ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

福島第1原発周辺30Km以内は立ち入り禁止に指定すべき

2011年06月30日 | 時事問題
asahi.com 2011年6月30日1時3分
避難勧奨地点、調査地広げる考え 原子力災害現地本部長
 政府の田嶋要・原子力災害現地対策本部長は29日、特定避難勧奨地点の指定候補地の福島県伊達、南相馬両市以外についても、放射線量の詳しい調査を進める考えを示した。 「細かい測定をすれば現実が見えてくる。勧奨地点は二つのまちに限定しない」と述べた。いわき市と福島市でも独自の調査で局所的に放射線量が高い地域が確認され、いわき市では住民説明会が始まっている。国は、今後の調査の結果をふまえ、指定が必要かどうか判断する。

避難勧奨区域という言い方は、立ち入り禁止区域と同じ意味ではないか。チェルノブィイ と同じように福島第1原発から半径30Kmは暫く凍結すべきだと思う。「避難勧奨」という曖昧な言葉で個人責任に転嫁する意図が如実。避難者の帰りたいという気持ちと、放射線が出続けているという現実を見つめて、最悪の事態を想定した対策こそが真の対策ではないか。

読書ノート 森毅著作集 「一刀斎 数学三部作」

2011年06月30日 | 書評
一刀斎先生 数学の歴史を語り、数学教育を斬る 第25回

森 毅著 「異説数学者列伝」 (ちくま学芸文庫)

15) フーリエ(1768-1830)
 フランス革命後の激動期を生きた人々は、政権が変わるたびに立場の調整が大変だったようだ。ラプラースは陰性だったために評判が悪かった。フーリエは21歳で修道院に入ったが、方程式の論文を革命の1789年にパリ科学学士院に提出し、モンジュに認められて高等工芸学校に呼んで貰い坊主から数学者の道へ転進した。方程式の根に関する「フーリエの定理」である。エジプト遠征ではエジプト学士院に取り残された。フーリエには行政手腕もあったようで、フランスに戻ってからグルノーブルの知事に任命された。フーリエは「熱の解析的理論」は1822年のナポレオン後のことで、熱伝導で科学学士院理事に君臨した。熱伝導を三角関数の級数で解くことは、ベルヌーイが50年前に弦の振動を三角関数の級数で解いたことの再現であった。熱の伝導と弦の振動が同じ数学形式で表されることが奇妙な取り合わせとなり、現代解析の基本的カテゴリーである「集合と関数」、「位相と連続」、「測度と積分」のすべてがフーリエ級数でつながっていたのだ。フーリエは数理物理学者になった。ルイ18世の王政復古の時は、暫く身を潜めていたが、セーヌ統計局長におさまった。パリ学士院会員、翰林院会員と上り詰め、ディリクレをフーリエ級数の理論後継者とした。

16) ガウス(1777-1855)
 19世紀の数学はガウスを持って始まる。ガウスは理想的な数学者としての能力に恵まれていた。ガウスは知りえた知識は完成の形で発表するという完璧主義者であったため、半世紀間の数々の数学的発見は行李の底に秘匿され、日の目を見なかった。それが多くの後輩数学者に対する業績評価に話題を投げかけた。しかし天才ガウスの発見したことは半世紀の間にガウスなしでも発展したことになり、天才がいなくても世の中は進むものである。10代でゲッチンゲン大学に進み、算術幾何平均、最少二乗法、正17角形の作図をしたといわれる。20代には「整数論考究」、「天体運動論」をものにした。30にしてゲッチンゲン大学天文台教授として立った。ガウスは18世紀サロンの数学を実地でおこない、19世紀の数学理論体系を自立させたという、18世紀と19世紀の境にたった「両面のヤヌス」といわれた。ガウスは測地学から曲面論と多様体を自立させた。50代には電磁気学を中心に研究し、磁場のガウス線はポテンシャル論の出発となった。この頃若い数学者の研究、たとえばコーシーの「複素関数論」、アーベル、ヤコビの「楕円関数論」、ボヤイ、ロバチェフスキーの非ユークリッド幾何学を無視したことは、かって自分がしまいこんだ論文の行李の底を引掻いたからだといわれる。曲面論と時ユークリッド幾何が新しい世代によって開花し始めた時期、つまり19世紀半ばドイツ数学の黄金時代にガウスは亡くなった。
(つづく)

読書ノート 天野郁夫著 「大学の誕生」 中公新書

2011年06月30日 | 書評
帝国時代の高等教育システムの歴史 第36回 最終回

10)大学令の成立 (3)

 大正7年12月大学それぞれの個性や特性を超えて、共通の困難に満ちた誕生の時期を迎えた。大学令の公布より昭和20年までにいくつの大学が誕生したのだろうか。帝国大学は既存の4帝国大学にくわえて、大正7年に北海道帝国大学、昭和6年に大阪大学、昭和14年名古屋帝国大学ができ7帝国大学がそろった。官立単科大学は11校(医5校、商2校、公2校、文理2校)増え、公立大学は5校(医4校、商1校)増え、私立は26校増え、合計45校の大学が誕生した。併合などで消滅した大学もあるので、結局戦前には帝国大学7校、官立大学11校、公立大学2校、私立大学26校の合計46校であった。昭和16年での大学卒業生が15000人で、専門学校卒業生は38000人である事を見ると、我が国の高等教育システムはまだ専門学校に頼っていたのである。明治20年ごろから大正7年の大学令までの30年余の学制改革論議は現実重視の現状追認的な解決を目指していた。なかでも大学は全て国家に奉仕することを第一義とし国家の厳しい監督下におかれた。帝国大学をモデルとすることがすべての大学に求められた。帝国大学の予科に対応して、公立私立にも予科がおかれ、高等学校の問題がすべての大学で再生産された。そして予科は各学校で囲い込まれていた。専門学校令による「私立大学」にとって「大学令」はたしかにたいへんな改革であったが、依然として経営基盤である専門部は存続した。私立にとって予備校まがいの予科、夜間授業のある専門部、入学資格を問わない別科等から上がる授業料なしには経営が成り立たなかったので、現状追認はぜひとも必要であった。
(完)

筑波子 月次絶句集 「西湖看蓮」

2011年06月30日 | 漢詩・自由詩
西湖煙霧絶塵埃     西湖煙霧 塵埃を絶ち

三四白蓮含露開     三四白蓮 露を含んで開く

碧水鴛鴦排銭渡     碧水鴛鴦 銭を排して渡り 

青冥乳燕觸荷来     青冥乳燕 荷に觸れて来る


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(韻:十灰 七言絶句平起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)

CD 今日の一枚 シェーンベルグ 「浄夜、弦楽三重奏曲」

2011年06月30日 | 音楽
①「浄夜 弦楽六重奏曲」作品4(1899) ②「弦楽三重奏曲」作品45(1946)
ラサール弦楽四重奏団
DDD 1982 ドイチェ・グラモフォン

アーノルド・シェーンベルグ(1874-1951)はウイーン生まれのユダヤ人。12音階技法(無調)の創始者。アルバンベルグやウエーベルンらの先達である。浄夜は美しい曲であるが、好きか嫌いかは分らない。