ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 倉野憲司校注 「古 事 記」 (岩波文庫 1963年)

2017年09月27日 | 書評
稗田阿禮が誦習した古代の神話・伝説・歌謡を太安万侶が書き留め、712年に成立したわが国最古の歴史書 第15回
下 巻
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第18代 反正天皇
弟水歯別命、多治比の柴垣宮にて即位。この天皇は9尺2寸の長身であった。反正天皇が丸邇の許碁登臣の娘都恕郎女を娶って生まれた御子は、甲斐郎女、都夫良郎女の二柱。弟ヒメを娶って生まれた御子は、財王、多詞辨郎女、合わせて四柱である。天皇が60歳で崩御、御陵は毛受にある。

第19代 允恭天皇
男淺津間若子宿祢命、遠飛鳥宮で即位。允恭天皇が意富本杼(オホホド)王の妹、忍坂の大中津比買を娶って生まれた御子は、木梨の輕王、長田太郎女、境の黒日子王、穴穂命、輕太郎女(衣通郎女)、瓜の白日子香、大長谷命、橘太郎女、酒見郎女の九柱。穴穂命と大長谷命が皇位を継いだ。皇位継承(日継ぎ)を定め、臣の氏・姓を定めた。探湯瓮(くかべ)を置いて天の下八十友緒の氏姓を定めた。また輕太子の御名代として軽部を定め、大后の御名代に刑部を定めた。この天皇の時代に新羅の国主が使いとして金波鎮漢紀武がやってきて、調度八十一船を奉った。又薬を伝えた。天皇が崩御された時、輕太子は同母妹衣通郎女に戯れて志良宣歌を贈答したりした。このことで天下の人は輕太子から離れ、穴穂命に附いた。そこで輕太子は大前小前宿祢大臣と兵をあげた。穴穂命の軍が大臣の家を包囲したところ、大臣は逆に輕太子を捕縛して献上した。輕太子は伊予国に流された。輕太子と衣通郎女は、間にかわされた歌を残して、二人とも首をつって亡くなった。天皇は78歳で崩御、御陵は河内の恵賀の長枝のある。

第20代 安康天皇
穴穂命、石上の穴穂宮において即位。安康天皇は弟大長谷命のために、大日下王の娘若日下王を娶らせる使者根臣を派遣した。大日下王の返事は押木の玉鬘を献上して婚約をお受けするという事であったが、根臣はその玉鬘を奪って天皇には「大日下王は婚約を拒否し、同属の下にはならないと横刀を取って怒った」と偽りの輻輳を行った。天皇は怒って大日下王を殺し、その王の妻である長田太郎女を自身の大后とした。(根臣と大日下王との確執か、根臣が何のために偽ったか理由が分からない) 天皇は大日下王と長田太郎女の間の子である目弱王を気にしていたが、父親を殺した天皇を許すだろうかと心配であった。その恐れが的中し、ある夜目弱王は天皇の首を切って殺し、都夫良意富(つぶらおおみ)の家に逃げた。天皇の歳は56歳、御陵は菅原の伏見の岡にある。大長谷命は兄黒日子王と白日子香に相談したが、兄らは愚かで話し相手にならないと見て二人とも打ち殺した。大長谷命は兵を起して都夫良意富の家を包囲した。死闘の末都夫良意富は目弱王を刺殺し、自殺した。これより後淡海の佐佐紀の山君の祖、韓?が言うには泡海の久多綿の蚊屋野には鹿がたくさんいるという。そこで大長谷命は履中天皇の御子である市邊の忍歯王を誘って鹿狩りに出かけた。各々仮宮を建て、翌朝の未明市邊の忍歯王は大長谷命の陣営に出かけるぞと声をかけて馬を進めた。大長谷命の陣営の人々はこの命の行動に不信感を持ち、弓矢を取って武装し、馬を駆けて市邊の忍歯王に並ぶや、市邊の忍歯王を射殺した。そこで遺された市邊王の御子、意祁王、袁祁王は父の変を聞いて逃げ出し、途中で山代の猪甘という老人に食べ物を奪われたが、淀川から播磨国に至った。志自牟という国人の家に身を隠して馬甘、牛甘として使われて過ごしたという。大長谷若建命という命はかなり凶暴な性格を持った人であるように見られる。

