稗田阿禮が誦習した古代の神話・伝説・歌謡を太安万侶が書き留め、712年に成立したわが国最古の歴史書 第15回
第18代 反正天皇
弟水歯別命、多治比の柴垣宮にて即位。この天皇は9尺2寸の長身であった。反正天皇が丸邇の許碁登臣の娘都恕郎女を娶って生まれた御子は、甲斐郎女、都夫良郎女の二柱。弟ヒメを娶って生まれた御子は、財王、多詞辨郎女、合わせて四柱である。天皇が60歳で崩御、御陵は毛受にある。
第19代 允恭天皇
男淺津間若子宿祢命、遠飛鳥宮で即位。允恭天皇が意富本杼(オホホド)王の妹、忍坂の大中津比買を娶って生まれた御子は、木梨の輕王、長田太郎女、境の黒日子王、穴穂命、輕太郎女(衣通郎女)、瓜の白日子香、大長谷命、橘太郎女、酒見郎女の九柱。穴穂命と大長谷命が皇位を継いだ。皇位継承(日継ぎ)を定め、臣の氏・姓を定めた。探湯瓮(くかべ)を置いて天の下八十友緒の氏姓を定めた。また輕太子の御名代として軽部を定め、大后の御名代に刑部を定めた。この天皇の時代に新羅の国主が使いとして金波鎮漢紀武がやってきて、調度八十一船を奉った。又薬を伝えた。天皇が崩御された時、輕太子は同母妹衣通郎女に戯れて志良宣歌を贈答したりした。このことで天下の人は輕太子から離れ、穴穂命に附いた。そこで輕太子は大前小前宿祢大臣と兵をあげた。穴穂命の軍が大臣の家を包囲したところ、大臣は逆に輕太子を捕縛して献上した。輕太子は伊予国に流された。輕太子と衣通郎女は、間にかわされた歌を残して、二人とも首をつって亡くなった。天皇は78歳で崩御、御陵は河内の恵賀の長枝のある。
第20代 安康天皇
穴穂命、石上の穴穂宮において即位。安康天皇は弟大長谷命のために、大日下王の娘若日下王を娶らせる使者根臣を派遣した。大日下王の返事は押木の玉鬘を献上して婚約をお受けするという事であったが、根臣はその玉鬘を奪って天皇には「大日下王は婚約を拒否し、同属の下にはならないと横刀を取って怒った」と偽りの輻輳を行った。天皇は怒って大日下王を殺し、その王の妻である長田太郎女を自身の大后とした。(根臣と大日下王との確執か、根臣が何のために偽ったか理由が分からない) 天皇は大日下王と長田太郎女の間の子である目弱王を気にしていたが、父親を殺した天皇を許すだろうかと心配であった。その恐れが的中し、ある夜目弱王は天皇の首を切って殺し、都夫良意富(つぶらおおみ)の家に逃げた。天皇の歳は56歳、御陵は菅原の伏見の岡にある。大長谷命は兄黒日子王と白日子香に相談したが、兄らは愚かで話し相手にならないと見て二人とも打ち殺した。大長谷命は兵を起して都夫良意富の家を包囲した。死闘の末都夫良意富は目弱王を刺殺し、自殺した。これより後淡海の佐佐紀の山君の祖、韓?が言うには泡海の久多綿の蚊屋野には鹿がたくさんいるという。そこで大長谷命は履中天皇の御子である市邊の忍歯王を誘って鹿狩りに出かけた。各々仮宮を建て、翌朝の未明市邊の忍歯王は大長谷命の陣営に出かけるぞと声をかけて馬を進めた。大長谷命の陣営の人々はこの命の行動に不信感を持ち、弓矢を取って武装し、馬を駆けて市邊の忍歯王に並ぶや、市邊の忍歯王を射殺した。そこで遺された市邊王の御子、意祁王、袁祁王は父の変を聞いて逃げ出し、途中で山代の猪甘という老人に食べ物を奪われたが、淀川から播磨国に至った。志自牟という国人の家に身を隠して馬甘、牛甘として使われて過ごしたという。大長谷若建命という命はかなり凶暴な性格を持った人であるように見られる。
(つづく)
