ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

文芸散歩 三浦祐之著 「風土記の世界」 (岩波新書2016年4月)

2017年07月31日 | 書評
8世紀初め編纂された地理志(奈良時代の国状調査) 第8回

3) 播磨国風土記

はたして地理志は中央律令政権が望んだような記録が収集できたのだろうか。遺された5ヶ国の風土記を見るだけでも様々な趣向を持ち、提出時期もバラバラです。播磨の風土記は常陸国風土記とともに最も早い時期に撰録されたようです。内容を見ると土地の肥沃度も記述と、山川原野の名前の由来の収集に意を注いだと言えます。ヤマトから比較的近い距離にある山陽道の播磨国には、ヤマト政権との関係も深く、天皇に関わる記事(巡行、求婚)や伝承が多い。日常的な話の世界が持つ猥雑さ活気という点では播磨国風土記は群を抜いている。播磨国風土記では人々ばかりか神々も普段着で登場する。オオムナジが息子の火明命の悪行から逃げ惑う姿は滑稽である。もとは「酷塩」、「苦の斎」の地名起源譚であるが、偉大な出雲の神オオムナジ(オオクニヌシ)が息子に手を焼いている姿に共感を抱く人は多いだろう。古事記には最初に地上の葦原の中つ国を統治した神として知られ、出雲国風土記では「天の下造らしし大神」と呼ばれる英雄オホムナジは播磨の国でも国造りの神として語られる。「はに岡」や「波自賀はじか」の地名由来を説明する話に登場する。オオムナジと「小比古尼命 スクナヒコネ」が我慢比べをした。赤い土(はに)を持つか、屎を我慢して歩くかどちらがつらいかという。オオムナジが降参して屎をした場所を「波自賀はじか」、小比古尼命が赤土の荷物を投げ出した場所を「はに岡」という笑い話である。物語性に富んだ下ネタも取り込んだ興味深い話である。滑稽な神はまだいる。出雲からやってきた伊和大神は川に筌(うえ)を置いて魚を取ろうとしたが、魚は入らず鹿が入った。これを膾にして食おうとしたら土に落としたという締まらない話である。とんでもない獲物がかかった驚きと笑いが描かれている。オチは食おうとして落としてしまい、こんな土地に愛想をつかして他の土地に移る大神の不器用さが笑えるのである。播磨国には出雲との縁が地名に多く残されている。稲種山(オオムナジ)、琴坂(オオタシヒコ)、宇波良村(葦原志許乎命)、粒岡(天の日鉾)などである。葦原志許乎命はオオムナジの別名である。播磨国が出雲との関係を強く持っていたことを示している。中でもヤマトの品太天皇(ホムダ 応神天皇)が頻繁に登場する。侵略者である天皇が間抜けで滑稽な貴種として笑い飛ばされる。自分の馬も見分けられない天皇として(英馬野)、地形もわからない天皇として(小目野)描かれている。恐るべき、あがめるべき天皇ではなく笑い飛ばせばよかったのである。権力へのレジスタンスとも読める。それが播磨とヤマトとの関係である。播磨国風土記には、品太天皇の狩猟に関わる伝承が多い。狩猟と巡行は天皇の地方支配、制圧をかたる従属伝承と軌を一つにしている。地名起源譚でもある。「伊夜丘」、「目前田」、「阿多賀」や血臭ただよう「臭江」という伝承に征服される側の怨念を感じ、だからてんのうを愚か者に描いて笑い飛ばすというレジスタンスとなる。「上鴨・下鴨の里」では鴨も知らない天皇にかわって1本の矢で二羽の鴨を仕留めた話である。射られても飛び越えた山を鴨坂、落ちたところを鴨谷、鴨鍋をしたところを煮坂という。 土地名伝承には、言葉足らずかその意味が十分に伝わらない話も多い。語りと聞く側の当事者が了解している事柄か、今となっては文字からその真意はつかめなくなっている。

