緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

クリスチャン・フェラス演奏、シベリウス作曲「ヴァイオリン協奏曲ニ短調Op. 47 」(ライブ録音)を聴く

2024-01-18 21:20:06 | バイオリン
昨日のメンデスゾーンのヴァイオリン協奏曲に続き、クリスチャン・フェラスの最盛期と思われるライブ録音を聴いた。
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲ニ短調Op. 47。

そもそもシベリウス(1865-1957、フィンランド)という作曲家の曲は殆ど聴いたことがない。
ピアノ小曲集で「5つの小品(樹木の組曲) Op.75」という組曲(5曲目の「樅の木」は必聴に値する)と、この「ヴァイオリン協奏曲ニ短調Op. 47 」くらいだ。
ヴァイオリン協奏曲の方は、2021年6月にたまたまNHKFMラジオで生放送されていたNHK交響楽団の定期演奏会でこの曲を初めて聴いた。
この時のソリストは青木尚佳さん。
食事をしながらの鑑賞だったのあるが、この曲と演奏に惹きこまれてしまってネットでこの日のN響のプログラムを検索していたら、何と翌日にも同じプログラム、同じ演奏者(青木尚佳さん)で開催されるではないか。二夜連続の同じ曲、同じ演奏者での定期演奏会は聞いたことがない。
幸運にもコロナ渦だったこともあり、チケットはすぐに入手出来た。
このときのプログラムをどこかにしまいこんでしまったので会場がどこか記憶が定かではないのが、サントリーホールだったと思う。
演奏はさすがN響というだけのことはあった。しかし最も期待していたシベリウスの協奏曲は、二夜連続ということもあってかソリストの青木さんの演奏が前日に比べてわずかに疲れを感じさせるものであったと記憶している。素晴らしい出来であったことは間違いないが。

その後、学生のコンクールだったかでラジオで1度聴いたような気がするが本格的に聴くことはなく時が過ぎたが、昨日のクリスチャン・フェラスの演奏との再会をきっかけに、この曲にたどり着いた。
1965年5月。パリでのライブ録画。
指揮は若い時のズービン・メータ、オーケストラはフランス国立管弦楽団だ。

これは素晴らしい演奏だ。すごいとしか言いようがない。是非聴いて欲しい。
昨日聴いたメンデスゾーンのヴァイオリン協奏曲のライブと同様、左指を見ず、殆ど目をつむったままで、心理学的に表現すれば、顕在意識の領域が殆ど後退し、代わりに潜在意識(あるいは魂)の成すままに演奏しているとしか思えないような演奏だ。
人の意識は顕在意識が5%、潜在意識が95%を占め、潜在意識は顕在意識の2万倍のパワーを持つと言われている。
クリスチャン・フェラスはこの2万倍のパワーを持つ潜在意識をフルに働かせて演奏していたのではないだろうか。
もちろん本人はそんなことは意識していないだろうが。

しかしこれほどの超絶技巧、聴き手の心の奥底にあるものを震わせるほどの音質と表現能力、凄まじいほどの感情エネルギーを兼ね備えているのにもかかわらず、今日殆ど名前があがってくることはなく、言わば埋もれた、忘れられた存在のようになっている演奏家もめずらしいのではないか。
このシベリウスの協奏曲の演奏は間違いなく超名演だと思う。
とくに第2楽章が素晴らしい。忙しい人でもこの第2楽章だけでも是非聴いて欲しい。
必ず心に感情が湧き出てくるに違いない。

クリスチャン・フェラスが不幸な死を遂げたことは本当に残念でならない。
これほど素晴らしいものを持った人が何故?。
輝かしい栄光の陰に、底なし沼のような恐ろしいほどの孤独感、深い葛藤の苦しみがあったのであろうか。
刹那的でない死の遂げ方は自分ではどうすることも出来ない心の闇、絶望感を長く持ち続けていたからではないかと推測する。

