非国民通信

ノーモア・コイズミ

自衛隊が好きすぎて

2014-02-20 23:21:17 | 社会

 2007年、インド洋での海上自衛隊の給油活動について国会で問われた福田首相(当時)は、兵站は憲法9条が禁じる武力行使に当たらないとの見解を示しました。まぁ、戦地に送った兵士を専ら交戦する前に餓死や病死に至らせた大日本帝国の精神を受け継ぐ政治家らしい考え方と言えるでしょうか。前線で戦うことこそが武力行使であり、後方でその活動が可能になるよう支援することの意味を軽んじているわけです。給油活動を含めた後方支援なくして戦線が維持できようはずもないのですが、武力行使の一面だけしか見ることができない人もいるのです。

 ……で、何か危機的な事態が起こったときに出動する立場の人もいて、まぁ消防なり警察なり自衛隊なり、急を要する場合には「普通の」公務員もそうですし民間の技術者などもまた駆り出されることになります。そんな中でも独占的かつ大々的そして例外的に世間からの「感謝」を集めるのは自衛隊で、日本人とはつくづく自衛隊が大好きな国民性なのだなぁと思うところですが、なぜ自衛隊はこうも日本社会から好意的に迎えられているのでしょうか。

 まだ記憶に新しい東北の大震災では、まさに緊急事態として専門外すなわち「普通の」公務員もまた支援に送り込まれました。しかし活躍が喧伝されるのは自衛隊ばかり、感謝の催しが開かれるのも自衛隊に向けたものばかりと、ちょっと自衛隊「以外」の人が気の毒に見えてくるところもあります。「普通の」公務員を公然と罵倒することで有権者の拍手喝采を浴びてきた政治家は枚挙に暇がありませんが、同じことを自衛隊員に対して行った議員は皆無です。自衛隊は民間企業の研修先として最も人気がある一つで「自衛隊に学べ」という発想は根強いですが、「普通の」公務員の職場へ研修のために新人を送り込む企業は見たことがありません。あぁ、我々はどれほど自衛隊を崇めていることでしょう。

 結構な数の冤罪を作りだしていることもあって風当たりの強い警察組織ですが、まぁ警察に批判的な人であろうと道を尋ねられれば警官は教えてくれますし、犯罪に巻き込まれれば出動する、警察に批判的な人だからといって「守る必要がない」などとは考えられないものです。あるいは「普通の」公務員への誹謗中傷に血道を上げている市民が相手でも然り、各種の届け出はしかるべく処理され、公務員に批判的な人だからと言って市のサービスの対象に含めなくても構わないなどとは、やはり考えられません。

 ところが例外はやはり自衛隊、自衛隊に否定的な人まで守る必要はない云々、自衛隊に批判的な人まで守ってやらねばならないのだから自衛隊は大変なのだ云々と、他の公務員なら当たり前のはずのことが、自衛隊だけは特別な賞賛の対象になってしまうわけです。自衛隊だって、隊員をイジメで自殺に追い込んで調査資料を隠蔽したりとか隊員を相撲部屋よろしく事実上の暴行で死に追いやったりとか色々あるのですが、大方の日本人はそんなことなど気にしませんし。

 冒頭で上げた福田康夫と、世間の考え方はあまり変わっていないのだとも思います。つまり「本分」として「前線で戦うこと」が想定されていて、アメリカ軍の後方支援なり災害救助なりは本業ではない、本業ではないのに「好意で」やってくれていることという感覚があるのではないでしょうか。店員が配膳してくれるのは当然のことと受け止めるけれど、同僚が料理を持ってきてくれれば礼を言うようなものです。市民のために働く公務員が被災地で奔走するのは当たり前、警察や消防、医療関係者や専門の技術者がそれぞれの職務を果たすのは当たり前、しかし自衛隊が災害救助活動に当たるのは「当たり前のことではなく、ありがたいこと」と、そう受け止められているように感じますね。

 

「除雪目的では難しい」埼玉県、秩父市の自衛隊派遣要請を断っていた(産経新聞)

 14日の大雪で住民が孤立した埼玉県秩父市が15日以降、同県に自衛隊の災害派遣要請をするよう複数回にわたって電話で求めたが、県は「除雪目的では難しい」などと派遣要請を断っていたことが18日、県などへの取材で分かった。県の自衛隊への派遣要請は17日午後6時半にずれ込んだ。同市の久喜邦康市長も「再三要請したが県から断られた」と不快感を表明した。

 県消防防災課によると、15日夕に久喜市長から電話を受け、県は陸上自衛隊大宮駐屯地の第32普通科連隊に派遣を打診。「除雪だけが目的では派遣はできない」と回答があったという。県は「道路開通の見通しが全く立たないという状況ではない」(上田清司知事)と判断し、市の求めに応じなかった。

 

 一方、埼玉県は上田知事が市からの自衛隊派遣要請を断っていたことが伝えられています。この辺、単に対応の遅れを非難する至極当然の声もあれば、時に自衛隊の活躍を夢見て止まない人々からも怨嗟の声が湧いているところです。そもそもこの民主党の支援で当選した埼玉県知事、「新しい歴史教科書をつくる会」の賛同者として教科書採択に口出ししたり、「保守」の精神的バックボーンである統一教会に祝電を送ったりするなど極右の歴史修正主義者として知られる人物でもあるのですが、どうにも「自衛隊派遣拒否」→「自衛隊を快く思わないからだ」みたいに勘違いしている同類もチラホラ。

 2007年、上田知事は「自衛官の人は、平和を守るために人殺しの練習をしている。警察官も、県民の生命や財産を守るために、人を痛めつける練習をする。だから我々は『偉い』と言って褒めたたえなければならない」と語りました。この発言の前半部だけを切り取ってツィートなどしている人も見かけるのですけれど、これは言うまでもなく自衛隊批判の文脈ではなく賞賛の台詞です。靖国神社が戦死することを忌避するのではなく美化するのと同じように、知事の頭の中では「人殺しの練習をしている」ことは褒め称えられるべきことであって非難されるべきものにはなっていないのですから。

 そんな上田知事が自衛隊派遣要請に渋ったのは何故でしょう。この辺は「安易に救急車を呼ぶな」とか「そんなことで警察に通報するな」みたいに連呼する人々と似たような感覚があったのではないかと推測されます。知事にとって自衛隊の本分とは前線で戦うことであって住民の災害救助ではない、除雪ぐらいで自衛隊の手を煩わせるべきではないと、そう考えたからこその派遣要請拒否だったのではないでしょうか。ある種の人が、他人が救急車を呼ぶのを咎め立てするのと同じようなものです。自衛隊に活躍して欲しくないから派遣要請を拒否したのではなく、「この程度で自衛隊を呼ぶな、その程度は我慢しろ、自分で何とかしろ、自衛隊にはもっと重大な役目があるんだ」と、そんな思いがあってこその判断であったと捉えれば、知事の過去の発言との整合性は取れます。

 

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コメント (8)
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