ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 稲葉剛著 「生活保護から考える」 岩波新書(2013年11月)

2015年01月31日 | 書評
最後の砦である生活保護の基準引き下げは、社会保障制度崩壊の始まり 第4回

序(4)
堤未果氏は堤未果著 「(株)貧困大国アメリカ」(岩波新書 2013年6月 )において次のように言う。今アメリカでは1%のスーパーリッチ層(金融資本家とコングロマリット企業家)の驚愕の社会変革(破壊)が進んでいることが分かる。あらゆるものを株式会社化(利益重視の株主優先)する動きが加速している。世界の究極の支配者たらんとする勢いである。経済利益は市場をゼロからスタートする方が儲かるのである。これを貧困ビジネスまたは破壊ビジネスともいう。破壊と再建の繰り返しを意図的に作り出し、市場創世期の投資効率の最大化つまり高利潤を得ることである。市場成熟期や飽和期では企業の利益は少なくなるのが鉄則である。そのために外部である発展途上国において貧困ビジネスを行い、金融恐慌や世界危機を意図的に作り出して、成熟国の破壊と再建を企てるのである。サブプライム・ローン問題は金融工学の活用による「貧困ビジネス」の典型であり、バブルから金融崩壊を演出し、国民の財産を「公的資金導入」と称して金融資本が吸い上げる。金融危機を起こした金融資本は反省もなく無傷で生き残り、「公的資金」を使って次の投資先を考えているのである。2000年代のブッシュ政権の政策を導いたのは、フリードマンの新自由主義経済学理論である。政府機能は小さいほど良いとして規制緩和を進め、教育、災害、軍事、諜報機能などを次々と市場化(小泉流に言えば民営化)していった。新自由主義政策にはそもそも福祉政策という考えは不合理で金持ち階級の財産(自由)を奪うものとされ、99%の負け組にたいしては慈善という哀れみをかければ、倫理上の問題で回避できるらしい。いま世界で進行している出来事は、ポスト資本主義の新しい枠組みである「コーポラティズム」という政治と企業の癒着主義である。人から制約を受けないという自由主義とは突き詰めると、政府を徹底的に利用して他人を収奪する仕組みを合法化することである。税金からなる公的資源を独占企業という「民間」に分配ため様々な村(利益共同体)が形成された。原発電力複合体をはじめ、食産複合体、医薬産複合体、軍産複合体、石油、メディア、金融など挙げだすときりがないが、ヒスパニックより労賃の安い刑服務者の労働力を利用する刑産複合体まで存在する。1%の支配者と99%の奴隷に2極化することが、1%支配者にとって一番効率(利潤/投資)が高いのである。働く人の生活に思いをはせることはセンチメンタリズムに過ぎない。最低限の再生産可能な労働力市場(奴隷市場)にまで追い込むことが利潤というアウトプットを最大化する方程式である。アメリカとヨーロッパに本拠を置く多国籍企業群がこの略奪型ビジネスモデルを展開している。これをグローバル資本という。

宇沢弘文氏は宇沢弘文著 「経済学は人々を幸福にできるか」 (東洋経済新報社 2013年11月 )の第1部「市場原理主義の末路 」において次のように言う。フリードマンが主導する新自由主義とはもっぱら企業のための自由であって、それを守る事だけが大切で何万人が死ぬことは眼中にはなかったのです。デヴィット・ハ-ヴェイによると、市場のないところを市場化し儲ける機会をお膳立てすることが政府の仕事であると主張し、政府は企業の露払い的役割に成り下がりました。フリードマンが言うところの「合理的期待形成」の考えは、その市場さえ全知全能の資本の前にはコントロールされるべきものでした。そして「トリクルダウン理論」は減税はお金持ちからやるべきで、お金持ちが潤えば貧乏人にも施しができるというふざけた話です。まさに傲慢そのものです。なぜこのような逆立ちした屁理屈が通るかというと、貨幣価値至上主義(札束のまえにはすべての人が平伏する)によるものです。20世紀末フリードマンは銀行と証券業務の障壁を取り払うことの全力をかけて、1999年グラム・リーチ・ブライリー法の制定に成功しました。これが世界金融危機をもたらした元凶です。金融新商品の結果が住宅バブルと証券化の大失敗をもたらしました。サブプライムローンに市場原理主義の最悪な面の帰結がみられました。フリードリッヒ・ハイエクとフランク・ナイトのモンペルラン・ソサエティの原点であるネオリベラリズムと、フリードマンの市場原理主義とは宇沢氏はこれを区別します。ネオリベラリズムは理解しうる思想の流れで重要な考えだと宇沢氏は評価しています。しかし市場原理主義は政府を手下に使って金のためには何でもやる、それを阻止するものは水爆も使っていいという極端な危険思想であるとみています。ナイト氏が弟子であるフリードマンを破門した形になったのは当然だと考えました。