第2楽章の終わり近くで、彼の表情がアップに映し出されるが、左目の下に光るものが見える。汗か、いや涙ではないか。

クリスチャン・フェラスのことを、彼のためにもこれからも記事に取り上げていきたい。

Sibelius - Violin Concerto in D minor Op. 47 - Christian Ferras
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クリスチャン・フェラス演奏、メンデルスゾーン作曲「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」ライブ録音を聴く

2024-01-18 00:10:11 | バイオリン
2021年8月8日付けの記事で、たなたま偶然見つけたフランスのヴァオリニスト、クリスチャン・フェラス(1933-1982)の弾くバッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番のステレオ録音の感想を記事にしたことがあったが、今日Yotubeでクリスチャン・フェラスが弾く、メンデルスゾーン作曲「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」ライブ録音を見つけた。

1つはアレクサンダー・ブロット指揮、モントリオール・カナダ放送管弦楽団との共演で1964年(?)に録画された放送録音と思われる。

Mendelssohn: Violin Concerto in E minor, Op.64 // Christian Ferras


もう一つは、ボーゴ・レスコヴィチ指揮、ケルン放送交響楽団との共演によるライブ録音。

Christian Ferras plays Mendelssohn's Violin Concerto (live)


どちらも素晴らしいが、ボーゴ・レスコヴィチ指揮のほうがわずかにいいかもしれない。
アレクサンダー・ブロット指揮との共演のビデオを見て驚いたのは左指を殆ど全く見ていないことだ。
目をつぶり名から演奏するシーンも多く、あたかも盲目のヴァイオニリストが演奏しているに見える。
ヴァイオリニストでこのような演奏スタイルは見たことが無い。体の揺れも少ない。
曲を完全に手中に収めている演奏、音楽との完全な一体化を成し遂げた演奏だ。
そこには頭(意識)で指を追うといようなものは入り込んでいない。
潜在意識の領域で演奏しているとしか思えない。

しかし素晴らしい演奏だ。30歳過ぎてからのもっとも力がみなぎっていた頃の演奏であろう。
今まで聴いたこの曲の演奏で素晴らしいと感じたのは、ヨハンナ・マルツイやチョン・キョンファの演奏であったが、この2人の演奏ととも最高レベルに位置するものだと感じている。

クリスチャン・フェラスはパリ音楽院を首席で卒業し、スヘフェニンヘン国際コンクールで優勝、ロン=ティボー国際コンクールで1位なしの2位となるなど輝かしいコンクール歴を持ち、ジャン=ピエール・ランパルやジョルジュ・エネスコ、パブロ・カザルスやヴィルヘルム・ケンプとも共演したという。
そして1960年代に入り、カラヤン指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演して、ドイツ・グラモフォンから協奏曲のステレオ録音を多数出すなどの活躍を見せていた。
1975年にはパリ音楽院の教授の座についたが、1970年代の頃からアルコール中毒、ギャンブル依存症、うつ病になり、演奏活動から退いたという。
1982年、楽壇に復帰したが、8月25日の演奏会の3週間後、自宅アパートの10階から投身自殺で亡くなった。

1960年代まで見せていた自信に満ちたよどみない完璧な、エネルギーがほとばしるような演奏が次第に出来なってきて苦しんでいたのであろうか。
栄光と挫折という2極の人生を味わい、最後は悲しい死に方をした。
妥協を許さず、完璧を常に自分に課す厳しい自分との葛藤に苦しんだのかもしれない。
高い才能のある音楽家だっただけに、このような人生の終わらせ方はあまりにも寂しく悲しいことだ。

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運指クイズに挑戦(2)【解答】

2024-01-15 20:55:06 | ギター
今日は強い冷たい北風の吹く寒い1日だった。
こういう日にギターを外に持ち出すのは危険だ。
まず湿度が異常に低くなっているし、気温も低いので、板が縮んで割れてしまう恐れがある。
室外と室内の急激な温度差にも気を付けたい。

