ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 大野晋著 「源氏物語」 岩波現代文庫

2014年08月31日 | 書評
「紫式部日記」から「源氏物語」を読み解く 第13回

5) 紫式部の生活 「紫式部日記」 (その2)

 同じ藤原の姓を受け継ぐ家でも政治権力の集中があり、一度大臣職を外れた家系には権力は2度と戻ってこない。藤原北家の冬嗣の系統で権力を持ったのは基経ー忠平ー師輔ー兼家ー道隆ー道長ー順道の系統であった。従って藤原の家庭においては兄弟の争いうは実にシビア―で「兄弟は他人の始まり」という言葉の通りであった。兄弟間でも権武術数、讒言、閨閥関係などを駆使して初めて政治権力の頂点に立てるのである。藤原家の中での権力争い(天皇に自分の娘を皇后に入れることで、もし皇子を産んでその皇子が天皇になったら外戚として人事権を握ること)を政治と言ったが、昔の自民党の派閥争いを政局と言った事に通じる。紫式部の父は為時であるが、3代前には良門の子として大臣になった高藤以来権力筋からすっかり外れていた。高藤の娘胤子は宇多天皇の子醍醐天皇を生んだ。その醍醐天皇は基経の娘穏子を皇后として、権力は師輔の家に移った。原則として天皇に皇后を入れた家系が権力を独占できる。政治とは閨閥関係である。天皇の後宮に多くの娘を入れて、確率的に皇子を生むことに期待することである。それが政治戦略である。政治権力を握れば自分の都合のよいように人事権を操作して、日本中の富を独占することが可能であった。天皇はほとんど幼少で成人する前に退位させる子とができるし、天皇の女の好みはほとんど無視できたので極端な話どんなブスでも後宮に入れることができた。後宮の女の人事権も握っている。なぜそんなバカげたことができたかというと、日本は島国で当時の技術と物資では外国の軍勢が攻めてこれなかったからである。幕末に「太平の眠りを覚ます蒸気船、たった3舶で夜も眠れず」というように、外敵が来たら日本の国制は短時間で崩壊したのである。政治とは天皇の女のことであるので、後宮に入れる女に様々な教育を施さなければならない。だから女房という名の教育係が必要であった。宮廷は日本の学問、宗教、工芸技術、文化、芸術をも独占していた。当時女の教育機関は存在しなかったので大臣家では女の家庭教師集団を雇って、専門分野ごと(和歌、習字、漢籍など)に子女に教育を授けた。これがいわゆる局サロンである。紫式部が中宮彰子のもとに出仕したのは1006年12月のことであった。彼女は学問の才媛として有名であったので最初から上臈女房として厚遇された。当時の最高権力者である道長の懇請に応じて紫式部が出仕することは、地方官吏である父為時や弟惟規にとっても何かと好都合だという考えもあったことだろう。しかし女房はさまざまな接点があって男性社会にでて行動しなければならないので、自分の学才を発揮できる晴れがましい場所であり、かつ誤って男女関係が生じやすい環境でもあった。初めて宮廷に出た時の歌が紫式部集にある。「身のうさは心のうちにしたい来ていま九重ぞ思い乱るる」 池田亀鑑・秋山虔校注 「紫式部日記」 岩波文庫に従って「紫式部日記」を読んでゆこう。「紫式部日記」の2/3ほどを占める日録(日記)は分かりやすいのだが、断片、感想(この様な分類は日記にはなく、大野氏の命名である)の1/3の後半部分は注釈なしでは理解できないほど難解である。私が最初読んだときその意味は不可解であったが、いま大野氏によってはじめて理解の端緒を与えられた。つまり源氏物語の主題と密接に絡んだメモであることがわかった。物語では言い足りなかったことの本質に迫る気持ちを残しておきたかった紫式部が理解できた気がした。寛弘5年4月13日中宮彰子はお産の為に里帰り、土御門邸に入る。日録は8月中旬から始まり、翌年正月1日で終わる。そのあと「消息文」という同輩の女房の容姿に対する品評、女房集団の個性、同時代の文筆者への批評、自分の学問への反省、仏門のことが述べられる。これを大野氏は「感想」と分類し、それに日付不明を含めて7日分の補遺(断片的メモ)が挿入されて終わりになる。大野氏はこれを「断片」と呼ぶ。つまり「紫式部日記」は①日録の部、②感想の部、③断片とからなる構成であるという。まず「断片」から見てゆこう。

