角館草履の『実演日記』

〓袖すり合うも多生の縁〓
草履実演での日々の出会いには、互いに何かしらの意味があるのでしょう。さて、今日の出会いは…。

2008年角館祭典二日目。

2008年09月11日 | 実演日記


今日の草履は、彩シリーズMグループ24cm土踏まず付き〔4000円〕
エンジ基調の花柄プリントをベースに、合わせは藍色基調の井桁プリントです。こちらも和が活きた配色ですね、綺麗と思います。

朝から絶好のお祭り日和を迎えた中日八日。予想最高気温は26℃、これもまた嬉しい気温です。ただ、天気が良くても気温が上がらない日は、夜かなり寒くなります。これは予想通り、日が沈むと上着ナシでは歩けない寒さとなりました。

二日目八日、曳山の大きな仕事は「佐竹家上覧」と「観光用激突」です。佐竹さんとは江戸時代角館を治めていた殿様で、角館は佐竹さんの中でも「北家」と呼ばれます。武家屋敷通りに設置されたお殿様のお座敷に、18台の曳山がご挨拶に向かうわけですね。
そしてその後が「観光用激突」、岩瀬曳山は午後10時、本町通り曳山を相手に安藤醸造さん前で予定されていました。

わが家の三人娘の踊り時間は、三女が午前八時半から午後二時まで、長女と次女は下校したあと午後六時から「曳山を納めるまで」です。三女は午後二時で“自由の身”になれますが、上の双子は前日の睡眠時間がたったの二時間です。西宮家でいつものように草履を編んでいた私も、八日の納め時刻はひとつ心配のタネでした。

佐竹家上覧を順調に済ませた岩瀬曳山、その後の行動に例年とは違うものがありました。これは例年通りの行動では、午後10時に予定されている観光用激突に間に合わないと判断したからのようです。おかげで予定よりずいぶん早く戻った岩瀬曳山、午後六時前には目的地まであと200メートル余りの西宮家前までやって来ます。

次女からの電話で曳山の現在地を訊ねられ、『西宮家前サいるがらすぐ来い』と応えました。踊り子交代時刻は午後六時ですが、そのときのヤマの状況によって遅れることもしばしばです。私がいる西宮家前であれば休める場所もあるし、時間調整はなんとでもなると安心していました。
三女は予定通り自分の担当時間をまっとうし、岩瀬の曳山半纏を身にまとい生意気にも「若衆」気取りでいます。それもこれも、角館のお祭りの面白いところなんですね。

西宮家の筋向いにある「岩瀬町張番」を通過した岩瀬曳山は、菅沢曳山と向かい合いました。その交差交渉時間を利用し、踊り子交代です。今年のお祭りで長女と次女は八日が最後、これから曳山を納めるまでが彼女たちが預かった仕事なわけです。顔には多少の緊張感がありましたね。

曳山に乗る直前私が娘たちに言ったのは、『この時間でヤマがこごまで来てれば、今日は12時くらいで納められるべぇ。昨日のごどもあるがら、納めだら今日は寝れ』。
娘たちは納得半分くらいでしたが、お祭りは明日の九日が本番です。踊りのない日は半纏をまとい、若衆のひとりになって汗を流さなくてはいけません。それも楽しみにしている角館っ子なんですね。

それがそれが、予想もしない事態へと事が動き出します。フツーに成立されると思っていた菅沢曳山との交差交渉が進みません。やがて空気は徐々に険悪となり、特に菅沢曳山の若衆は本番激突さえ辞さない構えとなりました。
こうなると予定が変わります。仮にここで本番激突に至れば、午後10時の観光用激突が中止となり、曳山を納める時刻も大きく変わります。わが家の話で恐縮なんですが、二日連続半徹夜となれば疲労度も大きいですし、なにより娘たちが本番激突でヤマの上にいるのは生まれて初めてのことだったんです。

