ブログ 「ごまめの歯軋り」

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山本義隆著 「近代日本150年ー科学技術総力戦体制の破綻」(岩波新書2018年1月)

2019年08月31日 | 書評
下野市 国分尼寺公園 

エネルギー革命で始まる「殖産興業・富国強兵」は総力戦体制で150年続き、敗戦と福島原発事故で二度破綻した 第5回

第1章) 欧米との出会い (その2)

西欧においては中世以来科学と技術は別の世界にあった。世界の理解を目的とする科学は哲学のなかで「自然哲学」に分類され大学やアカデミズムで論じられる。アリストテレスの運動理論がそれである。17世紀になって近代科学革命と言われるガリレオ、トリチェリ、フック、ボイルらの実証科学の形成が始まった。18世紀後半から19世紀にかけてイギリス産業革命の過程で、蒸気機関の発展によって動力革命と紡績産業の機械化が行われた。何らかの実際的応用を意図する技術は「学」とは別の分野で発展してきたのである。化学工業の分野でも職人が特許を取って技術の発展に寄与した。18世紀の末にボルタ電池が発明され、電気学と磁気学が一緒になった電磁気学が生まれ、1831年にファラデーが電磁誘導の法則を発見し運動エネルギーの電気エネルギーへの相互変換が可能となった。また1840年代には熱力学の法則からエネルギーの概念が生まれた。蒸気機関に応用され数々の改良がなされた。そして19世紀末にはディーゼル機関の開発がなされ原動機(内燃発動機)工学が誕生した。19世紀後半に至って学問と技術が結びついた。日本が欧米の技術に遭遇したのはまさにこのような科学技術勃興の時代であった。だから「科学技術」として出来立ての成果が時間遅れなく日本に直輸入されたのである。これを幸運と言わずしてなんというべきか。そのため明治期の科学教育は、世界観・自然観の涵養よりも、実用性に大きな比重を置いて遂行された。日本が効率よく近代化に成功した一つの理由である。それはまた日本の近代化が「底の浅い」和魂洋才で済まされたのである。旧態依然たる社会制度と国家体制のまま、国家が技術的に近代化装備を身に着けただけのことになった。西洋文明を科学技術ととらえた明治政府は科学の矮小化と技術の過大評価という誤った理解に陥った。西欧が中世から脱却できたのは17世紀の実験による近代実証科学の誕生のおかげなのである。実験もしないで結果だけを受け入れるのは教条主義であり科学の創造とは無縁の世界である。ガリレオ、ケプラー、デカルト等の「考える」ことを省略したドグマ拝承主義では受験勉強では公式主義になり創造性は忘れられている。物理学理論の持つ合理主義、計算可能性、予測可能性は実験の範囲内で保証されている。17世紀の思想家たちのなかでフランシスコ・ベーコンの「技術が自然と競争して勝利を得ることにに凡てを賭ける」ということは「行動により自然を征服する」ということである。その夢の実現が19世紀の蒸気機関と電気の発明すなわちエネルギー革命であった。19世紀は技術と産業が自然を凌駕し社会改造計画に邁進する。19世紀の科学技術は、人間が自然より優位にあるという立場の近代科学に基づいている。日本が欧米の科学技術に出会ったのは、まさにこの時代であった。そのため過大なる科学技術幻想に囚われ、その幻想は150年後の今も日本を呪縛している。

(続く)

山本義隆著 「近代日本150年ー科学技術総力戦体制の破綻」(岩波新書2018年1月)

2019年08月30日 | 書評
下野市 風土記の丘公園 

エネルギー革命で始まる「殖産興業・富国強兵」は総力戦体制で150年続き、敗戦と福島原発事故で二度破綻した 第4回

第1章) 欧米との出会い (その1)

