ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 伊東光晴著 「ガルブレイス―アメリカ資本主義との格闘」 (岩波新書2016年3月)

2017年05月31日 | 書評
戦後経済成長期のアメリカ産業国家時代の「経済学の巨人」ガリブレイスの評伝 第4回

第1部  アメリカの対立する2つの社会・経済思想とガルブレイスの経済学者としての出発
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2) ガルブレイスの経済学者としての出発

ガルブレイスは1908年10月カナダのオンタリオ州、五大湖に接するアイオワ・ステーションという小さな村に生まれた。村はスコットランドからの移民の子孫であり、なかでもガリブレイスの家は150エーカーの農場と150エーカの借地で地区牛を飼育していた。村で発言力があるのは100エーカー以上の自営農民で、家柄がよく、かつ頑丈な体躯を持つことであった。ガルブレイス家はリベラルな政党(自由党)支持者で、村のオピニオンリーダ-の一人であった。そしてスコットランド移民者は共同体を形成し、助け合いと協力関係で結ばれていた。アメリカはヨーロッパにように封建制(土地で結ばれた共同体)を持たない社会で、自らの努力だけが頼りの「フロンティア」社会であった。ガルブレイスが育ったスコットランド系農民社会はアメリカ社会と違って、互いが共生する社会であって、市場主義ではなかった。ガルブレイスの祖だった環境は、20世紀前半を代表する経済学者であるケインズやシュンペンターとはあまりにも違った環境であった。彼らは貴族出身で、ケンブリッジ大学とかウィーン大学で学んだエリート子弟であった。それに対してガリブレイスは農作業を手伝いながら高校を卒業しオンタリオ農業カレッジに通った。学んだ学科は畜産学、耕作法、園芸、農業工学といった農業関係の実学である。経済学者への道はまだまだ先のことであるが、農業大学で学んだことは決して無駄な寄り道ではなかった。彼の興味は畜産から農業経済に移り、卒業論文は「小作農の経済状態の実態調査」であった。アメリカの大学の水準はまだまだ低く、大卒だけでは使い道がなかったので、大学院が作られた。アメリカの大学は教養大学であり、その上に大学院が設置された。ガリブレイスは奨学金を得て、1931年カルフォニア大学バークレー(UCB)で、財団法人農業経済学研究所研究員として経済学の勉強を開始した。経済学の基礎をエイワルド・グレッサーと教授レオ・ローギン教授から学んだ。ガリブレイスのバークレー時代の師として財団研究所長のハワード・R・トーリーが重要である。彼の推薦で後にハーバード大学に移ることで運命を切り開くことができたからである。当時のバークレーの学生はリベラルから左翼までいて、ガリブレイスの思想形成に影響したと言われる。バークレー時代ガリブレイスは制度学派の祖ソースタイン・ヴェブレンの著書から学ぶところが多かったという。農業経済学から研究を進めたガリブレイスは経済の現実を変える政策提言を用意する姿勢を確立していった。農業の実学の中からアカデミズムに進むという二流から一流への道に進むのである。博士論文を契機として、1934年ハーバード大学経済学部講師となった。アメリカの政治が大きくリベラルに軸を移した時代に、しかもその第1期は農業政策が中心となって、ガルブレイスの専門とする農業問題が時代の脚光を浴びたのである。ガリブレイスの指導教授が農業経済のジョン・D・ブラックであったことから、彼と「流通過程のコスト分析」という共同論文を書いた。ブラックはガリブレイスの研究対象を農業から流通市場経済へ拡大変更させた。当時の市場理論はハーバードのE・チェンバリンの「独占的競争の理論」(市場の競争によって生産量は増え雇用は増すという理由)であった。しかしこの頃ガリブレイスはケインズの著書「雇用、利子および貨幣の一般理論」(1936年)を読んでから、不完全競争ないしは独占的競争論の現実に果たした役割とケインズが競争的市場を前提としたことに注目した。ケイインズの理論はハーバードだ学大学院学生によって支持され広まった。六うフェラー財団のヨーロッパ留学奨学金を得て(ブラックとトーリーの推薦があったから)、1937年英国のケンブリッジ大学留学が実現した。ジョーン・ロビンソン、オースティン・ロビンソン、ジェイムス・ミード、ピェル・スラッファー、リチャード・カーンらの「ケインズインナーサークル」ン人々との交流によって、ガリブレイスの眼は開けていった。又ロンドンスクールオブエコノミックスの保守派サークルとの交流も財産となった。ガリブレイスが、アメリカの経済学者に見られない、西欧的思想を感じさせるのはこの留学の故かもしれない。帰国後ハーバード大学では人事抗争事件があって、ガリブレイスの人事は進まず、1939年プリンストンの助教授として転出したが、3年後にはプリンストンを辞めた。第二次世界大戦が1939年に勃発してから、ルーズベルト政権も退陣し財政政策は戦争政策に突入した。経済顧問のラクリン・カリ―は1940年ガリブレイスをワシントン政府に招き、国家防衛諮問委員会顧問となった。そして物価管理局行政官補(1942年)から同局副長官(1943年まで)となった。実業界からの反発を受けて副長官を辞してから、雑誌「フォーチュン」に勤めた(1943-1948)。そして戦争が終わって再びブラックの援助によって1949年ハーバード大学の教授に就任することができた。