(つづく)

文芸散歩 三浦祐之著 「風土記の世界」 (岩波新書2016年4月)

2017年07月30日 | 書評
8世紀初め編纂された地理志(奈良時代の国状調査) 第7回

2) 出雲国風土記 (その3)

 日本書記には出雲神話をほとんど載せていない。神代上では、スサノヲは高天の原を追放されて出雲に降りて、ヲロチを退治しクシナギヒメと結婚しオオナムジを生む。そして直ぐに根の国に行く。そして神代下では、国譲り神話となり、たいした敵もいないまま未開の荒野への遠征となる。一方古事記では、上巻の1/3は出雲神話で占められ、稲羽の白兎、八十神との闘争、根の堅洲の国におけるスサノヲの試練、帰還後の国の統一譚、ヤチホコ物語、そしてスサノヲ、オホクニヌシ、オホトシウィ筆頭とする出雲の神の神統譜が挿まれている。出雲風土記には国家的な性格も濃厚であるが、土着的な要素もふんだんに残されている。同じように古事記の出雲神話には出雲的世界がとどめられているのである。高天の原の神々が国譲りを迫るならば、その前に出雲には確固とした国家がなければならない。日本書紀が言うような茫々たる野原であっては不自然である。日本書紀の神話記述は、出雲神話を排除した方が律令国家が無難に成立したという物語になって描き易いだけのことである。律令国家にとって出雲は一地方に過ぎないので、征服への抵抗はなかったとして無視しても現在の状況は変わらないよ言う政治的配慮からそうしたのである。しかし古事記的世界では出雲地方は日本海文化圏を語るうえでなくてはならない存在であったと考えたのであろう。古事記の出雲神話の舞台の多くは日本海沿岸である。大陸との関係を語るうえでむしろ重要なルートであった。古来日本海には朝鮮との関係が深いというより文化的に同一であった筑紫地方の国家群、隠岐島伝いに渡来人がやって来て文化圏を作った出雲国家群、日本海沿岸伝いに高志国(越前、越中、越後)国家群の発展を抜きには語れなかったというべきであろう。古事記で語られるヲロチ退治神話では高志のヲロチと呼ばれる。古事記にあるヤチホコが高志のヌナガワヒメを求婚にでかける長大な歌謡「神語り」は、奴奈川流域が日本唯一の硬玉翡翠の産地であり、その交易を求めた征服譚であった。またタケミナカタが洲羽(諏訪)に逃げる国譲り神話は、出雲、高志、諏訪の深いつながり(大国主の支配地)が見て取れる。出雲国風土記にはオホナモチ(オホナムジ)による「越の八口」平定に関わる地名起源譚がある。出雲にとって越国は平定の対象であった。母理の郷譚では平定後は出雲国を除いてヤマトに譲るという。ここで出雲国は譲らないと言っている点が重要である。また八口はヤマタノヲロチのことで有り、野蛮地の代名詞であった。出雲が主権的な王権を持った国であるという可能性は最近の考古学発見で確証されてきた。「美保の郷」譚では、大神命(オオクニヌシミコト)がヌナガワヒメをめとって産ませた子ミホススミの地名起源譚を語っている。ミホススミは能登の珠洲神社の祭神であることから、越から出雲にかけた神という事になる。出雲と越は日本海を通路とした文化圏・信仰圏・経済圏・政治圏として捉える必要があろう。越国は日本海を行き来する渡来人が持つ文化や技術を習得したことは「高志の郷」譚でも述べられているが、堤防づくりという土木技術に長けた高志国の人を出雲国に招く話である。高志国と韓人(高句麗、百済、任那、新羅)の往来は歴史的に頻繁に行われ、出雲の神門狭結駅は陸上と海上の接点でもあった。出雲国人は西の筑紫や東の高志と通商・文化交流を行っていた。出雲文化圏の特徴を藤田氏は「古代の日本海文化」に次のようにまとめた。