「紫式部日記」から「源氏物語」を読み解く 第13回
5) 紫式部の生活 「紫式部日記」 (その2)
同じ藤原の姓を受け継ぐ家でも政治権力の集中があり、一度大臣職を外れた家系には権力は2度と戻ってこない。藤原北家の冬嗣の系統で権力を持ったのは基経ー忠平ー師輔ー兼家ー道隆ー道長ー順道の系統であった。従って藤原の家庭においては兄弟の争いうは実にシビア―で「兄弟は他人の始まり」という言葉の通りであった。兄弟間でも権武術数、讒言、閨閥関係などを駆使して初めて政治権力の頂点に立てるのである。藤原家の中での権力争い(天皇に自分の娘を皇后に入れることで、もし皇子を産んでその皇子が天皇になったら外戚として人事権を握ること)を政治と言ったが、昔の自民党の派閥争いを政局と言った事に通じる。紫式部の父は為時であるが、3代前には良門の子として大臣になった高藤以来権力筋からすっかり外れていた。高藤の娘胤子は宇多天皇の子醍醐天皇を生んだ。その醍醐天皇は基経の娘穏子を皇后として、権力は師輔の家に移った。原則として天皇に皇后を入れた家系が権力を独占できる。政治とは閨閥関係である。天皇の後宮に多くの娘を入れて、確率的に皇子を生むことに期待することである。それが政治戦略である。政治権力を握れば自分の都合のよいように人事権を操作して、日本中の富を独占することが可能であった。天皇はほとんど幼少で成人する前に退位させる子とができるし、天皇の女の好みはほとんど無視できたので極端な話どんなブスでも後宮に入れることができた。後宮の女の人事権も握っている。なぜそんなバカげたことができたかというと、日本は島国で当時の技術と物資では外国の軍勢が攻めてこれなかったからである。幕末に「太平の眠りを覚ます蒸気船、たった3舶で夜も眠れず」というように、外敵が来たら日本の国制は短時間で崩壊したのである。政治とは天皇の女のことであるので、後宮に入れる女に様々な教育を施さなければならない。だから女房という名の教育係が必要であった。宮廷は日本の学問、宗教、工芸技術、文化、芸術をも独占していた。当時女の教育機関は存在しなかったので大臣家では女の家庭教師集団を雇って、専門分野ごと(和歌、習字、漢籍など)に子女に教育を授けた。これがいわゆる局サロンである。紫式部が中宮彰子のもとに出仕したのは1006年12月のことであった。彼女は学問の才媛として有名であったので最初から上臈女房として厚遇された。当時の最高権力者である道長の懇請に応じて紫式部が出仕することは、地方官吏である父為時や弟惟規にとっても何かと好都合だという考えもあったことだろう。しかし女房はさまざまな接点があって男性社会にでて行動しなければならないので、自分の学才を発揮できる晴れがましい場所であり、かつ誤って男女関係が生じやすい環境でもあった。初めて宮廷に出た時の歌が紫式部集にある。「身のうさは心のうちにしたい来ていま九重ぞ思い乱るる」 池田亀鑑・秋山虔校注 「紫式部日記」 岩波文庫に従って「紫式部日記」を読んでゆこう。「紫式部日記」の2/3ほどを占める日録(日記)は分かりやすいのだが、断片、感想(この様な分類は日記にはなく、大野氏の命名である)の1/3の後半部分は注釈なしでは理解できないほど難解である。私が最初読んだときその意味は不可解であったが、いま大野氏によってはじめて理解の端緒を与えられた。つまり源氏物語の主題と密接に絡んだメモであることがわかった。物語では言い足りなかったことの本質に迫る気持ちを残しておきたかった紫式部が理解できた気がした。寛弘5年4月13日中宮彰子はお産の為に里帰り、土御門邸に入る。日録は8月中旬から始まり、翌年正月1日で終わる。そのあと「消息文」という同輩の女房の容姿に対する品評、女房集団の個性、同時代の文筆者への批評、自分の学問への反省、仏門のことが述べられる。これを大野氏は「感想」と分類し、それに日付不明を含めて7日分の補遺(断片的メモ)が挿入されて終わりになる。大野氏はこれを「断片」と呼ぶ。つまり「紫式部日記」は①日録の部、②感想の部、③断片とからなる構成であるという。まず「断片」から見てゆこう。
