NHK放送博物館の中にある愛宕山ホールにて愛宕山文化講座 林真理子さん「小説を書く時間」を拝聴してきた。土曜日だというのに、整理券をGETするべく朝早くに起きた。(休日の午前中に起きることを私の中では早起きと言う)
12時に整理券をGETし、13時15分の集合まで時間があったので、NHK博物館内を散策。
玉音盤や昭和天皇の「終戦の詔書」、週刊こどもニュースの原稿、冨田勲のアナログシンセサイザー(MOOGⅢ)などを見物。また実際に使用されていた「にこにこぷん」のぬいぐるみにも会えて嬉しかった。(撮影はできるみたいだったのだが、手続きが困難な為、断念)
13時15分。
ホール前に整理番号順に並び、その順番通りにホールの中に入る。自由席。比較的前の方の席に座れた。
オーディエンスは殆どが団塊の世代かそれ以上。隣の椅子に座っていた人なんておばあちゃんだ。毎日新聞に掲載されていた「下流の宴」で林先生に興味を持って来たらしい。
14時。
林真理子先生、登場!白のジャケットが初夏を先取りしていて素敵だった。
林先生ファン歴16年の血がどくどくと流れているのを感じた。大興奮。
「どうも。林真理子です」
席に座るなり、ダーっと話し始めた先生。
エンジン01という文化人の団体に所属なさっている林先生は、昨年、その仲間とミュージカルをやった。それが大変楽しかったらしい。「遊ぶときもきっちりと」という信条がとても素敵だ。
ベストセラーになった「下流の宴」の誕生秘話も披露してくださった。
由美子の母、美津江のモデルは林先生のお母様だとのこと。薄々は気付いていたけれども、やはりそうだったのか!
小説「本を読む女」のモデルにもなったあの誉れ高いお母様である。幼少時代、「赤い鳥」に作品を投稿し、鈴木三重吉に誉められた才女だったお母様。
そんな優秀なお母様に育てられながらも、林先生は、…「ホント、駄目な子でした」と自身を振り返る。
学校から帰ると、制服のままで店の漫画(林先生のご実家は書店をなさっていた)を読みながらお菓子を食べていたそうだ。
大学入学のため、上京する林先生にお母様は
「私ができることはここまでよ。あとは自分でやっていきなさい」
と言った。
まあ自分はそこまで悪いレベルではないだろうと思っていた林先生だったが、就職活動では、もらった不採用通知、怒濤の50通!「面接のとき、前の子は20分ぐらいかかっているのに、私は面接の椅子にすら座れず、入って名前だけを確認されすぐに『帰っていいよ』と言われた。いつも数秒で終わっていた。」と自虐的に仰っていた。秒殺?
友達のツテで植毛のバイトをしつつ(1本200円)、「毎日おじさんの頭ばっかり見ているわけにいかんだろ」と思いながら過ごしていた日、同じ池袋のアパートに住んでいた人との会話で「コピーライター」という職業があることを知る。働きながら夜学でコピーライターの学校に行き、広告プロダクションに入社したものの、「だっせー女」と罵られる毎日が待っていた。
あのときの屈辱は忘れられないのだそうだ。
1981年、西友ストア向け広告コピー「つくりながら、つくろいながら、くつろいでいる。」でTCC(東京コピーライターズクラブ)新人賞受賞。エッセイ「ルンルンを買っておうちに帰ろう」を皮切りに、処女作「星影のステラ」を出した。
小説を書いているときはトランス状態になっているらしい。田辺聖子氏が「小説を書いているときは神様が降りてくる」と言っていたがその感覚が理解できるとも言っていた。
そんな林先生は朝6時に起きて、ご飯を作り、娘を駅まで届けて、ママ友とお茶をし、それから小説を書くそうだ。
午後は取材などをこなし、そしてまた書いて、食事会などに出席して就寝するとのこと。
忙しくても集中力があるので、新幹線の中やスタバでガーッ!っと書けるそうだ。
年配の親の元に生まれ、少女の内から「死」を感じていた林先生。その影響か、自身の書く小説は決して明るくないと言っていた。
「下流の宴」は売れている。しかし、村上春樹の「1Q84」の第3巻となる「BOOK3」と時期が被ってしまったことについてお嘆きになられていた。
作家は大変だ。
でも体が動く内は、たくさん働いて、仲間たちとたくさん遊びたいと言っていた林先生。
質問の時間では、普段は表沙汰にしない娘さんのことも話してくれ、母としての一面を見せてくださった。昨日も娘さんの保護者会があり、帰宅後、三田佳子の特集番組を娘さんと一緒に鑑賞し、「クスリと万引きだけはしないでね!もしそんなことをしたら、ママ、こんな風に記者会見しなけりゃならないのよ。わかった?」と諭したらしい。ワロタ。
楽しい時間はあっという間に終了。
来週はサイン会、来月は講義に行く予定。
2010年、葉桜の季節は、まさに林真理子先生一色だ!