1月12日付け記事に投稿した運指クイズ2回目(現代ギター1983年5月号より)の解答だが、予想に反して問題Aも問題Bも正解だった。
現代ギター1983年6月号に掲載された中川氏の解答は下の写真のとおり。

【問題Aの解答】







【問題Bの解答】



自分の(汚い!)答案を再掲する。





魔笛は以前(といってもだいぶ昔だが)弾いていたことがあり、使用した楽譜は現代ギター臨時増刊「名曲演奏の手引き Part Ⅰ」に掲載されていたものだったが、問題Aの運指は必然的にこの楽譜のものと同一となった。特段、変更する余地が思いつかなかったからだ。
しかし問題Bの右指の運指は先の楽譜の運指、a⇒i⇒m、i,mとせず、m⇒i⇒a、i,mとした。
前者の運指だとm指を連続して使用することになり、わずかながらロスが発生すると考えたからだ。
中川氏の解説も同様のことが書かれていたが、同じ指の重複を意識しなければ出だしの指はaにしてしまうのが普通だ。
しかし試してみると、m⇒i⇒a、i,mの方が僅かながら軍配が上がるような気がする。

ここで学んだ運指のルールは、

「速いパッセージでは同じ右指を連続して使用しない」

ということになろうか。

ちなみにイエペスは下の写真の運指を採用していた。(下の写真の以降の部分は中川氏の運指と同一)



イエペスの運指も熟考の末に決定されたに違いない。
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久しぶりに前奏曲ハ短調を弾いた

2024-01-14 21:05:50 | ギター
久しぶりにバリオスの前奏曲ハ短調を弾いた。
やはり左指が難しい。
たしかヘスス・ベニーテスはこの曲を調を変えて(低い方の調)録音していたが、この曲のキーとしてはハ短調しかありえない。
自分としてはホセ・ルイス・ゴンサレスのように心に食い込んでくるような音が理想
音がビリ付かない前提で最小限の力で弾くことを意識してまた再挑戦だ。

久しぶりの前奏曲ハ短調 2024年1月14日夜

【追記】

今日この曲を久しぶりに弾いて感じたけど、短くシンプルな構成ながら、悲しみと美しさという要素を同時に極限まで表現した名曲中の名曲だと思う。
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「傾聴」の重要性

2024-01-13 22:17:59 | 心理
今日、オンラインで産業カウンセラー養成講座の説明会を受けてみた。
産業カウンセラーとは、企業などに派遣され、そこで働く人々のメンタルヘルス、すなわちカウンセリングを手段として心の健康を維持できるよう手助けをする仕事を担う人のことを言う。
受講期間は10か月ほどだが、スケジュールを訊くと今年の受講は無理そうだった。
講座が土日中心のため、マンドリンクラブの活動と重なってしまうためだ。
なので来年、千葉のマンドリンクラブを休部して受講するか、今年4月からの再雇用後の勤務形態(勤務日数)を変更するなどして時間を確保しようと考えている。

今日受けた説明会で短時間であったが、傾聴法によるカウンセリングの基本が実体験でわかるワークがあり、そこで解説してくれた協会の方の対応がとても良かった。
この産業カウンセラーによるカウンセリングは、「傾聴」を基本とした来談者中心療法(カール・ロジャースが提唱した心理療法)を採用している。
昨今、来談者中心療法は古いやり方だとみなされ、NLPや暗示療法、スピリチュアルなどによるエネルギーワークなど短期解決を前面に謳う療法が中心になりつつある傾向だが、今日の説明会で、やはり人の心に大きな変化をもたらすのは小手先のテクニックではなく、人間の生の気持ち以外に無いという思いをあらためて考えさせられた。

