ブログ 「ごまめの歯軋り」

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石母田正 著 「日本の古代国家」 岩波文庫

2019年05月31日 | 書評
鉄 線

推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を論じた7世紀日本古代国家論  第23回

第4章 「古代国家と生産関係」 (第4講)

1) 首長制の生産関係
1-4) 班田制の成立:
 大化改新の特徴は人民の地域的編戸と一般的校田が一体化して実施されたことである。令制の編戸と班田収受制とが国家の収取と税収の基礎をなした。班田制とは国家的土地所有のことである。口分田は所有主がいる「私田」で、無主田が「公田」である。743年「墾田永代私財法」の制定で公田の概念に揺らぎが生じた。それ以前の土地所有形態は屯倉など大土地所有制を除けば、在地首長制の伝統的経済基盤であた。郡内の各郷が集中して口分田の斑給を受けていたことは国家の権力であるが、』実際は郡司に制度化された在地首長層の公民に対する階級的権力に他ならない。班田収受制とは、戸籍・計帳に基づいて、政府から受田資格を得た貴族や人民へ田が班給され、死亡者の田は政府へ収公された。こうして班給された田は課税対象であり、その収穫から租が徴収された。日本書紀によれば、646年正月の改新の詔において「初めて戸籍・計帳・班田収授法をつくれ」とあり、これが班田収授法の初見である。しかし、この改新の詔に関する記述には多くの疑義が出されており、このとき班田収授法が施行されたと即断することはできない。班田収授法の発足は、初めて戸籍が作成された670年、若しくは飛鳥浄御原令が制定された689年以降であろうと考えられている。班田収授法の本格的な成立は、701年の大宝律令制定による。班田収授制は、律令制の根幹をなす最重要の制度であった。現存する養老律令によると、班田収授の手続きは次のようである。
1)原則:班田収授は6年に1度行われた。これを六年一班という。戸籍も同様に6年に1度作成されており、戸籍作成に併せて班田収授も実施されていた。
2)手続き:戸籍作成翌年の10月1日から、京又は国府の官司が帳簿を作成し、前回との異動状況を校勘する。そして、翌1月30日までに太政官へ申請し、2月に班田収授が実施された。
3)対象:口分田・位田・職田・功田・賜田が班田収授の対象とされ、例外は寺田・神田のみとされた。
4)班給面積:例として口分田の場合、良民男子 - 2段、良民女子 - 1段120歩(男子の2/3)
大化の改新の政策として勧農と開墾が国家事業として掲げられ、特に堤や溝などの灌漑施設の造営が指示された。その特徴は、①開墾の主体は在地首長層である。②新しく開墾された田地が公田になった。首長層が把握する労働は私的なものから公的なものになった。これが雑徭制につながった。③大化改新後の開墾は新しい技術と生産力を基礎とした。旧村落から条里式村落が出現した。開墾ー公田ー条里制ー国・郡の境界の設定というふうに拡大した。土地の配分は「班田」(国有地開墾)、「賦田」(在地首長層の開墾)、「給田」(屯田兵による庄田)という形で呼ばれる。

(つづく)

石母田正 著 「日本の古代国家」 岩波文庫

2019年05月30日 | 書評
浜名湖(5/16 新幹線の車窓より)

推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を論じた7世紀日本古代国家論  第22回

第4章 「古代国家と生産関係」 (第3講)