①四隅突出型墳丘墓、②素環頭鉄刀、③巨木建築物(縄文後期遺跡、出雲大社巨大神殿)、④翡翠など海人系文化圏(海神安曇)に注目すべきだという。次に日本書紀には出てこないカミムスビ神を例として古事記と出雲国風土記の共通点を探ってゆこう。古事記では「神産巣日神」、出雲国風土記では「神魂命」という表記である。古事記神話の冒頭に、「高天の原に成れる神の名は、天之御中主命、高御産巣日神、次に神産巣日神、この三柱の神は、並に独り神となり・・・」とある。ムスヒの意味は、ムス(生す)+ヒ(霊力をあらわす接辞)で生成する力のことである。タカミもカミも褒め言葉(接頭語)であるが、両者の神は著しく異なった神格を持っている。タカミムスヒは国譲り神話と天孫降臨神話において最高神アアマテラスの参謀として命令する神である。一方カムムスヒは出雲神話で出雲系の神々(スサノヲ、オホナムジ)を援助する、出雲の祖神的役割をはたす。古事記にはスサノヲが五穀の大地母神オホゲツヒメを殺して体から五穀が出てきたが、神産巣日御祖命がこれを取らして種としたとある。カムムスヒ神は地上世界に生産をもたらす母神的存在であった。オホナムジが八十神に焼かれて殺された時、カムムスヒ神は貝の女神二人を使わして治療させオホナムジを生き返らせた。つまりカムムスヒ神は再生の神で根源的な母性を持って語られている。殺すしか能がない高天の原の神達には見いだせない力である。オホナムジの出雲神話には、カムムスヒが海の彼方から寄り付いた小さな子供の母として登場する。「御祖の命」の象徴がカムムスヒ神であった。それゆえ出雲神話は母系的な印象が強いと言える。最後に登場するカムムスヒ神は、国譲り神話においてオオクニヌシが高天の原から降りてきたタケミカヅチに葦原の中つ国を平定され服従を誓う宴において話す言葉に出てくる。これを最後にカムムスヒ神が神話から姿を消す。出雲一族の生みの親カムムスヒ神が国譲りと共に不要となったというこよであろう。古事記に見られるカムムスヒ神はいつも出雲の神々に深くかかわっている。二柱のムスヒの神は一方がヤマト天皇家の神として、一方が出雲の始祖神として対照的に存在する。出雲風土記には御祖神魂命(カムムスヒ神)は一度しか出てこないが、御祖神魂命の御子は地名起源譚として島根半島を取り囲むようにして語られる。①加賀の郷ー支佐加比売、②生馬の郷ー八尋鉾長依日子命、③法吉の郷ー宇武加比売、④加賀の神埼ー枳佐加比売、⑤楯縫ー天の御鳥命、⑥漆治の郷ー天津枳佐可美高日命(志都治)、⑦宇賀の郷ー綾門日女命、⑧朝山の郷ー真玉着玉邑日女命という具合に御子が配置されいる。出雲の県主をはじめとした豪族の系譜に母系的な性格が濃厚に存在していたことを示している。「土着の女首長の存在」はシャーマンという特殊な存在ではなく、邪馬台国「ヒミコ」に出雲系母系社会を関係づけることが可能である。カムムスヒ神が海の彼方、スサノヲが根の堅洲の国というような水平的な世界を想像させる。ヤマト王権の本源が山にあるとならば、出雲王権は日本海である。出雲風土記は古事記の出雲神話を語らない。古事記の出雲神話は、服従の証としてのカムムスヒ神の天への引き上げと消滅は決して認めない。古事記は出雲の繁栄と服従という物語であるが、出雲風土記は島根半島の各地に生き続ける母系の郷を置く。国譲り神話においてヤマトが約束したオオクニヌシを祀る者として、意宇郡にいた出雲臣を選び、出雲西にあった神門を含む出雲全体を支配させたといえる。それにたいして日本書紀はカミムスヒを消し去ると同時に、出雲そのものの影をすべて消し去ろうとした。ヤマト政権がこの日本における唯一の支配者として。

