最後の砦である生活保護の基準引き下げは、社会保障制度崩壊の始まり 第4回
序(4)
堤未果氏は堤未果著 「(株)貧困大国アメリカ」(岩波新書 2013年6月 )において次のように言う。今アメリカでは1%のスーパーリッチ層(金融資本家とコングロマリット企業家)の驚愕の社会変革(破壊)が進んでいることが分かる。あらゆるものを株式会社化(利益重視の株主優先)する動きが加速している。世界の究極の支配者たらんとする勢いである。経済利益は市場をゼロからスタートする方が儲かるのである。これを貧困ビジネスまたは破壊ビジネスともいう。破壊と再建の繰り返しを意図的に作り出し、市場創世期の投資効率の最大化つまり高利潤を得ることである。市場成熟期や飽和期では企業の利益は少なくなるのが鉄則である。そのために外部である発展途上国において貧困ビジネスを行い、金融恐慌や世界危機を意図的に作り出して、成熟国の破壊と再建を企てるのである。サブプライム・ローン問題は金融工学の活用による「貧困ビジネス」の典型であり、バブルから金融崩壊を演出し、国民の財産を「公的資金導入」と称して金融資本が吸い上げる。金融危機を起こした金融資本は反省もなく無傷で生き残り、「公的資金」を使って次の投資先を考えているのである。2000年代のブッシュ政権の政策を導いたのは、フリードマンの新自由主義経済学理論である。政府機能は小さいほど良いとして規制緩和を進め、教育、災害、軍事、諜報機能などを次々と市場化(小泉流に言えば民営化)していった。新自由主義政策にはそもそも福祉政策という考えは不合理で金持ち階級の財産(自由)を奪うものとされ、99%の負け組にたいしては慈善という哀れみをかければ、倫理上の問題で回避できるらしい。いま世界で進行している出来事は、ポスト資本主義の新しい枠組みである「コーポラティズム」という政治と企業の癒着主義である。人から制約を受けないという自由主義とは突き詰めると、政府を徹底的に利用して他人を収奪する仕組みを合法化することである。税金からなる公的資源を独占企業という「民間」に分配ため様々な村(利益共同体)が形成された。原発電力複合体をはじめ、食産複合体、医薬産複合体、軍産複合体、石油、メディア、金融など挙げだすときりがないが、ヒスパニックより労賃の安い刑服務者の労働力を利用する刑産複合体まで存在する。1%の支配者と99%の奴隷に2極化することが、1%支配者にとって一番効率(利潤/投資)が高いのである。働く人の生活に思いをはせることはセンチメンタリズムに過ぎない。最低限の再生産可能な労働力市場(奴隷市場)にまで追い込むことが利潤というアウトプットを最大化する方程式である。アメリカとヨーロッパに本拠を置く多国籍企業群がこの略奪型ビジネスモデルを展開している。これをグローバル資本という。
宇沢弘文氏は宇沢弘文著 「経済学は人々を幸福にできるか」 (東洋経済新報社 2013年11月 )の第1部「市場原理主義の末路 」において次のように言う。フリードマンが主導する新自由主義とはもっぱら企業のための自由であって、それを守る事だけが大切で何万人が死ぬことは眼中にはなかったのです。デヴィット・ハ-ヴェイによると、市場のないところを市場化し儲ける機会をお膳立てすることが政府の仕事であると主張し、政府は企業の露払い的役割に成り下がりました。フリードマンが言うところの「合理的期待形成」の考えは、その市場さえ全知全能の資本の前にはコントロールされるべきものでした。そして「トリクルダウン理論」は減税はお金持ちからやるべきで、お金持ちが潤えば貧乏人にも施しができるというふざけた話です。まさに傲慢そのものです。なぜこのような逆立ちした屁理屈が通るかというと、貨幣価値至上主義(札束のまえにはすべての人が平伏する)によるものです。20世紀末フリードマンは銀行と証券業務の障壁を取り払うことの全力をかけて、1999年グラム・リーチ・ブライリー法の制定に成功しました。これが世界金融危機をもたらした元凶です。金融新商品の結果が住宅バブルと証券化の大失敗をもたらしました。サブプライムローンに市場原理主義の最悪な面の帰結がみられました。フリードリッヒ・ハイエクとフランク・ナイトのモンペルラン・ソサエティの原点であるネオリベラリズムと、フリードマンの市場原理主義とは宇沢氏はこれを区別します。ネオリベラリズムは理解しうる思想の流れで重要な考えだと宇沢氏は評価しています。しかし市場原理主義は政府を手下に使って金のためには何でもやる、それを阻止するものは水爆も使っていいという極端な危険思想であるとみています。ナイト氏が弟子であるフリードマンを破門した形になったのは当然だと考えました。
