ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

大阪府財政赤字問題(2)

2008年01月31日 | 時事問題
大阪府財務部のホームページより大阪府の言い分
財政状況の概要
①大阪府財政はバブル経済崩壊後、府税収入が急激かつ大幅に落ち込む一方で、歳出は義務的経費を中心に増加したため、近年は、毎年度の予算編成にあたって、極めて多額の財源が不足する状況が続いています。
②大阪府では、これまでも、全国で最も厳しい行財政改革に取り組むとともに、税収が好調な時期に蓄えた基金の取崩しや借入れ、府債の活用などにより歳入を確保し、できる限り、府民サービスの維持・向上に努めてきました。
③しかし、財源として使える基金(貯金)残高の平成19年度末見込みは、ピーク時(平成3年度)の約14%と底をつき、府債(借金)残高も平成3年度以降3倍以上に増加しており、平成10年度からは9年連続して赤字決算となっています。
④これまでの行財政改革の取組みなどにより、財政再建団体転落という当面の危機は回避しましたが、こうした厳しい財政の実情を踏まえ、本府では、平成18年11月、「平成22年度に赤字構造から脱却し、次世代に負担を送らない持続可能な行財政構造への転換」を新たな改革目標に掲げた「行財政改革プログラム(案)」を策定しました。平成16年11月に改定した「行財政計画(案)」の取組みとあわせて、さらなる行財政改革をすすめ、大阪再生と財政再建を実現していきます。

①歳入は一時落ち込んだが、その後は3兆円近くで好調ではないか。②「府債の活用」とはあきれてものが言えない。③負債残高の天文学的数値はいわない。④行財政計画も読んだが根拠がなくタラレバの右上がりの見通しで真実性がない。官僚のことだから、出来ない場合の言い訳をもう考えているのだろう。
註)云うまでもないことですが、歳入と歳出が大体同じになっているのは、収支があっているのではなく、借金で赤字分を埋めているからです。実質収支は前の記事に示したように、毎年100億から300億円の赤字です。さらに債務は長い年月の月賦払いですから、薄すくなっています。1000億円の借金も十年払いですと(金利は無視して)年あたり100億円の返済計画となります。ですから累積債務と実質収支を見る事が大事です。

大阪府財政赤字問題 (1)

2008年01月31日 | 時事問題
asahi.com 2008年01月28日15時07分
橋下氏「府債発行認めない」 人件費カットの可能性も
 大阪府知事選で初当選したタレントで弁護士の橋下徹氏(38)は28日未明、朝日新聞社のインタビューに応じ、「赤字隠し」のための借り換え債の発行だけでなく、一般会計の府債発行を基本的に認めない方針を明らかにした。府は毎年2000億円を超える府債を発行して歳入に充てており、抜本的な予算の見直しが必要になる。歳入不足に対応するため、職員の人件費カットに踏み切る可能性も示した。府は財政再建団体への転落回避のため、04年度から今年度までの4年間で、3500億円の府債を余計に借り換え、返済を先送りして赤字額を少なく見せかけていた

大阪府の収支は10年前から赤字で債務残高は4兆円を越す。 金を貸してくれるところがある限り倒産しないとはいうものの、これでどうして借金を返して財政を再建するのだろうか

大阪府財務部のホームページより見た結果を示す。府財政実質収支の赤字の推移を示す。10年前から赤字になり毎年の収支赤字は100億から300億円です。これ以外に債務があります。
大阪府府債残高は上の図に示すように4兆3167億円となっています。累積負債/単年度予算の比は4.2/3=1.4倍です。ちなみに国の場合は800/80=10ですので国よりはるかにましですがね。
一般会計実質収支の推移(単位 百万円)
平成10年度 -10,228
平成11年度 -7,881
平成12年度 -39,552
平成13年度 -37,695
平成14年度 -34,208
平成15年度 -28,902
平成16年度 -23,401
平成17年度 -19,706
平成18年度 -13,515

中国製ギョーザ中毒問題  食の安全と食文化

2008年01月31日 | 時事問題
asahi.com 2008年01月31日04時16分
「農薬、相当な高濃度」専門家指摘 ギョーザ中毒問題
 中国製冷凍ギョーザによる毒物中毒問題は、今後は農薬の混入経緯の解明が焦点となる。千葉県警と兵庫県警は輸入元などから事情を聴き、業務上過失傷害や食品衛生法違反容疑で調べる方針だ。両県警によると開封前に袋が破られたり、注射針で刺されたりした跡はなかったという。
中国内で日本向け加工肉食品を製造している会社経営者によると、メタミドホスは工場内に侵入してくる虫を除去するための殺虫剤で使われることがあり、ギョーザ工場で過って原料に混入した可能性もあるという。