(続く)


読書ノート 伊東光晴著 「ガルブレイス―アメリカ資本主義との格闘」 (岩波新書2016年3月)

2017年05月30日 | 書評
戦後経済成長期のアメリカ産業国家時代の「経済学の巨人」ガリブレイスの評伝  第3回

第1部  アメリカの対立する2つの社会・経済思想とガルブレイスの経済学者としての出発
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1) アメリカの対立する2つの社会・経済思想  (その2)

 伊東光晴氏は、その国の経済学が広く注目を集めるか否かは、その国の経済の興隆と深く関係しているという。スポーツの実力がその国の国力に比例するのと同じことです。スミスからマルクスまでのイギリス経済学が世界の中心であったのは、イギリスが世界帝國として世界の1/4を植民地化していたからです。19世紀末からのドイツ経済の躍進を背景として、多くのアメリカの経済学者はドイツに留学していた。19世紀後半から20世紀の2度の大戦まではアメリカは文化や学問の点で欧州に比べると後進国であった。ではなぜアメリカはイギリス経済学を学ばなかったのかといえが、日本と同様にアメリカは後進国としての共感からドイツに学んだというべきです。アメリカ経済学会の創立者たち、セリグマン、イリ―、クラークなどいずれもドイツ留学組であった。彼らはハイゼンベルグ大学でドイツ歴史学派に学んだが、影響されるところは少なく、むしろイギリス古典派経済学のマーシャルの流れにあった。そのことは日本の経済学者のドイツ留学組についてもいえる。アメリカの輸入経済学が根付くのは、第2世代の、ヴァイナー、ナイトからで、イギリスのマーシャル経済学の精緻化と自由主義化を確立した。アメリカに独自の経済学がなかったわけではない。「制度学派」経済学が、ヴェブレンを創始者とし、ミッチェル、コモンズ、J・Mクラークの流れが作られ、アメリカの現実を実証的に捉え、そこから有益な政策を引き出すプラグマティズムの方法の上に立った。ヴェブレン(1857-1929)はイデオロギーとしての、ダーウィ二ズムと自由主義を否定し、現実を実証的に経験主義的に捉えることであった。19世紀後半のアメリカ経済は北部の工業発展が始まり、西部へ向けての鉄道建設、カルフォニアでの石油発見が経済発展を促した。広大な国土で分散した企業はカルテル形成やトラスト運動(企業合同)を結んで巨大化した。それはスタンダードオイルによる石油産業の独占化となった。鉄道会社を傘下に入れてコスト競争に競り勝ったのである。ヴェブレンが見たものは。このような人為的操作による巨大独占企業の成立と、不当利益と富の蓄積、圧倒的な富の誇示であった。ヴェブレンは1904年に「営利企業の理論」を著し、企業が金儲け中心の社会を作り出したことを批判した。ヴェブレンは産業界の技術者連合社会を提案したが、「銀行資本主義」がウォール街・財務省複合体の中心としてグローバリズウムの社会となった。制度学派の第2世代を代表するJ・R・コモンズ(1862-1945)は、労使関係の近代化と市・州行政府の改革を行い、アメリカ経営学の祖と言われるのは人材教育と適用に優れていたからである。ルーズベルト大統領のニューディール政策を支えたのも、コモンズの制度学派の人材であった。「ブレーン・トラスト」と言われるレイモンド・モーリー、レックスフォード・タグウェル、アドルフ・パーリの3人のコロンビア大学教授が中心であった。経済学者が現実苧経済政策にm関与し、政策効果をあげた好例となった。彼らが構想した社会改造論はカルテルやトラストを禁止したので、アメリカの保守層が最も嫌う政府の経済への介入による社会改造論は途中で違憲とされ葬られた。戦後のアメリカ経済学の躍進を準備したのは1930年代後半のハーバード大学大学院の学派であった。J・シュペンター、ゴットフリート・ハーバラ、エドワード・チェンバレン、アルビン・ハンセン、ワシリ・レオンティエクらの教授連である。そしてハーバード大学には世界の俊才が留学してきた。彼らは「ケインズ革命」時代に生き、ニューディールの革新的社会的担い手となった。そこから多くの経済学者が育っていった。サムエルソン、トリフィン、マスグレイブ、トービン、ベイン、ポール・スウィージ、ガルブレイスらが戦後の制度学派を担う論客になったのである。一番先に頭角を現したのがサムエルソンで、マーシャル理論をミクロ理論とし、ケインズ理論をマクロ理論とした。ヴェブレンに学んだガルブレイスは、まず英国ケンブリッジ大学に留学してケインズ理論を学んだ。

