ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 日野行介著 「福島原発事故 被災者支援政策の欺瞞」(岩波新書2014年)

2015年12月31日 | 時事問題
政府・官僚によって奪骨された被災者生活支援法と被災者支援政策のありかたを問う 第2回

1) 子ども・被災者生活支援法  (その1)

3月11日夕刻に始まった東電福島第1原発の事故は3基(1,2,3号機)の炉心溶融メルトダウンと圧力容器溶融メルトスルーとなり、炉心で発生した水素ガスは格納容器に漏れて爆発限界に達し、3回にわたる水素爆発を引き起こした。そして核分裂生成物である各種の放射性物質が大量に格納容器から放出された。政府は最終的に20Km圏内の住民に退避指示を出した。ところがSPEEDIシステム動作不能で、当日のプルーム拡散予測ができず、20Km圏外(浪江町、飯館村)でも高い濃度の放射性物質が流れたにもかかわらず、多くの人が被ばくした模様である。こうして政府は1か月後の4月11日新たに「計画的避難区域」(飯館村、浪江町、葛尾町、南相馬市の一部、川俣村の一部「と「緊急時避難準備区域」(広野町、楢葉町、川内村、田村市の一部と南相馬意の一部)を指定した。政府が避難指示の基準としたのは「年間累積線量20ミリシーベルト」であった。東大小佐古敏荘教授は20ミリシーベルトでも危ないと言って文部省の方針3..8ミリシーベルト(政府の20ミリシーベルトを1日の生活パターンで逆算した値)に反対し内閣参与を辞任した。なを一般人の被ばく限度は年間1ミリシーベルトである。放射線職業従事者の被ばく限度は5ミリシーベルトである。福島で働き続ける父親を残して避難する母子を中心とした県外への自主避難者は最大時3万人であったといわれるが正確に把握もできていない。自主避難者の孤立無援ぶりが報道されるにつれ、支援の必要性が議論された。県や市町村の役人や有力者は自主避難者を故郷を捨てた人という冷たい態度をとった。国の原子力損害紛争審査会は一定の範囲から(23市町村)自主避難した日?都にも賠償金を支払う賠償方針を決めた。ただ東電が支払うのは一人当たり8万円のみであった。そこで「子ども・被災者生活支援法」の制定に向けた議論が国会で起こったのは2011年秋ごろであった。この法案の拠り所は「チェルノブイリ法」にあった。そして超党派議員立法が提出され、2012年6月21日「子ども・被災者生活支援法」が全会一致で成立した。支援法の特徴は「年間20ミリシーベルト」を下回るが、「一定の基準以上の放射線量」が計測される地域を『支援対象地域」と名付け、避難・残留・帰還のいずれを選択しても等しく支援するとした点である。本書の巻末に子ども・被災者生活支援法の条文が掲載されている。極めて短い法律であるが以下に纏めると、
第1条(目的)、第2条(基本理念)、第3条(国の責務)、第4条(法制上の措置)、第5条(基本方針)、第6条(汚染の状況ン着いての調査)、第6条(除染の継続的かつ迅速な実施)、第8条(支援対象地域内で生活する被災者への支援、残留組)、第9条支援対象地域以外で生活する被災者への支援、避難組)、第10条(支援対象地域以外から帰還する被災者への支援、帰還組)、第11条(避難指示区域から避難している被災者への支援)、第12条(措置についての情報提供)、第13条(放射線による健康への影響に関する調査、医療の提供)、第14条(意見の反映)、第15条(調査研究及び成果の普及)、第16条(医療及び調査研究などの人材の養成)、第17条(国際的な連携協力)、第18条(国民の理解)、第19条(損害賠償との調整)
この法律の項目と内容を見て唖然とするほどお粗末であることに気が付くのは私一人ではあるまい。あったらいいなというお題目が並べられているに過ぎない。これでは官僚にバカにされるのは仕方ないかな思う。第1条から第11条までは本法の趣旨に則る内容であるが、第12条から第19条までは他のすでに実施されている法との整合性をどうするのだろうか。例えば「福島復興再生特別措置法」、「東日本大震災復興特別措置法」がすでにあったし、福島県はむしろ「福島復興再生特別措置法」に期待をかけて動いていた。この特措法と支援法はいずれも復興庁管轄である。特措置法は制定から3か月後には基本方針が取りまとめられたが、支援法は1年たっても基本方針は定まっていなかった。復興庁も県庁も特措法にかかりきりで、支援法は放置されていたといえる。

(つづく)

読書ノート 日野行介著 「福島原発事故 被災者支援政策の欺瞞」(岩波新書2014年)