著者稲葉剛氏は、1969年生まれ、東京大学教養学部を卒業し、1994年より新宿において路上生活者支援の活動に取り組む。2001年「反貧困ネットワーク」の湯浅誠氏らとNPO法人自立生活サポートセンター「もやい」(舫 もやいとは船をつなぎとめる綱のこと 生活困窮者を社会につなぎとめるという趣旨か)を設立しその理事長を務める。また生活保護問題対策全国会議幹事、住まいの貧困に取り組むネットワーク世話人である。著書には「ワーキングプア」、「貧困待ったなし」などがある。生活保護制度の本当の狙いとは、人間の「生」を無条件で保障し、肯定するということであると稲葉氏はいう。ここでいう「生」とは衣食住だけの最低限の生存が維持できているだけでなく、憲法でも保障された「健康で文化的な生活」つまり人間らしく生きることを意味する。ところが差別好きな人は「生」を支える生活保護をパッシングします。これは自分より弱い人をいじめることで、自分の弱い立場の憂さを晴らすようなヘイト「憎悪表現」に過ぎません。自分自身が人間らしく生きることを肯定できないか、努力していない人です。この人がもし困窮したら、過去の自己責任的な言動によって自分自身を縛り、苦しむことになるでしょう。弱い者同士が憎みあうことで権力者は自分に憎しみが向かうことを防ぐものです。矛盾が反乱に発展することを避ける操作術です。すでに段階的な生活保護基準の引き下げによって、社会保障制度の最後の砦であるこの制度が重大な岐路に直面しています。不正受給の報道やパッシングのなか、アメリカ社会を模してこの制度を崩そうとする政権の意図が露骨に見え隠れしています。2012年12月7日、東京都目黒区総合庁舎において「受付窓口での不当な要求や暴力に対応する訓練」と称して、「生活保護申請に来た訪問者の要件が該当しなかったため職員が受理を拒んだところ、刃物を振りかざして暴れた」という想定で120人の職員が訓練に参加しました。この訓練に対してホームレス総合相談ネットワークは目黒区長と福祉事務所に宛てた意見書を提出し抗議しました。この訓練には2つの過ちと偏見があります。一つは福祉事務所の窓口には申請の受理を拒む権限はありません。審査委員会が却下決定をします。2つは生活保護申請者を暴力行為に及びやすい危険人物と想定して、訓練を報道機関を通じて社会に公表することは、重大な差別、誤解、偏見に基づいています。生活保護申請者は暴力団員ではありません。12月26日目黒区長は謝罪の回答をし「生活保護制度について職員に周知徹底する」と表明しました。福祉事務所に生活保護について相談に来る人を犯罪予備軍の目で見ることが行政関係者の中で広がっていることに懸念を覚えると稲葉剛氏は問題視します。同じことですが、2012年3月厚生労働省は、退職した警察官OBを福祉事務所に配備し不正受給者対策の徹底を図ることを各地方自治体に要請しました。2009年には大阪市豊中市で警察官OBが生活保護利用者を「虫けら」という暴言を吐く事件が発生し、大阪弁護士会が再発防止の勧告を出しました。生活保護利用者に対する人権無視の姿勢が如実に表れています。2012年6月芸能人の親族が生活保護を利用していることをきっかけに生活保護の制度や利用者に対してパッシング報道が吹き荒れました。この「事件」には報道側に誤りがあります。親族に扶養義務があるかのような報道は、憲法では個人の問題として扱われているので、戦前の民法のような感覚で子供が親を養うのは当然ということにはなりません。逆にいえば親は成人した子供の借金を支払う義務もありません。報道は裁判所のように断罪を下して社会的制裁を加えますが、これはメディアの横暴というものです。こうした生活保護に対するマイナスイメージ(実はある手を打つために厚生官僚が意図して流したリーク情報に基づいた世論誘導にすぎないのですが)に便乗する形で、安倍政権は生活保護制度の見直しを企てています。2013年8月からは段階的な生活保護の基準の引き下げが始まり、秋には生活保護法改正案が上程されます。こういった生活保護抑制政策に棹をさすために本書を書いたと稲葉剛氏はいいます。生活保護制度の抑制はすなわち福祉制度全体の経費節減策の一環です。さらに労働環境の悪化に加えて社会福祉のセーフティネットの悪化により、大量の貧困層が生み出されます。貧困層の底を抜くようなことでさらに低賃金労働が加速されます。日本社会全体の貧困化がアメリカのように待ったなしで襲い掛かるでしょう。小さな漏れが堤防を崩します。決して許してはならないという意図で本書は書かれました。