(つづく)



読書ノート 伊東光晴著 「ガルブレイス―アメリカ資本主義との格闘」 (岩波新書2016年3月)

2017年05月29日 | 書評
戦後経済成長期のアメリカ産業国家時代の「経済学の巨人」ガリブレイスの評伝  第2回

第1部  アメリカの対立する2つの社会・経済思想とガルブレイスの経済学者としての出発
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1) アメリカの対立する2つの社会・経済思想 (その1)

 アメリカ社会の思想の特徴は、いつも自主独立の建国の思想や自己防衛の西部劇から説明されることが多い。なるほどと理解される人がほとんどであるが、それほどアメリカ社会は戯画的で簡単ではない。自由の国アメリカは同時に奴隷制度の国であった。プラグマティズムの祖ウイリアム・ジェームズが「アメリカは矛盾多き国である」といった理由の一つであった。アメリカの銃社会を400年前の開拓移民の精神だけから説明するには大きな無理がある。奴隷制度は1641年に、北部のマサチュセッツ州で生まれ広まったとされる。アメリカ社会の特徴は、自由な国が同時に奴隷制度の国であったと同時に、移民国家でもあり人種が階級を作った多民族国家であった。1776年イギリスの植民地13州が独立戦争によって独立を宣言した。その時のアメリカの人口は約490万人、約100年後には7758万人(16倍)に増加した。最初は西と北ヨーロッパから、19世紀前半にはアイルランドから、19世紀後半にはラテン系、ロシア、ポーランド、中国人の移民が流入した。階層化する人種社会が形成され、その最下層はかって奴隷であった黒人であった。重要なのはアメリカの貧困層はこうした移民によって維持されてきた。自由の女神が貧困層を作ったともいえる。そして自由のイデオロギーは支配層が自分の利益を擁護するために作り出したのである。自由といっても、西欧の自由とアメリカの自由は意味するところが違っている。西欧は公的分野では宗教色は一掃されている。政教分離はパブリックな問題で、アメリカでは公的分野でも政教分離が完全に話されていない。しかも宗教はカトリックである。「自由」の内容ではヨーロッパにおいては市民革命を経て、封建社会の束縛を排して、政治的、経済的、市民的自由が獲得された。市民的自由とはすべての人に思想と良心、信教、言論の自由が保障された。こうしてヨーロッパでは、自由の対極に、伝統の習慣をまもる「保守」が生まれた。ヨーロッパの共同体は個人を守るために存在し、不安定な個人は共同体への回帰の思想を持っている。この保守に対してヨーロッパの自由は「進歩」と『発展」の思想と結びつき、伝統主義に対する進歩主義となった。そしてヨーロッパの自由には、その前提として「平等」がある。それが進歩が生み出す格差を是正する力となる。ケインズが行った「自由の再定義」とは、自由の内容の修正のことである。アメリカに移民した人々はイギリスの束縛から自由になり、自立する自由の心は、自ら選ぶ政府も自らに干渉することのない小さな政府であるべきだというイデオロギーを作った。アメリカにおける自由は進歩主義とは直接結びつかない。そしてヨーロッパの自由は、その前提に平等があったが、アメリカ社会ではそれは保証されない。アメリカの社会は所得の不平等やあらゆる格差が是認される珍しい道徳を持った国である。1934年の調査では、所得分布の上位0.1%の人が国内所得の42%を占めていた。アメリカで平等が追求されのは、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール期の時代だけである。ルーズベルトは累進課税(累進度の高い)と相続税の引き上げを行った。1980年代のレーガン大統領は税制改革を行い、ほぼフラットの所得税率が平等で公正だと見なされた。アメリカ社会には課税によって平等な社会に近づけようとするヨーロッパ流のリベラリズムが存在しない。ヨーロッパでは政治的には社会民主主義・福祉社会が成長してゆくのに対して、アメリカではそれは自由の侵害、社会主義と見なされて、福祉を拒否した。富者のおこぼれを「トリクルダウン」と称して、社会保障より「お恵み」という寄付行為で自分の道徳観を言い訳するのである。アーサー・シュレジンガー・ジュニアー ハーバード大学教授はアメリカ特有の哲学である「プラグマティズム」を「実証の上に有意な結論、役に立つ方法を導き出す」ことであるとしたうえで、「自由主義」イデオロギーがその哲学を殺していると批判した。アメリカのプラグマティズムの祖とは、パース、デューイ、ジェームズである。「自由主義」イデオロギーとは「減税、小さな政府、大きな自由」のことで政治的には共和党の精神である。2009年の「ティーパーティ―運動」がその極端なイデオロギーの例である。アメリカの議会内にはさらに極右の原理主義者が時折現れる。マッカーシズムの反共主義者である。「自由主義」イデオロギーは経済学的には、「アメリカは自由競争の社会であり、自由競争は最も良い経済状態を作り出す」という「新古典派経済学」(政治的には新自由主義)を信じて疑わない信条である。反対にアメリカ独自の経験主義プラグマティズムの上に立つ経済学は「制度学派」と呼ばれる。