(つづく)

文芸散歩 三浦祐之著 「風土記の世界」 (岩波新書2016年4月)

2017年07月29日 | 書評
8世紀初め編纂された地理志(奈良時代の国状調査) 第6回

2) 出雲国風土記 (その2)

 出雲国だけは律令制下において、土着豪族による国造制度が遺り続け、中央から派遣された国司との二重統治性が敷かれるという、極めて特異な国であった。(中世における荘園制度と同じで、国司と地頭の関係である) なぜ出雲国造だけが存在したのかというと、やはり国譲り神話に語られるネジレタ出雲の服従が基調にあるからだ。(約1500年後の米軍直接支配と日本政府間接支配という日本の戦後体制にもそのネジレタ構造が見られる) 古事記と日本書紀に語られる出雲国と大和政権との神話的な関係は大きく違っているが、出雲の大神オオムナジ(オオクニヌシ)はヤマトにとって律令制下において無視できない存在であった。出雲臣の祖神はアメノホヒとその子のタケヒナトリと言われる。古事記にはアメノホヒ子のタケヒラトリは5人の子を産み、出雲・ムザシ・上兎上・下兎上・イジム・遠江の国造と津島県直の祖となったと書かれている。出雲臣は出雲出身の豪族であるが、国つ神を祖とするのではなく天つ神の子孫であるという。アメノホヒはスサノヲとアマテラスの子の一人であったとされる。日本書紀も古事記も、出雲を支配したアメノホヒがオオクニヌシ(オオナムジ)に媚びて3年間天つ国に報告しなかった、つまり土着化してしまったとしている。アメノホヒがなぜ出雲臣の始祖になったのか。天つ国(ヤマト政権)から派遣された支配者を出雲臣が始祖とするのか。彼らはヤマトに服従した一族であるからだ。いやむしろヤマト政権をバックにして出雲国を統一したというべきかもしれない。そういう意味で出雲臣は最後まで天皇ヤマト政権に抗い続けた誇り高い一族だったのかもしれない。するとアメノホヒは最初から出雲臣の始祖ではなく、オオムナジ、ヤツカミズオミツノを始祖としたかもしれない。そこで日本書紀や古事記の国譲り神話と延喜式にある「出雲国造神賀詞」の服従誓詞を比較して検証しよう。「出雲国造神賀詞」の最大の狙いは、大国主神の口を通じて語られる4つの守り神(大神、葛城高鴨の神、伽夜流神、宇奈堤の神)を「皇孫の命の近き守神」としておいたことである。高天原のタカミムスビノミコトから命を受けて服従しない出雲の地に派遣された将軍アメノホヒとその子のタケヒナトリは大国主命を平定した。屈辱的な日本書紀の平定神話を経由せず、出雲国はヤマト政権のアメノホヒが作った国であるとした点がみそである。ヤマト政権が大国主の出雲を征服する構図が、意宇の出雲臣であるアメノホヒが出雲の国造りをする構図にすり替えられたのである。そこから出雲国の統一と国作りが始まるのである。国造の拠点は意宇郡にあった。つまり出雲の東端から西の豪族を併合していったというストーリーである。西部の豪族の拠点は、出雲大社が鎮座する出雲郡と神門郡がその中心であった。日本書紀につたられるミマキイリヒコ(崇仁天皇)60年の記事が出雲国の神宝をめぐる出雲豪族の内紛を伝えている。出雲の地には東の意宇を中心にした勢力と西の神門を中心にした勢力があり、意宇豪族はヤマト政権に取り入り、神門豪族は九州の筑紫と通じていたとされる。神門郡には巨大な四隅突出型墳丘墓に見られる豪族の勢力があったという考古学上の裏付けもある。その中心の杵築大社にはオオムナジが祀られている。東の意宇臣はヤマトの軍勢の力を借りて西の神門臣を滅ぼし、ヤマトの庇護を得て出雲を統一する。そしてヤマト政権から与えられたのは、「出雲臣」という氏姓と「国造」という統治権であった。律令制の整備によってここはヤマトの支配する国、出雲国となった。出雲国風土記が出雲臣の広嶋を責任者として編まれたことを考えると、出雲臣の本拠地である意宇群の伝承が大きく取り扱われるのは当然のなりゆきである。それを象徴するのが「国引き詞章」である。この詞章は漢文ではなく、音仮名(万葉かな)を多用し、語りとしての性格が濃厚である。国引き譚の初めと終わりは意宇という地名の由来を語る地名起源譚になっている。ヤツカミズオミゾノという巨神が4回の国引きによって島根半島全域を意宇の社に西から東へ移動させたという話である。意宇(淤宇)の地を支配する意宇一族の支配の根拠を語る神話である。神話の物語は単純な話であるが、この詞章の特異性は、叙事詩とも呼べる韻律性をもって構成されていることであろう。長歌、歌謡曲のように同じ構造の繰り返しでリズムを作り盛り上げてゆく手法である。新羅(朝鮮半島)、北門(隠岐の島)、越(北陸)を引き寄せる行為は事実かどうかは分らないが、パノラマ的にイメージさせられ、音楽性豊かに語られたのである。意宇郡に住む語臣猪麻呂が神に祈願して娘を食い殺したワニに復讐する伝承が出雲国風土記にある。おそらく語臣一族は海の神を祀りワニを始祖神として信仰する一族であった。巫者的な祈祷文があり「海若わたつみ」信仰があった。ワニに食われた娘とは巫女であり神と交わる神婚型始祖神話はシャーマンの霊性に変貌しやすい。だから語臣は海神祭祀を持つ漁労民であったことは間違いないのであるが、同時に王の前で「国引き詞章」を語り継ぐ語り部であったと思われる。

