ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 デカルト著 井上庄七・森啓・野田又夫訳 「省察 情念論」 (中公クラシック 2002年)

2019年01月31日 | 書評
近代哲学・科学思想の祖 デカルトの道徳論 第7回

1) 神野慧一郎著「デカルトの道徳論」 (その2)

これまでデカルトは道徳を論じた哲学者とは見なされず、専ら認識論と近代的自然観を確立した哲学者と考えられてきた。『哲学の原理』の序文でデカルトは「哲学は知恵の探求を意味する」と述べた。智恵は知識とは違い自分の知りうるあらゆることについての完全な知識(良く生きるという道徳を含む)をも指す。デカルトは学問の本来の目的はよい生き方をすることであるという。『方法論序説』における「暫定的道徳」の発想からもそれは明らかである。デカルトは若いころから読書よりも世間という大きな読書をすると宣言し、立派な行動人たらんと務めた。デカルトはストア派哲学を学んだが、デカルトとストオ派には違いも多い。ストア派は理性の行使が自然に従って生きることつまりよく生きることであった。デカルトは理性の使用とは方法論序説の到達点に従うことである。自然科学の成果は宇宙、医学と密接に関係し、デカルトは近代科学思想の祖と言われ。人間本性の理解が道徳論に大きく関係することは言うまでもないが、アリストテレスやスコラ哲学、ストア派哲学は、人間本性を「理性的」とする一面を強調するきらいがあった。デカルトの人間理解は理性だけでなく、感覚や知覚、情念をも日常的人間存在の中に入れ、心身の合一を認めることにより道徳論を展開した。心身の合一の次元こそ道徳の次元である。『情念論』は人間の情念や情動の生理学的基礎をあたえることに言葉を費やしている。デカルトの情念論は、人間の意識そのものを論及し、意識、中でも情念が我々の道徳的生の実質を為すと考えるのである。広い意味では情念とは我々の受動的意識のことであり、精神の意思の働き(能動的)でないものすべてを含むのである。情念や情動はさまざまな生理的状態によって引き起こされる「心の受容」である。外感(外部感覚)、内感(身体の内部感覚)、情念(受動的意識)と3つに分かたれる。脳における出来事と精神(心)に生じる意識をつなぐ場所がデカルトのいう「松果腺」である。動物精気(神経信号伝達)の制御の中心とデカルトは見なしている。我々は意識を直接的に制御していると思っているが、受動的な意識の働きは精神の直接的な制御下にはない。動物行動学と人間行動学の差異がここにある。すなわちアリストテレス的徳に行動学的、生理学的基礎を与えるものである。デカルトは『情念論』において、六つの基本的な情念を選んだ。「驚き」、「愛」、「憎しみ」、「欲望」、「喜び」、「悲しみ」である。『情念論』は三部から成り立っており、第一部では情念一般、第二部では六つの情念について、第三部は特殊情念の説明である。もっとも重要とされる「高邁(けだかさ)」である。第一部で我々の意識の底にある受動性を、知性と意思の能動性によって支配しようということである。デカルトはアリストテレス―スコラの情念論の必然性を排し、心中の矛盾と考えられるものを心と身体の働き合いとして客観的にみるべきだという。デカルトは魂が肉体の消滅後も残るということによってキリスト教的神学も満足させた。では心の能動性を高めるにはどうしたらいいかという問いには、真実に基づく決意すなわち真なる判断力であるという。エリザベト王女とデカルトの出会いは1642年であり、王女がデカルトに「心身関係の矛盾」の問いを発したのは1643年5月であった。本書に収められた二人の書簡は1945年のもので、道徳の問題に集中した交信であった。『情念』の出版は1649年であった。デカルトが己の進むべき道としたのは、もちろん真理探求そのものであったが、彼は自らの情念を真と偽に見分けることに集中した。デカルトは『情念論』の最終項に「人生の善と悪のすべては、ただ情念のみに依存する」といった。「実際的哲学、すなわち情念によって最も多く動かされる人が、この世において最も多くの楽しみを味わう」が彼の結論である。

(つづく)


文芸散歩 デカルト著 井上庄七・森啓・野田又夫訳 「省察 情念論」 (中公クラシック 2002年)