(つづく)

文芸散歩 倉野憲司校注 「古 事 記」 (岩波文庫 1963年)

2017年09月26日 | 書評
稗田阿禮が誦習した古代の神話・伝説・歌謡を太安万侶が書き留め、712年に成立したわが国最古の歴史書 第14回
下 巻
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第16代 仁徳天皇
大雀命、難波の高津宮で即位。仁徳天皇は葛城の曾都毘古の娘イワノヒメを娶って生まれた御子は、大江の伊邪本和気命、墨江の中津王、蝮の水歯別命、男淺津間若子宿祢命の四柱。また日向の諸縣君の娘カミナガヒメを娶って生まれた御子は波多毘能大娘子(大日下王)の二柱。八田若郎女を娶って生まれた御子は二柱の合計六柱であった。伊邪本和気命が天皇位を継いだ。また蝮の水歯別命も男淺津間若子宿祢命も天皇位を継いだ。この時代に大后イワノヒメの御名代として葛城部を定めた。伊邪本和気命の御名代に壬生部を、水歯別命の御名代に蝮部を、大日下王の御名代に大日下部を定めた。また秦人の土木工事により茨田堤、茨田の三宅、丸邇池、難波の堀江を築き、墨江の津を定めた。仁徳天皇は高台に立って国見をされ煙が立ってない事から国は貧しいと判断され今後三年は民の課、役を免除した。天皇自身も宮の改修を行わず、漏れるがままにした。後に国見をして民の家に煙が立つのを見て、民富めりとして課、役を復活された。この政治を讃えて「聖帝の世」という。その大后イワノヒメは大変嫉妬深い人で天皇の召し上げた妾は宮の中に入ることもできなかった。吉備の海部直の娘黒日買が美しいので天皇は召し上げたが、后の妬みが激しいので本の国に逃げ帰った。天皇が姫の還る船を見て歌を歌うので、大后は大いに怒り、使いをやって姫を船から追い出し徒歩で往かした。そこで天皇は淡道島に行幸され、島伝いに吉備の国に行かれた。そこで逢瀬を楽しんだという。大后イワノヒメが御酒宴のために綱柏の木を採りに木国(紀国)に出かけたのを幸いに天皇が八田若郎女と夜昼となく戯れていた。このことを大后の召使の倉人が聞きつけ、大后に注進した。怒った大后は採った木の葉を海に投げ捨て、船を北上させ高津宮に入らず、山代宮に向かった。そしてしばらく筒木の韓人奴理能美の家に逗留した。慌てた天皇は鳥山と丸邇臣口子を大后の使者に立てご機嫌を伺った。口子臣、口子ヒメ、奴理能美の3人が相談して、大后が筒木に行かれたのは、蚕の遷り変り(変態)に興味を持たれたのであって他意はないという事を天皇に奏上した。そして天皇と后の間に志都歌の相聞があって一件落着したという。天皇は八田若郎女とも歌の交換をしていた(。懲りないね)
天皇は弟速総別王を使者として、庶妹女鳥王を娶ろうとしたが、女鳥王は「后の強い嫉妬心で八田若郎女さえ宮に入れられないでいるので、天皇に仕える気はない。むしろあなた(速総別王)と結ばれたい」という。速総別王は天皇に返奏しなかった。そして速総別王と女鳥王が密会するのを見て、天皇は軍を起して兄弟の戦争となった。宇陀で二人は殺された。戦の将軍山部大楯連は女鳥王の手から玉釧を奪いとり、妻に与えた。酒宴を開催した時、臣の妻らも参加し妃が御酒の柏を与えたとき、山部大楯連の妻の手をみてこのことに気が付き山部大楯連を死刑に処した。酒宴で天皇が建内宿祢の長寿を祝う本岐歌を与えた。天皇は83歳で崩御、御陵は毛受(堺市)の耳原にある。