鎖国を布いた徳川時代にも西欧への窓口と中国への窓口は長崎平戸で開かれていた。江戸末期に「蘭学」として学ばれたのは医学が中心であった。ハーベイの「血液循環」は理解されていたし、「解体新書」は前野良沢によって翻訳された。平賀源内のエレキテルと言う電気学は雷の実験を伴っていた。「医者の蘭学」から「武士の洋楽」として、欧米の科学と技術が本格的に学ばれるようになったのは、1942年アヘン戦争で中国清王朝が破れた報が入って支配階級たる武士層が慌てだしてからである。西洋人の戦艦と大砲という軍事力の前に危機感を抱いたのである。そして1853に米国提督ペリーが黑船に乗って日本に開国を迫った。幕府は慌てて洋学取調所を開設し、神戸に海軍伝習所を設け洋式海軍の建設を目指した。洋学というよりは洋式兵学が先行した。全国の大名は大砲鋳造所の建設を行ったが。まともに製鉄所として動いた形成は無かった。近代西欧文明の優越性は、社会制度や思想によってではなく、強大な大砲を備え蒸気で走る軍艦すなわち軍事技術の直輸入に走ったのであった。欧米文明の優越性は軍事力に限られていたわけではなく、日欧には技術力全般に歴然たる格差があった。とりわけ蒸気機関とその応用は、まさに動力革命を意味していた。1860年渡米して蒸気の動力機械が行き渡っていることを見た福沢諭吉らの幕府使節団の一行は、蒸気の作動原理は鼻から理解はできなかったが、蒸気機関の普及によって機械化されたアメリカの文明に傾倒した。維新の直前に福沢が見た欧米の科学技術は蒸気機関と有線電信によって代表された。これが士農工商の身分制の最高位にある武士が感じた手工業や貿易の限界であった。明治維新新政府の中心は薩摩、長州の武士であったが、彼らは幕末欧州連合軍と戦って惨敗した経験があるだけに、欧米の軍事力の優越性に対して独立を保つ危機感は切迫していた。1871年新政府首脳による欧米視察団が派遣され、最初米国に行き石炭と鉄による機械化工場の生産性に圧倒された。同時に「大仕掛けに貨物を製造する工業的実業家」の資本力と技術力に注目した。19世紀後半は欧米諸国は販路を求めて帝国主義段階にに向かいつつあり、「工業商業の戦争」と形容された国家が科学技術の振興と革新を積極的に支援する体制の競争であった。軍事力と経済力の落差を実感した日本の支配層は、絶えず進歩し成長しなければ生き残れないとの脅迫観念を抱いた。「治国斉民」を支配者の唯一為すべきことと考え、「士農工商」という身分社会に何百年も安住してきた武士階級に工商という賤しめてきた職業に就かせるには、それまでの価値観を180度転換する必要があった。そのため移植すべき科学技術を差別化して上位に置き、そこに思想的社会的な意義づけの制度を確立することが必要であった。それは欧米の技術が優れて合理的な体系であることを啓蒙した福沢諭吉の「文明論の概略」が果たした役割は大きかった。それはお決まりの進歩史観をバックボーンとして「文明開化」を宣伝することである。文明開化とはつまるところ工業と商業の発展に他ならなかった。明治の初め「窮理学」という物理学ブームが起こった。いわば強迫観念をもって物理学を知らざるは時代の孤児なりと言わんばかりだという。福沢諭吉が火付け役で、薄っぺらな物理学の勧めで、特に目新しいことは無いが迷信を信じるな、道理を考えれば驚くに足りず、自分で確かめようという類の啓蒙書である。

(つづく)

山本義隆著 「近代日本150年ー科学技術総力戦体制の破綻」(岩波新書2018年1月)

2019年08月29日 | 書評
さるすべりの花 

エネルギー革命で始まる「殖産興業・富国強兵」は総力戦体制で150年続き、敗戦と福島原発事故で二度破綻した 第3回

序(3)