著者稲葉剛氏は、1969年生まれ、東京大学教養学部を卒業し、1994年より新宿において路上生活者支援の活動に取り組む。2001年「反貧困ネットワーク」の湯浅誠氏らとNPO法人自立生活サポートセンター「もやい」(舫 もやいとは船をつなぎとめる綱のこと 生活困窮者を社会につなぎとめるという趣旨か)を設立しその理事長を務める。また生活保護問題対策全国会議幹事、住まいの貧困に取り組むネットワーク世話人である。著書には「ワーキングプア」、「貧困待ったなし」などがある。生活保護制度の本当の狙いとは、人間の「生」を無条件で保障し、肯定するということであると稲葉氏はいう。ここでいう「生」とは衣食住だけの最低限の生存が維持できているだけでなく、憲法でも保障された「健康で文化的な生活」つまり人間らしく生きることを意味する。ところが差別好きな人は「生」を支える生活保護をパッシングします。これは自分より弱い人をいじめることで、自分の弱い立場の憂さを晴らすようなヘイト「憎悪表現」に過ぎません。自分自身が人間らしく生きることを肯定できないか、努力していない人です。この人がもし困窮したら、過去の自己責任的な言動によって自分自身を縛り、苦しむことになるでしょう。弱い者同士が憎みあうことで権力者は自分に憎しみが向かうことを防ぐものです。矛盾が反乱に発展することを避ける操作術です。すでに段階的な生活保護基準の引き下げによって、社会保障制度の最後の砦であるこの制度が重大な岐路に直面しています。不正受給の報道やパッシングのなか、アメリカ社会を模してこの制度を崩そうとする政権の意図が露骨に見え隠れしています。2012年12月7日、東京都目黒区総合庁舎において「受付窓口での不当な要求や暴力に対応する訓練」と称して、「生活保護申請に来た訪問者の要件が該当しなかったため職員が受理を拒んだところ、刃物を振りかざして暴れた」という想定で120人の職員が訓練に参加しました。この訓練に対してホームレス総合相談ネットワークは目黒区長と福祉事務所に宛てた意見書を提出し抗議しました。この訓練には2つの過ちと偏見があります。一つは福祉事務所の窓口には申請の受理を拒む権限はありません。審査委員会が却下決定をします。2つは生活保護申請者を暴力行為に及びやすい危険人物と想定して、訓練を報道機関を通じて社会に公表することは、重大な差別、誤解、偏見に基づいています。生活保護申請者は暴力団員ではありません。12月26日目黒区長は謝罪の回答をし「生活保護制度について職員に周知徹底する」と表明しました。福祉事務所に生活保護について相談に来る人を犯罪予備軍の目で見ることが行政関係者の中で広がっていることに懸念を覚えると稲葉剛氏は問題視します。同じことですが、2012年3月厚生労働省は、退職した警察官OBを福祉事務所に配備し不正受給者対策の徹底を図ることを各地方自治体に要請しました。2009年には大阪市豊中市で警察官OBが生活保護利用者を「虫けら」という暴言を吐く事件が発生し、大阪弁護士会が再発防止の勧告を出しました。生活保護利用者に対する人権無視の姿勢が如実に表れています。2012年6月芸能人の親族が生活保護を利用していることをきっかけに生活保護の制度や利用者に対してパッシング報道が吹き荒れました。この「事件」には報道側に誤りがあります。親族に扶養義務があるかのような報道は、憲法では個人の問題として扱われているので、戦前の民法のような感覚で子供が親を養うのは当然ということにはなりません。逆にいえば親は成人した子供の借金を支払う義務もありません。報道は裁判所のように断罪を下して社会的制裁を加えますが、これはメディアの横暴というものです。こうした生活保護に対するマイナスイメージ(実はある手を打つために厚生官僚が意図して流したリーク情報に基づいた世論誘導にすぎないのですが)に便乗する形で、安倍政権は生活保護制度の見直しを企てています。2013年8月からは段階的な生活保護の基準の引き下げが始まり、秋には生活保護法改正案が上程されます。こういった生活保護抑制政策に棹をさすために本書を書いたと稲葉剛氏はいいます。生活保護制度の抑制はすなわち福祉制度全体の経費節減策の一環です。さらに労働環境の悪化に加えて社会福祉のセーフティネットの悪化により、大量の貧困層が生み出されます。貧困層の底を抜くようなことでさらに低賃金労働が加速されます。日本社会全体の貧困化がアメリカのように待ったなしで襲い掛かるでしょう。小さな漏れが堤防を崩します。決して許してはならないという意図で本書は書かれました。