2019年01月30日 | 書評
近代哲学・科学思想の祖 デカルトの道徳論  第6回

1) 神野慧一郎著「デカルトの道徳論」 (その1)

「省察」の訳者は井上庄七氏、森啓氏であり、「情念論」と「書簡集」の訳者は野田又夫氏である。そしてこの総論あるいは解説とも言うべき本章を著したのは神野慧一郎氏である。この4名の共通点は京都大学文学部哲学科卒業ということである。生年は井上氏が1924年、森氏が1935年、野田氏が1910年で、神野氏は1932年である。神野慧一郎氏の専門は英国の経験論哲学者・歴史家ヒューム(1711-1776年)のモラリスト研究である。中公クラシックの本書を構成するのは、「省察」、「情念論」そしていくつかの書簡である。書簡はデカルトとエリザべトの間にかわされた書簡の一部である。デカルトからエリザべト王女へ2通、エリザべト王女からデカルトへ2通、デカルトからスウェーデンのフランス公使シャニュへの長い手紙1通である。そしてこれらの書簡や『省察』、『情念論』の著述がまとめられている意味は、本書全体がデカルトの道徳論を構成するからである。もちろん「省察」は彼の哲学の基本的枠組みすなわち形而上学を示すものであるが、道徳論を直接扱うものではない。「省察」で述べられていることは「心身分離」の二元論である。「心身分離」の説を一方の極に置き、対極にある「心身合一」の次元の道徳論をいかに解明するかが本書の狙いである。哲学の基本的課題は、真理とは何か、どのようにして知るかという認識論と、我々はこの世界においていかに生きるかという道徳論の二つが課題である。『方法論序説』は認識論であり、『情念論』は道徳論である。デカルトの哲学では認識と道徳は別のことではない。形而上学と道徳学が一つになって、いかに生きるべきか、正しい判断に意思を従わせるという課題が含まれているのである。デカルトは道徳論について纏まった著作を遺すことなく、スウェーデンに客死した。道徳論の骨組みは本書の書簡集に示されている。その道徳は『哲学の原理』完成後の考えであり、「決定的道徳」と考えられる。『省察』の形而上学から道徳論を論じるには、もうワンステップが必要でその準備段階に当たるのが『情念論』である。形而上学次元とは心身分離の次元であった。「考える自分」の存在を確かなものにした「コギト・エルゴ・スム」、つまりまず我々は精神として存在すことを示した。道徳の次元は日常的生の世界であり、自己と他人の存在が基本である。それゆえ道徳の次元は心身合一の次元である。『省察」において精神が存在することを示し、神の存在証明を経て、『省察』第6で外界の存在を証明する。そしてそれはデカルトの自然学に繋がる。彼の自然学は機械論的力学的宇宙論の形をとっており、『哲学の原理』に詳述されている。人間と「動物機械」を区別するものは、『方法論序説』では第1に理性的言語の使用であり、第2に理性的行動であると述べている。デカルトの形而上学において心身問題についての矛盾を指摘したのが王女エリザベトであった。形而上学的にはデカルトは心身の「実在的区別」を主張したが、日常的生において精神は「松果腺」(現代医学でも間違っている)において身体と一体化するという説を述べるに至っては、むしろ「身体合一」ではないかという疑問である。精神が物体と能動し受動することは『情念論』を導いた。デカルトは王女エリザベトの指摘に、問題があることを認めながら心身関係にはあまり重要視しなかった。それにはデカルトの時代背景とデカルト哲学の趣旨が絡んでおり、もう一つの哲学史家の問題が絡んでいた。デカルトにおいては、心身問題という次元より、良く生きるという道徳次元の問題が優先する、次元を異にする問題であった。この時代は情念論が流行していた。理性の時代と言われる17世紀以降において、情念について論じる哲学者は多くはない。ヒュームの「情念論」(人間本性論第2巻)やルソーくらいである。啓蒙の時代と言われる18世紀の哲学者の興味は理性やモラリスト的問題ではなく社会制度的問題(政治体制)に集中した。近代の哲学者が情念論を書いたホッブスやスピノザの例を無視する事からして、デカルトの情念論が無視されるのは不思議ではないそうだ。近代哲学史の流れで見るとデカルトは合理性を重視し情念を排除した哲学者ということになっている。17世紀の情念論は「人々の心を知る方法」(今でいえば心理学、人間行動学)として為政者の人心制御技術とみなされた。情念や情動はその強い力と気まぐれのため哲学者の扱うべき問題とは見られなかったようだ。17世紀初めフランスのモラリストの大物であったピエール・シャロンが『智恵について』を著わした。モンテーニュ-も情念の退治法を述べている。1643年6月28日のエリザべト王女への手紙で、デカルトは精神と知性、物質、身体合一の3つの次元があり、それは次元を異にした問題であると回答している。知性によって一度到達した形而上学的な結論は記憶や心情に留めて置けがいい、そして我々は日常的生の中に生きるべきだという。心身問題の論理的構造は4つの関係(①身体は物質的、②心は精神的、③心と身体は相互作用がある、④精神と物質は別のもの)にあり、全部同時に成立すると矛盾する。結局は今日の医学常識でいえば、大脳皮質の中枢神経系は精神(理性)を、情念は大脳周縁系神経を、知覚末梢神経は信号を大脳におくって身体的情報から画像判断や危険判断を行う。その立場で判断すればいいことでデカルト的二元論で立ち往生して苦しむ必要は全くないといえる。要するに全部が物質的で機能が異なるだけである。

