ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

野田又夫著 「デカルト」 岩波新書1996年

2019年09月30日 | 書評
渡良瀬遊水地

近世合理主義哲学・科学思想の祖デカルトの「方法論序説」入門書  第3回

第3講) 学生時代

「方法序説」の最初に「良識はこの世で最も公平に分配されている」と書いている。良識とは判断力であり、真と偽を見分ける能力である理性である。しかし記憶力や想像力には各自かならばらつきがあるが、良識という点では人間に生まれつきの相違はないというのである。しかし現代ではデカルトほど楽観的には見ていない、真偽はそれほど単純ではなく誘導されて全員が一斉に間違うこともありうるのである。デカルトの定義では人間は本来「理性的動物」で、理性は人間の本質に属するという。ただし理性の使用法で間違うことがある。理性のの使い方、真理を知る方法が人の資質を決めている。その理性を正しく導く方法が本書なのだという。デカルトは貴族の下層である「法服の貴族」の生まれです。デカルトをはじめ、パスカル、フエルマ、コルネーユ、コルベールなどは皆「法服の貴族出身です。生まれつき体の弱かったデカルトは10歳の時ラフレーシのイエス会士の学校に入学した。そこでギリシャ・ローマの古典文学、アリストテレス哲学をキリスト神学に統合した「スコラ哲学」を学んだ。イエス会の神学は、ルターやカルヴィン派の宗教改革に対抗して、神の摂理に対する人間の自由を大幅に認める考え、キリスト教を世俗的道徳に妥協する傾向がありました。学校ではスコラ哲学ですが、ギリシャ・ローマのルネッサンス人文学を大幅に取り入れていました。ラフレーシ学院の8年いて、ポアチエの大学で2年間法律と医学を学んだ。20歳になってデカルトは学問の世界に見切りをつけ、パリという世の中に出ました。遊んで暮らしたようですが数学だけはいろいろな学問のうち最も明白な真理を示すと考えて研究に打ち込んだそうです。当時の哲学の議論がいかに不正確でいい加減な議論だと判断したようです。

( つづく)

野田又夫著 「デカルト」 岩波新書1996年

2019年09月29日 | 書評
渡良瀬遊水地

近世合理主義哲学・科学思想の祖デカルトの「方法論序説」入門書  第2回

第2講) 「方法序説」について

この本の趣旨は1637年に公刊された『方法序説」の講座であるから、出発点として『方法序説』(理性をよく導き、もろもろの学問において真理を求めるための方法についての序説)を見てゆこう。これより先1633年頃デカルトは「世界論」という自然論を書きましたが、ちょうどそのころイタリアのガリレイが「天文学対話」という著書のためにローマ法王庁の異端裁判を受け有罪とされた事件において、ガリレオはコペルニクスの地動説を支持したことに法王庁の忌避を受けたのである。「イエス会」というジェズイット教団の学校で教育を受けたデカルトは教団のやり方を熟知していたデカルトは恐怖し、「世界論」という書物は公には発行しなかった。そこでデカルトはコペルニクスの地動説には直接触れずに自分の自然科学研究である三試論「屈折光学」、「気象学」、「幾何学」の三分野の書物の序論として『方法序説』を著わした。当時学術書はラテン語で書くのが常識であったところ、この書は明晰なフランス語で書かれ、以降優れたフランス学術書・文学書の範となった。三試論よりもこの『方法序説』が単独で刊行される場合もあった。

(つづく)

