昨夜は,前の職場の同僚たちとの忘年会。年に数回こういう機会があるが,いつも刺激を受ける。ひとつは,国際レベルでの研究競争を戦う彼らと話すことで,衰弱しつつある自分の気持ちを奮い立たせることができる点(その効果の持続性に問題があるわけだが・・・)。もう一つは,ユニークな教育上の工夫を学べることだ。少なくとも後者は,ぼくにも真似ができるはずだ(やる気さえあればの話だが)。
そんな会話(酔話)のなかで,大学で学生にいかに「教養」を教えるか,という話題になった。教養とは何か,それはどうやったら教えられるのか,そもそも誰がそれを教えることができるのか,それを教える意味があるのか,などなど議論すべきことは多い。しかし,それらを適当にスキップできるのが「酔ったうえでの勢い」の効用だ。ただ,翌日になっても「教養」をどう教えるかが少し気になっている。
教養を教えるというのは,古今東西の哲学,物理学や生物学から文学や芸術,ファッションの話題までを語ることだろうか。いま「ふつうの」学生たちに教えるべき「教養」とは,そういうことなのだろうか。そもそも「ふつうの」教師にそんなことができるのか。現実の教育現場で要請されている「教養」は,それに比べてもっと単純なことかもしれない。たとえば,エクセルやパワポの使い方を習得するとか。
もちろんそれより本質的なのが,フィールドの観察から何をつかむか,いかにアイデアを生み出すか,問題をどう解決し戦略を組み立てるか,「買い手」をどう説得するかを体験的に学ぶことだ。そんなことは社会に出てから学べばよいという意見は,いまの時代の速度を考慮していない。だから自分のゼミでは,今後もそうした試みを増やすつもりだ(環境が異なれば,別のやり方があるだろうけど)。
ただ,それでは下手すると「学問」と隔絶してしまう。それでいいのかという疑問が当然生まれる。その点で興味深いのは,チャルディーニの『影響力の武器』を学生に読ませたところ,大変好評だったという三橋さんの話だ。この本は社会心理学の研究を踏まえつつ,誰もが興味を持つ日常の問題を取り上げ,実務に役立つ示唆まで与えてくれる。研究と実務の間の境界線上に奇跡的に立つ書物だ。
理想的には,そこを出発点に研究よりの世界に学生を導いていくというより,研究自体をもっと現実的で実践的な方向に導けないかと思う。それこそ現代の教養であり,研究もまたその生産に加わるべきではないか。チャルディーニのような本はもっと書かれるべきだし,可能ならば自分で書きたい。もっとも,600字×8頁という現下のノルマですら呻吟しているぼくには,見果てぬ夢かもしれない。
そんな会話(酔話)のなかで,大学で学生にいかに「教養」を教えるか,という話題になった。教養とは何か,それはどうやったら教えられるのか,そもそも誰がそれを教えることができるのか,それを教える意味があるのか,などなど議論すべきことは多い。しかし,それらを適当にスキップできるのが「酔ったうえでの勢い」の効用だ。ただ,翌日になっても「教養」をどう教えるかが少し気になっている。
教養を教えるというのは,古今東西の哲学,物理学や生物学から文学や芸術,ファッションの話題までを語ることだろうか。いま「ふつうの」学生たちに教えるべき「教養」とは,そういうことなのだろうか。そもそも「ふつうの」教師にそんなことができるのか。現実の教育現場で要請されている「教養」は,それに比べてもっと単純なことかもしれない。たとえば,エクセルやパワポの使い方を習得するとか。
もちろんそれより本質的なのが,フィールドの観察から何をつかむか,いかにアイデアを生み出すか,問題をどう解決し戦略を組み立てるか,「買い手」をどう説得するかを体験的に学ぶことだ。そんなことは社会に出てから学べばよいという意見は,いまの時代の速度を考慮していない。だから自分のゼミでは,今後もそうした試みを増やすつもりだ(環境が異なれば,別のやり方があるだろうけど)。
ただ,それでは下手すると「学問」と隔絶してしまう。それでいいのかという疑問が当然生まれる。その点で興味深いのは,チャルディーニの『影響力の武器』を学生に読ませたところ,大変好評だったという三橋さんの話だ。この本は社会心理学の研究を踏まえつつ,誰もが興味を持つ日常の問題を取り上げ,実務に役立つ示唆まで与えてくれる。研究と実務の間の境界線上に奇跡的に立つ書物だ。
影響力の武器[第二版]―なぜ、人は動かされるのか,ロバート・B・チャルディーニ,誠信書房 このアイテムの詳細を見る |
理想的には,そこを出発点に研究よりの世界に学生を導いていくというより,研究自体をもっと現実的で実践的な方向に導けないかと思う。それこそ現代の教養であり,研究もまたその生産に加わるべきではないか。チャルディーニのような本はもっと書かれるべきだし,可能ならば自分で書きたい。もっとも,600字×8頁という現下のノルマですら呻吟しているぼくには,見果てぬ夢かもしれない。