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京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

古い文献を読み直そう(その5)

2009-08-18 20:26:31 | いま・むかし

前回に引き続き、『双書解放教育の実践』(解放教育研究会 福地幸造・中村拡三編、明治図書)シリーズ(全4巻)の第1巻『解放運動と教育』(1970年)の内容から、気づいたことをまとめておきます。当面はこのシリーズ4巻本の内容から気づいたことを書き綴っていきますが、ひとまず第1巻は今回で締めくくります。

さて、この第1巻の最後の章「十 まとめ・展望」(中村拡三執筆)では、1960年代末頃の民間教育運動と解放教育との関係について、「今日の民間教育運動では、教育と運動とが切断されている」(p.213)と述べています。(以下、青字部分は、この第1巻からの引用部分です。)また、これに続いて、中村拡三は次のようにも述べます。

この体質は、おそらく、日本の体制がわの体質を受けつぐものだろう。子どもたちには教育の機会が保障されている。学校に集まり、教室にならぶ子どもたちによりよい教育を。民主的な教育理念と実践を。―つまり、体制がわで設定したものにのって、そこでの研究、苦闘がつづけられているのではないか。の子どもについては、の低位性、の子どもたちの低位性から、せめて一般なみに、という発想ではなかったか。(p.213)

の子どもたちは、このワクの外にあった。ワクにはめられても、とじこめられることをこばんだ。それは分析や論理の展開で明らかにすることではない。公教育であり、義務教育といわれるいまの中学校を卒業しても、読み書きさえ十分にできない事実である。(p.213)

今もなお、子どもの人権に関連して、あるいは人権教育なるものに関連して、さまざまな民間団体があり、積極的な研究活動が続けられています。しかし、今、すすめられている子どもの人権、あるいは人権教育に関する研究活動の中身が、はたしてどこまで被差別の子どもたちの生活を意識しているものであるのか。このような過去の文章に触れると、あらためて今、そのことが問われているように感じます。

また、中村が「の子どもについては、の低位性、の子どもたちの低位性から、せめて一般なみに、という発想」と指摘する部分については、詳しくはここで書きませんが、それを今の子どもの人権や人権教育に関する議論がどれだけ克服できているのか、私も自信がもてなくなってしまいます。たとえば最近の「学力」問題について論じている本や論文では、どうなのでしょうか?

こんな感じで、今日は短い文章になってしまいましたが、過去の文献を読み直すと、いろいろと今の状況に関して気づくことが多々あります。次回は第2巻の内容に触れていこうと思います。

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