1) 首長制の生産関係
1-3) 田租と調の原初形態:
 令制の租・庸・調・雑徭役のうち、田租と稲出挙という税の問題に入る。稲の形における剰余生産物の収取である。田租は次のような特徴を持つ。①租は他の面積に応じて課せられる。②田租の賦課基準は収穫の3/100という定率である。③この租率は律令制の解体時まで維持された。④租殻の大部分は「不動殻」として正倉の保管された。⑤大宝令では例外はあるが田地は輸租田である。⑥賃租の場合、田租は田主ではなく用益者である佃人の負担。田租制の成立は浄御原令の施行によるが、それ以前の要素も多く含んでいる。「百代三束」という低率賦課を原田租と呼べば、それは旧国造制と不可分の関係(郡稲)にある。旧国造領における税制としての原田租の起源は、宗教的祭礼すなわち共同体首長へのと不可分であり、初穂料として共同体首長に貢納する習慣にある。首長によって管理される共同体の財産(備蓄、種稲分与、祭祀費用など)から、首長の私富に転化すると、その経済関係は階級的秩序に転化する。田租を在地首長に収めることから律令制では天皇に収めることになるが、田租の低率は律令国家の財源としては重要視できないほどであった。古代の調の制度は浄御原令によって人身賦課にとういつされるが、それ以前には田調・戸調・調副物が存在した。律令制国家において公民が国家に納付する田租・調の租税は、臣下が国に収める「地代」に似ている。これらの収取関係にある従属関係は必要以上の過酷さは不要である。従属関係を考察するうえで田租と並んで稲穀収取の重要な形態であった「出挙制」、特に「稲出挙制」が大化改新以前から重要であった。田租の起源が共同体とそこから転化した首長層の経済関係にあるとするならば、出挙制の起源は大化改新以前の「ミヤケ」の「群稲」にあると推定される。それはまた日本の古代社会を一貫する農業生産性の低さでもある。出挙の貸し出しは民戸の農業経営の自立性の低さからくる食料稲の不足を反映している。食料や種もみという形で出挙を受けなければならない生産力の上に立つ農業は、稲殻を集積所有する首長層によって、その再生産を把握されているのであり、かかる農民は必然的に首長層に隷属せざるをえない。支配と隷従が再生産されるのである。

(つづく)

石母田正 著 「日本の古代国家」 岩波文庫

2019年05月29日 | 書評
石楠花

推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を論じた7世紀日本古代国家論  第21回

第4章 「古代国家と生産関係」 (第2講)

1) 首長制の生産関係
1-2) 徭役労働:
 大化改新前の在地首長層が直接生産者から剰余労働、剰余生産物を収取する主要な形態は「租庸調」および「雑徭制」を基礎とする。まず徭役労働から見てゆこう。首長層の権力または経済的収奪体制の本質は人格的支配=隷従関係にあり、なかでも徭役労働賦課権に最も端的に表れるからである。首長層の徭役労働賦課には、歳役と雑徭とがあるが、ここでは雑徭を考える。「雑徭」とは仕丁や衛士の令によって規定された徭役以外に差発される雑多な徭役労働であり、1年に60日を限って国司が郡内の公民を使役することができる。雑徭役にもさらに「雑徭役外徭役」と呼ばれる徭役賦課があった。用水施設の小規模な修治のため臨時に賦課され、雑役と違って年60日という限定もない。雑役と雑徭役外徭役には名前が違うだけで国家の課する徭役として一体化している。あえていうと用水の施設を新しく築造する時は雑徭といい、その修理維持のときは雑徭役外徭役に任される。雑徭役が制度として確立されたのは浄御原令によってであるから、それ以前には両者の区別はなかった。雑徭の差発権は国司にあり、現実に徴発・使役するのは郡司・里長であった。徭役は上から命じられる不払い労働であるから、強制できるのはそこに人格的支配―隷従の体制が出来上がっている在地首長層の指示がなければ、国司といえど手が出せない領域であった。雑徭と雑徭外徭役を差発し使役する事実上の権力を持ったのは国司ではなく郡司(在地首長層)であった。浄御原令によって、この国造や郡司の権力を、在地首長層の伝統的な権力を制度化したものである。力役以外の地方的賦役が国家の徭役体制のなかに雑徭として制度化されるのは大宝令からである。雑徭制の基礎にある首長の領域内人民に対する人格的支配は、個人的な人格(英雄やボス)ではなく、生産手段を独占する階級としての首長層が存在する。首長一族が大小領の地位を独占し、族的結合体全体が在地の人民を支配している。首長層の階級としての地域的・族的結合の存在とそれに対する人民の人格的隷従こそが賦役労働の基礎にあったのです。雑徭制の第1の特徴はその奴隷的性格にあった。徭役は上からの命令である限り、官から食料の支給があったものと考えられる。ただ雑徭外徭役は、手弁当が常であったようだ。土木作業に使用する道具は官給であった。雑徭が奴隷労働とされる理由は、徭役期間や過酷さの恣意的な事ではなく、自弁することができない体一つの農民がいて、労働の主手段を保有する徭役差発者階級(在地首長層)がいるということである。人格的隷従関係は自体は、奴隷制にも農奴制にもある特徴で、奴隷制は他人の労働条件(原料・食料・労働用具・家畜など)のもとで労働するかどうかということである。雑徭の第二の特徴は、共同体の共同労働と徭役労働が不可分の一体をなしていることである。古代社会の稲作では用水の確保の問題が重要である。古代首長制はこの水の支配に最重要点が存在する。治水(灌漑用水)の問題が地方首長層の範囲を超えて中央政府の国家事業となったのは律令制国家の成立以降のことである。弥生式時代の農業社会以来それは首長層の内部問題として解決されてきた。古墳時代以降には首長が支配層に転化し、共同体の労働は徭役労働になった。交易で獲得できる鉄製農耕具が古墳時代に首長層の独占的所有下になった。大化改新以降には公権力による指導・強制による計画的村落と開墾が常識となった。6,7世紀の計画村落的形態においては、必要な徭役労働は首長層側においてそれに必要な食料・労働用具の蓄積を前提年、その蓄積が共同体の財産ではなく、私有財産として首長層の富として存在するならば、この徭役労働は首長層の支配=隷従の関係は奴隷的性格を持つことになる。

