非国民通信

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ヤミの小田原方式

2017-04-09 22:32:33 | 社会

生活保護担当職員の「意識弱かった」 小田原、検証報告(朝日新聞)

 神奈川県小田原市の生活保護担当職員が「保護なめんな」などとプリントしたジャンパーを着ていた問題で、有識者らの検討会は6日、「生活困窮者への支援者としての意識が弱かった」とする検証報告書を市長に提出した。信頼を回復するため、市の他部署や地域と連携して困窮者に寄り添うよう提言した。

 市内では2007年、生活保護の支給を打ち切られた男が担当職員を負傷させる事件が起きた。報告書では、この事件後、受給者とのやり取りなど職員の負担が重く、改善の必要があるのに他部署に認識されず、「組織的な孤立につながった」と指摘した。

 市職員へのアンケートで、生活保護担当への配属を望まない職員が66%に上った。改善策は「異動したくなる職場」「女性も働きやすい職場」に変える目標設定も提言。報告書は今回の問題の犠牲者は、屈辱的な思いをした受給者だとした。1月末までに市に届いた批判は1138件、擁護も956件。「不正受給を許してはならないという考えは理解できる」という声も寄せられたという。(村野英一)

 

 さて市職員がヘイト文言の入ったグッズを作成、頒布していた小田原の問題ですけれど、検証報告と称して幕引きを計ろうとしていることが伝えられています。問題の発覚当初、職員を処分しないと緊急記者会見で明言していた小田原市ですが、その後も方針は変わらないのでしょうか。生活保護受給者を貶めても無罪放免、差別や偏見を煽り立てる行為を10年ばかり職場で繰り返していてもお咎め無しというのなら、公務員とは起立して君が代さえ歌っていれば許されるポジションなのかも知れませんね。

 なんでも「市に届いた批判は1138件、擁護も956件」とのことで、ほぼ同数に近いです。各紙の報道の踏み込みの甘さを鑑みるに、マスコミ関係者の中にも小田原市を擁護したい人もいるのでしょうか、ここに引用した記事も「伝える箇所が選ばれているな」という印象が拭えません。例えば発端とされる「生活保護の支給を打ち切られた男が担当職員を負傷させる事件」について詳細を伝えた新聞はどれだけあるのでしょう?

 2007年の事件は、アパートを追い出されて連絡が付かなくなった受給者への生活保護支給を市が打ち切ったことに始まります。この後、保護費が振り込まれていないことに気づいた受給者が市役所の窓口に抗議し、悶着が起こったそうです。住居を失った生活保護受給者に打ち切りという追い打ちをかければ、文字通り「窮鼠猫を噛む」という事態に発展しても不思議はありません。暴力で解決しようとするのは許されないとしても、情状酌量の余地はあります。

 しかるに事件後の小田原市の対応と言えば、なんとヘイトグッズの作成でした。「保護なめんな」と書かれたジャンパーを着て生活保護受給者宅を訪問し、マウスパッドや携帯ストラップまで市役所内で配り出す始末、そんな行為が10年ほど問題視されることなく続けられてきたのですから、いかに小田原市役所という組織が自浄能力のない腐りきった代物であるかが分かるというものです。

 言うまでもなく2007年の事件、不正受給云々とは全く無関係です。しかし「不正受給を許してはならないという考えは理解できる」という、事実関係をねじ曲げた解釈で小田原市を擁護する人もいて、それを無批判に伝えるメディアもあるわけです。もし仮に小田原市(の職員)が不正受給によって何らかの損害を受けた、それによって苦しんだというのなら、「不正は許さない」と主張するのも流れとしては分かります。しかし、不正受給とは関係ないところで起こった事件を契機に「不正受給は~」と言い出すのなら、それは屁理屈にすらなっていません。

 そもそも今回の報告書では「問題の犠牲者は、屈辱的な思いをした受給者」とされていますが、「犠牲者」の声は聞いたのでしょうか。実際の生活保護受給者が小田原市職員からどのような扱いを受けてきたのか、この辺の被害状況だって調べられるべきです。もちろん、そんなことをすれば問題は間違いなく大きくなる、早期に幕引きを計りたい小田原市の思惑とは真っ向から対立してしまうのかも知れません。しかし、だからこそ第三者による踏み込んだ調査が望まれると言えます。

 もう一つ、今回の報告書で誤っているのは生活保護担当者の「組織的な孤立~」云々ですね。これはむしろ孤立ではなく「独立」ではなかったのか、と。つまりは悪い意味での「自治権」が与えられていた、だからこそヘイトグッズの作成・頒布という異常行動が許容されていたところもあるのではないでしょうか。第三者の監視の目が適切に機能していれば、もう少し事態は違ったはずです。しかし現実には野放しにされていた、好き放題が許されていたのですから。

 問題の職員達は「私たちは正義」とも掲げていたわけです。この辺、名高いスタンフォード監獄実験を思い出させます。つまりは被保護者の生殺与奪の権を握った職員達は、その役割に瞬く間に酔いしれていったのでしょう。自分たちこそが「裁く」立場なのだ、と。理性の歯止めは失われ、生活保護受給者という「容疑者」の中に「不正」を見出す、それこそが彼らにとって「正義」であったと言えます。「生活困窮者への支援者としての意識が弱かった」などと、そんな次元ではありません。もっと別の独善的な欲望が強かったからこそ、職員達は審問官ごっこを続けてきたのです。

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