(つづく)

文芸散歩 三浦祐之著 「風土記の世界」 (岩波新書2016年4月)

2017年07月28日 | 書評
8世紀初め編纂された地理志(奈良時代の国状調査) 第5回

2) 出雲国風土記 (その1)

古代の日本の国家像の根源に関連する国譲り神話を載せる出雲国風土記には政治的な臭いが濃厚であるが、風土記の範囲では厚いベールに覆われていかんともしようがない。そこで出雲国と古代国家の関係を論じた一つの著作を紹介する。村井康彦著「出雲と大和」(岩波新書 2013)がそれである。出雲王国の考古学遺跡から始まって邪馬台国の建設、大和王朝へ国譲り、出雲国造と風土記の関係を論じる見通しのいい学説である。その説の真偽のほどは私は云々できないが傾聴に値すると思う。そこで出雲国造と風土記の関係だけを抜き書きする。『古事記では出雲神話が1/3を占め、その大部分は大国主神を主人公としている。ところが日本書紀では出雲神話は取り上げないで、一書に云うとして、大国主神の「国作り」と「国譲り」だけを記述している。今日まで出雲大社(杵築)の神官として続いている出雲国造は「天穂日命」を祖とする。大国主神を語り継ぐため存在する語り部である。平城京706年に、時の国造出雲臣が意宇郡の大領(郡司)に任じられた。当然国司の下にある組織の長であったが、出雲大社が経済的基盤を得たのである。中世において大社寺が寺領となる荘園を得たのとおなじで、社屋の改築修繕及び祭祀費用のためというが、土地支配権を得た意味は大きい。798年に意宇郡の大領を解かれるまで92年間領主であった。713年風土記編纂の詔が出て733年「出雲風土記」が完成した。その中心となったのは意宇郡郡司出雲国造の果安と広嶋の親子二代であった。本来統括者は国司であるのだが、出雲風土記だけは郡司出雲国造が統括した。当然風土記は大国主神を中心とする出雲世界の歴史を描くことが目的であった。風土記編纂の過程で、古事記(712年)、日本書紀(720年)が完成しているので、各地の豪族は天皇家との位置距離関係の記述に心血を注いだに違いない。記紀と連動して風土記は 編纂されていった。風土記編纂の過程で716年出雲国造果安は平城京の朝廷に「神賀詞奏上」(かむよごと)が行なわれた。これは服従の儀礼というよりは、出雲の国としての誇りをぎりぎりのところで主張する内容となっていた。「神賀詞奏上」は出雲国造家ー国守忌部氏ー中央の中臣氏の連携プレーによる一大イベントであった。最大の眼目は大国主神の口を通じて語られる4つの守り神(大神、葛城高鴨の神、伽夜流神、宇奈堤の神)を「皇孫の命の近き守神」としておいたことである。そして意宇郡の熊野大社を大国主神のミケ(食事)の神に置いた。伊勢神宮は天照大神を内宮とし、ミケの神として外宮に豊受大神を配するのと同じ構造である。