(つづく)

読書ノート 稲葉剛著 「生活保護から考える」 岩波新書(2013年11月)

2015年01月30日 | 書評
最後の砦である生活保護の基準引き下げは、社会保障制度崩壊の始まり 第3回

序(3)

朝日新聞特別報道チームは朝日新聞特別報道チーム著 「偽装請負ー格差社会の労働現場」(朝日新書 2007年5月)の中で次のように言う。「派遣」はいわば事務業務を中心に発展してきたが、1999年からは製造業務も自由化されたので、「偽装請負」は必要ないような気がするが、ところが「偽装請負」には事業者側のメリットが大きい。なぜなら「派遣」の契約奇観は三年が限度で、それ以上使用したかったら正社員で雇用しなければならない。製造業では技術の蓄積が必要なため、頻繁に労働者を変えるわけにはゆかない。そこで生み出されたのが製造企業の労働者派遣法違法の「偽装請負」である。本書はニコン熊谷製作所に請け負いで働いていた若者のショッキングな首吊り自殺ではじまる。1990年代後半の製造業はどん底であった。安い賃金を求めて部品製造企業は海外へ生産拠点を移し、「産業の空洞化」が進行した時代であった。その結果日本に残った製造企業はハイテク産業であった。中でもキャノン、松下電器、シャープ、日立などのデジタル家電メーカは薄型テレビやデジカメなど最先端商品の国内生産の継続を決断した。2004年の改正労働者派遣法までは、製造業は派遣が許されていなかったことにより、安い労働力をもとめて「偽装請負」が生まれたのである。「偽装請負」という雇用形態は「派遣労働者」という雇用形態と相補的に絡んでいる。請負という安価な外部労働力を大量に使うことは、経営戦術としては経済合理性があるかもしれないが、年収が200-300万円しかない低所得請負労働者が100万人以上存在することは社会の公正さから許されない格差問題を引き起こすのである。05年からエコノミストは個人消費が著しく上昇すると予測していたが、消費は回復傾向を示していない。つまり企業は儲けたが、個人は潤っていないのである。ではどうしたらマクロ経済は正常になるのだろうか。偽装請負は犯罪であることを社会が認識して摘発を強めることである。請負など外部労働力の多用は中長期的には害になる。従業員の忠誠心とモラル・士気がなくなり、品質の低下と技術の途絶、企業イメージの悪化、労働現場の安全性の低下などが挙げられる。そこで正社員化を企業に促してゆかねばならない。請負労働者も政府の研修援助制度を利用してスキルアップを図り、専門性を持った技術者になることが大切である。

門倉貴史氏は門倉貴史著 「派遣の実態」(宝島社新書 2007年8月)において次のように言う。2000年を過ぎてから企業の売上高は増加しているのに、売上高に占める人件費の割合は低下の傾向にある。14%を最高にして2007年では12%にまで低下した。必要な人材を正社員よりはるかに安い費用で提供する人材派遣を積極的に利用しているからである。1999年(100万人)より人材派遣社員数は急速に拡大し2005年には255万人になった。雇用者数に占める非正規社員の割合は33%である。派遣社員は安い賃金と不安定な雇用という厳しい労働環境のなかで、将来の生活の不安を抱いている。派遣会社の業態には三つある。「一般労働者派遣事業」193万人、「特定労働者派遣事業」15.6万人、「紹介予定派遣」3.2万人(2005年)である。派遣社員の賃金は平均一日1万円、スキルのある人で1万5千円である。年収はおおむね250-350万円。ボーナスはない。参考までに派遣会社正社員の年俸は400-500万円程度。派遣会社は社員の給料の26-30%をマージンとして取るのである。