第17代 履中天皇
伊邪本和気命、伊波禮の若桜宮にて即位。履中天皇が葛城の曾都毘古の子、葦田宿祢の娘黒比買を娶って生まれた御子は、市邊の忍歯王、御馬王、妹青海郎女の三柱。墨江の中津王が、難波宮での大嘗祭の酒宴の時、天皇を殺そうとして大殿に火をつけた。これを倭直の祖阿知直が救い出し馬に載せて倭に逃げた。多遅比野から波邇賦坂(河内)に至って、難波の宮を燃えているのが見えた。当麻道から石上神社に着いた。そこへ弟水歯別命が謁した。天皇は水歯別命に墨江の中津王を殺すように命じた。墨江の中津王の臣曾婆加里を味方に引き入れ、中津王を殺害した。若桜部、伊波禮部を定めた。天皇64歳で崩御、御陵は毛受にある。

(つづく)


文芸散歩 倉野憲司校注 「古 事 記」 (岩波文庫 1963年)

2017年09月25日 | 書評
稗田阿禮が誦習した古代の神話・伝説・歌謡を太安万侶が書き留め、712年に成立したわが国最古の歴史書 第13回
中 巻
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第13代 成務天皇
若帯日子命、淡海(近江)の志賀(滋賀)の高穴穂宮(大津市)で即位。成務天皇が穂積臣の祖建忍山垂根の娘オトタカラヒメを娶って生まれた御子は和詞奴気王一柱。建内宿祢を臣の最高位大臣に任じ、大小の国造を定めた。又国の境に縣主を定めた。95歳で崩御され、御陵は沙紀の多他那美にある。

第14代 仲哀天皇
倭建命の御子帯中津日子命、穴門(下関市)の豊浦宮、筑紫(福岡市)の詞志宮(香椎宮)で即位。仲哀天皇が大江王の娘オオナカツヒメノ命を娶って生まれた御子は、香坂王、忍熊王の二柱。また大后息長帯日買命を娶って生まれた御子は品夜和気命、大柄和気命(品陀和気命)の二柱。品陀和気命が皇位を継いだ。その大后息長帯日買命(神功皇后)は筑紫の詞志宮で神の意をうけた。そこで熊襲国の討伐を占うため、天皇は琴を弾き、建内宿祢大臣が占ったところ、「西の方に金銀に輝く国がある。これを帰服させる」というお告げで会った。しかし天皇は「西にはただ大海があるばかりで国は見えない」と言って、神意は偽りだと断じた。神は怒って天皇を死に追いやった。天皇は52歳で崩御、御陵は河内の恵賀の長江にある。そこで国の大祓を行い、建内宿祢に再度占いをさせると「其処の国は皇后の腹の中に居られる御子が支配する国である。これは天照大神の御心である。神は住吉神社の底筒男、中筒男、上筒男の三神である」と、教えられたとおりに西へ航路を取ると、瞬く間に新羅の国に着いた。新羅国王は服従を誓い御馬甘と国名を変え、百済国は渡の屯家と定めた。まだ平定の仕事は終わってはいなかったが、大后は産気づいたので腰に石を纏って筑紫の国に還り着いて御子が生まれた。戦勝の占いに「鮎の釣り針」の話が語られるが、これは肥前国の風土記にも記されている。こうして神功皇后と建内宿祢の征韓軍が倭に上る時、生まれた御子は死んだという事にして上陸したが、仲哀天皇の前妻の子香坂王、忍熊王は軍を敷いていた。忍熊王軍の将軍は難波の吉師部の祖伊佐比宿祢であり、御子軍の将軍は丸邇臣の祖難波寝子建振熊命であった。御子はすでに身罷ったと噂を流して敵を油断させ、伊佐比宿祢と忍熊王軍をいっきに打ち破った。建内宿祢命は太子の禊ぎをするため、高志の前の角鹿(越前の敦賀)に仮宮を建てた。土地の神伊奢沙和気大神が夢の中でいうに御子の名前に変えてほしいという。翌日太子が浜に出ると鼻を打ち破られた入鹿魚が打ち上げられた。そこで御食津大神となずけ、いまに気比大神という。その地を血浦といい、今は都奴賀という。この章の最期に神功皇后が謳った酒楽の歌が挿入される。この仲哀天皇は実に哀れに描かれている。恐らくは建内の宿祢という最高位の人臣が恣に主戦論をごり押しし、消極的な仲哀天皇を暗殺して神功皇后をも共犯関係にした物語であろう。あるいは建内宿祢は百済や新羅にに大きな利権を持っていたのだろう。

