雑種文化の提唱者加藤周一氏が医学を捨て、日本文化の観察者たらんと決意した1960年までの半生記 第13回
24) 京都の庭
この話は一見小説風に書かれている。京都の人とはだれかよくわからない。加藤氏は私的なこと特に妻については絶対秘密主義である。ウイキペディアでは妻は評論家・翻訳家の矢島翠と書かれている。加藤氏は「今まで三回結婚をしたけど」と言ったという。「羊の歌」でドイツ人女性と国際結婚をしていたらしいことも書かれている。「羊の歌」に京都の女というのが出てくる。加藤氏はそのとき結婚までいっていたんだけど、結局わかれてしまう。その経緯もよくわからない。京都の女という目でこの「京都の庭」の一説を読んでゆこう。その女のために私はしばしば京都へ行った。私は彼女を愛していると思っていた。東京で育った私には「京都弁」がたとえようもなく美しい言葉になった。若くして死んだ夫は仏教学者であった。子供が一人あって近所の小学校に通っていた。私は一人で京都の町を歩き、折節古寺を尋ねることをいつしか慣わしとした。龍安寺の石、西芳寺の苔、東山を借景とした南禅寺の枯山水に目をうたれた。私の外にあるものとうちにあるものとの一つの確かな関係に出会った。私は日本の庭に出会って以来15年も経って「詩仙堂志」(1964年)を書いた。その確かな関係がなければ庭に愛着ができない。古今集以来の歌にもつながり、一人の女の言葉の抑揚にもつながり、幼少のころ道玄坂に夕陽にもつながらなければならない。1949年、長く心臓をやみ、自律神経失調で健康にすぐれなかった母が、胃がんでこの世を去った。転移がなければ生きられたのに残念でならない。母が死んだとき私の内側が空虚になったように感じた。母の臨終にはカトリックの神父が立ち会った。母の信仰があったかどうかは確かではない。私が京都へゆくことを母は好んでいなかった。しかし私は結婚を考えていた。その時戦後第1回のフランス政府給費留学生の推薦に「半給費生」として選ばれた。京都の女が強く反対すれば出かけなかったかもしれないが、彼女は引き止めなかった。「1年後に帰ってきたら結婚しよう」という言い訳に、彼女は「そうね」と答えた。1951年フランスへ旅立ち、結局フランス滞在は4年に及び、京都の女の元へは戻らなかった。京都の女に関してはこれだけしか書かれていない。フィクション(小説)だと言われればそれだけの事であるが。
25) 第2の出発
1945年戦後日本社会へ向かって出発した私は、1951年の秋西洋見物(医学留学生としてフランス留学)にでかけた。これが2回目の出発となった。私より1年前に来ていた森有正氏と三宅徳嘉氏がオルリー空港に迎えに来てくれた。パリ市街の灯も東京の灯もこの遠さを感じさせるものではなかった。飛行機で南回り航路二日間の旅は、香港からカラチ空港、ベイルート空港、アルプス越えでパリ・オルリー空港に着陸した。周囲の世界が英語を媒介として構成される世界に入ったのである。日常の事をすべて外国語で表現する他はないとすれば、私の考えに内容も影響を与えるだろうと感じ始めた。大学町の日本館という気宿舎に入居した。私はフランス・ブルターニュから来た学生と知り合った。彼と意見交換(論争)をしたことで、フランス語を話せるようになった。フランス語で話をすることは対して難しくはないが、ヴァレリーを読むのは容易ではないと考えるようになった。フランスの青年が母国語とその古典に結ばれているほど確かな絆で、私は日本語とその古典に結ばれてはいなかった。横に幅広い教養を「雑種」と呼び、縦に深い教養を「純粋種」と呼ぶなら、現代の日本人は雑種型に積極的な意味を見出すほかはない。大学町で米国の女性黒人画家と知り合った。その頃パリの在留邦人は少なかった。大使館はまだ開設されていなかった。外務省事務所の萩原大使た、彫刻家高田博厚氏、フランス文学者朝吹登水子さんらと知り合った。東京とパリの違いは、道の両側に並んだ石造りの建物が堅牢で、パリという街全体が一個の複雑な彫刻に見えることであった。私はそこに外在化されたすなわち感覚的対象と化した一個の文化の核心を見たのであろう。私は街を歩きながら、底知れぬ一つの世界へ自分が引き込まれて行くのを感じた。