野田又夫著 「デカルト」 岩波新書1996年

2019年09月28日 | 書評
渡良瀬遊水地

近世合理主義哲学・科学思想の祖デカルトの「方法論序説」入門書  第1回



著者は本書の序において「この本は『デカルトの方法序説』に関するNHK古典講座26回分の放送講演原稿から生まれた」と書いている。基本的には「方法論序説」の解説であるが、デカルトの全仕事に対する入門書となっている。デカルトの著書に関しては、私はすでに以下の三冊の著作の読書ノートをアップしている。
① デカルト著「方法序説」(谷川多佳子訳 岩波文庫1997年)
② デカルト著「哲学の原理―第1部形而上学」(山田弘明ら訳 ちくま学芸文庫2009年)
③ デカルト著 「省察 情念論」(井上庄七・森啓・野田又夫訳 中公クラシック 2002年)
デカルトの生涯や年譜、神の存在証明、外界の存在、ならびに心身問題については、デカルト著 「省察 情念論」(井上庄七・森啓・野田又夫訳 中公クラシック 2002年)に概略を述べた。コギト・エルゴ・スムや形而上学についてはデカルト著「方法序説」(谷川多佳子訳 岩波文庫1997年)に、我以外の外界、宇宙、動物についてはデカルト著「哲学の原理―第1部形而上学」(山田弘明ら訳 ちくま学芸文庫2009年)に概略述べた。ということで本書の内容についてはすべての概略は説明したとおりである。そこで本書はデカルト哲学の出発点である1641年刊行の「方法序説」に関する書であるが、デカルトの評伝だと思って、デカルトの全体像がつかみやすいようにまとめてみた。詳細な考察は上記三書を参考にしてほしい。

第1講) デカルトについて

第1講から第9講まではデカルトの生涯のスケッチである。おおまかにデカルトとはどういう人であるか、今なぜデカルトの思想を問題とするかを考えることが第1講の狙いです。ルネ・デカルトは1593年に生まれ、1650年に亡くなったフランス人です。日本の時代は生まれたのが豊臣秀吉の晩年で、なくなったのが徳川三代将軍家光の晩年です。当時のヨーロッパはポルトガルによるインド航路の発見やスペインのアメリカ大陸発見によって、世界活動が開始された。1588年スペインの無敵艦隊がオランダ・英国に敗れるとオランダ、イギリス、フランスの新興勢力がアジア、アメリカに進出します。フランスが宗教戦争の内乱を収集して近代国家を整えていった時代にデカルトは生まれました。つまり近世のヨーロッパ秩序が出来つつある時期に現れた思想家です。フランスに生まれ、ドイルで戦争に参加し、オランダで思想家としての仕事を成し遂げ、最後はスウェーデンの極寒の地で肺炎で亡くなりました。デカルトの思想は17世紀欧州の思想の代表であるのみならず、その後300年欧州の思想の主流であったといえます。デカルトの思想は、第1に彼が初めて世界を全体として科学的に見ることを始め、第2に世界を客観的に見るところの主体である「われ」を身体から分離し、どのような人生を選ぶかを指し示したという点で偉大であった。人間の思想の根本的な問題は一つは世界は以下にあるかという知の問題と、二つに人はいかにに生きるかという道徳の問題である。デカルトの出現を待って世界を全体として科学的に見る見方が広まったことです。宇宙を一つの力学的体系として捉えました。第2にデカルトは世界を客観的に見すえる自己を、人間を自由な精神として「我考える、故に我あり」と規定しました。こうしてデカルトは近世の思想に根本的な枠を定めました。現在の思想の動きを見ると、科学に対する不満や疑いが現れている。科学の進歩=人間の幸せではなく、かえって格差と分裂を持ち込んだのではないかという反省が見られる。そこでいろいろなロマン主義(反合理主義)が出現した。生命主義、実存主義などがそれで、こういう傾向は現在の人間の運命の全体に対する均衡を欠いた偏った見方ではないかと著者野田氏は憂えるのである。

(つづく)



森本あんり著 「異端の時代ー正統のかたちを求めて」 岩波新書(2018年8月)

