コンセンサスを得て戦われた。

 18世紀の英国の政治文化の基本形は、英文学におけるオーガスタン(古典文芸全盛期)のもと、政権党ホイッグ党と野党トーリ党の2極化に、国教会派の2極化つまり低教会派と高教会派が加わった。ホイッグ党は非国教会派プロテスタントと低国教会派を取り込み、トーリー党は高国教会派に分かれて政治的・文化的に対立した形式である。それ以外にカトリックのジャコバイト派がスコットランドに残存していた。ホイッグ・低国教会派は聖書を重んじ国家理性、経済合理主義の立場に立ち、長期政権を維持したウォルポール(1721-42)は健全財政と和平を旨とした英仏の連携の道を探った緊張緩和策を取った。これにたいしてトーリ・高国教会派は教会の権威と伝統的秩序をを重んじ、非国教会プロテスタントを圧迫した。高国教会派からメソジストが分離し熱心に北アメリカに伝道した。1715年トーリ・ジャコバイトがスコットランドで小規模な反乱を起し、1745年にもチャーリ皇子を担いで反乱を起したがその時代感覚のなさにトーリ党からも見放された。これがスコットランド王朝の最後の反乱となって終息した。18世紀の秩序と政治文化の前提として全ヨーロッパ的な啓蒙と商業社会があった。大航海と人文主義と科学革命によって拡大した世界を総合的に理解し旧態を批判する「啓蒙の世紀」であある。17世紀の中ごろチャールズ2世が後援する学者のサロン「ロイヤル・ソサエティ」は「学術紀要」を発行し、近代的な学問・科学の条件が整いつつあった。化学者ボイル、天文学者レン、物理学者ニュートンらが集い、ロンドン市にはジョージアン様式という耐火煉瓦と石造りの建築物で都市開発が進み、ロンドン市には以降大火はなかったという。ダブリンの議事堂、聖ポール大聖堂、ロンドン橋などの都市のルネッサンスにふさわしい街並みが出来上がっていった。1695年に検閲法が失効すると、18世紀初めから日刊新聞・各種雑誌など商業出版物の刊行と1726年図書館の整備にはじまるメディアの時代になった。そのころの英語は「近代英語」である。啓蒙を代表するのは、1751年パリで刊行された「百科全書」と1659年の大英博物館であった。1729年ロンドンでチェンバーズの「百科事典」が刊行されたが、フランスのデイドロ・ダランベールの「百科事典」計35巻ははるかに凌駕していた。この成功に刺激され1768年「ブルタニカ百科事典」の刊行を見た。大英博物館には美術館・資料館・図書館・文書館・劇場を含む総合的な展示劇場である。カントが言う「理性の公共的使用」の具現化であった。アダムスミスの1759年「社会(道徳)感情論」、1776年「国富論」を著し、スチュアートは1767年「政治経済学原理」を著し、古典経済学の始まりとなった。18世紀後半のイギリスを主導するのはスコットランド啓蒙的治世とベンサムのブルジョワ的合理主義、プロテスタント福音伝道主義であった。フランスからのワインとファッションだけでなく、佐藤、絹織物、さらさ、染料、陶磁器など魅力的な商品がイギリスに到来し消費生活は拡大した。イギリスには毛織物以外にこれといった輸出がなかったので、当然貿易赤字も拡大した。これを支えていたのが植民地維持と外交通商条約と国内生産技術の開発であった。こうして英国では植民地帝国、通商(重商主義)と産業革命が進行したのである。 (つづく)