今日の説明会の参加者の受講目的はアンケートによると「スキルを身に着けたい」という目的が多かったようだが、私は「人の役に立ちたいから」という項目を選んだ。この項目は私一人だけだったようだ。
私はこれまでカウンセリングなど数多くの心理療法は長きに渡って受けてきたが、心に大きな変化を感じたのは、それはたった1回だけであったが、当時、上智大学教授の故、小川捷之氏(山王教育研究所初代代表)のカウンセリンを受けたときしか記憶にない。
ロジャース派による来談者中心療法でも適性が全く無い、人の心に対する感性、感受性が鈍い、人の話を聴けない、などといったプロのカウンセラーはたくさんいる。
それはクライアントとして私が身をもって体験してきたことでもあるからだ。

近年、ネットで派手に心理セラピスト養成講座への受講を誘うサイトを目にするが、こういうのはたいがい心理療法をビジネス化している方であり、年商何億とかアピールすることが目的となっており、注意を要する。もちろん全てとは言わないがその内容は十分な実証もせずに拙速的に作成されたものもある(実際に体験有り)。
本当に実力のある方は、宣伝もせず、場末でほそぼそと一人ずつ丁寧に仕事をしているものではないかと思う。

企業などの職場内の人間関係で心を病む人は多い。
37年間の職場体験で、実に多くのさまざまな人と仕事をしてきたが、どこの職場にも危険な人は必ずいる。
驚くことに、一生記憶から抜けない程のダメージを与えるようなことを平然と言う人がいる。
ウソをつく、ミスを巧妙に隠ぺいする、他人になすりつける、思いつきで面倒なことを人に振る、虚偽の密告をする、他人の成果を自分のものとするといった、こういう幼稚園児レベルなことは日常よくあることだが、人の心に破壊的なダメージを何の罪悪感もなく与える人が一定数おり、そのような人から被害を受けた人を守り、立ち直ることを支援するためにメンタルヘルス、すなわち産業カウンセラーが必要なのである。

人の心に何の罪悪感もなくダメージを与えることの出来る人というのは、間違いなく心の病んだ人である。しかしそのことに本人は気が付いていない。
安全なターゲットを選んで、傷口から絶えず湧き出てくる膿を吐き出しているのである。身に危険を及ぼす相手は決して選ばない。計算高い人たちである。
そのような人は、目つきを見れば分かる。濁っているか、狡猾な光を放っている。
そして窮地に追い込まれると本性をあらわにする。頭隠して尻隠さずとはこのことである。

自分の身を守るためにはこのような人物と極力関わらないことが必須だ。
でももし万が一、このような人物から大きなダメージを受けたとしたら、徹底的に戦うことも必要だ。上司であろうが関係ない。捨て身で臨むのである。私はこのことを実行して救われたことが何度かあった。
リスクはあるが「この人を安易に攻撃したらこっちがダメージを食らう」ぐらいの反撃をする覚悟でないと複雑で難しい人間関係を生きていけないのが今の職場環境の現状であろう。

人は心の暖かい人に触れてはじめて安心感を感じ、ありのままの自分を開放するものだ。
傾聴とは決して形式的なテクニックではなく、実は人間的に成熟して初めて可能な行為であることが分かる。
傾聴が出来るか出来ないかというのは、人の心理的成熟度を測るバロメーターだと思っていいだろう。
職場でも傾聴の出来る方はごくわずかである。たいていは、自分の話ばかりしている。
管理職でも、相手が話をしている途中でさえぎってまでも自分の話を通そうとしたり、相手が言葉を選んでいる一瞬のスキをついて自分の話をし出す輩もいる。また相手の言わんとすることを先取りして発言して自分の優位性を確保しようとする人もいる。
とにかくこういう人たちがかなりいるのだ。笑ってしまうけど。

飲み会でも相手の話にじっくりと耳を傾けたり、自分の話題よりも相手から話を引き出そうとする方をたまに見かけるが、このような方は対人関係でかなり鍛えられてきた人だと言える。
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