非国民通信

ノーモア・コイズミ

クレーマー!クレーマー?

2012-09-11 22:03:06 | 社会

 昨年末はノロウィルス「とか」に感染して久々に医者にかかりました。近所の内科医は「キョエェェェ!」「ホキェエェェ!」と子供の鳴き声が響き渡る動物園状態、すっかり具合が悪くなりながらも3時間ほど待って3分程度の診察を受け、「ノロウィルス『とか』だね」と診断されたわけです。高齢者の頻回通院がどうこうだの、とかく世代間対立への落とし込みを好む論者は騒ぎ立てるものですが、医院を占拠していたのは専ら子供達でした。そう言えば夜の7時過ぎとかでもなければ歯医者でも目立つのは子供ばかりだし、最近は行く機会がないですけれど地元の図書館も完全に子供の運動場です。思わず少子高齢化なんてどこに行ったんだろうと首を傾げてしまうところ、まぁ我が町のお年寄りは滅多に外に出てこないのでしょう。統計上は私の住む自治体でも子供の数は多くない、減少傾向にもあるはずですが、それ以上に子供を注意する大人が少なくなったのかも知れません。私自身、何も言えないでいますし。


 さて、こちらは現・世田谷区長のツィートです。いわゆる「モンスター~」がいかにして作られるのか分かるような気がします。何かを求めて訴える人は即座にクレーマー扱い、モンスターペアレンツだの何だのと蔑称が付けられてしまうのですから。そしてこのような風潮の中では何事も黙認して抗う声など上げないのが良識となってしまうわけです。こうした状況下で大半の人は「我慢する」ことを選びます。たぶん、それはいじめの構造とも似たところがあるような気がします。小中学校等において「いじめ」の問題を表沙汰にすることは決して教職員サイドから歓迎されないものです。むしろ対処を訴える生徒には「どうして我慢できないのか」と迫るのが普通の学校教師でしょう。いじめられる生徒が「我慢」してくれれば全ては丸く収まるのに――大津市の事件でも、被害者生徒が自殺するまでは、被害を訴える生徒こそが問題児であり、解決を求める被害者の両親こそ学校の秩序を脅かすクレーマー扱いだったのではないですかね。

 学校教師にせよ自治体首長にせよ、生徒や住民が何も言わずに黙っていてくれれば楽ができます。だから、内に不満はあっても我慢するばかりで声を上げない生徒/住民こそ望まれるものであって、逆に声を上げる生徒/住民は問題児でありクレーマーなのです。実際のところ、何の行動も起こさないからといって不満が鬱積していないわけではありません。世田谷区長の頭の中では保育園の騒音が「温かく」「受容」されていることになっていますが、本当にそうなのでしょうか? 単に我慢しているだけの優等生を、都合良く解釈してはいないででしょうか? 本当は不満がある、だけど子供に文句を言えば非常識なクレーマー扱いされかねない、それを恐れて口をつぐんでいるだけの人も相当数いるはずです。

 何かにつれ日本では「子供を守れ」と喧しいですけれど、子供をダシにすれば何でも許されるような風潮を感じないでもありません。子供のやることに文句を付けるなと、そういう発想があるからこそ騒音被害を訴える人がクレーマー扱いされることにも繋がるわけです。まぁ少子化の時代、「子供」に多少の優遇措置はあってしかるべきとは思います。しかし、「子供」のために周囲が忍従を強いられる、それが当然視された最終到達点はどこにあるのでしょう。それは母親への過剰な責任感の押しつけにも繋がっているような気がします。子供のために周辺住民が我慢するのは当たり前――子供のために母親が自分の私生活を犠牲にするのは当たり前――それはどちらもおかしいです。子供を大切にするからといって、子供「以外」の人間を蔑ろにすることが正当化されるものではありません。

 性的な要素が前面に出ていれば、これ見よがしに憤ってみせる人が多い一方で、ハアハア言いながら子供に黄色い声援を送って憚らないカマトトぶったペド野郎もたくさんいて、そうした人にしてみれば子供の鳴き声はある種の快楽を感じさせるものなのかも知れません。ただ、これは誰にとっても同じものではないはずです。人によっては不愉快に思う人もいるでしょう。あるいは生活サイクルによっても然りです。原発事故後に節電の必要に迫られる中、新たに深夜シフトを導入する企業も増えましたが、夜に働いて昼間に休息を取るような人にとって、昼の騒音は深刻な問題です。世田谷区長の言う「多くの人」には無関係な少数派の都合であろうとも、決して「執拗なクレーム」云々と安易に切り捨てられるべきものではないと思います。区長には快い声であっても、誰もが同じ感性を持っているわけではないのですから。

 あるいは、立場が異なればどうなのか。社民党が推すエセ科学にまみれたデモだって、傍目に見れば「執拗にクレームを連発する人」の集団でしかありません。そういう人々を「まあまあそう言いなさんな」と宥めにかかる人がいたとしたら、社民党出身のこの区長はどう感じるのでしょう。だいたい原発の再稼働だって、わざわざ反対の声を行政府に届けようと行動している人なんて、本当にごく一部です。大半の人は自分から何かを訴えてきたりはしません。ならば「多くの人は温かく原発の稼働を受容しています」と反対派をクレーマー扱いして一蹴したって良さそうなものです。しかし、この区長もまたダブルスタンダードには躊躇いがなさそうですね。自分が肩入れする立場とそうでない立場を相手にするときとで、全く扱いも異なってくるのでしょう。

 子供に好き勝手させる自由か、住民が静かに暮らす権利か、どちらか一方に軍配を上げれば済むものではない中で、区長が明らかに一方の側にのみ立っていることは非常に大きな問題です。保育園が保育園側に、住民が住民側に立つのは当然としても、行政には両方の言い分を聞く責務があります。しかし一方にのみ共感するばかりで、もう一方の主張はクレーム扱いして退ける、一部の少数派を悪者扱いして排除するのは最も簡単な手段ではありますけれど、それは政治手法としてどうなのでしょうか。この区長には明らかに、保育園の騒音によって被害を被る人々への想像力が欠如しています。近年、子供を預ける場所の必要性は増すばかりで、それを大切に扱うのは間違っていませんが、だからといって周辺住民の迷惑を顧みないことが正当化されるものではないはずです。

 「多くの人は温かく~受容しています」と、この区長は一方が「多数派」であると強調しています。逆に「たった一人でも~クレーム」と、被害を訴える声が少数派であることもまた強調しているわけです。まぁ日本は多数決主義の国であり、保坂展人氏も少数派の切り捨てには躊躇いを感じないタイプなのでしょう。この都知事ばりに驕り高ぶった区長に、いかに他者への想像力と共感力が欠如しているかが窺われるところです。少数派(あくまで声を上げる人が少ないと言うだけ)の意見だからといってクレーム扱いして退けて良いのか、「多くの人」が受容しているからといって少数派にも「我慢せよ」と迫るようなやり方が許されて良いのか、主張の是非は単純な多数決によって押し切られるべきものではないと私は考えます。仮に「多くの人」の支持があろうともデマや偏見に基づいたものであれば、それに行政が媚びてはなりませんし、「たった一人」の声であろうとも切実なものもあるはずです。少なくとも私は、「多くの人」の正当性の根拠に持ち出して反対派を押し切ろうとする、このような政治姿勢の持ち主を支持することはできません。

 

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コメント (5)
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