(つづく)


文芸散歩 デカルト著 井上庄七・森啓・野田又夫訳 「省察 情念論」 (中公クラシック 2002年)

2019年01月29日 | 書評
近代哲学・科学思想の祖 デカルトの道徳論  第5回

序(その5)

「哲学の原理―第1部形而上学」(山田弘明ら訳 ちくま学芸文庫2009年)
デカルトの「哲学原理」は全4部からなるが、本書は「人間的認識の原理について」と題する第1部の形而上学のマトメだけを対象としている。これまで刊行された訳書は第1部の形而上学と第2部の自然学を紹介し、第3部と第4部の自然学各論は省略する場合が多かった。本書がなぜ第1部だけなのか、その趣旨はスコラの形而上学との関連を捉えることであった。当時の優れたスコラ哲学の教科書は、ユスタッシュ・ド・サン・ポールの「弁証論、道徳論、自然学および形而上学にかかわる事柄についての哲学大全四部作」(1609年)が有名である。デカルトは明確にこのスコラ哲学大全を読んでおり、かつその形式を踏まえたうえで自身の著書「哲学原理」を書いたものと考えられる。デカルトはスコラ哲学から大きな影響を受けており、多くの点でスコラ哲学を痛烈に批判した。ニュートンはデカルトの「哲学原理」をよく読んでおり、デカルトの「哲学原理」も形而上学というよりも「形而上学に基づく自然哲学の原理」といった方が正しい。デカルトの「哲学原理」の狙いはスコラに代わる新自然学の体系的な展開にあったというべきであろう。「哲学原理」はラテン語で書かれ(本書はフランス語版を基にした)、全体は4部からなる。
第1部 「人間的認識の原理について」 思惟する精神は存在とは区別されるという第1原理ですべては演繹される。
第2部 「物質的事項の原理について」 自然を機械論的な展開と見る。運動量保存則など力学について述べた。
第3部 「可視的世界について」 地球と天体の運動を述べた。宇宙生成論(進化論)を提案した。
第4部 「地球について」 空気、燃焼、磁気など記述した。しかし今ではおかしな推論が多い。
第5部 「動物、植物の状態について」と第6部「人間の本性について」は予定されたのみで書かれなかった。
デカルト「哲学原理」第1部 形而上学「人間的認識の原理について」は第1から第76節に分けてある。ちくま学芸文庫の訳者らは本書の各節ごとを「訳文」、「解釈」、「参照」と3段構成とした。ちくま学芸文庫本の特徴は「解釈」でスコラ「哲学大全」との関連と、デカルトの言いたいことを述べ、ライプニッツの批判など多数の哲学者のコメントを記して理解を深める。「参照」では「哲学原理」の言葉が、他の書物1.「方法論序説」 2.「省察」 1641年 3.「真理の探究」 ではどう扱われているかを検証する。