2015年12月30日 | 書評
政府・官僚によって奪骨された被災者生活支援法と被災者支援政策のありかたを問う 第1回



著者日野行介氏とはどこかで聞いたことがあると思って調べると、日野行介著 「福島原発事故 県民健康管理調査の闇」 (岩波新書2013年9月)という東電福島原発事故の被災者の健康調査を突っ込んで取材したルポの著者である。本書「福島原発事故 被災者支援政策の欺瞞」(岩波新書 2014年9月)はその続編にあたる。むろん本書は福島県民健康管理調査の続編ではなく、2012年6月21日に成立した民主党政権時代の議員立法「子ども・被災者生活支援法」を巡って、原発事故の被災者、避難者支援の在り方を問題とするルポである。この2書が姉妹編に相当すると考えるのは、ともに政府・官僚の政策の進め方が住民と被災者・避難者の目線に立っているのではなく、相も変わらず「天皇の僕」としての官僚群の傲慢・秘密主義・サプライヤー(この場合は原子力ムラ利益共同体)重視政策で貫かれており、生殺与奪権を握られた被災者は何時も見棄てられることを告発する2書であるからだ。戦前なら秘密主義は天皇の権威で守られていたが、戦後70年もたった現在では、秘密主義がつねに国民の知る権利と透明性と衝突する運命にある。政府の定義がいつも混乱するのは、戦前からの官僚内閣制と戦後に始まった議院内閣制の力のバランスが未だに官僚優位・政治家無能のあたりを彷徨っているからである。普通政府というと首相と衆議院多数派内閣が構成する内閣府のあると思いがちだが、2009年9月に政権に就いた民主党内閣で、官僚の権力と内閣の権力にアンバランスが生まれた。内閣府と言ってもほとんどは省庁官僚の独占物であり、誰が主導しているのか国民の目にはよく見えない。本書の主題である議員立法「子ども・被災者生活支援法」を完全に無視することも官僚機構には可能であることが分かった。これを官僚の「不作為」という。サボタージュといってもよい。議員立法だから官僚が敵視するというのは短絡的な見方で、田中角栄氏の場合、議員立法で重要な法案を次々と成立させ、官僚機構もこれをよくサポートした。この「子ども・被災者生活支援法」法案自体に何か大きな欠点があったといえる。この法案は俗にプログラム法という手順を示しただけの法で、内容や基準はすべて政府(官僚)にお任せという法案であった。無視することを含めて、骨抜き、趣旨変更も自由自在というあまりにお粗末な議員立法だったという矛盾が内在していた。途中で自民党議員らは抜けてしまうのでますます官僚機構は舐めてかかったのではないだろうか。そして政権交代で2012年12月自民党が政権に復帰すると原発事故対策自体が大きく変更され、原発再稼働に立った原子力行政が主流となった。

こういった官僚機構=政府の政策に異議申し立てかける日野行介氏の奮闘ぶりには自分にはとてもできない相談なのでまず敬意を表する。氏のやり方はいわゆる「真実は詳細に宿る」と言う様に会議議事録やインタービューなどの事実関係から推測を組み立てることである。さすが新聞記者と言いたいが、氏が所属する毎日新聞は朝日新聞、東京新聞と並んでスクープで社会問題化することに長けている。毎日新聞は、1971年の沖縄返還協定にからみ、政治部の西山太吉記者が漏えいした沖縄密約スクープが有名である。記者の臭覚が敏感で、探偵まがいの術を弄する執念深い取材力、そして政府に対して致命的な打撃を与える記事などでいつも権力から本気になって攻撃をされている。新聞魂が感じられる新聞社である。著者が属していた大阪社会部は、1882年 「日本立憲政党新聞」として大阪で創刊された歴史がある。戦前は朝日新聞と並ぶ2大紙と言われたが、現在は読売・朝日につぐ3大紙といわれている。本書を書く契機となった事件は、復興庁で福島第1原発事故後の被災者支援を担当するキャリアー官僚(前総務省入省、船橋市副市長出向から復興庁)水野靖久参事官の600回に及ぶ暴言ツィート(本書ではその一部が明記されているが、余りの低俗ぶりにここに記すことははばかる。そしてこのツイッターが水野氏であることを突き止めた著者のスリルとサスペンスにあふれた記者魂とそのやり方も省く。本書で読んでいただきたい。)であった。「左翼のくそどもから、ひたすら罵声を浴びせられる集会に出席」とかいう口汚く罵るツィートは、被災者を見下し小ばかにする傲慢な意識がむき出しにされていた。水野参事官は「子ども・被災者生活支援法」の中身に当たる「基本方針」の取りまとめをしていたそうである。ツィッターが中傷する対象は、支援法の成立を主導した国会議員や、市民団体が含まれていた。問題は水野氏の個人的資質ではなく、復興庁被災者支援センターを占領する経産省官僚の「真意」が共有されているのではないかという疑われた。毎日新聞は2013年6月13日にこの問題を特報した。同日午後復興庁の谷副復興相と岡本統括官は謝罪会見を行ったが、個人の問題を強調した(水野氏への処分は6月21日付で、信用失墜行為による停職30日間、出向をやめ総務省へ戻し、近畿管理区へ降格人事)。「子ども・被災者生活支援法」は2012年6月21日に、議員立法によって成立した法である。その仕組みは、一定の基準以上の被ばくが見込まれる地域を支援対象地域とし、住民が避難・滞在・帰還のいずれを選んでも等しく支援することである。この法は理念だけの法で、一定の基準となる被曝線量や、支援対象地域はどこか、何を支援するかという中身を決める「基本方針」の策定は復興庁に任された。ところが制定から1年もたつのに、基本方針は示されなかった。そこへこの暴言ツィートが暴露されて、支援法に対する疑念が燃え広がった。これに反応したかのように2か月後復興庁は基本方針を発表した。その案では、一定の基準は示さず、避難指示区域周辺の33市町村に限定し、盛り込まれた119施策(ほとんどは他の法で実施中)のうち自主避難者向け支援はは4つに過ぎなかった。見事に法の趣旨を無視した「基本方針」はどのようなプロセスで生まれたのかを検証することが本書の目的となった。