(つづく)

読書ノート 大野晋著 「源氏物語」 岩波現代文庫

2014年08月30日 | 書評
「紫式部日記」より「源氏物語」を読み解く 第12回

5) 紫式部の生活 「紫式部日記」(その1)

 大野氏はこの源氏物語を書いた紫式部の作者論(評伝)を、「紫式部集」、「紫式部日記」を唯一の文献として考えてゆく。そこに同時代の道長の栄華をつづった「栄花物語」(後にできた栄花物語は同じく女性の手になるといわれ、紫式部日記を参照している部分が多い。一説では赤染衛門が栄花物語の作者と言われるが、紫式部は日記で、赤染衛門を歌は下手だし上品ぶって分かったような様子をする人と酷評している)をも参考にしてゆくという方法論を取る。本書では5) 紫式部の生活の章は2) 第1部 b系の物語の章と3) 第2部 c系の物語の章の間においてあった。それは大野氏が紫式部の精神的転回点がこの時期にあると判断して置いたものであろう。紫式部のライフワークであった長編源氏物語は一筋縄ではない、作者の成熟の記録を反映していると考えたからだ。物語を虚とすれば作者の生活は実であるが、虚実入り混じった転回が源氏物語ということになる。源氏物語についての大野氏の見解は本文中のあちこちにちりばめられているが、そう考えるに至った根拠がこの章で示されるのである。むろんエンゲルスの下部構造論ではないが、生活(実)が思考(虚)を支配するわけではない。物語には物語の展開する論理がある。だから虚実入り混じるのである。そこで本解説では実の部分である本章は物語りを全部解説し終えてから示すことにした。その方がすっきりした理解につながると判断した。紫式部の生活の一部は、夫であった宣孝とのやり取りを「紫式部集」という歌集に見ることができる。996年紫式部の父藤原為時は越前の国守として赴任し、縁遠かった紫式部(28歳ぐらい)は父に従って下向した。その時に手紙を送ってきたのが、藤原宣孝であった。宣孝は式部と遠い従兄の関係であった。その宣孝には3人の妻がいて、45歳を超えて中年から老年に差しかかった男であった。式部とは親子ほど年が離れていた。その家筋も5位どまりの地方官に過ぎなかった。枕草子に宣孝の記事があり派手好みの男と評された。ふたりの間に賢子という女の子が生まれたが、結婚後3年目に夫は1001年疫病で死んだ。30歳を過ぎて紫式部は未亡人となり、小さい時からの文才を生かして「源氏物語」に取り組んだという。995年関白藤原道隆(兼家の長男、道長は4男)がなくなった。権力の座が道隆の長男伊周に行きかけたとき、道長は謀略で伊周を左遷し、自身は左大臣に進んだ。そして996年道長の娘彰子を一条天皇の女御として後宮にいれ(道隆の娘定子が皇后であった。枕草子の清少納言はそのサロンにいた。そういう意味で紫式部と清少納言はライバルの関係にあった)、翌年中宮に昇格させ、定子皇后に張り合う教養を身につけさせるため紫式部を彰子付きの女房とし大臣家土御門邸にいれた。時の貴族階級の生活を収入面から基礎づけると、3位以上の殿上人の収入は、位田(町数)と位封(戸数)でかなりの差があった。例えば大臣家の正一位では位田80町、位封300戸、さらの墾田の私有地500町が認められた。次に官職による給与は太政大臣で職封3000戸、職田40町となり、大臣の年収は今日の貨幣価値では数億円になるという。だから女房たちの関心の的は4位以上で、3位以上の男には強いあこがれと恐れをいだいていたという。出世コースは始位から進むときは5位どまりで、大臣家の息子たちは最初から5位でスタートする。地方官国司の人はさらにいい位置を求めて大臣家に多額の贈り物をする。道長の日記「御堂関白記」に讃岐守が1200石も米を贈ったという記事がある。現金に直せば約1億円に当たる。官吏任用は春秋の2回行われ、地方官は春、中央官は秋である。これを「除目」という。地方国守にも大国、上国、中国、下国の差があり、大国とは大和、河内、伊勢、武蔵、上総、下総、常陸、近江、上野、陸奥、越前、播磨、肥後のことであった。より田収入の多い大国の国守に任命されることを目指して、5位の人々は懸命の運動をするのである。このことは枕草子にも、その除目の悲哀を描いている。

