ブログ 「ごまめの歯軋り」

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熊野純彦著 「マルクス 資本論の哲学」 (岩波新書2018年1月)

2019年06月30日 | 書評
オオキンケイギク

この世界の枠組みを規定している資本制の最も確かな分析、マルクス[資本論」から汲み取ること  第1回



思考と文化の次元を含めた最深層の変容を、仮に革命という名で呼ぶとすれば、グローバル化した現代社会の中で革命が起きても何ら不思議なことはありません。そう人は見果てぬ夢を見続けるものなのです。資本制から社会主義という短絡線ではなく、どのような形になるのかは言明できません。マルクスの主著「資本論」が読まれなくなって久しくなりますが、「資本論」は現在までのところやはり、今なおこの世界の枠組みを規定している資本制をめぐり、すくなくともその基本的ななりたちに関して最も優れた分析を提供し、その世界の深部から歴史的理解させてくれる古典的な遺産の一つです。本書は著者熊野氏が哲学系ですので、マルクスの原理的な思考の深度と強度に注目する本です。もちろんマルクスが抱いていた視点「資本制が押しつぶして行く小さな者たちへのおもいやり」も重要なテーマでもあります。本書は新書という制約上、資本論の哲学を志した以上、「資本論」全体を等分に展望するものではありません。眼目は経済学者が扱ってきた問題にあまねく目を通すことではありません。著者熊野純彦しのプロフィールを簡単にまとめておきましょう。熊野氏は1958年神奈川県生まれ、1981年東京大学文学部卒業、現在東京大学教授です。専攻は倫理学、哲学史だそうです。主な著書には、「レヴィナス入門」(ちくま新書)、「ヘーゲル」(筑摩書房)、「カント」(NHK出版)、「古代から中世へ」、「西洋哲学史 近代から現代へ」、「和辻哲郎」(以上岩波新書)、「マルクス 資本論の思考」(せりか書房)、「カント 美と倫理のはざまで」(講談社)です。専門分野の研究成果は別にして、戦後日本では「資本論」は主に3つの視角から研究されてきたという。一つは経済学原論、つまりマルクス経済学の経済原理論の立場です。二つは資本論体系の形成史的研究・思想史的研究・経済史的研究です。3つ目は哲学史的視点からのとらえ方です。戦後の岩波新書では以上の3つの視点からの書が多くあります。岩波新書という叢書からマルクス資本論研究の全容がわかりやすく解説されてきたと言えます。そこで岩波新書を中心とした書籍の紹介で「マルクス資本論」研究の成果を概観しておきましょう。

①マルクス経済学の経済原理論
宇野弘蔵著「資本論の経済学」<岩波新書1969): 経済原論としての日本におけるもっとも正統的な学派は宇野学派であろう。宇野経済学は経済原論、段階論、現状分析を区別する三段階論で知られる。資本論の経済学を純粋経済理論として整理しなおす試みが示されている。宇野氏は戦後東京大学の社会科学研究所で、マルクス経済学を学ぶ人々に深い影響を与えた。経済学部では鈴木鴻一郎氏が原論を講じた。柄谷行人氏も鈴木の講義を受けている。
柄谷行人著「世界共和国へー資本・ネーション・国家を超えて」(岩波新書2006): 現在我が国でもっとも創造的なマルクス読解者の一人である。柄谷氏の歴史観は交換形態から世界史構造をとらえるものである。流通過程論的視点は宇野学派の傾向です。

②資本論体系の形成史的研究
内田義彦著「資本論の世界」(岩波新書1966): 経済学史的な視点で、内田氏はスミス研究者として知られている。「経済学の誕生」や「経済学史講義」は名著だそうです。
大塚久雄著「社会科学の方法ーヴェーバーとマルクス」(岩波新書1966): ヴェーバー/マルクスという戦後の社会科学に特異的な論点を作った。マルクス理解には人間主義的景行があるが、資本論を「経済学、正確には経済学批判」という捉え方をしている。
佐藤金三郎著「マルクス遺稿物語」(岩波新書1989): 資本論草稿をめぐる状況を知るうえで名著です。エンゲルスの苦闘のさまも見ものです。一橋大学では近経の伝統がある中で佐藤金三郎氏はマル経として知られ、アムステルダム国際社会研究所でマルクス/エンゲルス移行調査に当たりました。