(つづく)
序(4)
堤未果氏は堤未果著 「(株)貧困大国アメリカ」(岩波新書 2013年6月 )において次のように言う。今アメリカでは1%のスーパーリッチ層(金融資本家とコングロマリット企業家)の驚愕の社会変革(破壊)が進んでいることが分かる。あらゆるものを株式会社化(利益重視の株主優先)する動きが加速している。世界の究極の支配者たらんとする勢いである。経済利益は市場をゼロからスタートする方が儲かるのである。これを貧困ビジネスまたは破壊ビジネスともいう。破壊と再建の繰り返しを意図的に作り出し、市場創世期の投資効率の最大化つまり高利潤を得ることである。市場成熟期や飽和期では企業の利益は少なくなるのが鉄則である。そのために外部である発展途上国において貧困ビジネスを行い、金融恐慌や世界危機を意図的に作り出して、成熟国の破壊と再建を企てるのである。サブプライム・ローン問題は金融工学の活用による「貧困ビジネス」の典型であり、バブルから金融崩壊を演出し、国民の財産を「公的資金導入」と称して金融資本が吸い上げる。金融危機を起こした金融資本は反省もなく無傷で生き残り、「公的資金」を使って次の投資先を考えているのである。2000年代のブッシュ政権の政策を導いたのは、フリードマンの新自由主義経済学理論である。政府機能は小さいほど良いとして規制緩和を進め、教育、災害、軍事、諜報機能などを次々と市場化(小泉流に言えば民営化)していった。新自由主義政策にはそもそも福祉政策という考えは不合理で金持ち階級の財産(自由)を奪うものとされ、99%の負け組にたいしては慈善という哀れみをかければ、倫理上の問題で回避できるらしい。いま世界で進行している出来事は、ポスト資本主義の新しい枠組みである「コーポラティズム」という政治と企業の癒着主義である。人から制約を受けないという自由主義とは突き詰めると、政府を徹底的に利用して他人を収奪する仕組みを合法化することである。税金からなる公的資源を独占企業という「民間」に分配ため様々な村(利益共同体)が形成された。原発電力複合体をはじめ、食産複合体、医薬産複合体、軍産複合体、石油、メディア、金融など挙げだすときりがないが、ヒスパニックより労賃の安い刑服務者の労働力を利用する刑産複合体まで存在する。1%の支配者と99%の奴隷に2極化することが、1%支配者にとって一番効率(利潤/投資)が高いのである。働く人の生活に思いをはせることはセンチメンタリズムに過ぎない。最低限の再生産可能な労働力市場(奴隷市場)にまで追い込むことが利潤というアウトプットを最大化する方程式である。アメリカとヨーロッパに本拠を置く多国籍企業群がこの略奪型ビジネスモデルを展開している。これをグローバル資本という。
宇沢弘文氏は宇沢弘文著 「経済学は人々を幸福にできるか」 (東洋経済新報社 2013年11月 )の第1部「市場原理主義の末路 」において次のように言う。フリードマンが主導する新自由主義とはもっぱら企業のための自由であって、それを守る事だけが大切で何万人が死ぬことは眼中にはなかったのです。デヴィット・ハ-ヴェイによると、市場のないところを市場化し儲ける機会をお膳立てすることが政府の仕事であると主張し、政府は企業の露払い的役割に成り下がりました。フリードマンが言うところの「合理的期待形成」の考えは、その市場さえ全知全能の資本の前にはコントロールされるべきものでした。そして「トリクルダウン理論」は減税はお金持ちからやるべきで、お金持ちが潤えば貧乏人にも施しができるというふざけた話です。まさに傲慢そのものです。なぜこのような逆立ちした屁理屈が通るかというと、貨幣価値至上主義(札束のまえにはすべての人が平伏する)によるものです。20世紀末フリードマンは銀行と証券業務の障壁を取り払うことの全力をかけて、1999年グラム・リーチ・ブライリー法の制定に成功しました。これが世界金融危機をもたらした元凶です。金融新商品の結果が住宅バブルと証券化の大失敗をもたらしました。サブプライムローンに市場原理主義の最悪な面の帰結がみられました。フリードリッヒ・ハイエクとフランク・ナイトのモンペルラン・ソサエティの原点であるネオリベラリズムと、フリードマンの市場原理主義とは宇沢氏はこれを区別します。ネオリベラリズムは理解しうる思想の流れで重要な考えだと宇沢氏は評価しています。しかし市場原理主義は政府を手下に使って金のためには何でもやる、それを阻止するものは水爆も使っていいという極端な危険思想であるとみています。ナイト氏が弟子であるフリードマンを破門した形になったのは当然だと考えました。
