安倍政権の復古主義を、新自由主義の帰結として、政治の右傾化と寡頭支配の中で捉える 第4回
1) 55体制―旧右派連合の政治
サンフランシスコ講和条約後の世界はアメリカとソ連の対立の構図となり、それを反映する形で国内においても保守と革新の対立の構図が形ずくられた。1955年日本社会党が再統一を果たすと、保守合同が実現し自由民主党が誕生した。大枠においては1993年まで続いたこの政治システムは、55体制と称され自民党が一貫して単独d政権を掌握してきた。そのなかで社会党は次第に政権交代の実現可能性を見失うが、政策面では保守政権の歯止め役を果たしてきた。この38年間という自民党の長期政権は際立って長いが、国際的には例がないわけではない。イタリアのキリスト教民主主義の中道右派政権、フランス第5共和国のドゴール政権の優越が長く続いた。この保守政権に対する政治システムのバランス役はイタリアでは共産党、フランスでは社会党であった。こうした穏健な保守政治のありようはイギリスや西ドイツにも見られた。イギリスでは保守党と労働党の「コンセンサス政治」はサッチャー政権が誕生する1979年まで続いた。ドイツではキリスト教民主同盟のエアハルトが提唱した「社会的市場経済」を社会民主党も受け入れ階級闘争は放棄された。アメリカでもリベラル派がエスタブリッシュメントの主流を占め続け、1980年にレーガン大統領が誕生するまで影響力を持っていた。このような冷戦を背景とした、階級間妥協に基づく保守政治が世界史的に展開されていたのである。日本において55体制下の政権を担当した政治勢力を「旧右派連合」となずけておこう。旧民主党系の鳩山一郎、石橋湛山、岸信介と続いた保守政権は、60年安保闘争を経て岸信介が退陣し、旧自由党系の池田内閣から佐藤英作政権の成立によって経済第一政策に転換してから安定的な軌道に乗り、1970年田中角栄政権から大平正芳政権まで絶頂期を迎えた。60年安保で戦後最大の危機を招いた岸らの旧民主党系は保守の傍流になった。吉田首相から池田、佐藤、田中、大平らの政権を「保守本流」と呼ぶ。外交問題、安保問題、憲法問題の棚上げ、国家社会主義的経済計画と福祉国家などに最大の特徴がある。官僚派の政治家や経済官庁が中心的な役割を果たした「開発主義」と、党人脈が強みを発揮した中間団体のくみ上げ方式「恩恵主義 クライエンタリズム」の結合が旧右派連合であった。「発展指向型国家(開発国家)」とは政府介入計画経済型の今でいう発展途上国の特徴である。開発を果たした国家はアメリカのような「規制指向型国家」と呼ばれた。政官業エリートの連携を支えたのは経済ナショナリズムであった。銀行・政府系金融機関は大蔵省主導の護衛船団方式で運営された。官主導の経済開発をもって日本型経済モデルとする考え方が一般に受け入れられている。年功序列や終身雇用などを通じて雇用の安定が図られた時代であった。これらの経済政策を可能にしたのが、保守長期政権による制jの安定であった。安保外交や政治的争点を棚上げし、経済成長第一主義の成果であるパイの再配分を重視することこそ、旧右派連合の「恩恵主義」政策であった。経済の二重構造の利点を享受しながら優秀な企業に育ったメーカーが経済成長をけん引する一方、中小企業、農業、土建業、流通業へは手厚い補助金や公共事業を供給し、その見返りに自民党への投票を獲得する政策を「パトロン-クライアント関係」つまり利益誘導型政治体制が出来上がった。農林、建設、商工の御三家の族議員が自民党政務調査会に集結し、組織票と政治献金で既得権益を守る業界を厚遇してきた。この自民党派閥のピラミッド組織を「恩恵主義」と呼ぶ。
開発主義と恩恵主義を唱える旧右派連合は、ある意味ではかなり左がかった「国民政党」であると言えるが、階級間対立の解消を目指したわけではなく、その本質は戦前からの紛れもなく保守支配の一形態である国家保守主義にあった。外に対しては「経済ナショナリズム」、国内では再分配により「一億総中流化」社会を目指していた。経済が右上がりを続ける限り、開発主義と恩恵主義は好循環を維持できた。旧右派連合の自民党の支持母体は経団連と農協、土建業会であった。この間革新勢力は社会党、民社党、公明党の野党多党化の流れの中で、1958年以降社会党の相対的ウエイトは低下し続けたが、三分の一を超える野党勢力は保守への牽制力となり、保守の暴走を未然に防ぐ大きな構図は維持されてきた。