③哲学史的視点の研究
梅本克己著「唯物史観と現代 第2版」(岩波新書1974): フォイエルバッハ/マルクス関係の梅本の問題提起で考える点のおおい論考です。 
大川正彦著「マルクス いまコミュニズムを生きるとは?」(NHK出版2004): マルクス資本論が読まれなくなって久しい21世紀の始め政学者がマルクスのコミュニズムを問い返しています。コミューン主義を正面から捉え、現時点では最良のマルクス入門書のひとつです。
廣松渉著「新哲学入門」(岩波新書1988): 廣松氏はこの書で「存在と意味」について心血を注いでいます、未完に終わりました。「世界の共同主観的存在構造」が主著となります。
廣松渉著「資本論の哲学」(平凡社ライブラリー2010): この書で論じられているのは、「価値形態論」、「物神性論」、「交換過程論」に限られていますが、「物神性論」からするマルクス理解を代表します。熊野氏の著書「マルクス 資本論の思考」はやはり廣松氏の流れにあるといえます。

(つづく)




新藤宗幸著 「原子力規制委員会ー独立・中立という幻想」 岩波新2017年12月

2019年06月29日 | 書評
フロックス

原子力規制委員会は新規制基準を楯に、再稼働や老朽原発の運転延長審査を進めている。 第16回 最終回

Ⅳ章 「裁判所は原発問題にどう向き合ったのか」 (その3)

関電高浜原発3・4号機の審査は逆転したが、滋賀県の住民は、再稼働差止請求を大津地裁に申し立てた。大津地裁は2016年3月住民らの訴えを認め、運転差止の仮処分決定を下した。関西電力側は新規制基準が福島第1原発事故を踏まえて形成されたのであるから、同様な事故は起こらないと主張するが、溶融した核燃料や圧力容器の損傷で事故を起こした原発には全く近づけない状況では事故原因の追求も道半ばで、何をもって教訓を読み取ったといえるのだろうか。滋賀地裁の審理は反応容器以外の補完的設備(非常用電源、使用済み核燃料ピットの耐震性など)さらに断層と基準地震動問題など安全だとは言えないと主張し、専門技術的裁量の過誤をを戒めた。しかし、この福井地裁の仮処分決定から8日後の2015年4月22日、鹿児島地裁は住民による九州電力川内原発1・2号機の運転差止仮処分申請を却下した。その判断は技術機関に対する過信が働いている。「新規制基準は原子力利用における安全性の確保に関する専門的知識を有する委員長及び委員からなる原子力規制委員会によって策定されたものであり、その策定に至るまでの調査審議や判断過程に看過し難い過誤や欠落があるとは思えない」住民らは仮処分申請却下を受けて即時抗告した。これを審理した福岡高裁宮崎支部は2016年4月、この抗告を却下した。この川内原発を巡る鹿児島地裁と福岡高裁宮崎支部の決定は原子力規制委員会の専門的技術的裁量の尊重を繰り返している。3・11後の司法は変わらないどころか原発の安全性の確認を行政庁の専門技術的裁量に従属させることになった。3・11後の原発訴訟における司法判断には、専門技術的裁量へのお任せが著しく、原子力災害対策指針や原子力防災会議の確認を含めて行政庁の判断を尊重し、原発の再稼働を促進する圧力に配慮している。府キウイ地裁や大津地裁のように、原子力規制委員会の組織や新規制基準への疑問と不合理を論じる司法判断が起こりつつある一方、従前の行政への尊重姿勢は変わることがない2極分化を起こしつつある。現在係争中の裁判に加え今後、運転差止の提訴ないし仮処分申立ては増加してゆくであろう。地裁の原発再稼働差止判決を高裁や最高裁が棄却したからと言って、司法制度下の基層における審判が異なる状況が多発するならば、上級裁判所はしかるべく対応を求められるであろう。下級裁判所における判断を分化させているのは。3.11に見られた原発専門知識層のあやふやさ、信頼性の揺らぎが原因である。専門知識は明らかに司法に勝っている行政や事業者を相手に、司法の役割は原発訴訟にかぎらず、市民の生活者の感性を備えて法規範を解釈することにある。専門技術集団は自らの欠陥に気が付かないことが多い。危険性の管理は「相対的安全性」によるべきである。それが知である。司法は代替え施設・技術を考慮に入れて原発の安全性を判断する。原発だけが発電技術ではない。3.11以降自然エネルギーへ置き換えたり、ほとんど休眠中の水力発電比率を高めたり社会の電力要請にこたえることが出来た実績がある。原発依存率はもっと下げることが可能である。原発依存率を下げたくない行政や事業者には別の目論見が働いているに違いない。政府の「経済活動に原発は必要」という枠をはめたら、極端に選択肢は狭くなる。最高裁を頂点とした日本の司法制度には、政府の政策を基本的に正しいとする思考が支配的である。それた最初から司法の原点を放棄しているのである。

