ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

東日本大震災: 相馬市長エッセイ NPO「はらがま朝市」

2011年08月31日 | 時事問題
医療に関する提言・レポートfrom MRIC by 医療ガバナンス学会(2011年8月30日)
相馬市長エッセー 「NPOはらがま朝市」 立谷秀清 福島県相馬市長  より


 原釜は古来から漁港である。松川浦漁港の漁獲高は昨年で50億円で、仲買・加工業者も多かった。大津波で約300隻あった漁船の約半数が失われ、残ったのは漁具・魚船の返済ローンだった。「1日も早く漁に出たい。そうしないと借金で首をくくることになる」と訴える住民がいる。新たに漁具漁船を買う人には「二重ローン」苦となる。漁ができても原発事故の風評被害で魚が売れない。なかには日本海側で事業を始めて人もいる。相馬市災害対策本部としては、「復興」を瓦礫や高級住宅の提供のみとは考えず、被災者の新たな意人制設計と定義している。5月相馬市を元気付けるため輪島市のような朝市を企画する「NPOはらがま朝市」が生まれた。8月に始まった朝市には2000人の市民が訪れた。原釜に産地直売マーケットをつくって野菜なども売るために、コンテナー式冷凍倉庫もあと10台を設置する予定である。現在スポーツアリーナ相馬で土日開催の朝市は大繁盛で市民の楽しみとなっている。住民の元気をなんとか制度化するため奮戦中である。ご報告まで。

読書ノート 石橋克彦編 「原発を終らせる」 岩波新書

2011年08月31日 | 書評
原発安全神話は崩壊した、原発から脱却することは可能だ 第16回

12)「原発立地自治体の自立と再生」 清水修二  福島大学経済経営学類教授 地方財政学

 本章は、伊藤久雄氏の「原発依存の地域社会」と重なる部分が多いが、原発が消えた後自治体はどう再生できるのかに重点を置いている。大震災の後停止した原発た定期点検中の原発の立地する自治体の対応を新聞記事は、各道府県知事は原発の危険性への懸念を表明しているが、原発の地元市町村長は原発運転再開を求める声が大きいと伝えている。地元にとっては「迷惑施設」を受け入れた見返りの電源三法による振興策は手っ取り早い地域振興策である。問題は今回の福島第1原発事故で「原発は危険である事が分ったが、いまさら手を切るわけにもゆかない」という悩みであろう。「電源立地効果の一過性問題」で地元には一時的に金が入り、一躍トップクラスの所得水準になるが、原発の建設が行なわれると大きな産業構造変化を伴う。電力業界が第3次産業である事から第3時産業比率が一挙に高まり、一時的に建設業という第2次産業が栄えるのである。だから地元は「原発の増設」を願い、夢よもう一度と地元政治家を動かす。「原発は麻薬だ」といわれる所以である。市町村は挙げて城下町になり地域経済の自律性は喪失される。首都は膨大なエネルギーによって動く魔物であるから、富が集中し人を吸収する。富(権力)が集中するところはリスクも高いのであるが、リスクを富の配分において不遇な地域に転嫁させる。都市と過疎地はとても平等な関係ではなく、むしろ一種の支配隷従関係、あるいは「差別の構造」である。福島第1原発のお膝元双葉町は間違いなく廃炉の運命を迎えるだろう。麻薬が切れて「無原発状態」になると、「復興から再生へ」というビジョンをどう描けばいいのだろうか。その際参考になるのは、新日鉄の城下町であった釜石市の再興事例である。1万人近い雇用が事業撤退の危機に瀕せられた。釜石市は毎年1000人の人口減少となったが、見事に復興した。地域内部の資源と人材による「内発的発展」の戦略を追及しなければならない。地元自治体に原子力専門家が1人もいない東電に「オンブにダッコ」の行政から、、別の麻薬(巨大企業誘致)を探すだけの行政では自立と再生は覚束ない。
(つづく)