第15代 応神天皇
品陀和気命、輕の明宮にて即位。応神天皇は品陀真若王の三姉妹を娶った。高木の入買命の御子は額田大中日子命、大山守命、伊奢之真若命ら五柱。中日買命の御子は大雀命(オオササギ)ほか三柱、弟日買命の御子は五柱。他の妾を娶って生まれた御子を併せると、この天皇には二十六柱の王がいた。大雀命が皇位を継いだ。天皇は宇遅能和紀郎子に跡を継がせたい気持ちがあって、大山命と大雀命に「兄か弟かどちらが良いか」と問うと、大山命は兄がいいと答え、大雀命は天皇の意を知って「弟の方が可愛い」と答えた。天皇は大雀命をほめて「大山守は山海の部民を統べ、大雀命は天下の政治を統べ、宇遅能和紀郎子は天皇位を継げ」と詔した。天皇が淡海(近江)に行く時、宇治の木幡村で美しいヒメに会った。名を尋ねると、丸邇の比布禮能意富美の娘ミヤヌシヤカハエジメと答えた。明日家に寄ると言ってその場は離れたが、父はたいそう喜び大御饗をはって歓迎した。この姫を娶って生まれた御子が宇遅能和紀郎子であった。応神天皇が日向国諸縣の娘カミナガヒメの容貌が美しいと聞いて召し呼んだ。難波津でこの姫を見初めた大雀命は、建内宿祢に頼んで自分が欲しいと天皇に請うた。天皇はこれを許して、御宴の席で披露したという。吉野の国主らが大贄を献上する時、大雀命が佩いた太刀を褒めて歌った。この習慣は今も続いている。この天皇の時代に海部、山部、山守部、伊勢部を定めた。池を建設し、新羅人が渡来した。百済から献上物が届いて、建内宿祢は百済池を作ったという。百済から知識人和邇吉師が論語十巻、千字文一巻を奉納した。その他いろいろな職業人が渡来した。秦造の祖、漢の直の祖、酒造の祖須須許理などが渡来した。天皇が崩りした時、大雀命は天皇の意志の通りに宇遅能和紀郎子に天皇位を譲ったが、大山の命は命に従わず兵をあげて攻めんとした。大雀命軍は宇治川で戦い、大山命は溺れ弓矢に打たれて戦死した。大雀命と宇遅能和紀郎子は天皇位を譲り合ったが、宇遅能和紀郎子は早く亡くなり、大雀命が天皇位を継いだ。新羅の国主の子、天之日矛という人が渡来した。天之日矛は新羅の国で得た妻を同伴したが、妻は難波津から国に逃げ帰った。そこで王子は但馬の国に移り地元の娘を娶って多くの御子を産み。、但馬の国に住みつたという。品陀天皇(応神天皇)は130歳で崩御、御陵は河内の恵賀の麓の岡にある。応神天皇の御子の子孫については省略する。

(つづく)

文芸散歩 倉野憲司校注 「古 事 記」 (岩波文庫 1963年)