(完)

新藤宗幸著 「原子力規制委員会ー独立・中立という幻想」 岩波新2017年12月

2019年06月28日 | 書評
ディリリー

原子力規制委員会は新規制基準を楯に、再稼働や老朽原発の運転延長審査を進めている。 第15回

Ⅳ章 「裁判所は原発問題にどう向き合ったのか」 (その2)

3/11後の原発訴訟の状況を、新規制基準と専門技術的裁量をどう見るかで変化が生じているのかどうかを検討する。3.11以降は各地の原発の運転禁止・再稼働差し止め裁判が中心である。概ね提訴日にそって原発訴訟を見てゆくと、
① 2011年11月11日に、北海道電力を相手に、札幌地裁に泊原発1・2号機差止請求が出された。
② 同年7月に、国・電源開発を相手に、札幌地裁に大間原発運転差止請求が、2014年4月に国・電源開発を相手に東京高裁に設置許可無効請求が提訴された。
③ 2012年7月に、茨城県東海第2原発を相手に、水戸地裁に設置許可無効請求が出された。
④ 2012年4月に、東電を相手に、新潟地裁に柏崎刈羽1号機―7号機の運転差止請求が出された。
⑤ 2012年6月に、北陸電気を相手に、金沢地裁に志賀原発1号機・2号機の運転差止請求が出された。
⑥ 2016年6月に、北陸電力を相手に、名古屋地裁に高浜原発1号機・2号機、次いで12月に3号機の運転差止請求が出された。
⑦ 2011年8月に、関西電力を相手に、大津地裁で大飯原発3・4号機の運転禁止仮処分請求がだされた。
⑧ 2015年1月に、関西電力を相手に、大阪高裁で高浜原発3・4号機の運転禁止第2次仮処分請求が出された。
⑨ 2013年12月に、関西電力を相手に、大津地裁に美浜原発3号機高浜原発1-4号機の再稼働禁止、大飯原発3・4号機の運転禁止請求がなされた。
⑩ 2012年3月に、関西電力を相手に、大阪高裁に大飯原発3・4号機の運転差止仮処分請求が出された。
⑪ 2012年6月に、国を相手に、大飯原発3・4号機の運転停止命令請求が出された。
⑫ 2012年11月に、関西電力を相手に、名古屋高裁金沢支部に大飯原発3・4号機の運転差止請求がなされた。
⑬ 2011年7月に、中部電力を相手に、静岡地裁に浜岡原発3・4号機の廃炉要求と永久停止請求が出された。
⑭ 2013年4月に、松江地裁に島根原発3号機の設置許可無効確認請求が出された。
⑮ 2016年12月より、四国電力を相手に松山地裁、高松地裁、広島地裁、大分地裁、山口地裁に伊方原発1-3号機の運転差止請求が相次いで出された。
⑯ 2011年12月より、国と九州電力を相手に佐賀地裁に玄海原発1-4号機の運転差止、再稼働差止請求が相次いで出された。
⑰ 2012年5月より、国と九州電力を相手に鹿児島地裁、福岡地裁宮崎支部、福岡地裁に川内原発1・2号機の運転差止と仮処分請求が相次いで出された。
その中から、新規制基準に適合しているとして再稼働が認められた原発にたいする最初の司法判断となったのは、2015年4月福井地裁が下した関西電力高浜原発3・4号機の運転差止仮処分決定であった。関西電力は2013年7月、原子力規制委員会に新規制基準への適合審査を申請し、2015年2月の原子炉設置変更許可がなされた。福井地裁の樋口裁判長は最高裁の伊方原発訴訟判決を参照して「新規制基準に求められる合理性とは、原発の設備が基準に合格すれば深刻な災害を引き起こす恐れが万が一にもないといえるような内容を備えている」と解すべきだとして「新規制基準は緩やかに過ぎ、これに適合しても原発の安全性は確保されない」として仮処分決定を下した。田中規制委員長の「基準の適合性を審査した。これに適合しても、安全だとは申し上げられない」という発言は、技術者の謙遜ではなく文字通り基準に適合しても安全性が確保されているわけではないことを認めたことにほかならない。つまり新規制基準とそれに基づく審査における専門技術的裁量に著しい錯誤が存在することを暴露したのである。技術者の開き直りかもしれない。詭弁かもしれない。新規制基準は免罪符として使われているに過ぎないかもしれない。しかし福井地裁の樋口裁判長が下した高浜原発3・4号機の運転差止仮処分決定は、関西電力による異議申し立てを審理した別の裁判長の裁定により2015年12月に取り消された。この異議審査において専門的技術裁量を高く評価し尊重すべきだと林裁判長は述べている。「安全とは当該原子力施設の有する危険性が社会通念上無視しうる程度まで管理されていることをいうと理解すべきである」とした。これはまた3.11以前の原発訴訟で繰り返された「お上のいうことは正しい、それを信じよう」というフレーズである。