「神賀詞奏上」は8世紀の国造出雲の意宇郡の大領時代の約100年に10回奏上された。これが出雲国造の全盛時代といえる。出雲風土記の記述と地名から大国主神の拠点は斐伊川流域の来次あたりと思われる。大国主神の事蹟と地名の関係が述べられる。詳細は省略するが地名はやたらおろそかに付けられた物ではない。日本書紀斉明天皇659年の記に出雲神の宮を修築したとあることから、磐座祭祀から社殿祭祀に変わるので出雲大社創建の日の確定は難しいが、659年以前としか言いようがない。大和朝廷の天皇家に不幸があるたびに、それは出雲の神を祭らないためであるとされ、斉明天皇の「物言わぬ皇子」が出来た時代こそ出雲大社の本格的な建築が行なわれたと見ていいだろうか。8世紀末には奈良の都は長岡京へ遷都され、平安京の時代となった。平安の都の守護神は出雲系の上賀茂神社となったが、出雲系の神の変遷も著しく新しい時代の幕開けであった。』  出雲国風土記は成立年と撰録者がはっきりした現存唯一の風土記である。それにしても編纂命令713年から20年も経て報告をする(733年)という事は、中央王朝も忘れてしまった頃に「解」を提出することになり、時効を過ぎてから確信犯が自首するようなもので、これを「解」として中央王朝が受け取ったかどうか極めて怪しい。参考程度において行けといわれてお倉に入った書類、そこがねらい目であったかもしれない。誰も読まないだろうが、蔵におかれた書類はいつか日の目を見ることもあろうと考えた出雲国の執念みたいなものが感じられる。本来国守の署名があってしかるべき場所に出雲国造の名があり、あるいは公式の解ではなく出雲国造側の内部資料として隠しおかれたと見ることもできる。あるいは中央に提出したが何度も何度も書き直しが要求され、20年もかかったと見ることもできる。出雲国に在っては国守の統治機能が国全土に及ばず、国造ー郡司ラインで政治的なレベルまで担われていたという可能性もある。続日本紀をみると国守は任命されており、形式的な不備はなかった。日本書紀の記述を前提とする九州の風土記もあり、720年以降の提出もあながち不自然ではないとする説がある。「日本書」を編む奈良王朝の意志がいつまで持続したかによって解の提出限界が決まる。従って出雲国造が責任者として署名した風土記は正式な解ではなく、私撰本として秘蔵された書物と言えるのではないかと著者は考えてるようだ。この複雑な権力関係を解きほぐすにはまず出雲国の特殊性を考えなければならない。

(つづく)

文芸散歩 三浦祐之著 「風土記の世界」 (岩波新書2016年4月)

2017年07月27日 | 書評
8世紀初め編纂された地理志(奈良時代の国状調査) 第4回

1) 常陸国風土記 (その2)