このことに初めて異議申し立てが始まったのはベトナム反戦闘争の時期1960年代末期であった。それは日本では大学紛争の時期に相当した。敗戦後、日本の科学者は科学による日本の再建をを語り。原子力と宇宙開発を20世紀の科学技術がもたらす人類の夢として描き出した。エネルギーはあくなきエネエルギー消費へ欲求から、水力発電から火力発電、さらに原子力発電へ展望した。1954年原子力基本法が、つづいて原子力委員会と科学技術庁が新設され、1957年には東海村実験炉が臨界点に達した。20世紀には科学は社会を維持するための不可欠な要素として、「科学の体制化」が図られた。1960年代に重化学工業が引き起こした4大公害問題が社会問題となった。熊本水俣病、新潟水俣病、富山のイタイイタイ病、四日市の大気公害は成田の新国際空港建設に対する三里塚闘争と同じように、日本における産業の発展と開発が農民や漁民、住民への健康被害や自然破壊の上にすすめられてきた近代化の問題が一気に火を噴いた形となった。日本における1960年代の理工系ブームは戦後復活した資本主義が国際競争に打って出るための方策であった。1957年ソ連による人工衛星スプートニク1号の打ち上げ、1969年米国のアポRP計画による月面着陸までの米ソの宇宙開発競争はミサイル技術軍事開発利用を目指すもので、国家間の科学技術の優劣は、国家の産業力・文化の優劣であると同時に軍事力と政治的発言力の優劣とみなされた。米国では大金を注いでアポロ計画を華々しく展開していた背後では黒人暴動が勃発し差別と貧困のしわ寄せは黒人にむかった。ベトナム戦争で猛烈な空爆そして米国の敗戦は米国の大義をなくし、また枯葉剤散布という非人道的戦術は若者の心を蝕んだ。ソ連では冷戦の重圧が経済停滞を招き国家機構が崩壊へ向かっていた。60年代の末には米国の学生によるベトナム反戦闘争のなかで米国においても科学技術批判が語られるようになった。それは資金と情報と先端科学技術を独占する「産学軍官複合体」の暴走に反対する運動であった。科学技術の破綻としての福島原発事故、そして経済成長の終焉を象徴する人口減少とデフレ経済の慢性化という事態に日本は直面している。国家第一主義と唱える大国ナショナリズムのための近代化の進展の構図は見直すべき時期に来ている。ここで本論に入る前に、著者山本義隆氏のプロフィールを紹介する。山本 義隆(1941年12月12日 - )は、日本の科学史家、自然哲学者、教育者、駿台予備学校物理科講師。元・東大闘争全学共闘会議代表である。全共闘の時代を知る人は戦後の団塊時代の人でいまでは70歳以上のお歳だと思う。従って若い世代では山本義隆氏の名前を知らない人が圧倒的に多い。1960年代、東大ベトナム反戦会議の活動に携わり、東大全共闘議長を務める。1969年安田講堂事件当時は日大全共闘議長の秋田明大とともに、全共闘を象徴する存在であった。大学では物理学科に進んで素粒子論を専攻し、ファインマン・ダイアグラムなどに明け暮れたという。東大闘争後は在野の研究者として研究を続け、1979年にエルンスト・カッシーラーの『実体概念と関数概念』を翻訳し評価を受けた。哲学以外にも、物理学を中心とした科学史の分野での著作がある。『磁力と重力の発見』全3巻は、第1回パピルス賞、第57回毎日出版文化賞、第30回大佛次郎賞を受賞して注目された。研究者のほかに予備校教師として、駿台予備学校で物理科の講師を30年以上務めている。原子力発電所には東日本大震災以前から警鐘を鳴らし続け、事故後『福島の原発事故をめぐって』を出版した。 本書「「近代日本150年」岩波新書を一読して、その文献の引用の多いことにおどろき、どこに著者の地の文があるのかよく分からないが、読んだ本から著者の言い分を展開すること自体が編集であるから、本書の著者の言いたい部分だけをピックアップしてゆきたいと思う。そして時系列で前後する場所が多く、重複している箇所も多いので整理しながら本書をまとめたい。

(つづく)

山本義隆著 「近代日本150年ー科学技術総力戦体制の破綻」(岩波新書2018年1月)

2019年08月28日 | 書評
栃木県下野市 三王山ふれあい公園の森 

エネルギー革命で始まる「殖産興業・富国強兵」は総力戦体制で150年続き、敗戦と福島原発事故で二度破綻した 第2回

序(2)

科学者・技術者および彼らが属する組織は(大学、企業、官庁諸研究所など)はつねに平和と繁栄に貢献する善なる領域に居ると思い込んでいる愚かな専門家がいる。むしろ戦争に手を貸、他国の資源掠奪の最先端にいると自覚する人は稀有な存在である。彼らが信奉する科学技術は全く制御不能の凶器であることを2011年3月11日の原発事故は露呈した。その事故を前にして技術者・企業・エネルギー資源庁が全く無能であったことも明らかにした。このように巨大化した科学技術を生んだことを理解するうえで、18世紀後半から19世紀前半にかけての欧米の産業革命の歴史を紐解くことが必要である。日本が開国した18世後半には欧米諸国は国内的には第2次産業革命といわれる重化学工業を中心とした技術革新を遂行し、対外的には帝国主義列強時代の海外植民地獲得戦争に突き進んだ時代であった。これらの列強との競争に巻き込まれた日本は植民地にならないよう民主主義思想や人権思想を置き去りにして富国強兵策を遂行し天皇制国家の形成に至った。西欧の文明とくに科学技術に関しては直輸入によって貪欲に効率的に吸収し、政府主導と軍の要請にこたえるべく工業化=近代化を成し遂げ、20世紀前半には帝国主義列強に仲間入りをした。機械における蒸気動力の利用は、それまで暖房や調理にしか使わなかった熱が物を動す力となっった意味で動力革命であった。そのエネルギー概念はさらに電力が照明・暖房・通信と併せてモータを駆動し動力を生んだ。従って電力と蒸気の使用は動力革命を超えるエネルギー革命を達成したのであった。まさにそのような時期に開国した日本は近代化をエネルギー革命として開始したのである。熱や電気が生産や運輸や通信や照明に強力に利することを知った。1869年に築地ー横浜間に電信網が架設され、1872年に新橋―横浜間に蒸気機関車による鉄道が開通した。また富岡に蒸気を動力とする製糸工場ができたのも同じ年であった。重工業や化学工業は軍需優先で始められた。こうして日本の近代化「殖産興業・富国強兵」はエネルギー革命の使用によって可能となった。当時の日本の人口はほぼ3000万人であったが、第2次世界大戦時には7000万人となり、戦後も増え続け1970年に1億人となり2010年に1億2800万人をピークとして急速な減少に向かっている。経済成長期に人口は増え今や経済成長政策が止まって人口は減少に転じた。成熟したヨーロッパ諸国と同じ段階に達したというべきであろう。今日の日本の為政者は人口が増えると内需が増え回復が回復するという逆転した論理で産めよ増やせよと叫んでいる。2011年の東電福島原発事故が、電力エネルギー消費が減退する中で原発発電に重点を移した挙句のオーバーランを象徴している。欧米の科学技術導入に日本の学制とりわけ帝国大学が果たした役割は大きい。生産力の増強と科学技術の振興は明治以来戦前戦後を通じての日本の国是であった。日本における官・産・軍・学協働の根底の思想は、経済の成長拡大とそれによる国力増進を第一とする国を挙げたナショナリズムによる結束と成長イデオロギー信奉に遭った。「新しい科学技術の改良は生産の増大と経済の成長、それに伴う人間生活の改善をもたらし、社会の発展と文明を牽引する」という命題が為政者の間で疑われることは無かった。「衣食足りて礼節を知る」が基本であった。