(つづく)

読書ノート 吉田洋一著 「零の発見」-数学の生い立ちー(岩波新書)

2015年12月29日 | 書評
アラビア数字は位取り計算を容易にし、連続の概念は微積分を用意した 第6回 最終回

2) 直線を切るー連続の問題 (その3)

紀元前5世紀ごろギリシャで一連の幾何学の問題が話題になったという。これを「ギリシャ数学の三大問題」という。
① 与えられた円と等しい面積を持つ正方形を作ること。
② 任意の角を3等分すること。
③ 与えられた立方体の2倍の体積を有する立方体を作ること。
第1の問題はエジプトでは近似的な方法を得ていたが、果たしてそれが解であるかどうかギリシャ人にとって不満であったという。円周率π=(16/9)^2は近似に過ぎなかったからだ。ギリシャ人にとって平面幾何学の作図とは定規とコンパスだけで行う伝統であった。つまりギリシャ人は幾何学の基礎を直線と円の上に求めた。これはユークリッドの要請からきている。現在でも幾何学問題は代数計算を使わないで解く方法を正統と信じる一派がいて、「円論」という優雅な伝統を守っている。当時は√2は不自然な数で、πという超越数は摩訶不思議な数であった。この数の正体が分かるまで2000年を要したのである。リンデマンは正方形の1辺 x~2=πr^2から正方形の辺の長さは求まるが、作図はできないということを証明した。それはπという超越数を含んでいるからである。もう一つのギリシャの幾何学の話題として
④ 与えられた多角形と等しい面積をもつ正方形を作ること。
これは多角形と等積な三角形を作り、そして正方形へ持ってゆくことで容易に作図できる。与えられた円と等しい面積を持つ多角形を作ることはに目を付けたのはアンティフォンであった。円に内接する多角形と外接する多角形を作図してゆけば円に漸近してゆくこと、つまりπの近似解を求めることに他ならない。こうした無限の問題を突き詰めれば連続の問題となる。代数と幾何学の統一はまずエウドクソスの比例論から始まった。ユークリッド原論の比例論はエウドクソスの理論を紹介したものであった。ギリシャの幾何学にアラビアの代数学が流入して生まれたのが比例論的扱いである。アラビア代数学は数論的厳密さは無視して発達してきた。この傾向は17世紀フランスのデカルトによって解析幾何学が提唱され、ニュートン及びライプニッツのよって微分積分学が誕生して初めて、連続の概念、無限小の概念の再検討がはじまった。高瀬正仁著「無限解析の始まり」-私のオイラー (ちくま学芸文庫 2009年)には、オイラーに始まる無限解析から曲線論、数論、複素解析が詳細に論じられている。直線上(曲線でも同じ)を点が動く時、直線自体が「連続体」を形作っていなければならないが、直線の連続性とは何だろう。まず直線上に整数を置くと、整数間は隙間だらけで、有理点(分数)を置いてもまだ我々の要求である連続体には程遠い。そこでドイツのデデキントは1858年に連続の概念を提出した。「直線が連続体をなしているというのは、直線を2つに切断するとき、その境は1つあって、しかもただ一つしかないということ」であるといった。直線を切断するということは直線状のすべての点を2つの組U1,U2に分けて、U2に属する点はU1に属する点より大きいとし、境にある点は一つあって一つに限るという表現をする。この境の点(切断点)はいずれかの組に属さなければならない。デデキントはこのことが連続性の本質であるという。こうして有理数、無理数を含む実数の連続性が定義された。