(つづく)
5) 紫式部の生活 「紫式部日記」 (その2)
同じ藤原の姓を受け継ぐ家でも政治権力の集中があり、一度大臣職を外れた家系には権力は2度と戻ってこない。藤原北家の冬嗣の系統で権力を持ったのは基経ー忠平ー師輔ー兼家ー道隆ー道長ー順道の系統であった。従って藤原の家庭においては兄弟の争いうは実にシビア―で「兄弟は他人の始まり」という言葉の通りであった。兄弟間でも権武術数、讒言、閨閥関係などを駆使して初めて政治権力の頂点に立てるのである。藤原家の中での権力争い(天皇に自分の娘を皇后に入れることで、もし皇子を産んでその皇子が天皇になったら外戚として人事権を握ること)を政治と言ったが、昔の自民党の派閥争いを政局と言った事に通じる。紫式部の父は為時であるが、3代前には良門の子として大臣になった高藤以来権力筋からすっかり外れていた。高藤の娘胤子は宇多天皇の子醍醐天皇を生んだ。その醍醐天皇は基経の娘穏子を皇后として、権力は師輔の家に移った。原則として天皇に皇后を入れた家系が権力を独占できる。政治とは閨閥関係である。天皇の後宮に多くの娘を入れて、確率的に皇子を生むことに期待することである。それが政治戦略である。政治権力を握れば自分の都合のよいように人事権を操作して、日本中の富を独占することが可能であった。天皇はほとんど幼少で成人する前に退位させる子とができるし、天皇の女の好みはほとんど無視できたので極端な話どんなブスでも後宮に入れることができた。後宮の女の人事権も握っている。なぜそんなバカげたことができたかというと、日本は島国で当時の技術と物資では外国の軍勢が攻めてこれなかったからである。幕末に「太平の眠りを覚ます蒸気船、たった3舶で夜も眠れず」というように、外敵が来たら日本の国制は短時間で崩壊したのである。政治とは天皇の女のことであるので、後宮に入れる女に様々な教育を施さなければならない。だから女房という名の教育係が必要であった。宮廷は日本の学問、宗教、工芸技術、文化、芸術をも独占していた。当時女の教育機関は存在しなかったので大臣家では女の家庭教師集団を雇って、専門分野ごと(和歌、習字、漢籍など)に子女に教育を授けた。これがいわゆる局サロンである。紫式部が中宮彰子のもとに出仕したのは1006年12月のことであった。彼女は学問の才媛として有名であったので最初から上臈女房として厚遇された。当時の最高権力者である道長の懇請に応じて紫式部が出仕することは、地方官吏である父為時や弟惟規にとっても何かと好都合だという考えもあったことだろう。しかし女房はさまざまな接点があって男性社会にでて行動しなければならないので、自分の学才を発揮できる晴れがましい場所であり、かつ誤って男女関係が生じやすい環境でもあった。初めて宮廷に出た時の歌が紫式部集にある。「身のうさは心のうちにしたい来ていま九重ぞ思い乱るる」 池田亀鑑・秋山虔校注 「紫式部日記」 岩波文庫に従って「紫式部日記」を読んでゆこう。「紫式部日記」の2/3ほどを占める日録(日記)は分かりやすいのだが、断片、感想(この様な分類は日記にはなく、大野氏の命名である)の1/3の後半部分は注釈なしでは理解できないほど難解である。私が最初読んだときその意味は不可解であったが、いま大野氏によってはじめて理解の端緒を与えられた。つまり源氏物語の主題と密接に絡んだメモであることがわかった。物語では言い足りなかったことの本質に迫る気持ちを残しておきたかった紫式部が理解できた気がした。寛弘5年4月13日中宮彰子はお産の為に里帰り、土御門邸に入る。日録は8月中旬から始まり、翌年正月1日で終わる。そのあと「消息文」という同輩の女房の容姿に対する品評、女房集団の個性、同時代の文筆者への批評、自分の学問への反省、仏門のことが述べられる。これを大野氏は「感想」と分類し、それに日付不明を含めて7日分の補遺(断片的メモ)が挿入されて終わりになる。大野氏はこれを「断片」と呼ぶ。つまり「紫式部日記」は①日録の部、②感想の部、③断片とからなる構成であるという。まず「断片」から見てゆこう。
(つづく)