著者稲葉剛氏は、1969年生まれ、東京大学教養学部を卒業し、1994年より新宿において路上生活者支援の活動に取り組む。2001年「反貧困ネットワーク」の湯浅誠氏らとNPO法人自立生活サポートセンター「もやい」(舫 もやいとは船をつなぎとめる綱のこと 生活困窮者を社会につなぎとめるという趣旨か)を設立しその理事長を務める。また生活保護問題対策全国会議幹事、住まいの貧困に取り組むネットワーク世話人である。著書には「ワーキングプア」、「貧困待ったなし」などがある。生活保護制度の本当の狙いとは、人間の「生」を無条件で保障し、肯定するということであると稲葉氏はいう。ここでいう「生」とは衣食住だけの最低限の生存が維持できているだけでなく、憲法でも保障された「健康で文化的な生活」つまり人間らしく生きることを意味する。ところが差別好きな人は「生」を支える生活保護をパッシングします。これは自分より弱い人をいじめることで、自分の弱い立場の憂さを晴らすようなヘイト「憎悪表現」に過ぎません。自分自身が人間らしく生きることを肯定できないか、努力していない人です。この人がもし困窮したら、過去の自己責任的な言動によって自分自身を縛り、苦しむことになるでしょう。弱い者同士が憎みあうことで権力者は自分に憎しみが向かうことを防ぐものです。矛盾が反乱に発展することを避ける操作術です。すでに段階的な生活保護基準の引き下げによって、社会保障制度の最後の砦であるこの制度が重大な岐路に直面しています。不正受給の報道やパッシングのなか、アメリカ社会を模してこの制度を崩そうとする政権の意図が露骨に見え隠れしています。2012年12月7日、東京都目黒区総合庁舎において「受付窓口での不当な要求や暴力に対応する訓練」と称して、「生活保護申請に来た訪問者の要件が該当しなかったため職員が受理を拒んだところ、刃物を振りかざして暴れた」という想定で120人の職員が訓練に参加しました。この訓練に対してホームレス総合相談ネットワークは目黒区長と福祉事務所に宛てた意見書を提出し抗議しました。この訓練には2つの過ちと偏見があります。一つは福祉事務所の窓口には申請の受理を拒む権限はありません。審査委員会が却下決定をします。2つは生活保護申請者を暴力行為に及びやすい危険人物と想定して、訓練を報道機関を通じて社会に公表することは、重大な差別、誤解、偏見に基づいています。生活保護申請者は暴力団員ではありません。12月26日目黒区長は謝罪の回答をし「生活保護制度について職員に周知徹底する」と表明しました。福祉事務所に生活保護について相談に来る人を犯罪予備軍の目で見ることが行政関係者の中で広がっていることに懸念を覚えると稲葉剛氏は問題視します。同じことですが、2012年3月厚生労働省は、退職した警察官OBを福祉事務所に配備し不正受給者対策の徹底を図ることを各地方自治体に要請しました。2009年には大阪市豊中市で警察官OBが生活保護利用者を「虫けら」という暴言を吐く事件が発生し、大阪弁護士会が再発防止の勧告を出しました。生活保護利用者に対する人権無視の姿勢が如実に表れています。2012年6月芸能人の親族が生活保護を利用していることをきっかけに生活保護の制度や利用者に対してパッシング報道が吹き荒れました。この「事件」には報道側に誤りがあります。親族に扶養義務があるかのような報道は、憲法では個人の問題として扱われているので、戦前の民法のような感覚で子供が親を養うのは当然ということにはなりません。逆にいえば親は成人した子供の借金を支払う義務もありません。報道は裁判所のように断罪を下して社会的制裁を加えますが、これはメディアの横暴というものです。こうした生活保護に対するマイナスイメージ(実はある手を打つために厚生官僚が意図して流したリーク情報に基づいた世論誘導にすぎないのですが)に便乗する形で、安倍政権は生活保護制度の見直しを企てています。2013年8月からは段階的な生活保護の基準の引き下げが始まり、秋には生活保護法改正案が上程されます。こういった生活保護抑制政策に棹をさすために本書を書いたと稲葉剛氏はいいます。生活保護制度の抑制はすなわち福祉制度全体の経費節減策の一環です。さらに労働環境の悪化に加えて社会福祉のセーフティネットの悪化により、大量の貧困層が生み出されます。貧困層の底を抜くようなことでさらに低賃金労働が加速されます。日本社会全体の貧困化がアメリカのように待ったなしで襲い掛かるでしょう。小さな漏れが堤防を崩します。決して許してはならないという意図で本書は書かれました。
(つづく)