階級的対立にこだわる社会党左派は右派の江田書記長のビジョンに反対し、1964年「日本における社会主義への道」綱領を採択し、西ドイツの社民党の国民政党への転換を謳った「ゴールドベルグ綱領」とは反対の道を選択した。1960年代は民主主義と平和は地方からとばかりに、あいついで「革新自治体」が誕生した。1963年飛鳥田一雄氏は横浜市長に当選し、1967年には美濃部都知事が誕生した。1973年には9つの政令指定都市のうち6市が革新市長となった。都道府県レベルでは1975年には9の革新自治体が存在した。国政においても1970年代半ばは「保革伯仲」時代となり、タカ派の福田首相も安全運転を強いられた。しかし革新自治体は1970年代末に終わりとなり、野党の民社党と公明党が反共で一致し中道路線から離れた。国政レベルでは自民党は「自公民」路線から公明党と社民党に働きかけ、新自由クラブの保守中道路線を形成した。社会党も1980年代より中道諸政党との連携に踏み出した。反共で中道路線はずっと右へ変質した。旧右派連合は高度経済成長により大きな成功を収め、1964年にはOECDに加盟し、東京オリンピックを開催し、1968年には国民総生産GNPは世界第2位に躍り出た。開発主義の成功は日米貿易摩擦を引き起こし。1960-1990年までは常に日米の懸案課題であった。1990年代にはアメリカから安全保障の国際貢献を求められ、規制緩和要求から市場開放を強く迫られるようになった。日本型開発主義が攻撃対象となり、その解体を迫られた。旧右派連合は経済成長の成果によって保守支配の国民統合が担保されていた以上、旧右派連合のコスト負担(財政負担)に国民意識が賛意を示さなくなると、システムとしては破たんする。1975年から本格的な赤字国債の発行が始まる。アメリカも双子の赤字(財政赤字、貿易赤字)に苦しんでいたが、日本も財政赤字時代に突入した。公共支出の増大、税制改革への対処が持病となって旧右派連合を苦しめた。恩恵主義は国会運営にまでおよび、野党の抱き込みに金が動くという野党の腐敗により、選択肢としての野党の存在可能性が貶められた。日本では政権交代の可能性を有した競争的な政党システムをついに形成できなかった点で、55体制は自由度が低い政治システムと言わざるを得なかった。
(つづく)
1) 55体制―旧右派連合の政治
サンフランシスコ講和条約後の世界はアメリカとソ連の対立の構図となり、それを反映する形で国内においても保守と革新の対立の構図が形ずくられた。1955年日本社会党が再統一を果たすと、保守合同が実現し自由民主党が誕生した。大枠においては1993年まで続いたこの政治システムは、55体制と称され自民党が一貫して単独d政権を掌握してきた。そのなかで社会党は次第に政権交代の実現可能性を見失うが、政策面では保守政権の歯止め役を果たしてきた。この38年間という自民党の長期政権は際立って長いが、国際的には例がないわけではない。イタリアのキリスト教民主主義の中道右派政権、フランス第5共和国のドゴール政権の優越が長く続いた。この保守政権に対する政治システムのバランス役はイタリアでは共産党、フランスでは社会党であった。こうした穏健な保守政治のありようはイギリスや西ドイツにも見られた。イギリスでは保守党と労働党の「コンセンサス政治」はサッチャー政権が誕生する1979年まで続いた。ドイツではキリスト教民主同盟のエアハルトが提唱した「社会的市場経済」を社会民主党も受け入れ階級闘争は放棄された。アメリカでもリベラル派がエスタブリッシュメントの主流を占め続け、1980年にレーガン大統領が誕生するまで影響力を持っていた。このような冷戦を背景とした、階級間妥協に基づく保守政治が世界史的に展開されていたのである。日本において55体制下の政権を担当した政治勢力を「旧右派連合」となずけておこう。旧民主党系の鳩山一郎、石橋湛山、岸信介と続いた保守政権は、60年安保闘争を経て岸信介が退陣し、旧自由党系の池田内閣から佐藤英作政権の成立によって経済第一政策に転換してから安定的な軌道に乗り、1970年田中角栄政権から大平正芳政権まで絶頂期を迎えた。60年安保で戦後最大の危機を招いた岸らの旧民主党系は保守の傍流になった。吉田首相から池田、佐藤、田中、大平らの政権を「保守本流」と呼ぶ。外交問題、安保問題、憲法問題の棚上げ、国家社会主義的経済計画と福祉国家などに最大の特徴がある。