2019年09月27日 | 書評
群馬県館林市大手町 武家屋敷「鷹匠」

世界に蔓延するポピュリズム、それは腐蝕しつつある正統である民主主義の鬼子か異端か  第12回 最終回

終章 今日の正統と異端のかたち

本書は初めに現代政治の変質をどのように理解すべきかという問いで始まった。終わりにこの問いをポピュリズムの蔓延から正統と異端の問題を考えるのである。ポピュリズムは現代の正統なのだろうか、それとも大衆迎合という悪しきポピュリズムが異端なら、民主主義は異端に乗っ取られたのであろうか。ジョージア大学のカス・ミュデによると、ポピュリズムにはそもそもイデオロギー的な理念の厚みが存在しない。従来のイデオロギーには共産主義にしろ全体主義にしろ、政治経済から文化芸術まで社会全体のあるべき姿を描きだそうとした。だがポピュリズムにはそうした全体的な将来構想はない。あるのは雇用・移民・テロなどその時点での課題スローガンしかない。ポピュリズムが社会を分断する結果になるのも同じ理由である。ポピュリズムは社会に多元的な価値が存在することを認めない。投票による過半数を握った時点で彼らは全国民の代表者となり民主主義の正統を僭称するのである。反対するものはすべて腐敗した既存勢力で国民の敵とみなすのである。このように全体を僭称することが、異端の特徴である。社会に複数の中心をおいて権力を分散させチェック&バランスを図る多元主義体制をポピュリズムは煩わしく感じる。自分は常にフリーハンドでいたいのだ。この傾向はファッシズムの権力掌握過程でもあった。常識的な抑制や近郊に対するポピュリストの反発は、しばしば反知性主義と一体になって表現される。そもそも既成の権力や体制派のエリートに対する大衆の反感を梃子にした勢力であるからだ。ポピュリズムが権力を握ると容易に権威主義に転じて、野党やメディアや司法といった批判勢力を封殺するのは、全体性の主張から当然の帰結である。たとえ僅差であってもポピュリストは権力の座に就くと、有権者をすべて「サイレント・マジョリティ」とみなして自己への賛同者に加える。そして自分の声は国民の声というすり替えを行い、反対者を民主主義の名において圧倒するのである。これは20世紀前半に起こった全体主義ファッシズムの歴史でも、欧州や中南米でも見られる社会現象である。ポピュリストに共通の手法である。ポピュリズムの蔓延を理解するには、人々の主観的な熱情を考慮する必要がある。人はどうしてこうも簡単にポピュリズムのうねりにさらわれてしまうのだろうか。これは大衆の一時的な反動に過ぎないのだろうか。いやポピュリズムの持つ熱情は本質的には宗教的な熱情と同じである。社会的な不正義の是正を求める人々は、教会(ほかの組織でもいい)といった組織によって表現活動をした。既成宗教が弱体化して人々の意見を集約する機能を持たない現在、その熱情の排出口に代替え的な手段を与えるのがポピュリズムである。この点でポピュリズムは反知性主義と同じように宗教なき時代に拘留する代替え宗教の一様態である。ポピュリズムの宗教的な性格は、その善悪二元論、異端の選択、原理主義にあきらかである。民主主義の概念は多数決原理は全てではなくその一つに過ぎず、投票による民意は長い時代での大きな多数者を代弁できるわけではない。多数決原理や投票制といった民主主義の一制度が全体を僭称する時、正統性が損なわれる。正統が正統であるためにはそれを支える構造が必要である。それを宗教社会学では「信憑性構造」と呼ぶ。ピーター・バーガーはこの信憑性構造を「主観的現実を維持するために必要とされる特定の社会的基礎と社会的過程」と定義した。世界で最も巨大な権力である大統領にトランプが就任したとき世界は驚愕した。なぜかというと個人の信憑性ではなく、この大統領職が前提とする世界全体の信憑性構造が大きく揺らいだからである。アメリカで信憑性構造の領域にある軍は、ほとんど宗教的な神聖さを持つ。むき出しの暴力機構である軍は、その力の行使には厳格な正統性が求められる。トランプは軍の神聖さを冒涜する言動を繰り返した。核ミサイルの発射命令権を大統領はもつ。大統領の正統性を支える信憑性構造に揺らぎあってはならないのである。軍隊は宗教とは何の関係もないが、政治やイデオロギーの世界認識においては、宗教的な権威構造が社会の公共的な秩序と相似している。トランプ大統領は「アメリカファースト」を掲げ外交も経済も軍事もすべて「取引」として行うといった。取引といった外交・政治・経済・社会・貨幣行為は「契約は守られる」ことを前提としている。この社会の規制力こそ信憑性構造が持つ力である。正統は全体性を特徴とし、異端は明示的で強い主張を特徴とする。正統と異端は社会の両輪であった。公的生活への参加や連帯から切り離された個人は、たやすく操作されて全体主義に取り込まれる。神学者パウル・ティリヒは「個人として生きる勇気」と同様に、「全体の部分として生きる勇気」が大切だという。政治権力と別の価値観をもつ中間団体の多元的存在が社会の安定性に寄与してきた。個と全体を統合する勇気は自己を超える存在(神、社会)に与することで得られる。現代には非正統はあるが異端はない。異端は皆志の強い人々である。知的に優秀で、道徳的に潔癖で、人格的に端正な者だけが異端となる資格を持つ。もし現代に正統の復権が可能だとすれば、それは次世代の正統を担おうとする真正な異端が現れることが必要である。