(つづく)

読書ノート 大野晋著 「源氏物語」 岩波現代文庫

2014年08月29日 | 書評
紫式部日記」から「源氏物語」を読み解く 第11回

4) 第3部 d系の物語(宇治10帖) (その2)

 では宇治十帖の主題は何だろう。光源氏という輝ける人物を失ったいわば光のない世界(仏教でいう末世思想)のことである。だから登場する人物も宮廷の栄華からはずれた二流の人物だけで、第1級の人物は存在しない。上昇志向の全く欠けた世界である。41)匂宮の巻の冒頭で、「天の下の人、院を恋ひきこえぬなく、とにかく世はただ火を消ちたるように」という。舞台は都の周辺である、宇治、常陸、叡山の横川、洛北の叡山の麓の小野である。薫は光源氏が生きていたころは37)横笛で「清ら」と形容されたが、宇治10帖では、偉大な後見人を失って「清げ」と呼ばれる境遇に落ちている。匂宮だけは「清ら」の待遇である。二人は親友となっているが、皇室と臣下の待遇は歴然としている。哀れの漂う第二級の人物と第二級の鄙びた場所で物語は展開される。宇治に隠棲した八の宮は世捨て人の皇子であった。生活はボロボロでも位だけは高い貴族である。八の宮の娘に大君と中の君がいたが第二級の姫君である。薫という人物は、源氏は晩年に愛情もないままに皇女三の宮の降嫁を承けざるを得なかったが、柏木がこの三の宮に横恋慕して密通して生まれた子が薫であった。光源氏は自分の子として通したが、薫が成人して自分の出生の秘密を知った。過失で生まれた子の薫は内面的になり激しい恋から身を遠ざける青年となった。薫は女性に対していつもひるむ心を持ち、踏み込む勇気を持てなかった。過ぎ去った恋に執着し追憶の中で生きているような男であった。ただ女の生活の面倒見のいい、まめな(誠意のある)人と扱われている。薫の友人匂宮は薫とは対照的な性格を与えられた。匂宮はいい女と見ると言い寄らずにはいられない、「例の御癖だから」と中の君に揶揄されている。しかし女に対しては優雅な「清ら」な人であるという面もあった。陰と陽の対照として馨と匂宮は存在した。浮舟は大君と中の君と同じ八の宮の娘であるが、劣り腹(身分の低い女)の娘で母が再婚した時連れられて常陸で育てられた。従って浮舟は八の宮、大君、中の君より一段身分の低い女であった。宇治十帖の主要人物は、大君、中の君、浮舟、薫と匂宮の五人である。薫が近づく女に匂宮は対抗馬としてことごとく介入してくるのである。薫と匂宮は別人ではなく、ジキルとハイドの同一人物かもしれない。薫は仏道を学ぶために宇治の八の宮を訪うのであるが、そこで見初めた大君に心を寄せる。薫の重ねての求婚にも関わらず大君は応じないで病で死ぬ。