(つづく)

新藤宗幸著 「原子力規制委員会ー独立・中立という幻想」 岩波新2017年12月

2019年06月27日 | 書評
菖 蒲

原子力規制委員会は新規制基準を楯に、再稼働や老朽原発の運転延長審査を進めている。 第14回

Ⅳ章 「裁判所は原発問題にどう向き合ったのか」 (その1)

司法は3.11をどのように自省したであろうか。そのまえに原発稼働以来40年近く、司法(裁判所)が住民による原発訴訟にどのような判断をしてきたのかを見直すことが必要である。
海渡雄一著 「原発訴訟」(岩波新書 2011年11月)にその訴状の累々たる無残な司法処分が山積になっている。これまでの経過では原子力規制委員会は新規制基準への適合性審査を求めた電力事業者各社の申請を1件たりとも「不適合」とはしていない。3.11前の安全・保安院の姿になっている。原子力規制員会・規制庁は、中立公正を捨てて原子力事業推進側に立ったというべきである。とすれば国会が国政調査権を発動して再稼働の是非や原発施設運転寿命の延長の安全性を調査すべきであるが、安倍政権与党が衆参両院の2/3以上の議席を有する現状では再審査を求める声は聞こえて来ない。こうした中で司法が最後の砦になるのだろうかという期待には、結論を先にいうと司法の態度の方がずっと頑固に政権拠りである。全く期待する方がバカバカしいくらいである。海渡雄一著 「原発訴訟」(岩波新書 2011年11月)に3.11前の日本における原発訴訟(行政訴訟)の一覧表があるので、これを上に再掲載する。「棄却」という文字がやたら目立つ判決結果である。審議もしていない玄関払いである。その中で立地地域住民を原告とした原告勝利の裁判はわずか2件ある。一つは2003年1月名古屋高裁金沢支部が下した高速増殖炉もんじゅの原子炉設置強化処分の無効判決である。もう一つは2006年3月金沢地裁による北陸電力志賀原発第2号機運転差止判決であるが、最終的には敗訴が確定した。司法が原発安全神話も形成に貢献し、客観的には原発推進役となっていた。行政側は最終的に裁判所が提訴を潰してくれるという安心感をもって推進できたからである。司法は、「見逃す事の出来ない誤りがないかぎり、行政庁の判断を尊重する」、「審査に合格したというのであれば基本的に尊重するのが前提となる」と最高裁判所判決がある。最初から司法には行政のやることには異を唱えない。原発推進という国是を違憲とはしない考えが浸透している。
新藤宗幸著 「司法官僚」(岩波新書 2009年8月)において述べたことであるが、エリート司法官僚から構成された最高裁事務総局のいわゆる事件局(刑事局、民事局、行政局、家庭局)は、従来から下級振の判決を分析するとともに、下級審の訴訟指揮の在り方を指導している。最高裁は司法研修所は裁判官を対象とした「特別研究会」を開催し、審理の調整を行ってきた。では司法官僚とは誰だろうか。それは次の4つのカテゴリーの職にある人々であろう。
①最高裁判所事務総局の官房組織といわれる秘書課・総務局・人事局・経理局にいる職業裁判官、
②高裁長官、高裁事務局長、地裁・家裁所長、
③最高裁判所調査官、
④最高裁判所事務総局の「局付」といわれる判事捕の幹部候補生である。
その数は、①が26名、②が108名、③が約30名、④が20-23名の合計約190名ほどである。事務総局の事務官約760名に較べても小数である。②の人々は所在地を最高裁とは異にするので、最高裁事務総局の中のエリート職業裁判官は極めて少数で分り難い。 最高裁事務総局は1983年12月全国の地裁高裁の水害訴訟担当裁判官を集めて「裁判官協議会」を開催した。これは水害訴訟最高裁判決の直前であったために判決内容の統一であったのではないかと見られる。最高裁事務総局は人事だけでなく、法律の解釈や判決内容についてコントロールしているのではないかという心配が生じた。裁判官会同や協議会は法令解釈や訴訟制度運用について裁判官が協議する場で「あくまで裁判官の研鑽の場」であると言い切るか、「裁判官統制の場」であるのか議論の余地があるようだ。裁判官会同や協議会は事務総局が実施し、議長には最高裁判所判事がなる。