堤未果氏は堤未果 著 「貧困大国アメリカ」(岩波新書 2008年1月)においてつぎのように言う。貧困層は最貧困層へ、中流社会は急速に崩れて貧困層へ転落してゆく。極度のアメリカ式格差社会の進行は決して人事ではありません。このアメリカの現実を、「追いやられる人々」の目線で見る事は日本の将来の選択につながります。弱者切捨て、社会保障費削減はセイフティネットを破壊し、さらに新しい弱者層を拡大しています。サブプライムローン問題はその弱者層を食い物にして梃子原理を利かせて儲けてゆくグローバル金融資本の姿を如実に示しています。2001年9.11以降アメリカは豹変した。実はすべてを変えたのはテロではなく、「テロとの戦い」という美名の下で一気に押し進められた「新自由主義的政策」のほうであったという。瞬く間に国民の個人情報は政府に握られ、命や安全、暮らしに関る政府機能は民営化され、社会保障費は削減されて膨大な貧困層が生み出された。テロとの戦いを利用した金融グローバル資本の政府占拠であった。暴走型市場原理システムが弱い者の生存権を奪い貧困化させ追い詰めて金融商品で儲けるという潮流である。「教育」、「命」、「暮らし」という国民の責任を負うべき政府が、「民営化」によって民間企業に国民を売り飛ばして市場原理で貧困化させるという構図は、はたして国家といえるのか。「暮らしー格差貧困・災害対策の民営化」、「命-医療・健康保険の民営化」、「若者ー教育の民営化」、「戦争の民営化」という「民営化による生活の破壊のすさまじさ」の切り口でアメリカの貧困が語られる。

白波瀬佐和子氏は白波瀬佐和子著 「生き方の不平等」(岩波新書 2010年5月)において次のように言う。今の日本で実際に選択できる「生き方」には、収入、ジェンダー、年齢によって著しい不平等があるのではないかという疑問から本書は出発する。子供、若者、女性、高齢者というライフステージごとに貧困の実態と原因は異なる。つまり弱者に端的に現れる不平等を解析してマクロな社会的不平等と、個人の生き方というミクロな側面を統合して考察することを本書が試みた。不平等や格差はマクロな視点である。不平等や格差は画一ではなく、さまざまな人生を送ってきた人々にさまざまな現実がが直面し、色々な現れ方でひとびとを苦しめることであり、社会の中での人の生き方を考えるうえで。マクロとミクロな視点の関連を交差させるのが本書の特徴となっている。教科書的に裁断するのではなく、生きる人の視点から問題をとらえてゆくのである。自己責任論は、最初の出発点は同じだったはずで、結果的に差が出るのはもちろん運もあるが個人の努力が反映していると見る。これは負けた者をどうしようもなく落ち込ませ再起不能にさせる論理である。これまで生きてきた節目の選択は必ずしも積極的であったとは言えず、時には不条理な選択もあったはずだ。それを「生き方の不平等」という。大きく捉えると、環境とか階層性が働いていることが従来より指摘されている。そして人生にはたまたまの要素もある。就職氷河期に出くわした若者が非正規労働者になるとそこから這い出すことはかなり困難で、一生非正規労働者のままでいる確率は高い。高度経済成長期に出くわした団塊の世代が人生を謳歌するのもたまたまの偶然とすれば、平成不況期に非正規労働者になったのもたまたまの偶然ではないか。けっしてその人の努力が足りないとか、性格とか心理のせいだとは言い切れない。しかし心理が歪めば秋葉原殺傷事件となるのである。 格差の本質は貧困にある。格差は若者・子供までに及んでいる。20世紀末の平成不況時代には、就職氷河期といわれ、若者の世代にロストジェネレーションが生まれた。そしてそれは正規労働者のリストラとなって全体に及んだ。格差・不平等・貧困は許されるべきことではない状況の程度が強まっている。

(つづく)

読書ノート 稲葉剛著 「生活保護から考える」 岩波新書(2013年11月)

2015年01月29日 | 書評
最後の砦である生活保護の基準引き下げは、社会保障制度崩壊の始まり 第2回

序(2)