大君は薫を拒否したわけでなく、事実一夜を共に過ごすという線まで来ているのだが、宇治を離れるなという父の遺訓、娘としての恥じらい、心配、恐怖、劣等感による苦しみという障壁を乗り越えることができなかった。要するに薫の押しが足りなかったのである。薫は八の宮の遺児(娘2人)の生活の面倒を見ているし、主観的には大君の気持ちは薫と結婚しているのと同然であったに違いない。薫は中の君と匂宮の仲を仲介したが、匂宮の派手な悪い噂を恐れた皇室は夕霧の六の宮と匂宮の結婚を急いだ。明石の中宮は宇治での匂宮の夜遊びを止めさせるために、中の君を都の屋敷にすえることを提案した。大君は匂宮と六の君との結婚に許しがたい男の背信を感じて、絶望によって死んだ。(当時は仏教によって自殺は禁じられていたので、自殺という言葉は使えない。狂い死にとか病で死ぬということになる) 49)宿木の末尾になって浮舟が登場する。浮舟は母の身分が低いことと常陸の国で育ったことで、宮廷社会では全く相手にされない劣等の身分である。母親と一緒に常陸の国より中の君をたよって宇治に出てきた浮舟は、ここで薫と出会う。薫は大君とうり二つと言われるほど酷似した浮舟を宇治の別荘に据える。そこへ匂宮が襲うのである。匂宮は浮舟をさらって、宇治川の対岸の小屋につれてゆき二日間下着だけをつけてひたすらに戯れたのである。薫にはなかった女へのひたむきな情熱を感じて浮舟は女としての喜びを知り、かつ馨との関係に悩むのである。薫はすぐに二人の関係を知り都につれてゆき囲うことを考える。浮舟の取り巻き女房らはどちらかに決めるように浮舟に迫る。そして浮舟は宇治川への入水へと追いつめられたのであろう。こうした50)東屋、51)浮舟、52)蜻蛉の3巻は実に緊迫した展開で緊密な描写力は経験を積んだ紫式部の熟練した手を感じさせられる。浮舟の心理描写は全源氏物語の中で白眉である。物語としては52)蜻蛉で急転直下顛末を迎えてもよかったのだが、53)手習いで浮舟の発見から始まる。そして横川の僧都が浮舟を尼の君が住む小野の里につれてゆく。ここで浮舟は悔悟と反省の生活に入り、仏門に入ることを願うようになる。「匂宮を少しでもよい方だと思った自分がけしからぬ。薫を最初は心の薄い人だと思ったが、心が長い人だった」と思うのである。薫のまじめな男と浮舟を女にした匂宮の行動を対比させ、どちらも同時に願うことの不可能性を浮舟に悟らせる。だから浮舟という女性は死ぬしかなかったという結論へ導く。54)夢浮橋の末尾で浮舟が剃髪したことを知った薫はなお、浮舟を疑っているという変な落ちが用意されている。「男と女の溝は淵より深い」で終わる。

