緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

2024年初録音「アラビア風奇想曲」

2024-01-03 21:38:40 | ギター
2024年新春初録音は「アラビア風奇想曲」。
出来はあまりよくないがアップしておく。

右手手の平に夥しい汗をかいて弾いたアラビア風奇想曲 2024年1月3日夕方
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起きてくる感情を注視する

2024-01-03 20:21:21 | 心理
毎日読んでいる心理学の本で、昨年暮れ、トイレで読んでいたときにある一節で気付きがあったので記録しておきたい。

テーマは「起きてくる感情はその人の本質を表しているのか」というものだ。
この本の説明によると、どんな感情であれ、自身の内側の価値観を使い、判断を下した結果として起きてくるのだという。
感情というものは、無意識の領域において下された、判断に基づいて引っ張り込んだエネルギーであり、その人の本質を表すものではないと。
つまり過去のある体験に対し自身が解釈し、受け止め、判断を下したことで潜在意識の深淵に沈みこんだ価値観、観念、評価などが、ある出来事を契機に意識上にまでのぼり、その価値観等でジャッジすることにより感情は起きるということである。

とても抽象的な表現となったが、具体例で考えてみたい。
学校のある先生が2人の生徒に対し、一方の生徒(A)には丁寧で熱心な対応をとったが、もう一方の生徒(B)にはぞんざいで軽んじる態度を見せた。
この対応の結果、生徒Bは傷つき、みじめで悲しい思いをした。
このとき生徒Bの心にどのようなことが起きていたであろうか。
恐らく生徒Bの潜在意識には、過去の親や兄弟、祖父母、学校の先生、友達などとの不幸な関係から、「自分は愛されるに値しない人間だ」、「自分は人から相手にしてもらえない駄目な人間だ」、「自分は人から軽く見られて当然の人間なんだ」という自己否定的価値観、観念が刷り込まれ、強固に定着している可能性が高い。
ぞんざいな態度をとられた、という出来事をきっかけに、これらの自己否定的観念が意識上に昇ってきて、この観念によって自らを傷つけた結果としてみじめ、悲しいなどの感情が起きたのである。

誰でも人からぞんざいな扱いを受けたら、その瞬間は腹が立つものだ。しかしその後に感情をひきずらずに忘れてしまう人もいれば、いつまでもその出来事を覚えていて負の感情が渦巻いている人もいる。
その違いは何なのだろうか。
ぞんざいな扱いに影響されない人というのは、「自分はそんなぞんざいな軽くあしらわれるようなことには無関係だ」、「そのような扱いはお門違いで、それはそのような態度を取る側の問題で自分には関係ない」と、無意識的に解釈できる人である。要は自分にあてはまらないと瞬時に切り捨てることが出来る人であろう。
あるいは、「相手はたまたま機嫌が悪かったのだろう、虫の居所が悪かったにちがいない」、とか「あの人は昔いじめられたり、比較されて育てられたりしてひねくれてしまった過去があるかわいそうな弱い人なのかもしれない」、「あの先生は残念ながらAの方がお気に入りなんだ。もしかしてAが好きなのかもしれない」などという受け止めかたもすることもあるだろう。
それに対してBのように影響を受ける人は、過去の体験記憶から「学校の先生、上司、目上の人、偉い人」などの言うことは常に絶対的に正しく、そのような立場の人からぞんざいに扱われたら、100%、どんな場合においても自分に非があると受け止める。そして同様の繰り返しの体験の積み重ねで負の感情をため込んでうつ病になったっり、慢性的な対人恐怖症になっていく。

起きてくる感情によって人は潜在的にどのような価値観、観念、人に対する受け止め方、自分に対する評価といったもの(=判断基準)を持っているか、知ることができる。
「感情はその人の本質を表しているわけではない」ということを常に肝に銘じて、起きてくる感情を注視し観察することで、心の苦しみの解決に近づくことが出来ると思っている。

【追記】
非常に大事なことだが、上記生徒Bのように否定的価値観や観念、自己評価により負の感情に苦しんいることを否定してはいけない。
心の苦しみの解決のスタートライン、分岐点は、この負の感情に恒常的に苦しんでいる自分を無条件に受け入れ、肯定することである。
この作業は大変難しいのであるが、自分のこれまでの生き様を客観的に主観を入れずありのままに振り返ることで可能となる。そのためには心理学的知識も必要となるに違いない。
多くの人は、負の感情に苦しんいる自分を受け入れることが出来ず、それどころか嫌い、憎み、今すぐにでも抹殺したいという願望を動機に、誤った解決方法を採ることでますます苦しみの泥沼にのまれていく。

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