(つづく)

石母田正 著 「日本の古代国家」 岩波文庫

2019年05月28日 | 書評
石楠花

推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を論じた7世紀日本古代国家論  第20回

第4章 「古代国家と生産関係」 (第1講)

1) 首長制の生産関係

1-1) 第一次的生産関係としての首長制: 
6世紀から8世紀中葉にいたる国家の成立史の基礎となる経済的土台を著者は生産関係と呼ぶ。マルクス主義学者特有の呼び方で現在の意味とはちょっと落差がある。マルクス主義者では国家のことを上部構造、社会・経済(労働・資本、生産方式・技術)を下部構造と呼ぶ。したがって本章は古代の社会・経済構造について考えることになる。国家構造自体の変革を当時の社会経済状況から解き明かすことが目的である。第1章では古代における東アジアの国際関係(力関係)と外交、戦争から国家の成立史を問題とした。第2章では大化の改新が、王民制から公民制へ、すなわち伴造ー部民制的秩序から国造制的秩序への転換を行い、その権力基盤を在地首長制に拠ったとき、その首長層の経済的基盤(税制を含めて)と支配関係を問題とした。浄御原令や大宝律令の施行によって完成する律令制国家は、古代3世紀の邪馬台国以来の権力が成長し、旧社会体制(在地首長制)を呑み込み強大な権力体系をこしらえたことを示す。在地首長の一つであった朝廷が、古代社会における社会的分業の体系的ヒエラルヒーの頂点において、統治だけを行う国家権力になって、半ば奴隷労働を強いる公民階級への支配と収奪体制を完成した。いうまでもなく支配階級=官人貴族層の社会からの分化、そして共同組織としての国家機構の存立を可能ならしめた経済的土台は諸国の機構を通じて支配され収取される在地の支配関係である。それは律令国家の財源の問題である。その大部分は地方から進上される剰余生産物である。律令制国家の主要な物的基礎が地方国造権力による収取に依存していた。中央の朝廷がどれほどの在地首領を臣下にしているかで、毎年献上される物資の量が決まる。それによって国家権力が養える皇族・官吏・兵およびあらゆる分野の設備能力が決定される。朝廷には「屯倉」という直轄地があったが、全国の在地首長制から上がる財源に比べると第二次的なものに過ぎなかった。私的な用を賄う程度で、国家の財源には成り得なかった。この屯倉でさえ田司による官田の直接経営ではなく、自律的な生産制度として存在したのではなく在地首長制に依存していた。つまり耕作者が公民ではなく、在地首長の支配下にある人民だったからで、いわば二重支配制にあったといえる。官田経営が公民の徭役に依存する限り、徭役労働差発権を持つ在地首長の支配下にあった。屯倉の奴隷労働(労働する人間の人格を無視して強制される労働 大辞苑)的構造も在地首長層の支配関係から分化し発展した二次的形態に過ぎなかった。伴造ー部民制的秩序をもつ王民制が大化改新前の主要な経済基盤であった。

(続く)

石母田正 著 「日本の古代国家」 岩波文庫

2019年05月27日 | 書評
山科 門跡勧修寺の菖蒲池

推古朝から大化の改新を経て律令国家の成立に至る過程を論じた7世紀日本古代国家論  第19回

第3章 「国家機構と古代官僚制の成立」(第4講)