本書、デカルト著「省察 情念論」(中公クラシック2002年)という本は次の4部からなる。①神野慧一郎著「デカルトの道徳論」(40頁) ②デカルト著「省察 第1-第5」(134頁) ③デカルト著「情念論 第1-第3部」(180頁) ④書簡集 (50頁)である。では各々について内容を検討してゆこう。

(つづく)

文芸散歩 デカルト著 井上庄七・森啓・野田又夫訳 「省察 情念論」 (中公クラシック 2002年)

2019年01月28日 | 書評
近代哲学・科学思想の祖 デカルトの道徳論  第4回

序(その4)

「方法論序説」(谷川多佳子訳 岩波文庫1997年)
「方法序説」は1637年(デカルト41歳)のとき、無署名で出版した本「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法序説、加えてその方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」という、全体で500頁を越える大著の最初の78頁(この岩波文庫本で約100頁)が「方法論序説」である。つまり3つの科学論文の短い序文という位置づけである。デカルトがなぜ著者名なしで出版したかというと、ガリレオが法王庁宗教裁判所で異端判決を受けたばかりで、ガリレオを尊敬していたデカルトは筆禍の難を遁れるため無署名で出版し、同じく「世界論」という書物を書き終えていたが、生前は出版を見送ったといういきさつがある。デカルトの「方法論序説」にはその第5部に「世界論」のエッセンスが示されているので、大きな危険性を孕んでいたというべきであろう。また本書はラテン語ではなくフランス語で書かれ、学術書ではなく一般教養書として出版した。本書の序にデカルトが内容の概要を語っている。100頁ほどの「方法序説」を6部に分けて、
第1部は、学校で学んだ人文学やスコラ学などの諸学問を検討し、それらが不確実で人生に役立つものではないことが確認されたという。学校を卒業後書物を捨て旅に出るまでのことを述べている。
第2部は、ドイツにおいて思索を重ね、学問あるいは自分お思想の改革の為の方法が4つの規則として提示される。すなわち、①明証、②分析、③総合、④演繹である。これらの規則は数学の難問を解く際に効力を発揮し、自然学の諸問題にも有効で、数世紀先のことかもしれないが諸学問の普遍的な方法になりうることが期待できる。
第3部は、真理の全体は把握できな状態でも人として守るべき行動の原理、すなわち道徳の諸問題についてである。3つの規則として述べられている。ストア派の道徳は暫定的な仮のものとして位置づけているが、デカルトは道徳の問題をこれ以上発展させることはしなかった。
第4部は、形而上学の基礎である。方法的懐疑をへて、「精神としての私」、「神」、「外界の存在」を示し、哲学史上有名な「コギトエルゴスム」、心身二元論といった重要な概念が語られ、誤りなき最終真理としての神の存在の証明が述べられる。
第5部は、公刊することができなかった「世界論」のエッセンスが述べられている。宇宙や自然の現象、機械的な人体論として心臓と循環器系の説明(今では間違いであるが)、動物と人間の本質的な違い(知性の存在)が論じられる。
第6部は、ガリレオ宗教裁判断罪事件に発するデカルトの心境がみられ、「世界論」の公刊を中止したいきさつとこの論文を後世に残す理由が語られる。学問の展望、人間を自然の支配者と見なす哲学、自然研究の意味を語る。
デカルトの歩みは慎重かつ確実である。学問の真理に至る道筋を、提示している。出発点は「私」であり、体系の基礎となる二元論、精神と神の形而上学、宇宙や自然、人体の見方が述べられた。当時例外的にフランス語で書かれたこの作品は、近代フランス精神の魁となった。普遍的な学問の方法、新しい科学や学問の基礎を示す広い意味での哲学の根本原理、自然学の展望と意味を述べた序説である。本書は、近代の意識や理性の原型、精神と物質(主体と客体)の二元論、数学を基礎とする自然研究の方法、科学研究の発展といったデカルト精神が近代合理主義の普遍的原理となった記念碑的作品である。

(つづく)

文芸散歩 デカルト著 井上庄七・森啓・野田又夫訳 「省察 情念論」 (中公クラシック 2002年)

2019年01月27日 | 書評
近代哲学・科学思想の祖 デカルトの道徳論 第3回

序(その3)

