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京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

貧困は地域に偏在する。

2009-05-31 11:49:15 | いま・むかし

以下の文章は、岩田正美『現代の貧困-ワーキングプア/ホームレス/生活保護』(ちくま新書、2007年)の160~162ページからの引用である。引用部分がわかるように、色を変えておく。

 貧困は、特定の「不利な人々」に集中するだけでなく、地域による偏りも大きい。生活保護基準を使った先の駒村氏の分析でも、保護基準以下の貧困層の割合は、都道府県によってかなり違いがあった。1999年のデータでは、高い県と低い県では4倍以上の開きがあったという。生活保護の保護率が地域によって異なることはよく知られている。これには各地域の保護行政の「力」の差も影響しているだろうけれども、しかし、一連の研究では、その地域の失業率との結びつきが強いといわれている。

 都道府県レベルよりも、もう少し細かく見ていくと、たとえば同じ県の中でも、貧困が比較的集中している地域とそうでない地域がある。路上ホームレスの場合も、集中している場所とそうでない場所があって、集中している地域の行政担当者は、どこか別の地域の行政担当者がホームレスを送り込んでいるのではないかと疑いを抱くこともある。

 こうした、地域による貧困の違いを地図にしたパンフレットを、イギリスの地方都市で見かけたことがある。この地図は、タウンゼントの社会的剥奪指標のいくつかを、地方剥奪指標に読み替えて作成されたものだった。具体的には、低所得や失業、低教育や質の悪い住宅、犯罪発生率などの指標を組み合わせてスコアをつくり、その市の地区ごとに剥奪ゼロ(最良地域)と全部剥奪(最悪地域)とに色分けしたものだった。

 このパンフレットを編集したのは地理学協会という公共団体で、なんと同じ地図が市のホームページにも堂々と掲載されていたので、ここまでやるかと唸ったものである。日本にも暮らしやすい県のランキングなどはあるが、最悪地域を明確に地図で示すなどということは、逆立ちしてもできないだろう。

 英国でこのようなあからさまなランキングが行えるのは、それが最悪地域への重点政策や優遇策のベースとなるからで、行政側にとってもそこで暮らす人々にとっても実利があるからである。わが市こそ貧困地域だと手を挙げたがる自治体もあると聞く。

 そもそもイギリスでは、こうした地域ランクによって市の徴収する税金額が異なっている。貧困地域に住むと税金は安くなる。このランクでいうと高い方にある地域の大学までタクシーで行った時、その運転手は「貧困」と「剥奪」という言葉を使いながら、自分の住んでいるところと大学のある地域の環境がいかに異なるかを、緑地面積やら保育所の数やらを挙げて、私に説いて聞かせた。「貧困」や「剥奪」といった言葉が、学会の専門用語としてだけではなく、実際にそこで暮らす地域の問題を語るための言葉として日常的に使われていることに驚いた。さすがに貧困の「再発見」先進国ならではのことである。

 日本はイギリスなどとは違って、貧困による地域区分ははっきりしていない、と言われてきた。金持ちが住んでいるところと貧困な人々が住んでいるところ、日本人のすんでいるところと外国人の住んでいるところの線引きは曖昧で、比較的混在しているという指摘もある。それでも大まかな違いは、やはりある。

ちなみに、岩田氏は社会福祉学の研究者で、「貧困・社会的排除と福祉政策」が研究テーマの方である。また、私はイギリスへ行ったことがないし、イギリスの事情に詳しいわけでもない。だから、ここで岩田氏が書いていることを信じるしかない。

だが、私の印象でいえば、言っていることは必ずしも悪いわけではなく、むしろまともな議論だと思う。貧困世帯の人々が、たとえば家賃その他の生活費との関係で、その収入の範囲内でも比較的生活しやすい条件の整った地域に集まって暮らす傾向にあるのは、日本社会においてもおそらく同じことだろう。

ところで、私があらためてこのような文章を読むと、「社会福祉学の貧困研究のなかで、敗戦後日本における同和対策事業の位置づけはどうなっているのだろう?」と思ってしまう。「過去を忘れてはいませんか?」と思うのである。

たとえば金井宏司『同和行政 戦後の軌跡』(解放出版社、1991年)の「戦後同和行政の出発」という章を見れば、「オール・ロマンス闘争」のことを書いた部分で、1950年代はじめの京都市民生局が当時の市内被差別の生活実態調査を行った結果が紹介されている(p.71~75)。ここから敗戦後京都市の「同和行政」がはじまっていくことになるのだが、このように、日本でも「貧困と差別の悪循環」を断ち切るために、被差別の生活環境に関する実態把握をもとに、それを少しでも変えていこうと、「同和行政」という枠組みでさまざまな施策を打ってきた歴史的経過がある。

こうした歴史的経過を、社会福祉学における貧困研究は、今、どう位置づけるのか? あらためて今、過去をふりかえって位置づける作業をする必要があるのでは? こういったことが、専攻領域の異なる私から見ても、気がかりなのである。

さらに、現在、地区内にさまざまな施設などが集中しているというのは、こうした歴史的経過を持つ行政施策の結果として見れば当然のことであろう。だから今、そのことをとりあげて、地区に施設が「地域的に偏在」しているので「統廃合」して「解消」するということをしぶしぶであれ容認するとしても、その代替プランが具体的に行政当局や地方議会サイドから出てこないのであれば、ある意味、「今後、行政当局は貧困などの問題に対して、積極的な是正策をとらないでいい」というのに等しいようにも思ってしまう。

今までの歴史的経過がある以上、どうしても地区内施設が「地域的に偏在」している状態を「統廃合」して「解消」したいというのであれば、逆にそれを主張する側が、「どのような施策をもって貧困などの問題に対して全市的にとりくむのか?」ということを、説得力ある形で提示しなければならないのではないか。

今までの施策ではなぜダメなのか、どこに問題点があって、どういう方向で新たな施策を打ち出さなければならないのか、等々。今までの施策を批判して「やめろ」という側から、もっと積極的かつ説得力のある施策を打ち出してほしいものである。

このように、説得力ある代替策の提示なしに、地区内に今ある施設などを「地域的な偏在」だけを理由に「統廃合」して「解消」することだけに議論を集中するなら、ますます、私などは「今後、行政当局は貧困などの問題に対して、積極的な是正策をとらないでいい」と言っているのに等しいようにしか思えないのである。

なにしろ、過去の「同和行政」には触れない今の社会福祉学における貧困研究ですら、先に岩田氏の書いた文章を引用したように、イギリスの例を引きながら、「貧困の地域的偏在」に対して、ある特定の地域限定の施策実施を認める議論があるわけだから。また、岩田氏の本は新書本サイズのものだから、その気になれば、すぐに読めるだろう。

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