4) 古い型の省と新しい型の省: 

律令国家と、政治権力としての天皇制と直接の関係はない。天皇制は古い王制である。天皇を頂点とする支配階級の共同利害を守るための組織である国家機構の体系が、律令制国家の日本独自の特色を作っているのである。太政官制が天皇制に対して相対的独自性を保つことができたのも、「八省百官」の官僚貴族層の機関が存在したためである。国家の本質である「強力装置(暴力装置)」である軍事組織も、近衛兵である五衛府さえこの行政機関の機能がないと存続しえないのである。この行政機関は上は太政大臣から、下は地方の諸官司に至るまで体系的に組織されている。太政官制は議政官の合議による審議決定のほかに、弁官局という事務組織を持ち、これは太政官と八省を結合する組織である。八省の内部構成と権限は「養老職員令」の条文に書かれている。宮内省と民部省の二つについて古い型の省と新しい型の省の典型として解説する。八省の中で複雑な構成を持つのは、宮内省と中務省で、比較的単純な構成を持つのは式部省、民部省、刑部省である。これは省の歴史的性格を見れば歴然としており、宮内庁は律令制以前からある古い王制時代の遺物であり、民部省などは律令制の整備によって急速に陣容を新しくしてきた省であるからだ。所轄官庁の複雑さからすると、宮内省は一つの「職」、四つの「寮」、十三の「司」を持つが、民部省は二つの「寮」だけである。宮内省は天皇の家産制的組織を省という行政機関に編成したものである。同じように中務省も天皇の家産制的組織である。この組織を行政機関に編成する際に古い体質や役職をそのまま継承せざるを得なかった。宮内省は皇族の私的・経済的財産を扱い、中務省は天皇の儀礼的公務を扱う。どちらも非政治的な役所である。この二つの省はその権限を媒介的・手続き的な面に限定することにより、逆に太政官組織の政治的機能を確保している。天皇家の経済を扱うのが宮内省であり、国全体の出納と経済を扱うのが大蔵省である。両省とも古くからある組織であるが、大蔵省は膨大な量を扱うために意識的計画的に権限の配分を行う組織に転化した。式部・治部・民部・刑部・兵部の省は新しい省なので、統一的な原理に従って組織された官制を作り出した。大同・弘仁期(806-824)に盛んに諸官司の統廃合が行われたが、単位機関は歯車の部品のように構造と機能が独立しており、統廃合によって全体の行政は何ら影響を受けないことが官僚組織の特徴である。令外官の新設も同じ原理に基づくものである。民部省は諸国の籍帳、賦役、課役、家人、山川・田地のことを管掌するが、宮司は主計寮と主税寮の二つだけである。簡素な組織の典型であるのは、この省の機能が、記帳と計算と管理という任務にある。「調」は大蔵省、「庸」は民部省に収める規定になっている。706年には庸のうち軽い物を大蔵に移管し、「延喜式」において調・庸とも大蔵省管轄となった。民部省本来の職務は「計納」という収められた物の管理・計量となった。まさにコンピュータ業務だけになった。そういう意味で民部省は計算という専門職官僚の世界である。 最も厄介な天皇という人を扱う宮内省、税としての米や産物をあつかう大蔵省など人・物を管掌する省に比べると、社会から発生した国家が、人・物から十分独立できていなかったが、民部省はその独立が完成したといえる。すなわち国家権力が編戸と籍帳によって戸口に至るまで把握し、全国の人と物の質を捨象した数として映る情報社会になったといえる。つまり現在の経済企画庁のような機能である。民部省の第2の機能は「国の用を支度する」ことである。物資の総計を集計し、収支バランスを太政大臣に報告することである。今の大蔵省財務局の仕事である。そして諸官司に経費を支払うことである。96%は現物支給であるので、主計局は諸司の見積書を集計し、割り当て表を作成した。民部省がその機能を果たす前提として、八省の官司が正確に予算書と決算書計上すること、国司が地方の計帳と正税帳(決算書)を提出するかどうかにかかっていた。そして「組織された国家権力」は特定個人(天皇家や閥族の長)に左右されることなく、一切の諸官司との正確な協業と分業という依存関係にあって一体となって動くことである。予算の政治折衝に当たるのは太政官制(内閣)である。 

(つづく)