2017年09月24日 | 書評
稗田阿禮が誦習した古代の神話・伝説・歌謡を太安万侶が書き留め、712年に成立したわが国最古の歴史書 第12回
中 巻
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第11代 垂仁天皇
伊玖米入理毘古伊沙知命、師木の玉垣宮で即位。垂仁天皇がサラジヒメノ命を娶って生まれた御子は品牟都和気命の一柱。ヒハスヒメを娶って生まれた御子は印色入日命、大帯日子淤斯呂和気命ら五柱。他の妾より生まれた御子十柱、あわせて御子は十六柱であった。大帯日子淤斯和気命が皇位を継承した。印色入日命は灌漑用池を各地に造り、石上神社に横刀千ふりを奉納して河上部を作った。省略するが、多くの王は別、君の祖となった。天皇がサホヒメを娶った時、サホヒメの兄沙本毘古王と三角関係にあり、「兄と夫のどちらを愛しているか」と迫って、小刀を与えて天皇暗殺を企てた。しかしサホヒメは天皇を殺すことができなかった。逃げたサホヒメと兄沙本毘古王を包囲したが、天皇は后と御子を惜しんで捕獲作戦を取った。御子は救い出したが后には逃げられた。敵の城を焼いて反乱を平定したが、御子の名を本牟智和気となずけて乳母二人をつけて養育した。ところがこの本牟智和気王は大きくなっても言葉が話せなかった。鳥を見て何かを言おうとして口を動かしたので、その鳥を捕獲しようと追いかけてようやく高志国和那美の水門で捕まえた。王子はその鳥を見てもやはり思うようには喋れなかった。このような子になったのは出雲大神の祟りであると天皇の夢にあらわれた。そこで曙立王と菟上王に占いをさせ王子に随伴して、大阪から出雲へ大神をまつる旅に出た。斐川において出雲国造の祖である岐比佐都美をして仮宮(長穂宮)を建て大神を祀った。ここで王子は初めて話ができるようになった。菟上王は天皇への報告の早馬に乗った。王子はこの地でヒトヨヒナガヒメと婚姻したが、その実態は蛇であることを知った王子は逃げた。天皇は報を受けて喜び、兎上王を返して神の宮を作らせた。その王子のために鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を定めた。天皇は后が薦めるによって、山代国乙訓4の名の姫命を召し上げた。ところが、ヒバスヒメ命と 弟姫の二柱を取って、ウタゴリヒメ命とマトノヒメ命二柱は醜かったので返した。ここでマトノヒメ命は恥じて故郷に帰って自殺した。三宅連の祖、多遅摩毛理は天皇の命を受けて非常に良い香りがする「非時の香の木」を蓬莱島に求めて帰った時、天皇は崩御した。香の木を皇后に奉って、泣き叫んだという。この木は今の橘である。153歳で崩御され、御陵は菅原の御立野にある。皇后ヒハスヒメは石祝部を定め、土師部を定めた。この后は狭木の寺間の陵に葬った。