食の安全かコスト優先か 日本の食文化を考える
メタミドホスは殺虫剤であって、残留農薬のように野菜に施す防虫農薬ではない。いたずら説も輸出向け商品では考えられない。するとやはり工場内に散布する殺虫剤が間違って生産工程に混入したと云う理解が正統かな。とにかく冷凍餃子と云うものは何度か食べた事があるが、貧弱でまずいの一言である。以来我家では餃子は自分で作っている。内容物も多くてはるかにうまい。食の安全と云う観点では家庭で作るのが一番信用できる。忙しいからといってレトルト(冷凍食品)をチンして食卓に出す習慣は子供の食文化と家族の教育にとって余りにお粗末過ぎる。お母さんはサボっている。経済的にいえば確かに中国の食材は日本産価格より一桁低いであろう。為替の問題も絡んで、市場原理からすれば品質が同じなら安い物が売れるのが当たり前だが、肝心の消費者側の品質を見分ける力がなくなっている。これは悪貨が良貨を追い出す「レモン市場」と同じである。日本人の食文化がいい加減になっているから、価値が乱れて、見掛けの金額の安さに流れているだけである。これは正常な経済行為ではない。発展途上国が為替レートから超安値で売る時代は、その国の経済発展が進むにつれ為替レートも変わって、いずれ有利さがなくなるであろう。かっての韓国製品が安くもなく悪い品質で敬遠されたように、中国製品も安くもなく悪い品質なら誰も買わない。

読書ノート 武田邦彦著 「環境問題はなぜウソがまかり通るのか 2」 洋泉舎

2008年01月31日 | 書評
地球温暖化、バイエタノール、ペットリサイクルの環境問題のウソ  第16回

環境問題のウソと環境省・専門家・メディアの問題 (3)

報道の自由とは「時の権力に都合の悪い情報をも報道する権利」であろう。しかし環境問題についての報道は殆ど環境省の云う通りの報道に過ぎない。何故メディアは自分の見解がもてないのだろうか。一つは現場取材をしていないからで、取材なしの報道は八割がたあるようだ。その代り、政府発表や学者のコメントの写しを貰って記事にしている。NHKは金を払っている視聴者のほうを向かないで政府のスポークスマンに成り下がって恥としない。民放は面白ければいいとばかりに質の悪い曝露物に飛びつき、科学的事実を正確に伝える能力を持っていない。アサテレのダイオキシン騒ぎ(久米キャスター)がいい例である。環境関係では政府発表以外の異論・疑問・懐疑論は決して取り上げない。政府官僚が如何に信じられないかは、最近では道路公団や社会保険庁や厚生省薬害エイズ・肝炎訴訟、防衛省汚職事件でとくとご承知のはずであるのだが。

大量消費時代と循環型社会が両立する幻想は捨てなければならない。持続的開発もウソかもしれない。そこで著者は人間の存在その物が環境を破壊するのだから、日本の人口を欧州並みの6000万人(約半分)に減少した社会の建設が理想と云うのである。今の人口統計から2005年より日本は人口減少時代に突入している。2050年には人口は1億人を切り、2100年には6000万人になる予想である。これも環境破壊を抑える一つの解決法かもしれない。間もなく石油がなくなり、人口が減るそれだけで環境問題にとっては朗報である。ところが政府はその逆を主張するのである。

文芸散歩 日本の乱世  室町時代を歩く

2008年01月31日 | 書評
戦乱に明け暮れた南北朝から戦国時代、豊かな日本文化が興った室町期

2)山崎正和著 「室町期」 講談社文庫  第14回

乱世を彩る文化史ー茶道と商業都市国家 堺
 ザビエルが世界を発見した時代、日本では既にその世界に組み込まれていた。科学技術の面では種子島鉄砲伝来である。すぐさま日本人は国産化したがその中心が貿易港堺であった。中国で明王朝が成立し永楽帝が鄭和の艦隊をアフリカまで派遣したころ、日本では足利政権が生まれ、朝鮮では李氏朝鮮が生まれ、琉球王国の統一がなった。琉球王国は東アジア全域の貿易の中心となった。倭寇が貿易と時には海賊となって活躍したのもこの時期である。日本で海外貿易に注目したのは足利義満と大内義弘であった。東山文化の時には泉州堺が一つの文化的センターとなった。海外貿易の巨大な富と情報が京に近いことで堺の存在意義が注目されたのである。堺は36人の有力町衆の自治都市で、その中から茶の湯が社交の場として、情報交換の場として、狭い空間での濃密な人間関係を築く場として利用された。武野紹鴎、利休の「わび茶」がうまれ、能楽謡曲に車屋道悦、連歌に宗椿、武将に小西行長らが揃った。茶を初め日本の芸術は特に人間関係をその発生の場として発展してきたといっても間違いではない。お茶もお花も現代の形になるのは室町期で、ともに社交の場でのみ成り立った。西洋では芸術家というと孤独に神と会話する者と云うイメージがあるが、日本では芸術は自分と他人の関係で完結するものであった。世阿弥の「衆人愛敬」とは諸人の敬愛を受けることを目的とした芸術(お客さんあっての芸)ということだ。村田珠光の「月も雲間のなきは厭にて候」とは、唐物の茶器にも備前や信楽の茶器で霞をかけることで、茶の湯の世界に一つの新しい美の型が生まれるのである。世阿弥の「秘すれば花」と云う言葉は、面白く見せる趣向が見え見えで臭くてはいけない、芸の工夫が見えなくなるくらい練習して意識しなくなったときが見事な花(表現)が生まれるということである。世阿弥の「幽玄」の世界とは、きらびやかな王朝の優雅さを写実的な舞いに加えることである。写実的振る舞いに王朝的優雅で霞をかけるのである。之もやはり日本人の二重構造である。日本の舞台芸術には歌舞伎や能に見るように必ず「型」がある。これはもちろん約束事の美であるが、演技者と観客の間に成り立つ枠組みで盛り上がるのである。人間関係において約束とは口に出さない暗黙の了解で、虚構の世界に遊び、実よりも真実じみて感じるのである。「虚実は皮膜の間」というのが日本的人間関係といえる。