交渉がこじれて実に三時間、午後9時を過ぎて本番激突がはじまってしまいました。双方力の限り相手をねじ伏せ、前へ進もうとします。私が仕事をしている目の前でまさかの中日本番、しかもそのヤマの上には娘ふたりが乗っているんですから、もう仕事にはなりません。それは「店」の立場と「オヤジ」の立場両方ですね。

お祭りに飲食等のお店を開く人たちはすべて知っていることですが、自店の目前で本番激突がはじまるともう商売にはなりません。逆に僅かの差で離れると、みるみるうちにモノが売れて行くんです。目前では危険が伴うので買い物どころではありませんが、人が集まることも事実ですから「危険が少なく近い店」が繁盛するという現象なんですね。

閉店予定時刻の午後10時を待たず、若干早めの店じまいとなった西宮家。私はとりあえず娘たちの状況を見に行きました。四人乗る踊り子のうち、わが家のふたりは囃子方が乗るスペースに身を置いていました。顔に緊張感はあるものの、まず大丈夫と見えます。さすがは角館っ子、腹が決まれば女子と言えど堂々としてますねぇ。

結局岩瀬曳山が納めた時刻は午前六時、なんと二日続けての徹夜と相成りました。それでもまた学校へは行かなければなりません。そうした責任感だけは強い娘たち、言葉少なに学校へと向かいましたね。
三女は本番激突をしばらく見ていましたが、睡魔に負けて午後10時にカミさんと帰宅しました。翌朝は部活の練習日ですからフツーに学校へ行かなければなりませんし、また午後には踊りがあります。

二日目の睡眠時間は長女と次女がゼロ、三女は余裕の七時間です。カミさんは前日より就寝が早かったものの、娘たちを迎えに行くため午前五時起床。私は四時に就寝し二時間半ほど眠りました。おじさんにはなかなかツラいんですが、娘たちの頑張りに逆に励まされる始末です。

二日目のこの日、ある丁内曳山で事故が発生しました。三十代の若衆ふたりが救急車で搬送され、うちのひとりは秋田市の病院へ運ばれる大きなケガです。命に別状がなかったのが不幸中の幸いですが、角館のお祭りは不意なことでこうした事故が起こります。

西宮家レストランに勤務する女性は事故報道に触れ、別の曳山に着いている息子へ言ったそうです。『いいがっ、ヤマで命落どしたって褒めてくれる人なんかひとりもいねぇがらなっ』。
私もまったく同感ですね。イヤでも熱くなるのが角館のお祭り、でもそこには冷静な判断が常に重要ということでしょう。

ケガをした本人が一番痛いのはもちろんとして、ケガ人を出した曳山にもそれなりのペナルティが課されます。当該曳山以外に関連したもうひとつの曳山は、三日目の早い時間に迷惑をかけた張番に謝罪したあと、自丁内から一歩も外へ出ず今年のお祭りを終えました。

ケガ人を出してしまった丁内曳山は、三日目の朝から一歩も外へ出ていません。よりたくさんの丁内を賑やかすのが曳山の“使命”、それが自丁内から外へ出ないということは、曳山の存在そのものが極めて薄いことになります。もちろん本番激突など論外ですから、このペナルティの大きさは最大級と言えるでしょう。

これらペナルティは、審判を下す人や組織があるわけではありません。すべて自分たちが考え行動を決めるわけですから、ケガをした人もその曳山の若衆も“断腸の思い”でしょう。自己責任と団体責任、共にとても重いものだと思いますね。

さて今日9月11日は、岩瀬曳山の「あどふぎ」です。これは慰労会と同じ趣旨で、若衆はもちろん現役を退いた先輩たち、さらに囃子方と踊り子が参加するお祭り最後の行事と言ってイイでしょう。
この「あどふぎ」に、わが家の三人娘も踊り子として出席します。はじめて体験した「納めるまで」と「本番激突」、岩瀬曳山の一員として大きな顔で出席できるんじゃないですかね。

つづく…。

コメント (1)
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