ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 森毅著作集 「一刀斎 数学三部作」

2011年07月01日 | 書評
一刀斎先生 数学の歴史を語り、数学教育を斬る 第26回

森 毅著 「異説数学者列伝」 (ちくま学芸文庫)

17) コーシー(1789-1857)
 コーシーは19世紀を推進する最も多産で有能な数学者であった。生活面では「カトリックと王党派」という信条が彼を縛り付ける。ナポレオンのサロンでコーシーはラグランジェによって「未来の大数学者」と着目された。高等工藝学校に進み、土木学校から工兵士官となった。この間の多面体や、置換体の研究は群論の出発点をなした。複素関数のコーシー積分定理、発散積分のコーシー主値、弾性体の解析でテンソルを使用した功績がある。王政復興後、ルイ18世はボナパルト派のモンジュを追い出し、コーシーを科学学士院に、ソルボンヌ大学教授に任用した。そして30歳代はコーシーの多産時代となった。「解析学講義」、「微積分要論」はフランス解析学のはしりであり、19世紀風に改めた。ガロアやアーベルの論文を握りつぶしたことではコーシーの評判は悪い。1830年人民の王フィリップスの時代になると、頑固な王党派コーシーは失脚した。1838年パリに舞い戻ったコーシーは学士院に大量の論文を送りつけた。弱った学士院は論文のページ数を4ページ以下にするという制限を設けた。天文台教授として微分方程式の初期値問題「コーシー問題」、整数論の収束半径に関する「コーシー・アダマールの定理」などがこの時期の功績である。

18) ボヤイ(1802-1860)
 ボヤイという名は音楽家コダーイなどに通じる名で、ルーマニア地方のマロシュ川のほとりの貧乏貴族の家に生まれた。ウイーンに留学し陸軍工兵学校を出て少尉となる。ウオッカとヴァイオリンと数学を愛した青年は、やがて非ユークリッド幾何学の研究に邁進する事を決意する。「純粋数学入門」をガウスに送ったが、ガウスはロバチェフスキーの「仮想幾何学」と同様に、非ユークリッド幾何学を理解しながら、この道に入らないように勧めたという。ボヤイの数学への夢は挫折し、45歳になってウイーン革命に参戦した。反革命軍がウイーンを占領した時、ボヤイは軍事秘密会議の被告席にいた。それからボヤイの消息は知られていないが、1860年すべての人に忘れられたボヤイが死んだ。
(つづく)


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1 コメント

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ヒフミヨ(数え歌) (√6意味知ってると舌安泰)
2022-09-26 13:49:54
≪…一刀斎…≫で、数の言葉ヒフミヨ(1234)を「〇△🔲乃庭」で・・・

 只管に△◇√6

 【数学共同体】からのパラダイムシフトは、「風うたう」宇民正・大林朱里水墨展「寒山拾得」によりそう・・・

「一刀斎」を[もろはのつるぎ]に、絵本より

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