(つづく)

山本義隆著 「近代日本150年ー科学技術総力戦体制の破綻」(岩波新書2018年1月)

2019年08月27日 | 書評
栃木県下野市 三王山ふれあい公園 

エネルギー革命で始まる「殖産興業・富国強兵」は総力戦体制で150年続き、敗戦と福島原発事故で二度破綻した 第1回

序(1)

昨年2017年は明治維新150年に当ったので、様々な日本の近代化を振り返る書籍が多く出た。それ以前からも明治維新を日本の近代化の始まりとして見る歴史観の書籍は極めて多いなかで、政治・経済・社会の面から考えることが主流をなしておりそれこそ掃いて棄てるほどの本が出版されたが、本書のような科学技術史(特にエネルギー革命)の面から見る本は少ない。しかも日本の近代化は大成功だったとする見方あるいは進歩史観が大多数であるが、日本の近代化の歴史が果たして歪んでいないか、限界にあるのではないかという見方は少ない。もちろん戦後のマルクス主義者からの見方は近代化のマイナス面(戦争、格差、封建的残渣)を強調しているが、その科学技術進歩史観は旧態依然である。西欧のエネルギ―革命は19世紀におき以来200年間科学技術の発展と経済成長を伴って世界を席卷してきた。日本はほぼ50年遅れで開国し、ドイツと同じように後発国としてその世界的潮流に取り込まれ、そのキャッチアップに邁進してきた。それは中国のようにさらに50年遅れでキャッチアップしていたのでは植民地化される瀬戸際にあった。日本は西欧で開発された技術革新をキャッチアップするにはちょうどいい位置にいて、じつに効率的な「近代化」を成し遂げた奇蹟ともてはやされ、東方の端に居たので帝国主義の植民地化の牙から免れた。しかし2011年の東電福島第一原発事故は科学技術の限界を象徴し、明治・大正・昭和の日本を支配してきた科学技術幻想の終焉を示している。科学技術の進歩によってエネルギー使用を拡大し続け、それによって経済成長が永久に可能になるという(持続可能な成長という矛盾)幻想が破綻したことである。その上2011年度からの人口減少は、経済成長の幻想を見限った市民の隠しようもない社会現象であり、成長の限界と生存に必要な物資の不足を感じ取った成熟した市民の当然の行動である。2012年に始まったアベノミクスの3本の矢の3本目の成長戦略なるものは最初からあり得ない経済政策として破綻しているが、安倍政権の「原発輸出、武器輸出、カジノ解禁」は正常な経済政策ではない奇策である。明治大正時代の「殖産興業・富国強兵」、昭和の戦前期の「総力戦体制による高度国防結果の建設」、昭和の戦後と平成時代の「経済成長と国際競争」として語られてきた物語、すなわち大国主義ナショナリズムと結合した科学技術も進歩に基づく経済成長の追求といった近代日本150年の歩みから、我々は最終的に決別すべき岐路に立っている。「人口減少社会の設計」とか「ポスト資本主義」、「持続可能性」とかいわれる背景がそれである。安倍政権は国家権力の絶対化を宣伝するが、その及ぶ範囲は官僚機構内のことであり、市民社会は国家・市場経済に対する制御力を発揮し、国家の枠組みは相対的に低下してきた。戦争の防止、核兵器使用の全廃、多国籍資本の監視、国境を超えた国際環境保護運動が可能となるシステムを形成しつつある。そして先進国と言われる国は成長の経済から再配分の経済に向かわなければならない責任がある。限りある資源とエネルギーを大切に使う持続可能性社会を作り、国内的には格差是正、貧富の差をなくしてゆく方向にある。

(つづく)