官僚派の政治家や経済官庁が中心的な役割を果たした「開発主義」と、党人脈が強みを発揮した中間団体のくみ上げ方式「恩恵主義 クライエンタリズム」の結合が旧右派連合であった。「発展指向型国家(開発国家)」とは政府介入計画経済型の今でいう発展途上国の特徴である。開発を果たした国家はアメリカのような「規制指向型国家」と呼ばれた。政官業エリートの連携を支えたのは経済ナショナリズムであった。銀行・政府系金融機関は大蔵省主導の護衛船団方式で運営された。官主導の経済開発をもって日本型経済モデルとする考え方が一般に受け入れられている。年功序列や終身雇用などを通じて雇用の安定が図られた時代であった。これらの経済政策を可能にしたのが、保守長期政権による制jの安定であった。安保外交や政治的争点を棚上げし、経済成長第一主義の成果であるパイの再配分を重視することこそ、旧右派連合の「恩恵主義」政策であった。経済の二重構造の利点を享受しながら優秀な企業に育ったメーカーが経済成長をけん引する一方、中小企業、農業、土建業、流通業へは手厚い補助金や公共事業を供給し、その見返りに自民党への投票を獲得する政策を「パトロン-クライアント関係」つまり利益誘導型政治体制が出来上がった。農林、建設、商工の御三家の族議員が自民党政務調査会に集結し、組織票と政治献金で既得権益を守る業界を厚遇してきた。この自民党派閥のピラミッド組織を「恩恵主義」と呼ぶ。
開発主義と恩恵主義を唱える旧右派連合は、ある意味ではかなり左がかった「国民政党」であると言えるが、階級間対立の解消を目指したわけではなく、その本質は戦前からの紛れもなく保守支配の一形態である国家保守主義にあった。外に対しては「経済ナショナリズム」、国内では再分配により「一億総中流化」社会を目指していた。経済が右上がりを続ける限り、開発主義と恩恵主義は好循環を維持できた。旧右派連合の自民党の支持母体は経団連と農協、土建業会であった。この間革新勢力は社会党、民社党、公明党の野党多党化の流れの中で、1958年以降社会党の相対的ウエイトは低下し続けたが、三分の一を超える野党勢力は保守への牽制力となり、保守の暴走を未然に防ぐ大きな構図は維持されてきた。階級的対立にこだわる社会党左派は右派の江田書記長のビジョンに反対し、1964年「日本における社会主義への道」綱領を採択し、西ドイツの社民党の国民政党への転換を謳った「ゴールドベルグ綱領」とは反対の道を選択した。1960年代は民主主義と平和は地方からとばかりに、あいついで「革新自治体」が誕生した。1963年飛鳥田一雄氏は横浜市長に当選し、1967年には美濃部都知事が誕生した。1973年には9つの政令指定都市のうち6市が革新市長となった。都道府県レベルでは1975年には9の革新自治体が存在した。国政においても1970年代半ばは「保革伯仲」時代となり、タカ派の福田首相も安全運転を強いられた。しかし革新自治体は1970年代末に終わりとなり、野党の民社党と公明党が反共で一致し中道路線から離れた。国政レベルでは自民党は「自公民」路線から公明党と社民党に働きかけ、新自由クラブの保守中道路線を形成した。社会党も1980年代より中道諸政党との連携に踏み出した。反共で中道路線はずっと右へ変質した。旧右派連合は高度経済成長により大きな成功を収め、1964年にはOECDに加盟し、東京オリンピックを開催し、1968年には国民総生産GNPは世界第2位に躍り出た。開発主義の成功は日米貿易摩擦を引き起こし。1960-1990年までは常に日米の懸案課題であった。1990年代にはアメリカから安全保障の国際貢献を求められ、規制緩和要求から市場開放を強く迫られるようになった。日本型開発主義が攻撃対象となり、その解体を迫られた。旧右派連合は経済成長の成果によって保守支配の国民統合が担保されていた以上、旧右派連合のコスト負担(財政負担)に国民意識が賛意を示さなくなると、システムとしては破たんする。1975年から本格的な赤字国債の発行が始まる。アメリカも双子の赤字(財政赤字、貿易赤字)に苦しんでいたが、日本も財政赤字時代に突入した。公共支出の増大、税制改革への対処が持病となって旧右派連合を苦しめた。恩恵主義は国会運営にまでおよび、野党の抱き込みに金が動くという野党の腐敗により、選択肢としての野党の存在可能性が貶められた。日本では政権交代の可能性を有した競争的な政党システムをついに形成できなかった点で、55体制は自由度が低い政治システムと言わざるを得なかった。
(つづく)