(完)

森本あんり著 「異端の時代ー正統のかたちを求めて」 岩波新書(2018年8月)

2019年09月26日 | 書評
渡良瀬遊水地

世界に蔓延するポピュリズム、それは腐蝕しつつある正統である民主主義の鬼子か異端か  第11回

第7章 退屈な組織と煌めく個人ー精神史の伏流

19世紀末に英国のギルフォード卿が残した財産を基金として始められた神学講演シリーズを「ギルフォード講演」という。初回は1888年宗教学の父マックス・ミューラーが招かれ、1901年にはアメリカのウイリアム・ジェームスが招かれ、1988年カナダの社会哲学者チャールズ・テイラーが招かれて講演を行った。テイラーの論点は西洋近代史における世俗化のプロセスを主題としたのだが、100年前のジェームスの講演と強烈な同時代性を有していた。
ジェームスのいう宗教とはあくまで原初的に感じられた個人の直接的な情熱のことである。組織化された宗教はどのような宗教であれ、それぞれの国の因襲的儀式に従って模倣された退屈な習慣に過ぎないのである。ある宗教が正統的教説になると、それが内面的であった時代は終わり、信者はもっぱら受け売りだけの宗教生活を送るようになる。これが宗教の一般的な堕落した形態である。卓越した宗教指導者はある時期ほとんど神経病理学的な特徴を経験している。これが彼らに宗教的権威を与えている。こうした特異な精神現象を理解するための学問が「心理学」と呼ばれた。テイラーはこうした「感動した」宗教的経験はまさに現代の個人主義的で表現主義的な宗教理解につながると理解した。こうした感動は自己表現主義のナルシズムやステレオタイプ化している疑いがあるものの、「自分がそれを本当だと感じられるかどうか」を真正さの基準にするのが現代の特徴である。だからジェームスは宗教は純粋に内的な生命の表れのことであり、組織化された教義や教会の声でないと考えた。近代精神史からすると、個人の内面的で主観的な確信の持ち方は当然の帰結である。近代は客観的な世界から意味や目的という概念を取り除いてきた。宇宙自然物に意味や目的はないとした理解や実存主義は形而上学的な根拠喪失である。すると人は「偶然的な存在」に過ぎないとされた。ヴェーバーの宗教の「脱魔術化論」であった。「異端」と呼ばれるものは常に、本来的で健全な全体を構成していたはずの特定部位が不均衡に暴走した者である。「異端は選択である」が必然ではなく選ばない選択もある。デフォルト状態から逸脱するのが異端である。選ばない人が圧倒的に多い処に正統が宿る。時代は際限なく「プロテスタント病」化している。個々人が異議申し立てを続け、分裂を繰り返している。近代人が持つ制度や組織への疑念はある程度は健康な批判精神の表れであった。それが健康な程度を超えて亢進してほとんど病気といってもいいくらいです。その本質は「意志力の崇拝」つまり「やればできる」と信じたがる傾向である。この論理はやらなかったら自分が悪いということになり、失敗や敗北を合理化できない極めて不安な現代人を生むのだ。もし選ぶことを強制されているならば現代は異端が普遍化した時代である。正統の居所を追放することになる。正統の腐蝕はこうしたことから始まっているのである。この現象はアメリカでは「個人主義の宗教化」という形態で始まっている。