(つづく)

新藤宗幸著 「原子力規制委員会ー独立・中立という幻想」 岩波新2017年12月

2019年06月26日 | 書評
くちなし

原子力規制委員会は新規制基準を楯に、再稼働や老朽原発の運転延長審査を進めている。 第13回

Ⅲ章 「原子力規制委員会は使命に応えているか」 (その6)

原子力規制委員会設置法第7条第7項の定める「欠格要件」に関するガイドラインにおいて、先に述べたように(第Ⅱ章)委員の要件として
①就任前直近3年間に原子力事業者およびその団体の役員、従業員であった者、
②就任前直近3年間に原子力事業者などから個人として一定額以上の報酬を受領していた者は除外される。
しかしの欠格要件は発足以来守られたとはいいがたい。また原子力規制庁へ移籍した職員は「原子力利用の推進に係わる業務組織への配置転換を認めない」という「ノーリターンルール」を決めた。原子力推進機関との組織的「断絶」を図るものである。しかしこのルールは最初から5年間の猶予期間があって、かつ迂回路が用意されておりなきも同然のルールであった。日本の官僚機構の罪深さと志のなさにはいつも唖然とさせられる。彼らを拘束するルールはいつも無き者にされる。このように見るとき、司法を含めて日本の行政機関の独立性の伝統は最初から存在しないようで、原子力規制委員会を「独立性の高い中立的な規制機関」というのはあきらかに「幻想」である。日本の行政機関のほぼすべてが内閣の統轄下にある。とりわけ内閣府は設立の目的からして政権の意思に高度に答えてゆかなければならない。こうした内閣の統轄下にない中央行政機関は、会計検査院と人事院である。会計検査院は憲法90条を根拠として「内閣に対して独特の地位を有する」合議制の行政機関である。人事院は国家公務員法に根拠を持つ3名の人事官の合議機関である。国家公務員法第三条第1項に「内閣の所管の下に人事院を置く」と規定した。二重予算制度を保証された独立性が高い機関で、人事官の任命には国会の同意を必要とする。人事官の欠陥要件は5年前まで政党の役員・顧問・党員であってはならないとされる。こうした中央人事行政機関としての人事院は、内閣に対して勧告権を持つつとともに、人事院規則や人事院の申立てには準司法的権限を有している。日本国憲法が議院内閣制を定め「行政権は内閣に属する」と規定したことは、「国権の最高機関」である立法府国会による民主的統制を加えることが目的である。現行憲法では政権からの独立性の高い機関を置くことは難しい。原子力規制機関においても政治的中立と専門性の高い独立行政委員会として設置するには、人事院のように「内閣の所管の下」(にもかかわらず独立性を確保する)に置くことが考えられる。かつ欠陥要件として「任命の日以前10年間」として、原子力事業者とは何かを明記したうえ、原子力事業者の役員・従業員でないこと、原子力事業者から報酬・研究資金を受け取ってない事を明記することが必要である。また住民避難計画を原発設置や再稼働の規制基準に含めることを当然とたうえで、使用済み核燃料の廃棄施設の審査には、立地自治体の合意を含めることを法文化しなければならない。原子力規制員会は国家行政組織法の三条機関で環境省の外局であるが、新たな原子力規制機関を「内閣の統轄から外し、内閣の所轄の下」に置くことによって、その独立性は格段に高まる。アクセル役の内閣と省庁の原子力推進機関、ブレーキ役の原子力規制機関のほかに、さらに司法というチェック機関をいれた3権分立体制の中で構想するべきであろう。司法は原子炉等の設置許可処分の取り消し、原発の運転差し止め、再稼働の禁止、核燃料廃棄物処分場の設置などについて最終的な決定権限を持っており、その組織的地位は憲法上保障されている。原子力安全行政のダブルチェック体制を担うべきは、「国権の最高機関」である国会である。議院内閣制の国会は政党政治の抗争の場として、3権分立体制の要であることを自覚した能力を弱体化してきた。国会事故調査委員会の設置は稀に見る快挙であるが、尻切れトンボに終わりそこで述べられたことを継続調査し、現状を追求する意思に欠けている。国会は原子力安全規制のための常設専門調査組織を設置法でもって発足させるべきである。

(つづく)