12時に整理券をGETし、13時15分の集合まで時間があったので、NHK博物館内を散策。
玉音盤や昭和天皇の「終戦の詔書」、週刊こどもニュースの原稿、冨田勲のアナログシンセサイザー(MOOGⅢ)などを見物。また実際に使用されていた「にこにこぷん」のぬいぐるみにも会えて嬉しかった。(撮影はできるみたいだったのだが、手続きが困難な為、断念)
13時15分。
ホール前に整理番号順に並び、その順番通りにホールの中に入る。自由席。比較的前の方の席に座れた。
オーディエンスは殆どが団塊の世代かそれ以上。隣の椅子に座っていた人なんておばあちゃんだ。毎日新聞に掲載されていた「下流の宴」で林先生に興味を持って来たらしい。
14時。
林真理子先生、登場!白のジャケットが初夏を先取りしていて素敵だった。
林先生ファン歴16年の血がどくどくと流れているのを感じた。大興奮。
「どうも。林真理子です」
席に座るなり、ダーっと話し始めた先生。
エンジン01という文化人の団体に所属なさっている林先生は、昨年、その仲間とミュージカルをやった。それが大変楽しかったらしい。「遊ぶときもきっちりと」という信条がとても素敵だ。
ベストセラーになった「下流の宴」の誕生秘話も披露してくださった。
由美子の母、美津江のモデルは林先生のお母様だとのこと。薄々は気付いていたけれども、やはりそうだったのか!
小説「本を読む女」のモデルにもなったあの誉れ高いお母様である。幼少時代、「赤い鳥」に作品を投稿し、鈴木三重吉に誉められた才女だったお母様。
そんな優秀なお母様に育てられながらも、林先生は、…「ホント、駄目な子でした」と自身を振り返る。
学校から帰ると、制服のままで店の漫画(林先生のご実家は書店をなさっていた)を読みながらお菓子を食べていたそうだ。
大学入学のため、上京する林先生にお母様は
「私ができることはここまでよ。あとは自分でやっていきなさい」
と言った。
まあ自分はそこまで悪いレベルではないだろうと思っていた林先生だったが、就職活動では、もらった不採用通知、怒濤の50通!「面接のとき、前の子は20分ぐらいかかっているのに、私は面接の椅子にすら座れず、入って名前だけを確認されすぐに『帰っていいよ』と言われた。いつも数秒で終わっていた。」と自虐的に仰っていた。秒殺?
友達のツテで植毛のバイトをしつつ(1本200円)、「毎日おじさんの頭ばっかり見ているわけにいかんだろ」と思いながら過ごしていた日、同じ池袋のアパートに住んでいた人との会話で「コピーライター」という職業があることを知る。働きながら夜学でコピーライターの学校に行き、広告プロダクションに入社したものの、「だっせー女」と罵られる毎日が待っていた。
あのときの屈辱は忘れられないのだそうだ。
1981年、西友ストア向け広告コピー「つくりながら、つくろいながら、くつろいでいる。」でTCC(東京コピーライターズクラブ)新人賞受賞。エッセイ「ルンルンを買っておうちに帰ろう」を皮切りに、処女作「星影のステラ」を出した。
小説を書いているときはトランス状態になっているらしい。田辺聖子氏が「小説を書いているときは神様が降りてくる」と言っていたがその感覚が理解できるとも言っていた。
そんな林先生は朝6時に起きて、ご飯を作り、娘を駅まで届けて、ママ友とお茶をし、それから小説を書くそうだ。
午後は取材などをこなし、そしてまた書いて、食事会などに出席して就寝するとのこと。
忙しくても集中力があるので、新幹線の中やスタバでガーッ!っと書けるそうだ。
年配の親の元に生まれ、少女の内から「死」を感じていた林先生。その影響か、自身の書く小説は決して明るくないと言っていた。
「下流の宴」は売れている。しかし、村上春樹の「1Q84」の第3巻となる「BOOK3」と時期が被ってしまったことについてお嘆きになられていた。
作家は大変だ。
でも体が動く内は、たくさん働いて、仲間たちとたくさん遊びたいと言っていた林先生。
質問の時間では、普段は表沙汰にしない娘さんのことも話してくれ、母としての一面を見せてくださった。昨日も娘さんの保護者会があり、帰宅後、三田佳子の特集番組を娘さんと一緒に鑑賞し、「クスリと万引きだけはしないでね!もしそんなことをしたら、ママ、こんな風に記者会見しなけりゃならないのよ。わかった?」と諭したらしい。ワロタ。
楽しい時間はあっという間に終了。
来週はサイン会、来月は講義に行く予定。
2010年、葉桜の季節は、まさに林真理子先生一色だ!