(つづく)

読書ノート 伊東光晴著 「ガルブレイス―アメリカ資本主義との格闘」 (岩波新書2016年3月)

2017年05月28日 | 書評
戦後経済成長期のアメリカ産業国家時代の「経済学の巨人」ガリブレイスの評伝 第1回



 ジョン・ケネス・ガルブレイス(1908-2006年)はスコットランド移民のカナダ出身で、20世紀アメリカを代表する「経済学の巨人」と言われた。1930年代をハーバード大学で学び、経済学への道を歩み、一生この30年代のリベラルで革新的な思想を持ち続けてた経済学者であった。ルーズベルト大統領とニューディラー(ケインズ主義経済学)の経験は、よき政治によって社会は変わるという確信を若きガルブレイスに与えた。1960年代ジョン・F・ケネディ大統領に大きな期待を寄せ、シュレージンガー・ジュニアー ハーバード大学教授とともに、ケネディの政策立案にかかわった。ガルブレイスは20世紀後半のアメリカを代表する経済学者である。1949年から1975年までアメリカの経済学の中心でもあったハーバード大学の教授であった。ガルブレイスを著名にしたのは多数の著作によってである。大恐慌後のケインズ革命(総需要量の創出)はまさに既存の知的枠組みの大変化であった。かれは既存の知的枠組みを「通年」と呼んだ。彼の著作はいずれもその「通念」への挑戦であった。「アメリカの資本主義」1952年、「ゆたかな社会」1958年、「新しい産業国家」1967年、「経済学と公共目的」1972年、「不確実性の時」1977年がガルブレイスの主要著書と言われる。通念は必ずしも現実を表現してはいない。むしろ間違った現実認識である場合がある。ガルブレイスの通念に対する挑戦は、現実を分析し新しい事実を発見するという「ファクト・ファインディング」に立脚している。それが理論の発展とともに経済学をより豊かにしてきた。ガリブレイスの現代資本主義の特質を見抜く資質によるところが大きい。経済学は不確実な科学である。分からないところが多いが、ガルブレイスは1930年代の政策実験のなかより、通貨を増やしても不況対策にはならない結論を得た。通貨政策・金融政策はインフレを抑えることはできても、マネタリストの不況対策は無効であると主張した。ここにガリブレイスの経済学の今日的意義がクローズアップされる。ガリブレイスの経済学の師は、アルフレッド・マーシャル(1842-1924)に導かれ、そしてヴェブレン、ケインズに心酔したが、いずれの教えも事実に基づいて克服していった。ガルブレイスの経済学の目的は、現代資本主義を分析して、現実から遊離したアメリカの「新古典経済学」の非現実性を批判することである。ガルブレイスが依拠するアメリカの「プラグマティズム」とは、現実優先の経験主義に立つ哲学である。アメリカの自由は欧州のそれとも違い、アメリカの経済学は大陸のそれとも大きく違う。1980年代から始まるレーガン・サッチャーイズムの「新古典派経済学」または「新自由主義体制」、そしてソ連邦と東欧の崩壊による冷戦の終了、日・独の台頭はアメリカを産業国家から金融国家に変えた。そしてアメリカはますます実物経済から遊離し、強欲資本主義に傾斜していった。何度も金融危機を引き起こしながら、2008年リーマン危機で信用崩壊のピークを迎えた。この時点で本書の著者である伊東光晴氏が本書を刊行された意味は大きい。本書の「はしがき」において、伊東氏は一橋大学を離れるときに3つの課題を自らに課したという。
①ケインズ研究を経済理論研究だけでなく社会思想史に高め、イギリス社会論を試みる。
②シュンペーターを借りてドイツ社会論を考える。
③アメリカの経済学者ガリブレイスを借りて、アメリカ現代資本主義を考える。
 ガリブレイスを選ぶことは師の都留重人先生の教示だという。伊東光晴氏のプロフィールを紹介する。伊東 光晴(1927年9月11日 生まれ )は、日本の経済学者。京都大学名誉教授、復旦大学(中国)名誉教授、福井県立大学名誉教授。専門は理論経済学である。経済学の理論的・思想的研究、現代資本主義論の研究を進めた。経済学に技術の問題、経営の問題が抜けていることをいち早く指摘。とりわけ、経済企画庁 国民生活審議会 では長年にわたり委員をつとめた。 また、「エコノミスト賞」選考委員会委員長をつとめた。最近の著書に「アベノミクス批判――四本の矢を折る」(岩波 書店)がある。