第12代 景行天皇
大帯日子淤斯呂和気命、纏向の日代宮で即位。景行天皇、吉備臣らの祖若建吉備津日子の娘、針間のイナビノオオイラツメを娶って生まれた御子は櫛角別王、大碓命、小碓命(倭建命)、倭根子命、神櫛王の五柱。八坂のイリヒヒメを娶って生まれた御子は若帯日子命、五百木の入日子命、押別命、入日姫、また妾の子ら合計80柱あるなかで、太子の名を得たのは、若帯日子命、倭建命、五百木の入日子命の三柱であった。他の77余りの子らは国造、和気、稲置、県主に任じられた。若帯日子命が皇位を継承した。小碓命(倭建命)は東西の荒ぶる神を平らげ、櫛角別王は茨田の連の祖、大碓命は守君、太田君の祖となった、神櫛王は酒部の祖となった、また豊国別王は日向国造の祖となった。
この景行天皇の日継(天皇記)は実は倭武命の武勇伝と悲劇の章となっている。景行天皇は御子大碓命に命じて、三野国造の祖大根王の娘、兄ヒメ、弟ヒメを召し上げようとした。ところが大碓命は二人を召し上げずの自分の女にし、別の女二人を天皇に差し上げた。天皇はそれと知って交わらず苦しんだという。大碓命が兄弟ヒメと交わって産んだ御子は押黒の兄日子王、弟日子王である。天皇は小碓命に、「兄の大碓命が最近朝餉に出てこないので、諭しておくように」と仰せられた。その後五日経っても出てこないので、天皇は小碓命にどうしたのかと尋ねたら、小碓命は「朝早く厠に入った頃を見計らって手足を引きちぎって殺し、こもに包んで捨てた」と答えたという。
天皇は小碓命の気性が荒いところを心配して、西方の熊襲建二人の征伐にゆくように詔した。倭建命は三重に防御した軍の幕内で宴が催されている混雑に紛れ込んで女装して入り込み、熊襲兄弟がその少女を見初めて酒の酌をさせたところを胸に隠した剣で二人を刺殺した。この時から小碓命の名を改め倭建命となった。熊襲を討って次に出雲建を討つため、まず友となり肥川で沐した時、出雲建の剣を木刀にすり替え、これを切り殺した。こうして熊襲、出雲を討伐して輻輳した。ここで天皇はまた倭建命に「東方十二道の荒ぶる神を平らげよ」という詔を発した。副将軍に御鍬友耳建日子をつけた。倭建命はまず伊勢大神宮に立ち寄り、姨倭比買命に「天皇は我に死ねと思ほすのか」と泣いて訴えた。姨倭比買命は草薙の剣と御袋を与えて見送った。尾張の国で尾張国造の祖ミヤスヒメを見初めたが、東征が終わってから再会しようと別れた。相武国(相模)に至って国造が偽って沼に荒ぶる神がいるとして、倭建命を沼に導き後ろから火をつけた。姨倭比買命からもらった袋の口を開くと火打石があったので向い火を起して国造らを滅ぼした。そこを焼遺(焼津)と呼ぶ。つぎに走水の海(浦賀水道)を渡ろうとしたとき波が高く船は難破しそうになった。そこに后弟橘比買が「私が海の神を和らげよう」と入水して船が進むことを得た。東国の荒ぶる蝦夷どもを平らげ、還りに足柄の坂本において、坂の神が白鹿になって現れたので、これを打ち殺して」吾妻や」と三回嘆いたという。この地を阿豆麻(あずま)と呼んだ。それから科野国(信濃)を越えて尾張国に還り、約束したミヤスヒメと再会した。酒の宴が開かれ、姫のすそが月経の血で汚れていたが、契りを果たしたという。草薙剣をミヤスヒメに与えて、伊吹の山の神の征伐に赴いた。素手でも捕まえられると侮っていたが白猪山の猪は牛のように大きかったので後で征伐しようとして軍を進めた。氷雨が倭建命一行を打ちのめし、玉倉部の清泉で休息した。しかしさらに当藝野に至った時倭建命は一歩も歩けなくなっていた。さらに三重村について病床に就き、国を偲んで「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 やま籠れる 倭しうるわし」、「愛しけやし 吾家の方よ 雲居起ち来も」と歌って崩りました。御陵を作り葬り四つの歌を添えた。この時白鳥が飛び立ち河内の師木に止まった。ここを白鳥の御陵という。倭建命、垂仁天皇の娘フタジノイリビメ命を娶って生まれた御子は、帯中津日子命。弟橘比買を娶って生まれた御子は、若建王。さらに近江安国造の祖に娘フタジヒメを娶って産まれた御子は稲依別王、その他の妾を娶って生まれた御子は合わせて六柱である。帯中津日子命が皇位を継いだ。景行天皇は127歳で崩御、御陵は山邊の道の上にある。

(つづく)

文芸散歩 倉野憲司校注 「古 事 記」 (岩波文庫 1963年)

