「シンビジューム」 尼崎の町角で (12-5-20)
展覧会を観て、一寸時間は早かったのですが、昨夜のうちに調べておいた「お
好み焼きや」にいきました。有名なお店らしく席は人で埋まっていましたし、私の
後は、店外の椅子がどんどん埋まっていきました。
お店の名物らしいので「豚のねぎ焼き」と言うのを頼みました「醤油味ですが、
よろしいですか?」と聞かれたときは「えっ!お好み焼きにしょうゆ味?」と一瞬
戸惑いましたが、食べてみようと思いお願いしました。
お味は、今まで食べたことのないお味でした。一寸、食感が「たこ焼き」に似て
るかな?と思いました。だんだん食べ進むうちにおいしい! と思いました。
今度は、普通の「豚玉」を食べてみたいな~と思いました。さて、何時になり
ますことやら。
私の買った 柴田賢一さんの詩集 「人、大好き」 にサインをしておられる… (12-8-1)
高島屋からナンバ産経まで、徒歩で15分ぐらいと言うので、人に聞きながら行
ました。1時前だったのですが、涼しいお部屋で待っていようと思い、いきました。
ありがたいことに受付はもう始まっていましたし、先客が10人ぐらいおられま
した。
聞きにきているのは女性が圧倒的で、男性はチラホラでした。偉大なる先輩
「柴田トヨ」さんに興味を持っておられるのでしょう。男性は如何なんでしょう
か? そんなトヨさんに育てられたのはどんな息子か?と言う興味でしょうか?
母親の話をする時は、いつも声を詰まらせて、涙ぐまれるのには、戸惑いを
覚えました。ご自分でも自覚していて、初めに謝っておられましたけど。
賢一さんはお酒もタバコもやらない、しかしギャンブル(競艇狂い)でトヨさ
んにお金をせびる時しか家に寄り付かない息子だったらしい。しかしトヨさん
は賢一さんが、小学生の時、納豆売りで得たお金で「誕生プレゼントだ」と言
ってがま口(展示してあった)をプレゼントされた時の事を「小さい時は、優し
い子だったから、お前は悪い人ではない」と信じてくれたそうです。
賢一さんが小学生の時、詩を作る宿題がでて「、如何書けばいい?」と聞くと
「ありのままを素直に書けばいい」と教えられたそうです。その時の「詩」が
入選して、作詩が好きになったそうです。それから色んな「賞」をもらって現
在に至るが、転職は数十回したそうです。
平成の初めに夫を無くし、日本舞踊を始めたが、腰の故障で、それも駄目
になり「死にたい、死にたい」と言い出したそうです。そこで「詩」なら見てあ
げられると思って「詩でも書いてみたら?」と勧めて、土曜日にトヨさんの元
に通うようになったそうです。トヨさんは、その日を楽しみにして、「今が一
番幸せ」と言っておられることは「詩」にも現れています。
トヨさんの性格は、「前向きで、くよくよしない」そうです。好きな食べ物は「納
豆」。でも近頃は付き添いさんの影響で「ピザ」なども好みに入っているそ
うです。
ただ101歳の今、一人で寝起きが出来なくなって、作詩の方も途絶えている
そうです。「でも「詩集」も2冊も出したことですし、もういいかな?と思っていま
す」と言われました。
普段は付き添いさんが、日に3度通ってきているとか、「この費用が、又高い
のですが、本の印税も入ることだし、ショートステイと自宅の日を繰り返し送
っている。施設に入れることも考えている」と言うお話でした。
トヨさんは「詩」と「短歌」も作られていて(展示してありました)その中の一つ、
九十歳の頃の作品だそうですが、
今にして 母を思えば あの時は きっと寂しく 辛かったろう
と言う一句が私の心を打ちました。戦火で全てを失った母、私の母を思う時、
私もこんな気持ちになるからです。それを見事にあらわしておられると思うか
らです。90歳にして、母を恋うのですから、77歳の私が母を恋うのは当た
り前かな~。