中西正司・上野千鶴子氏は中西正司・上野千鶴子著 「当事者主権」(岩波新書 2003年10月)において障害者自立支援事業における当事者主権を理論化して次のように言う。障害者、女性、高齢者、患者、不登校児童、引きこもり、精神障害者など、社会的問題点を抱えさせられた少数の集団(マイノリティー)に生活自立運動や解放運動が1970年代から始まり、1980年代に運動の大きな盛り上がりがあって、1990年代に社会的制度や国の支援体制が整ってきた。これまで障害者や高齢者の生活自立支援事業とは国や市町村の温情的庇護主義的サービス(パターナリズム)と見られてきた。あくまでサービスの受給者は受け身で、官が良かれと思うことをやるという不備だらけのサービスのことであった。その考えを根底から覆したのが「当事者主権」と言う考え(パラダイム転換)である。当事者とは私の現在をこうあってほしい状態に対する不足ととらえて、そうでは新しい現実を作り出す構想力を持ったときに始めて自分のニーズとは何かがわかり、人は当事者になる。当事者主権はなによりも人格の尊厳に基づいている。誰からも侵されない自己統治権即ち自己決定権をさす。「私のこの権利は誰にも譲ることはできないし、誰からも侵されないとする立場が当事者主権である」と定義されるのである。社会的弱者といわれる人は「私のことは私が決める」という基本的人権を奪われてきた。2000年より施行された介護保険は「恩恵から権利へ」、「措置から契約へ」と大きく福祉パラダイムが変化した。当事者主権はサービスという資源をめぐって受け手と送り手の新しい相互関係を築くものである。
橋本治氏は橋本治著 「乱世を生きる-市場原理は嘘かもしれない」(集英社新書 2005年11月)において次の様に言う。今はやりの言葉に「勝ち組」、「負け組」がある。芸能界では品の無いタレントを「セレブ」と呼んで面白がっている。ずいぶん馬鹿にした言葉だと思っていたが、こんな風に言うことが、昭和末期のバブル崩壊後の、平成1990年代の社会の混迷を覆い隠すことにほかならない。飽和した産業の投資先を失い、危険な金融資本主義に狂乱する日本社会の支配者が、貧困に追い込まれた国民を無能者呼ばわりして文句を言わせない風潮を作ることが目的のキャッチコピーである。 橋本氏は「今の日本の社会のありかたはおかしい」という。これが「負け組」のひがみでなく、経済的貧富の差を固定化する方向がおかしいというのである。「不必要な富を望まない選択肢だってある」というような痩せ我慢を主張するようでもあり、氏の論旨の持って行き方は大変面白いのだが、「負け組の言うことは聞かないという日本社会の方向がめちゃくちゃだ」ということが氏の入り口になっている。とにかく現在の世界を動かしているのは投資家だということは事実のようだ。別に現在だけでなく昔から投資家はいた。1980年代に日本の生産力は世界一になって、輸出先と投資先は飽和しもう何処へ投資していいか分らなくなったのだ。アメリカの要請もあって、日本は内需を喚起すべくリゾート法などを作って土地価格の上昇は無限だという神話に埋没した。もう完全にあの時は狐がついていたのだ。狂ったように土地に投資した銀行・不動産などは昭和の終わりと同時にはじけた。これをバブル崩壊という。時を同じくして東欧・ソ連邦の社会主義国が崩壊し冷戦は終わった。アメリカの軍需産業は縮小統合の時代になって経済の氷河期に落ち込んだ。アメリカは日本の生産力と冷戦というダブルパンチによって死に体から必死の脱出策を講じた。それが金融資本主義(投機資本主義)によって、世界(ロシア、東南アジアと日本・韓国など)から資本蓄積を略奪する方向へ向かい、各国へ破壊ビジネス(ヘッジファンドM&Aや規制緩和)を仕掛けていったというのだ。