2017年09月23日 | 書評
稗田阿禮が誦習した古代の神話・伝説・歌謡を太安万侶が書き留め、712年に成立したわが国最古の歴史書 第11回
中巻
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第8代 孝元天皇
大倭根子日子国玖琉命、輕の境原宮で即位。孝元天皇が穂積臣の祖ウツシコメノ命を娶って生まれた御子は、大毘古命、少名日子建猪心命、若倭根日子大毘毘命。また后の妹イカガシコメノ命を娶って生まれた御子は比古布都押之信命、ハニヤスビメを娶って生まれた御子は建波邇夜須毘古命の五柱。若倭根日子大毘毘命が皇位を継いだ。皇統の兄弟が臣下に降って地方の臣や連となるのとは違い、臣が女を皇室に入れて皇統につながる逆流が顕著になる。この時期に後の権勢を恣にする健内宿祢や蘇我臣、河辺臣、桜井臣の祖となる石河宿祢、波多の八代の宿祢。小柄宿祢らが臣ながら帝紀に入り込んでくる。57歳で崩御、御陵は剣池の中の岡にある。

第9代 開化天皇
若倭根日子大毘毘命、春日の伊邪河宮で即位。開化天皇が旦波の大縣主由碁理の娘タカノヒメを娶って生まれた御子は、比古由井牟須美命一柱。また庶母イカガシコメ命を娶って生まれた御子は御真木入日子印恵命、他三柱。御真木入日子印恵命が皇位を継ぐ。天皇の兄弟の王が生んだ御子は約30柱であるが省略する。63歳で崩御、御陵は伊邪河の坂之上にある。

第10代 崇神天皇
御真木入日子印恵命、師木の水垣宮で即位。崇神天皇が木国造荒河刀辨の娘トホツアユメマクハシヒメを娶って生まれた御子は、豊木入日子命、豊鍬入日買命二柱。大毘古命の娘ミマツヒメノ命を娶って生まれた御子は伊玖米入日子伊沙知命、また尾張連の祖オホアマヒメを娶って生まれた御子は大入杵命、八坂入日子命、他の妾の御子を含めて10柱であった。伊玖米入理毘古伊沙知命が皇位を継いだ。豊木入日子命は上毛野・下毛野君の祖である。豊鍬入日買命は伊勢神宮を祀った。大入杵命は能登臣の祖である。この天皇の時代に疫病が流行し多くの民が死んだ。天皇の夢に大物主(大国主大神)が現れ、意富多多泥古をもって大物主を祀れば疫病は退散するといった。天皇は詔をして意富多多泥古を探したが、河内の美努村に、大物主がイクタマヨリヒメを娶って生まれた櫛御方命の子意富多多泥古なる人がいた。そこで三輪山に意富美和の大神を祀り、社を建てた。こうして国家安泰となったという。大国主神の祀り方が不十分だったために祟りが出たというお話。意富多多泥古が大国主の神の子であったことは次の伝説に由来する。イクタマヨリヒメは大変美しくあったが、毎夜男がやってきて姫と婚姻を重ねていくばくもせぬうちに妊娠した。親はどんな男か知りたいと思い、訪れた男の着物の裾の麻ひもを縫い付け、翌朝その糸をたどってゆくと美和山神の社に着いた。よって大国主大神がその男の父であると判明した。意富多多泥古命は神君鴨君の祖である。この天皇の時代、大毘古命を越(高志)国の征伐に派遣し、その子建沼河別命を東国12道(伊勢から東海道を通って常陸、陸奥国)の征伐に派遣した。また日子坐王を丹波国に派遣して玖賀耳之御笠を殺した。ここに山代国にいた庶兄建波邇安王が天皇暗殺を企てているといううわさが起きた。そこで和邇臣の祖日子国夫玖をして鎮圧に赴き和詞羅川(木津川)で対峙した。建波邇安王が射殺されて軍は総崩れになり、川を血に染めたという。その地を波布理曾能という。越国を征伐した大毘古命軍は東国12道の軍建沼河別と相津で合流した。そこで両軍が会ったので相津という。こうして日本全土は平定されたので、崇神天皇の功績をほめて「初国知らしめし天皇」と呼んだ。168歳で崩御、御陵は山野辺の道の勾の岡にある。

(つづく)