文芸散歩 金 文京著 「漢文と東アジア」 岩波新書

2011年08月31日 | 書評
漢文文化圏である東アジア諸国の漢文訓読みの変遷と文化 第5回

1)日本の訓読の歴史(2)

 中国語においても「仮借」というもっぱら音を表す漢字を当て字に用いることは多い。魏志倭人伝・倭人の「卑弥呼」、「邪馬台国」という文字は「ヒミコ」、「ヤマト」の当て字であろう。しかもご丁寧に辺境の野蛮人である事をにおわせる卑語「卑」、「邪」という言葉を採用している。漢字の表音的使用による外国語表記が中国人にとって重大な問題となったのは、仏教伝来の結果であった。仏典はインドの梵字(サンスクリット)で書かれていたので、仏典では梵語から中国語への翻訳が緊急の課題となった。例えば梵語で「うぱさか」を「優婆塞」と書いて「清信男」(在家信者)と訳した如し。中国での仏典の漢訳が盛んに行なわれたのは2世紀から12世紀であるので、仏典の日本での和訳と中国での漢訳がほぼ同一時期に進行する場合もあって、中国へ渡った日本人僧侶たちはこのような梵語から中国語への翻訳の現場に立ち会った可能性がある。梵語→漢語→和語を常に頭においてその手法を見ていたと考えるのはあながちおかしなことではない。しかし日本人僧侶はけっして梵語仏典を直接手にしようとは考えなかった。漢語仏典の完成度が高かったのか、出来上がった漢語仏典からスタートする方が手間が省けたからであろう。10世紀末北宋の都開封にあった訳教院でインド僧を中心に行なわれた「般若心経」の訳教儀式は次のような工程からなっていたそうだ。
①訳主:インド僧が原文を梵語で読み上げる
②証義:梵語の意味内容を討議する
③証文:訳主の読み上げる梵語に間違いがないかどうか点検する
④書字:梵語の僧が訳主の読み上げた梵語の音を漢字で表記する
⑤筆受:漢字で表記された梵語を中国語に訳する
⑥綴文:中国語に翻訳された単語を、中国語の文法に則り順序を入れ替えて文章化する
⑦参訳:梵語と漢文を比較して校正する
⑧刊定:訳された漢文の冗長な部分を削り、簡潔にする
⑨:潤文官:漢文が適切かどうか適当な表現に直す。分りやすいように本来ない文章を入れることもある。

 漢語は単音節で意味をなし、漢字という表意文字を用いる。しかし梵語は複音節語で表音文字を使用するという根本的な文字構造の差がある。梵語の字母はシッダーマートリカー文字のことで、ア、イ、ウ、エ、オに中国語では「悉曇」といって、阿、伊、憂、暝、烏という漢字を当てた。漢字による梵語の音写を容易にする仮借である。この「悉曇」という仮の音当て字は日本に伝わり仮名の発想、仮名の50音図もこうして発生したと考えられている。梵語では語順は自由であるものの、目的語は動詞の前におかれる。つまり中国語とは逆である。中国語の語順にしたがって単語の順序を入れ替えることを当時「廻文」といった。語順において日本語は梵語と似ているので、中国語を間において梵語と日本語は対応している。日本に梵語が伝来されていた可能性は高い。東大寺大仏の開眼供養で導師を務めたインド僧 菩提は梵字百枚をもたらしたといわれている。インドにいった新羅僧から訳教の実態が日本に伝わった可能性もある。こうして中国語の相対化が進行したのである。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「早 秋」

2011年08月31日 | 漢詩・自由詩
早涼餞夏暑風疏     早涼夏を餞して 暑風疏なり 

雲色渡河松籟鳴     雲色河を渡り 松籟鳴る

北蔭凄涼無静葉     北蔭凄涼 静葉無く
 
南征連雁有帰聲     南征す連雁 帰聲有り


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(韻:八庚 七言絶句平起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)