「デカルトの概略年譜」

1596年 中部フランスの西側にあるアンドル=エ=ロワール県のラ・エーに生まれた。父はブルターニュの高等法院評定官であった。母からは、空咳と青白い顔色を受け継ぎ、診察した医者たちからは、夭折を宣告された。母は病弱で、デカルトを生んだ後13ヶ月で亡くなる。母を失ったデカルトは、祖母と乳母に育てられる。
1606年 10歳のとき、イエズス会のラ・フレーシュ学院に入学する。中でもフランス王アンリ4世自身が邸宅を提供したラ・フレーシュ学院は、1604年に創立され、優秀な教師、生徒が集められていた。デカルトは学院において従順で優秀な生徒であり、教えられる学問(論理学・形而上学・自然学)だけでなく占星術や魔術など秘術の類(たぐい)のものも含めて多くの書物を読んだ。そして、学問の中ではとりわけ数学を好んだ。
1614年 18歳で学院を卒業する。その後ポワティエ大学に進み、法学・医学を修めた。1616年 20歳のとき、法学士の学位を受けて卒業する。この後2年間は、自由気ままに生活したと考えられる。
1619年4月 三十年戦争が起こったことを聞いたデカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと旅立つ。フランクフルトでの皇帝フェルディナント2世の戴冠式に列席し、バイエルン公マクシミリアン1世の軍隊に入る。
1619年10月 自分自身の生きる道を見つけようとウルム市近郊の村の炉部屋にこもる。そして11月10日の昼間に、「驚くべき学問の基礎」を発見し、夜に3つの神秘的な夢をみる。
1623年から1625年にかけて、ヴェネツィア、ローマを渡り歩く。旅を終えたデカルトはパリにしばらく住む。その間に、メルセンヌを中心として、亡命中のホッブズ、ピエール・ガッサンディなどの哲学者や、その他さまざまな学者と交友を深める。そして教皇使節ド・バニュの屋敷での集まりにおいて、彼は初めて公衆の面前で自分の哲学についての構想を明らかにすることになる。
1628年 オランダ移住直前に、『精神指導の規則』をラテン語で書く。未完である。
1628年 オランダに移住する。その理由は、この国が八十年戦争でも安定し繁栄した国で、不便なく「孤独な隠れた生活」を送ることができるためであった。32歳のデカルトは、自己の使命を自覚して本格的に哲学にとりかかる。この頃に書かれたのが『世界論』(『宇宙論』)である。1633年にガリレイが地動説を唱えたのに対して、ローマの異端審問所が審問、そして地動説の破棄を求めた事件が起こる。これを知ったデカルトは、『世界論』の公刊を断念した。
1641年 デカルト45歳のとき、パリで『省察』を公刊する。この『省察』には、公刊前にホッブズ、ガッサンディなどに原稿を渡して反論をもらっておき、それに対しての再反論をあらかじめ付した。『省察』公刊に前後してデカルトの評判は高まる。その一方で、この年の暮れからユトレヒト大学の神学教授ヴォエティウスによって「無神論を広める思想家」として非難を受け始める。
1643年5月 プファルツ公女エリーザベト(プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女)との書簡のやりとりを始め、これはデカルトの死まで続く。エリーザベトの指摘により、心身問題についてデカルトは興味を持ち始める。
1644年 『哲学原理』を公刊する。
1645年 ヴォエティウスとデカルトの争いを沈静化させるために、ユトレヒト市はデカルト哲学に関する出版・論議を一切禁じる。
1649年 『情念論』を公刊する。
1649年 スウェーデン女王クリスティーナから招きの親書を3度受け取る。そして、4月にはスウェーデンの海軍提督が軍艦をもって迎えにきた。女王が冬を避けるように伝えたにも関わらず、デカルトは9月に出発し、10月にはストックホルムへ到着した。
1650年1月 女王のために朝5時からの講義を行う。朝寝の習慣があるデカルトには辛い毎日だった。2月にデカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去した。デカルトの遺体はスウェーデンで埋葬されたが、1666年にフランスのパリ市内のサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に移され、その後、フランス革命の動乱を経て、1792年にサン・ジェルマン・デ・プレ教会に移された。

(つづく)