中野麻美氏は中野麻美著 「労働ダンピングー雇用の多様化の果てに」(岩波新書 2006年10月)において次のように言う。時間給賃金が1996年から2001年には250円強もダウンしさらに下落し続けている。更に正社員も成果主義処遇によって二極化した。このように労働現場を厳しく変えたのは、1986年に労働法制が再編され機会均等法と労働者派遣法が制定され労働基準法が大幅な規制緩和にあったためである。低賃金化・細切れ雇用がすすむ非正規雇用はいまや究極の商品化とも言うべき「日雇い派遣」を生み出すに至った。この低賃金労働は正規雇用を追い詰める。「正規常用代替」は正規雇用の烈しい値崩れをもたらした。雇用者が正規雇用であることに特別の意義を見なくなった結果である。規制緩和政策は経済を回復基調に導いたかの様にみえるが、一方で激しい二極化と貧困化を進めた。労働者を犠牲にして企業の人件費削減策が成功したのである。労働者の人権と生活を奪って、いやなら外人を雇うよと脅しをかけているようだ。正規労働者と非正規労働者(女性が多い)と外人労働者の三者を競争させて人件費コスト低減するのである。「分割して支配せよ」とは植民地主義の原則であったが、いまや労働界は分断されて抑圧されている規制緩和が労働者の選択権(自己決定権)というイデオロギーを伴って導入されたことは、取り返しのつかない被害を社会に与えた。つまり「自己決定」というポジティブな像をもって人を欺き、格差を認めさせ、生み出される矛盾を働き手の「自己責任」にすり替えるという米国流自由の論理は労働法をないがしろにし差別を固定化するものであり、不公正社会をもたらし人から活力と再生可能な労働を奪うものである。労働は自立した人生を創り上げる人権そのものなのだ。その人権を奪うことは資本が人々を奴隷化することである。許されるものではない。政府こそが労働活動の適正な配分を保証し差別を抑制する機能を果たすべきで、小さな政府と言う規制緩和は健全な社会を守る任務放棄になる。

(つづく)

読書ノート 稲葉剛著 「生活保護から考える」 岩波新書(2013年11月)

2015年01月28日 | 書評
最後の砦である生活保護の基準引き下げは、社会保障制度崩壊の始まり 第1回

序(1)
正直言って、私は生の「貧困」問題を直視してこなかったようだ。ある意味では偏見と無知に陥っていた観が無きにしも非ずというところである。貧困問題は大きくとらえると、経済問題、派遣労働問題、アメリカ型新自由主義、格差社会、教育格差などの観点でしか見てこなかったようだ。社会福祉政策のなかに、憲法25条で保障された「健康で文化的な生活を営む権利」に基づいた生活保護、最低賃金制、障害者福祉、年金、健康保険、失業保険、高齢者介護などの制度がある。そういう観点で読んできた著書を時系列にリストする。
① 中西正司・上野千鶴子著 「当事者主権」(岩波新書 2003年10月)
② 橋本治著 「乱世を生きる-市場原理は嘘かもしれない」(集英社新書 2005年11月)
③ 中野麻美著 「労働ダンピングー雇用の多様化の果てに」(岩波新書 2006年10月)
④ 朝日新聞特別報道チーム著 「偽装請負ー格差社会の労働現場」(朝日新書 2007年5月)
⑤ 門倉貴史著 「派遣の実態」(宝島社新書 2007年8月)
⑥ 堤未果 著 「貧困大国アメリカ」(岩波新書 2008年1月)
⑦ 白波瀬佐和子著 「生き方の不平等」(岩波新書 2010年5月)
⑧ 服部茂幸 著 「新自由主義の帰結」(岩波新書 2013年5月)
⑨ 堤未果著 「(株)貧困大国アメリカ」(岩波新書 2013年6月 )
⑩ 宇沢弘文著 「経済学は人々を幸福にできるか」 (東洋経済新報社 2013年11月 )
つぎに、各々の書の概要を示してから、本書に入ろう。

(つづく)

読書ノート むのたけじ著 「99歳一日一言」 岩波新書

2015年01月27日 | 書評
99歳のジャーナリストによる示唆に富む知恵のことば 第13回 最終回

12月
「自分で納得して死のう、それまでは精一杯とことんまで生きる」で始まる死ぬべき人間の定めをテーマにした章である。
「生命は死ぬから生きることが大事だ、あの世へゆくのも産声もめでたいことだ、9万回も食事をさせていただいてただ感謝だ」
「老いを悔やまないために学べることは存分に学べ、言いたいことは全部言え、おいコラ人生やり残すな、やりとげろ」
「老いるにつれ、咲く花がいとおしい」
「高齢者という言い方は侮辱である、青少年は低齢者か、歴代政府の「侮老」の高齢者政策はみんな落第だ」
「疲れたら、おびえたら思い切り声を出せ、1回きりの自分の死を大切にしようよ」
「人間60歳でやるべきことはほぼ経験し終える。そこからが人間そのものの本番の人生が始まる、50,60歳は鼻垂れ小僧、そこから自分の流儀で人生を味わうのだ」
「朝体が目覚め、心が目覚めることは生きているいのちの証だ」
「死ぬことは嬉しくはないが、悲しくもない、自分の死に自分で備える、生きていることの証」
「一生の最後の言葉は、ありがとうございました」

(完)