〈完)

読書ノート 吉田洋一著 「零の発見」-数学の生い立ちー(岩波新書)

2015年12月28日 | 書評
アラビア数字は位取り計算を容易にし、連続の概念は微積分を用意した 第5回

2) 直線を切るー連続の問題 (その2)

アルキメデスの「形象数」は「点は位置を持つ一つである」というように、必然的に点は大きさを持つという考えに立ち、線分も有限個の点からなるという「自然数は整数のみが数である」という考えに導く。従って2つの線分は互いに通約可能と考えられた。これに対しユークリッドの「原論」では「点は部分を持たないもの」という定義から始まる。これは抽象的な点の概念である。ピタゴラス教団は直角3角形ABC(斜辺BC)に関する「ピタゴラスの定理」(3平方の定理 BC^2=AB^2+AC^2)を生んだが、果たして証明をしたかどうかは分からない。ユークリッドはこれに証明を与えた。ピタゴラスは特殊例を見出したに過ぎないかもしれない。今ではピタゴラスの定理は直角の頂点から斜辺に降ろした垂線で分かつ2つの直角角三角形ともとの直角三角形の3つの直角三角形の相似関係(比例関係)から容易に証明できる。又有名な辺の作る正方形の面積から幾何学的に証明できる。証明法は本書の目的ではなく、正方形の対角線が作る2つの2等辺直角三角形の斜辺の長さの2乗は1^2+1^2=2すなわち斜辺の長さは√2となる。ピタゴラスの時代には√の疑念はなかった。√2は少なくとも自然数(正の整数)ではないことにピタゴラス教団は窮地に陥った。斜辺が有理数p/q(公約数をもたないp,q)と仮定すると、2が必ずかかるのでp,q共に偶数であることになり、有理数の仮定に背くので仮定は否定された。従って斜辺は有理数ではない無理数になる。このような通約不可能な線分の存在はピタゴラス教団の数学体系に致命的な打撃を与えたそうだ。エレアのゼノン(紀元前490年ー430年)が現れてピタゴラスの美的空間は打ち破られた。「ゼノンの逆理」とは次の4つからなる。要するに連続に関する背理である。
① 運動体は限りなく多くの地点を通過しなければならないとすれば、∴運動なるものはない。
② (アキレスと亀のジレンマ)アキレスが亀の地点まで来たときには亀は少し前にいる。∴アキレスいつまでも亀に追いつくことはできない。
③ 飛んでいる矢が一定の位置を占めるとすれば、∴飛んでいる矢は静止している。
④ (特殊相対性理論)静止、右へ進む、左へ進む物体の列がある。この3体がすれ違う時、一定の時間とその半分は相等しい。
背理法という数学の証明法はいつもトリックに満ちている。最初公理を信じさせておいて、その論理展開が矛盾となるように仕向けるのである。ゼノンの逆理は数学の問題か、論理学の問題か、無限小を無限大と同等に論じる愚かさか、時間・速度を無視した無限小のジレンマか、昔からゼノンの逆理に対する解釈は多い。筆者吉田氏も「アキレス問題が分からないのは、粗雑な日常言語によってものを考えるからである。本来こういう量に関する問題は数学によって考えなくてはならない」という。とはいえゼノンは上の設問に見る様に、点を大きさのないもの、線は幅を持たないもの、面は厚みのないものという抽象的なユークリッド幾何学の公理に近づいたのである。紀元前6世紀のころ東のペルシャ帝国は隆盛になり西に侵攻しギリシャ諸国に圧力を加えるようになったが、紀元前480年アテネを中心としたギリシャはマラトンの戦い、サラミスの海戦でペルシャを破った。アテネは学芸の堂として富強を誇示した。そこで活躍したのが諸都市を遊歴するソフィスト(中国春秋戦国時代の儒者とおなじ)である。ソフィストはプロタゴラスの「人間が万物の尺度である」という認識の主観性をとき、絶対的真理を否定した。これに対してソクラテスは客観的な善の概念を確立しようとし、概念に定義を与えた。その弟子プラトンは学園を開き、数学を哲学の中に織り込み、「幾何学を知らざる者は入るべからず」という句を門に掲げたという。