(つづく)
24) 京都の庭
この話は一見小説風に書かれている。京都の人とはだれかよくわからない。加藤氏は私的なこと特に妻については絶対秘密主義である。ウイキペディアでは妻は評論家・翻訳家の矢島翠と書かれている。加藤氏は「今まで三回結婚をしたけど」と言ったという。「羊の歌」でドイツ人女性と国際結婚をしていたらしいことも書かれている。「羊の歌」に京都の女というのが出てくる。加藤氏はそのとき結婚までいっていたんだけど、結局わかれてしまう。その経緯もよくわからない。京都の女という目でこの「京都の庭」の一説を読んでゆこう。その女のために私はしばしば京都へ行った。私は彼女を愛していると思っていた。東京で育った私には「京都弁」がたとえようもなく美しい言葉になった。若くして死んだ夫は仏教学者であった。子供が一人あって近所の小学校に通っていた。私は一人で京都の町を歩き、折節古寺を尋ねることをいつしか慣わしとした。龍安寺の石、西芳寺の苔、東山を借景とした南禅寺の枯山水に目をうたれた。私の外にあるものとうちにあるものとの一つの確かな関係に出会った。私は日本の庭に出会って以来15年も経って「詩仙堂志」(1964年)を書いた。その確かな関係がなければ庭に愛着ができない。古今集以来の歌にもつながり、一人の女の言葉の抑揚にもつながり、幼少のころ道玄坂に夕陽にもつながらなければならない。1949年、長く心臓をやみ、自律神経失調で健康にすぐれなかった母が、胃がんでこの世を去った。転移がなければ生きられたのに残念でならない。母が死んだとき私の内側が空虚になったように感じた。母の臨終にはカトリックの神父が立ち会った。母の信仰があったかどうかは確かではない。私が京都へゆくことを母は好んでいなかった。しかし私は結婚を考えていた。その時戦後第1回のフランス政府給費留学生の推薦に「半給費生」として選ばれた。京都の女が強く反対すれば出かけなかったかもしれないが、彼女は引き止めなかった。「1年後に帰ってきたら結婚しよう」という言い訳に、彼女は「そうね」と答えた。1951年フランスへ旅立ち、結局フランス滞在は4年に及び、京都の女の元へは戻らなかった。京都の女に関してはこれだけしか書かれていない。フィクション(小説)だと言われればそれだけの事であるが。
25) 第2の出発
1945年戦後日本社会へ向かって出発した私は、1951年の秋西洋見物(医学留学生としてフランス留学)にでかけた。これが2回目の出発となった。私より1年前に来ていた森有正氏と三宅徳嘉氏がオルリー空港に迎えに来てくれた。パリ市街の灯も東京の灯もこの遠さを感じさせるものではなかった。飛行機で南回り航路二日間の旅は、香港からカラチ空港、ベイルート空港、アルプス越えでパリ・オルリー空港に着陸した。周囲の世界が英語を媒介として構成される世界に入ったのである。日常の事をすべて外国語で表現する他はないとすれば、私の考えに内容も影響を与えるだろうと感じ始めた。大学町の日本館という気宿舎に入居した。私はフランス・ブルターニュから来た学生と知り合った。彼と意見交換(論争)をしたことで、フランス語を話せるようになった。フランス語で話をすることは対して難しくはないが、ヴァレリーを読むのは容易ではないと考えるようになった。フランスの青年が母国語とその古典に結ばれているほど確かな絆で、私は日本語とその古典に結ばれてはいなかった。横に幅広い教養を「雑種」と呼び、縦に深い教養を「純粋種」と呼ぶなら、現代の日本人は雑種型に積極的な意味を見出すほかはない。大学町で米国の女性黒人画家と知り合った。その頃パリの在留邦人は少なかった。大使館はまだ開設されていなかった。外務省事務所の萩原大使た、彫刻家高田博厚氏、フランス文学者朝吹登水子さんらと知り合った。東京とパリの違いは、道の両側に並んだ石造りの建物が堅牢で、パリという街全体が一個の複雑な彫刻に見えることであった。私はそこに外在化されたすなわち感覚的対象と化した一個の文化の核心を見たのであろう。私は街を歩きながら、底知れぬ一つの世界へ自分が引き込まれて行くのを感じた。
(つづく)