(つづく)

読書ノート R・P・ファインマン著 大貫昌子訳 「ご冗談でしょう、ファインマンさん」 (岩波現代文庫上・下 2000年1月)

2017年05月27日 | 書評
量子電磁力学のノーベル賞物理学者の奇想天外なお話、 科学への真摯な情熱 第5回 最終回

2) 本書に書かれたファインマン氏の逸話 (その2)

* ノーベル賞受賞の知らせの電話が朝の3時半前後にかかってきた事に腹を立て、賞を受けるかどうかも言わず、「今眠いんだ」とだけ言い放ち、すぐに電話を切ってしまった。その直後から次から次へと電話がかかってきてうんざりし、ノーベル賞を受けなければこんな目に遭わずに済むのかと考えて受賞を断ろうと考えたが、断った方が余計ことが大きくなると『Time』誌の記者に諭されて、受け取ることにしたという。
* コーネル大学の教授時代、原爆開発の反動で研究意欲を失っていた。その間も来るいろいろな研究所や大学からのオファーにストレスを感じていたが、あるとき「自分は遊びながら物理をやっていこう」と決心した。その頃たまたまカフェテリアに居合わせた男性が皿を使ってジャグリングしている場面に遭遇、皿が回転するときは横に揺れている事に気づき、その運動を解明するために、皿を構成する質点の運動をすべて計算するなど単なる好奇心から計算を行った。そのときは全く意味がなく、ただの「遊び」でニュートンの法則だけを用いてその事象の計算を行い証明した。その計算をベーテに披露するも「それが何の役に立つんだ?」と訝られ「だけど面白いだろう?」と答えるとベーテも得心した様子だったという、結果としてその時の洞察が基になって、後々ノーベル賞を受賞する布石になる。
* カリフォルニア工科大学の同僚であったマレー・ゲルマンとは強力なライバル、論敵関係にあった。ゲルマンが命名したクォークのことをファインマンは「パートン」(部分子)と呼び、「ファインマン・ダイアグラム」のことをゲルマンは「ステュッケルベルク図」と呼んでいた。
* シカゴ大学で研究所の所長を務めていたエンリコ・フェルミが他界した後、その後任として就任の要請が来たが、カリフォルニア工科大学の環境の良さを気に入っていた為に待遇も聞かずに断った。後日にその給料が知人から知らされたが、その高さに驚き、逆に断ってよかったと懐古している。物理に関係の無い雑事に関わることを酷く嫌がり自らを「社会的無責任論者」と称し、秘書ですら「胸がすくくらい、好条件の要請や招聘を殆ど断っていた」と感嘆していた。結果、30年余りに渡ってキャルテクに在籍、教鞭を取り研究に没頭出来る環境で過ごした。
* フリーマン・ダイソンは英国の両親に宛てた手紙の中でファインマンの事を「半ば天才、半ば道化」と評して、事実ファインマンの一般的イメージも「自由奔放で愉快な天才科学者」で認知される。ただダイソンは自分で軽々しく形容したファインマンに対する上記の第一印象を後々酷く後悔している。正しくは「完全な天才、完全な道化」。
* 可愛い娘には目がなく、女性の心理を色々と研究して、どのようにすれば女性にモテるかをよく知っていたし、実際よくモテた。カリフォルニア工科大学で教鞭を執っているときはほとんど毎日のように自宅近くのストリップバーに通っていて、ダンスを眺めたりダンサーの気を引いたりしていた。また、ラスベガスが好きだったが、その理由のひとつもダンサーに会えることだった。