(つづく)

読書ノート 吉田洋一著 「零の発見」-数学の生い立ちー(岩波新書)

2015年12月27日 | 書評
アラビア数字は位取り計算を容易にし、連続の概念は微積分を用意した  第4回

2) 直線を切るー連続の問題 (その1)

本章はギリシャ時代の数学特に数論を扱う。これが近代解析学のデデキントの連続とオイラーの無限解析の始まりにつながるからである。ギリシャ時代の数学はアルキメデスに始まる。そしてユークリッドに受け継がれた。ギリシャの数学はエジプト人の計測計算術と幾何学的知識を基にしている。エジプトでは数学は、耕地の区画やピラミッド建設工事といった実用目的によって進歩してきた。エジプト人の幾何学は、円の面積と等しい面積を持つ正方形として、円の直径からその1/9を引いた1辺とする正方形を与えるという経験則を持っていた。円の半径を1とすると、πr^2=π(1)^2=π=(2-2/9)^2=(16/9)^2=(1.77・・・・)^2で1.77または1.777で計算すると、πは3,1329~3,157729の間にある。πの近似値て我々が用いる3.14はその中間にあるので実用的には十分である。このようなエジプトの数学は紀元前600年前後にイオニアという都市国家のギリシャ人によってもたらされたという。ギリシャの都市国家は紀元前8世紀から6世紀半ばの200年で盛んに植民地的発展を遂げた。特にイオニアとエジプトは特別の関係を結びエジプトの文物が輸入されたのである。貨幣制度が始まって地中海沿岸の各都市間の商取引が活発化した。ギリシャ人は文字に特別の信頼を置いてない。「語られる言葉」こそが力を持つ「言霊」の国であったといわれている。フェニキアからギリシャに文字がもたらされたのは紀元前9世紀のことである。エジプト人は記念建造物に彫った記号は、音の符牒ではなく対象物の摸像であった。数学者ピタゴラスや哲学者タレス、ソクラテスも書いたものを後世に残さなかった。ピタゴラスやソクラテス、プラトンは結社を結んで思想はその中でのみ伝達されるという秘密結社的傾向を持っていた。ピタゴラスは数学を実用的の必要に囚われない純粋の学とし、数学的知識を論理的証明によって基礎図けてゆこうとするギリシャ数学の基礎を築いたという。ただそれ以前の数学が経験則だけであったというのは言い過ぎで、たとえばバビロニアの数学は2次方程式の解法や代数学を心得ていたといわれる。エジプトの実用数学、ギリシャの理論数学、バビロニアの代数学、東洋(中国)の数学)など実在の世界と数学の交渉態度はさまざまであったというべきであろう。ギリシャ人は数学的事実を数学者が発見するより前から存在していたという言い方をするが、現代の数学は数学者自身が想像するものという捉え方をする。現代ではユークリッド幾何学以外にもいくらでも違った構造を持つ幾何学を創造できるという考えに立つ。ヒルベルト著「幾何学基礎論」(ちくま学芸文庫)は公理を出発点としたいろいろな幾何学を紹介している。ギリシャの数学者アルキメデス(紀元前570年-紀元前490年)は小アジアに近いイオニアのサモス島に生まれた。哲学者タレスについて学びエジプト、バビロニアに遊学したといわれる。紀元前532年イタリアに移りクロトンに学園を開いた。この学園はピタゴラスを巡って一つの神秘的宗教団体を形作った。クロトンの教団では、教科として算術、音楽、幾何学、天文学、そして宗教的修行が課せられた。アルキメデスは純粋の抽象数学を意図していたわkではなく、琴の弦の長さと音程が美しい調和を持つという、数が持つ美学に神秘性を感じていたのであろう。自然界の美は数が支配するという「大地は数である」または「万物は数である」と言った。天体宇宙も数が支配している典型的な対象であった。すべて知られているものは数を持つ、数こそ認識の条件であるという。天の集まりは「形象数」の概念を生んだ。全体が正3角形をなす点の集合の数の数列の和は、1+2+3+・・・・n=1/2(n)(n+1)で1,3,6,10,15,21,28・・・・・を三角数と呼ぶ。正方形はn^2であるがこれを2つの3角数の和と見ることができる。このように天お集まりをもって自然数を表し、これによって自然数(正の整数)の性質を研究する方法は不必要に神秘主義だとばかりは言えない。ディリクレの「整数論講義」ではこれを代数的演算a×b=b×aの証明につかっている。数の本質をついているからだ。ギリシャ時代の数は幾何学と結びつき、定理の証明は幾何学的な形で成されていた。

(つづく)