下 巻
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第18代 反正天皇
弟水歯別命、多治比の柴垣宮にて即位。この天皇は9尺2寸の長身であった。反正天皇が丸邇の許碁登臣の娘都恕郎女を娶って生まれた御子は、甲斐郎女、都夫良郎女の二柱。弟ヒメを娶って生まれた御子は、財王、多詞辨郎女、合わせて四柱である。天皇が60歳で崩御、御陵は毛受にある。
第19代 允恭天皇
男淺津間若子宿祢命、遠飛鳥宮で即位。允恭天皇が意富本杼(オホホド)王の妹、忍坂の大中津比買を娶って生まれた御子は、木梨の輕王、長田太郎女、境の黒日子王、穴穂命、輕太郎女(衣通郎女)、瓜の白日子香、大長谷命、橘太郎女、酒見郎女の九柱。穴穂命と大長谷命が皇位を継いだ。皇位継承(日継ぎ)を定め、臣の氏・姓を定めた。探湯瓮(くかべ)を置いて天の下八十友緒の氏姓を定めた。また輕太子の御名代として軽部を定め、大后の御名代に刑部を定めた。この天皇の時代に新羅の国主が使いとして金波鎮漢紀武がやってきて、調度八十一船を奉った。又薬を伝えた。天皇が崩御された時、輕太子は同母妹衣通郎女に戯れて志良宣歌を贈答したりした。このことで天下の人は輕太子から離れ、穴穂命に附いた。そこで輕太子は大前小前宿祢大臣と兵をあげた。穴穂命の軍が大臣の家を包囲したところ、大臣は逆に輕太子を捕縛して献上した。輕太子は伊予国に流された。輕太子と衣通郎女は、間にかわされた歌を残して、二人とも首をつって亡くなった。天皇は78歳で崩御、御陵は河内の恵賀の長枝のある。
第20代 安康天皇
穴穂命、石上の穴穂宮において即位。安康天皇は弟大長谷命のために、大日下王の娘若日下王を娶らせる使者根臣を派遣した。大日下王の返事は押木の玉鬘を献上して婚約をお受けするという事であったが、根臣はその玉鬘を奪って天皇には「大日下王は婚約を拒否し、同属の下にはならないと横刀を取って怒った」と偽りの輻輳を行った。天皇は怒って大日下王を殺し、その王の妻である長田太郎女を自身の大后とした。(根臣と大日下王との確執か、根臣が何のために偽ったか理由が分からない) 天皇は大日下王と長田太郎女の間の子である目弱王を気にしていたが、父親を殺した天皇を許すだろうかと心配であった。その恐れが的中し、ある夜目弱王は天皇の首を切って殺し、都夫良意富(つぶらおおみ)の家に逃げた。天皇の歳は56歳、御陵は菅原の伏見の岡にある。大長谷命は兄黒日子王と白日子香に相談したが、兄らは愚かで話し相手にならないと見て二人とも打ち殺した。大長谷命は兵を起して都夫良意富の家を包囲した。死闘の末都夫良意富は目弱王を刺殺し、自殺した。これより後淡海の佐佐紀の山君の祖、韓?が言うには泡海の久多綿の蚊屋野には鹿がたくさんいるという。そこで大長谷命は履中天皇の御子である市邊の忍歯王を誘って鹿狩りに出かけた。各々仮宮を建て、翌朝の未明市邊の忍歯王は大長谷命の陣営に出かけるぞと声をかけて馬を進めた。大長谷命の陣営の人々はこの命の行動に不信感を持ち、弓矢を取って武装し、馬を駆けて市邊の忍歯王に並ぶや、市邊の忍歯王を射殺した。そこで遺された市邊王の御子、意祁王、袁祁王は父の変を聞いて逃げ出し、途中で山代の猪甘という老人に食べ物を奪われたが、淀川から播磨国に至った。志自牟という国人の家に身を隠して馬甘、牛甘として使われて過ごしたという。大長谷若建命という命はかなり凶暴な性格を持った人であるように見られる。
(つづく)