(つづく)

読書ノート 大野晋著 「源氏物語」 岩波現代文庫

2014年08月28日 | 書評
「紫式部日記」から「源氏物語」を読み解く 第10回

4) 第3部 d系の物語(宇治10帖)(その1)
 d系の物語は光源氏が世を去ったのちの物語である。いわゆる「宇治十帖」にあたるが、その前に42)匂宮、43)紅梅、44)竹河の三巻があって、匂宮と薫の生い立ち、性格を紹介している。そのため13巻がd系の物語であるはずだが、その三巻に偽作説もあるほどで、現在の源氏物語学説の頭の痛いところである。またその宇治十帖に対しても別人の作かという疑いがかけられている。それはa,b,c系の作品の文章の長さに比べて、宇治十帖はセンテンスが長いのである。また語彙の面でも、形容動詞語幹「あたらしげ」、「いろめかしげ」、「かけかけしげ」など「・・・ゲ」型の単語が極めて多く使われている。源氏物語の訳者で小説家円地文子氏も宇治十帖の表現が異なっているという風に言っていることから、別人作説がとなえられてきた。しかし「助詞の歴史的研究」で有名な石垣謙二氏は「助詞ガ」の用法から見ると宇治十帖には特別な相違は見当たらないとされる。大野氏は源氏物語はa,b,c,d系の四部分からなる制作と考え、特にd系はc系よりかなり年月が経ってから作られたという説を取っている。むしろ作品の内容(主題)がいかに一貫性をもって追究され深化しているかを見てゆこうという。25)蛍の巻に「物語論」としてよく知られた1節があり、物語に夢中だった玉鬘に対して光源氏の口から物語論を語らしめた。これは紫式部が物語にかける意気込みを語った言葉であると理解されている。「日本書紀には実は人生のことはほとんど書いてないけれど、物語はそのまま書くことはできないにしろ物語の方にこそ人生の真実や詳しいことが書いてあるでしょう。物語は自分ひとりの胸のうちにしまっておけないことを書き綴ったものです。」という。作者が心を尽くすのは、取り上げる主題であり、作品の筋書き、そしてその表現である。まず宇治十帖の表現(言葉遣い)から検討しよう。「宮 なおかのほのかなりし夕べをおぼし忘るる世なし」の、夕べの出来事の「ほのかな」記憶のことである。薫の庇護のもとにある宇治の浮舟の家に、薫の匂いを身につけた匂宮が浮舟の部屋に忍び込み、長時間浮舟を押さえつけている(抱いている)ことに驚いた女房が匂宮を制止する場面である。このショッキングな強引な男の行動をどうして「ほのか」と表現するのだろう。「ほのか」とは「かすか」にしか見えないことをもっとしっかり見たい時に使う。「ほのかなれど、さだかに」においては「ちらっと見ただけだが、はっきりと分かる」という意味でつかわれる。紫式部はここで「かすかにみる」という意味を超えて、「ちらっと見る」、「もっと詳しく知りたい気持ち」の意味を込めた表現とした。こうした細やかな心遣いを重ねてゆく源氏物語の表現は、大きな意味の発展になってゆく。「清ら」と「清げ」という言葉では、「清ら」とは華麗、美しさを言う言葉であるが、第一級の人物に対して使われるが、「清げ」は地位の低い者や二流扱いされる人物に使うという区別がある。見たところきれいというぐらいで、本当の「清ら」ではないという意味である。またそれは相対的に使われ、帝に対する匂宮は「清げ」と言い、帝は「清ら」という。また低い身分の下働きの人が主人を見るときは「清ら」を使う。宇治十帖では、八の宮も薫も「清げ」で遇されている。零落した宮家の八の宮は第二級の人物と解され、浮舟からすると皇子の匂宮は「清ら」であり、臣下の薫は「清げ」とあらわされる。この一流と二流の単語の使い分けは、「ゆゑあり」と「よしあり」にも見られる。「ゆゑ」も「よし」も、奥ゆかしい、おもむき、風情、みやび、風流のたしなみという意味である。「ゆゑあり」が使われた人物とは、桐壺帝、光源氏、朱雀帝、紫の上だけである。第一級の人物だけに使われる言葉である。血筋や古い由緒を大事にする言葉なのである。作者紫式部は五位の階層の出身である(藤原の支流)ので、動かしがたい制約があった。いったい女性の幸福とはどういう風に認識されていたのだろう。現代語に「さいわい」とか「さち」という言葉があるが、平安時代には「さち」という言葉は使われていない。「さいはひ」という古語がある。浮舟では「のどかなる人こそさいはいは見果て給ふなれ」とある。源氏物語において幸運とは、第二流の女が天皇や大臣の男に見初められ「すゑ」られることであった。正妻だろうが第何番目の妻だろうが、男の家に入れられて豪華な生活が保証されることであった。紫式部はそういう生活を捨て、自分としての生き方を貫くことを自己に課した女であった。「心すごうもてなす身ぞとだに思い侍らじ」と紫式部日記に書いている。「心すごう」とはものさびしい、心細い、気味が悪い、すさまじいという意味であるが、大野氏は「見棄てられて荒涼とした気持ち」と訳した。「心すごう」という言葉は源氏物語では、京都以外の鄙びた情景で用いられている。宇治もまさにそういう土地である。夫を失った女の住む場所、そこで感じられるすごさが「心すごう」の内容である。

(つづく)

読書ノート 大野晋著 「源氏物語」 岩波現代文庫

2014年08月27日 | 書評
「紫式部日記」から「源氏物語」を読み解く 第9回

3) 第2部 c系の物語(光源氏晩年そして死)