* ファインマン・ダイアグラムがそこかしこに描かれたマスタードカラーのバンに乗っていた(ナンバープレートはQANTUM:ナンバープレートの文字数制限(6文字)のため)。このバンは現在カリフォルニア工科大学に寄贈されている。
* 物理学会で初来日した際はわざわざ日本語を(片言ながら)覚えてきている。また、日本式のホテル(旅館)に興味を持ち、和式の旅館に泊まりたいと主催者に無理を言って泊まらせてもらった。別の機会に来日した時にも、とあるリゾートホテルから三重県の山側にある町の小さな宿屋にわざわざ変えてもらったりした。
* 海産物が大嫌いで、一度カキを試してみたが、あまりの不味さに耐えられなかったという。ただし来日した際に食べた魚は美味しかった(新鮮で生臭くなかった)ので食べることができたが、帰国してから魚料理を食べに行ったらやはりまずかったと語っている。魚の腐敗臭g嫌いだったようだ。
* 3度の結婚を経験した。最初の妻(アーリーン)とは結核により死別、2番目の妻(メアリ・ルー)とは離婚。最終的な家族には3番目の妻のグウェネスのほか、実の息子にカール、後に養子として迎えたミシェルがいる。カールは幼い頃から父親同様に数学に多大な興味を示したが、同じように生活してきたはずのミシェルは全く興味を示さず、ファインマンはその違いに驚いた。
* NASAのチャレンジャー事故調査委員になるべきかどうか悩んでいたとき、夫人のグウェネスに、12人の調査員はみんなでぞろぞろ連れ立って、色々な処を調べるが何も見つけられないけど、あなたが行けば、ひとりで飛びまわって、ひとの考えないようなことを調べ、きっと事故原因を見つける。あなたみたいなやり方のできる人は、他にはいないから」と諭され、委員になる事を決意したと話している。
* 晩年、友人との談話中にたまたまソ連の「クズル」(現・ロシア連邦トゥバ共和国)という地を知り、どうにかして訪れたいと、何年にもわたって交渉を重ねていた。肝心の理由は「変わった地名だから」というものであった。
* 理論物理学の分野で八面六臂の活躍をしたファインマンであったが、一度「故障」を起こしている。1984年IBM社製パーソナルコンピュータの購入でパサディナまで出かけた時、興奮のあまり歩道の段差に躓きビルの壁面に頭部を打ち付け大量出血、通行人に病院に行くよう促されるも大したことはないと自己判断。後日、庭先にある車を探すのに45分も費やしたり、深夜に突然起きて息子の部屋を通り抜けたり、講義内容が支離滅裂になっている事に気づいて謝罪するなど奇妙な挙動を起こすようになる。脳走査の結果、脳組織を圧迫するほどの大量の硬膜下出血をし、手術以前3週間の記憶は欠落したままであった。
* 生涯を通じてユーモア溢れる語り口で有名であったが、それは死に際まで変わらず、最後に口にした言葉は"2度と死ぬなんて、まっぴらだよ。全くつまんないからね(I'd hate to die twice. It's so boring.)"であった。
* 彼の3癖というか悪趣味は、パーカッション打ち、絵描き、暗号解読、錠前明け、女遊びなどである。
* 彼が幼少の頃に過ごしたファーロッカウェイのコーナガ・アベニューは、彼にちなみ2005年5月11日にニューヨーク市により『リチャード・ファインマン・ウェイ』と改名されている。

(完)