 常陸国風土記は物語性が豊かに残されている。中でも行方郡の「夜刀の神」をめぐる征服と服従(中央と地方)の関係を見てゆこう。前半が石村の玉穂の宮の天皇(継体天皇 6世紀前半)の話と、後半は難波長柄の豊前の宮の天皇(孝徳天皇 7世紀中頃)の話からなる。ヲホド(継体)と呼ばれる天皇は古事記によるとホムダワケ(応神天皇)の5世の孫として越の国より突然あらわれ、河内王朝の末裔であるオケ(仁賢天皇)の皇女に婿入りし天皇の系譜に加わる奇妙な存在であり、歴史学では王朝交替説が論じられる。しかしヲホド以降の天皇の系譜は天智・天武を経て8世紀初頭の天皇へ途切れなく継がれているので、今の天皇系譜の始祖天皇である。話の後半の孝徳天皇は645年の乙巳の変(大化の改新)の直後に即位した天皇で、律令制度を基礎とした国家秩序の始まりを象徴する天皇である。「夜刀の神」伝承が150年も離れた二つの時代に渡って語られる。前半の話は麻多智が水田開発を行う前に対峙する「自然=水神」として夜刀の神(ヤマタノオロチ 蛇)として現れ、自然と人間の境界を分けて祀ることで共存共栄を図る話である。後半の話は村落的な王権を絡めとるようにして国家がかぶさってくる。朝廷から派遣された地方の権力者壬生連麿が抗う村の共同体を殺し尽す征伐の話である。後半の話に出てくる「築池」とは、中央天皇が為すべき仕事にインフラの整備(すなわち農耕社会では道路、灌漑池、堤防)は「文化」を象徴する事業であった。こうした治水事業は、神の側に委ねていた水が、国家の管理へと移り行く過程を象徴している。常陸国はヤマトの領域の東の果てにある外界で、古代国家にとって境界領域として位置づけられる。常陸国の東端に武神タケミカズチを祀る鹿島神社が鎮座する。おなじく国譲り神話で功績のあったフツヌシを祀る下総国の香取神社が鹿島神社と対をなして存在する。その境界は律令国家が東北へ伸びてゆくにつれて坂上田村麻呂の平安時代初期まで移動し続けるのである。
常陸風土記には若い男女の出会う恋の場として「歌垣」が登場する。筑波山を舞台とした伝承が有名である。鹿島の海岸での歌垣「童子女(うない)の松原」を紹介する。那賀の寒田の郎子と海上の安是の嬢子の恋物語ー松に変身する譚である。この文章が漢文として秀麗で、四六駢儷体形式で叙述されている。急に江戸趣味の美文調となっていることに驚かれるでしょう。694年那賀郡の五里と下総国の海上郡の一里を分割して新たに鹿島郡が建てられた。行政の変更として来歴と常陸国と下総国を越える恋物語として語られた。通婚圏を越える別の世界に住む男女の恋は古代の婚姻形式からするとタブーである。婚姻は財産や土地の移動を伴うからである。村落共同体の同意がないとできない相談だったのである。文学的には夜明けに松に変身したことは、メタモルフォーゼ(変身)という物語のパターンである。あるいは人間に変身した松の木の精の恋物語かもしれない。この伝承は聴く人の想像力を刺激する魅力的な話となった。常陸国風土記には口頭で伝えられた民間伝承の話が多く遺っている。筑波山の神の祝福(外者歓待譚)、鹿島郡に残る完成しない石垣を作る白鳥の話、角のある蛇が穴を掘って角が折れる話、那賀郡の巨大な男の貝塚に話(大櫛の岡)、那賀郡茨城里の神婚神話と蛇の子の話、久慈郡の祟りを為す神を山に移す話(賀比礼の峯)など常陸国風土記はさまざまな伝承を満載している。

(つづく)