 紫式部はa系の作品を書いた時は、文学好きな女性の関心に答えるようにした。b系の作品を書く時は中年の男たちの興味をそそる話題を選んだ。しかしc系の物語を書くにあたっては、そうした読者の関心を答えるより、作者自身御内に生じた問題を見極めるように描こうとしたと思われる。a系作品の執筆時期は紫式部が道長の土御門邸に入る前後に書かれたと思われ、b系の作品が書かれた時期は、「紫式部日記」に書かれた大臣家の局の生活を生きていたか経験した後に執筆されたものであろう。b系の物語は宮廷の官人たちの動向を心得たうえで、そこにいた中の品の女の生態、男女の交際をことこまかに描くことができている。空蝉は伊予守の4番目の妻であり、地方官の後妻という設定である。多くの学者から指摘されているように、この空蝉の位置づけは実生活における紫式部の位置に酷似する。そして光源氏に言い寄られて必死に対応する空蝉は、道長に迫られて捨てられた紫式部を作品の中に取り込んだといわれている。養父の関係にいながら、玉鬘に懸想する40歳の中年男光源氏という権力者の日常生活の陰の部分が細やかに描かれている。では34)若菜上、35)若菜下、36)柏木、37)横笛、38)鈴虫、39)夕霧、40)御法、41)幻の8巻からなるc系の物語はいつ書かれたのだろうか。若菜上の巻に光源氏が明石の君が生んだ若宮を抱き上げるた時に小便をかけられて衣装がぬれる場面は、紫式部日記に道長が敦成親王を抱きかかえて小便にぬれる話がある。若菜下に女三の宮を描写して容姿を観察している様子は、紫式部日記において小少将の君の描写と極めて似ている。小少将の君の印象によって女三の宮を造形したのであろうか。従ってc系の物語は作者の土御門邸での生活の後で書かれたのであろうと推測される。源氏物語をa系の話だけで成立する光源氏の年代記と理解し、b系の話は全く別の個人の話として分離する考えもあるが、池田亀鑑、武田宗俊氏以下の学者はa系とb系と合わせて33)藤裏葉までを第1部として扱っている。そしてc系の物語は第1部を受けて、始めてa系の人物とb系の人物が合流し、a,b両系の人物が話に出てくる。c系の物語はa系の物語を継承し、年代記の書き方をしている。光源氏40歳から52歳までの年代記となっている。こうしてa系とc系と合わせてその出生から最後までを描いた年代記「本紀」が完成した。老年の光源氏の充実した豊熟の生活が描かれる。しかし出来事の時系列配置よりも、生じる出来事そのものをありありと語り、人間のあり様を目に見えるように描くことである。

 「40歳の賀の儀式が華美を尽くして描かれ、翌年には明石の姫君が東宮の第1子を出産する。次いで冷泉帝の譲位があり今上が即位する。光源氏は一生を懐古して出逢った女性の個性を述べ、紫の上が自分の一生において不足のない伴侶であったことを認める。紫の上は明石女御の出産の後に、女三の宮の光源氏への降嫁の話持ち上がると紫の上の心は傷つき以来病がちになって死亡する。そのあとすぐ光源氏自身もなくなるのである。a系の物語は光源氏の人生の登坂とすると、c系の物語は緩やかな下り坂の話である。ただ若菜上と若菜下には4年間の空白があり、一挙に人生の黄昏に向かっている。もはやあまり時間を気にしていないようだ。光源氏は紫の上と女三の宮との3角関係に苦しみ、朱雀院の出家後朧月夜との再会へ向かう。光源氏が病がちな紫の上のいる二条院に詰めているとき、柏木なる若者が六条院にいる女三の宮のもとへ通い関係をもって妊娠させる。光源氏は女三の宮が生んだ男の子を自分の子と宣言したが、女三の宮は出家した。女三の宮の母君は心痛の余り死ぬ。残された柏木は女二の宮と結婚する。女三の宮を恋慕する柏木は病いが募って死ぬ。光源氏の息子夕霧は柏木の死後女二の宮を弔問するが、夕霧は女二の宮に接近して関係を持つ。夕霧は雲居雁との間に7人の子どもを持っていたが、怒った雲居雁は実家に帰ってしまう。死期の近づいた紫の上は明石の上に会い、二条院を匂宮に譲って亡くなった。」 これがc系の物語の荒筋である。c系8巻の特徴は男と女の複雑な3角関係である。それが数々の悲劇の種となって多くの人が心痛のあまりなくなっている。例えば光源氏と紫の上、女三の宮の関係、柏木と女三の宮、女二の宮との関係、夕霧と雲居雁、女二の宮との関係、逆に女を軸とすると、藤壺と桐壷帝、光源氏との関係、朧月夜と朱雀帝、光源氏との関係である。一夫多妻制のもとでは当然起こりうる悲喜劇である。三角関係が引き起こす深刻な事態は結局きれいごとの栄花物語であるa系の物語には展開しない。ところがc系の物語では、男の欲望が描かれ、受け身に立つ女の苦しみ、悲しみ、恐れ、怒りが描かれている。C系の物語を、「女三の宮物語」、「夕霧物語」という様に分ける人がいる。三角関係の様相が描き分けられているからだろう。b系の物語では作者は男を「好きもの」とか言って揶揄したが、c系の物語ではそうした単純な見方をしていない。男も女も願い、望み、欲望して突き進むとき、人は人を傷つけ、傷つけた人も自ら傷つくことを描いている。

(つづく)