19世紀のアメリカの哲学者エマソンはギフォード卿と友人であった。彼の思想は「超絶主義」として知られている。既存の歴史的キリスト教全体から決別し、自然と宇宙と魂が共鳴する壮大なロマン主義的汎神論である。このような神秘主義的な宗教観には、教会や牧師という人為的組織が仲介する余地は最初からなかった。エマソンとジェームスは一直線状につながっている。「宗教は制度ではない、一人一人の心の問題である」という理解こそ現代人が宗教にたいして抱く基本的な共通理解となっているからだ。エマソンが神を抽象性へ蒸発させたとすると、ジェームスは神を個人の内面に解消したと言える。
エマソンの友人でヘンリ・デヴィッド・ソローはエマソンの個人主義的な宗教をもっと現代風に味付けした。彼は「ウォールデン」(森の生活)という自給自足と晴耕雨読の生活を送った。税金不払いや「市民的不服従」を実行し「エコロジスト」としても知られ、20世紀後半にはカウンターカルチャーの元祖と言われた。ハーバードを卒業したインテリであるが定職に就いたことは無かった。都会文明に背を向けた根っからの自然人で、エマソンの家に居候し一生独身であった。ただ彼の反抗の姿勢はあまりに軽く、人の目を気にした反抗者で、お手軽な現代子であり、ガンジーやキング牧師といった壮絶な自己犠牲とは世界を異にしている。ソロは日曜礼拝にもゆかず、教会とは宗教的不具者が年金受給者の様に過ごすところで、人間の本当の信仰は教義にはないというのがソローの宗教観であった。ソローは宗教を個人化したのではなく、個人主義を神聖視し宗教化したのである。
ここまで見てきたジェームス、エマソン、ソローの3人に共通していることは、既存の制度を否定し、その権威を否定し、代わって自己の内面を真理の最終の座としたことである。正統の消失は異端も明確な輪郭をなくし異端であることの気概もない。人々は批判することの代償を自分で支払わない。ヴェーバーの盟友であったトレルチは宗教上の正統派(チャーチ)、異端派(セクト)に第三の「神秘主義」を加えた。この類型は宗教的体験の直接性を第一義に尊重する宗教性のことである。ロバート・ベラ―はこの類型を「シーライズ」となずけた。宗教と化した個人主義のことである。連帯や規律を全く欠いており、徹底した個人主義で教育程度の高い富裕層に多く見られる。文化的プロテスタンティズムが行くつく先が、宗教と化した個人主義であろうことは予測されていた。トレンチがいう「神秘主義」型に属する人は現世に対するコミットメントが低く無関心であるが、現代の個人主義的宗教には、しばしば異端的セクトの過激さがある。権威を批判する時自分のアイデンティティを感じるようである。インターネット世界がこれに拍車をかけた。ネットには「現在の私達を支配する否定と批判、何かを罵倒せずにはいられないシニカルな気分」が蔓延している。批判者たちは正統意識に酔いしれながら容赦のない全否定を浴びせかかるのである。これは宗教学的には正統を批判する異端の宗教的正義感と全く同質であるという。正統の権威を引きずり下ろした後に残る空虚さ、これはニーチェの神を殺したのちの罪悪感である。ヴォルテールはいう「神がいなければ、神は自分で作るしかない、それが人間の運命である」と。人類の名における理性の宗教が樹立されるのである。

(つづく)