愛しきものたち

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国東 熊野磨崖石仏

2010年01月01日 | 石仏:九州

国東半島はその昔、宇佐の巨大権力の元で神と仏が複雑に絡み合う独特の六郷満山文化が発展し、この地独特の石造文化が花開き、今にその面影を色濃く伝えていて 訪れる我々に新鮮な驚きを与えてくれる。

六郷満山文化とは古代の宇佐で生まれた八幡信仰と、古代仏教が融合して「神仏習合=神仏混淆」が生れ、国東半島にある六つの郷では、天台宗と結びつき、山間に多くの寺院を擁立して、独特の仏教文化を花ひらかせました・・・それが六郷満山文化といわれるものだそうです。

六郷満山は八幡神 の化身といわれる仁聞菩薩(にんもんぼさつ) によって奈良時代の養老2年(812)に開かれ 山岳修行の場となり、現在も多くの修行僧が「峯入り」という修行で仁聞菩薩の教えを実践しています。

国東は今でも神仏の境界は無く、神社の鳥居正面に石の仁王さんが立っていたり、何処の神社に行っても当然のように磨崖石仏や仏塔をを見かける。

賽の河原を思わせるような景観の熊野神社本殿横手

国東半島磨崖石仏の代表として君臨するこの熊野磨崖石仏にしても不動明王と大日如来の間には巾子冠を戴き 袍を付ける熊野二神像が刻まれていて、石仏の名が示すとおり磨崖石仏の少し上方には熊野神社が鎮座している。

 日本最大級のスケールを誇ると言う熊野磨崖石仏は鬼が一夜で築いたという伝説のある自然石の乱積みの険しい石段を登ると、左方の巨岩壁に不動明王(8m)と大日如来(6m)が刻まれています

  また、六郷満山の伝統行事である峯入りの荒行は、この不動明王の前で護摩を焚きここを出発点とし、行程150km、約10日間の行に入りるそうです。

熊野磨崖仏管理委員会発行パンフレット転記

昭和二十年二月十五日、国指定史跡に指定され、昭和三十九年五月二十一日、国指定重要文化財に指定された。 国東六郷満山の拠点の一つであった胎蔵寺から山道を約三百米程登ると、鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の乱積石段にかかり、この石段を登ると左方の巨岩壁に刻まれた日本一雄大な石仏は大日如来と不動明王であり、これらの石仏群が熊野磨崖仏である。 伝説では養老二年(七一八年)宇佐八幡の化身仁聞菩薩がつくられたと云われているが、この石仏の造立年代推定資料となる「六郷山諸勤行等注進目録」や「華項要略」等の安貞二年(一二二八年)の項に「大日石屋」「不動石屋」のことが記されているので、鎌倉初期には大日、不動両像の存在が明確である。

また、胎蔵寺が記録にあらわれるのは仁安三年(一一六八年)の「六郷山二十八本寺目録」であるので、磨崖仏の造立は藤原末期と推定されている。

【大日如来像】

全身高さ六・八米、脚部を掘って見ると石畳が敷かれ、地下に脚部が埋没しているのではなく半立像であり、尊名は大日如来と云われているが、宝冠もなく印も結んでいないので薬師如来ではないかとみるむきもあるが、やはり大日如来の古い形ではなかろうか。 頭部の背面に円い光背が刻まれ面相は頬張った四角い顔にとぎすました理知の光と思想の深みが感ぜられ、、森厳そのものであるが、また慈悲の相も感ぜられる。

【種子曼茶羅】しゅじまんだら

円形頭光の上方に三面の種子曼茶羅が隠刻されており、中央を理趣教曼茶羅右方を胎蔵界、左方を金剛界曼茶羅と云われて修験道霊場であったことが証明される。

【不動明王像】

総高約八米、大日如来と同じく半立像で下部はあまり人工を加えていない。右手に剣を持ち、巨大且つ雄壮な不動明王であり、左側の弁髪はねじれて胸の辺まで垂れ、両眼球は突出し鼻は広く牙をもって唇をかんでいるが、一般の不動らしい忿怒相はなく、かえって人間味ある慈悲の相をそなえており、やさしい不動様である。

【神像】

不動明王左脇侍像の外側に高さ一・五米ほどの方形の龕が二つ刻まれており巾子冠を戴き袍を付ける男神像の存在が認められる。この地が熊野神社境内であることを思えば、この二躯は家津御子(ケツミコ)、速玉(ハヤタマ)の二神と想像され右方の崩れた処にも夫須美神が刻まれていたものではなかろうか。

麓に有る胎蔵寺

古びて訪れる人も無い佇まいにユーモラスな顔つきの石造仁王が立っている。

何故か境内正面の石造七福神には銀のシールが張られているのかピカピカで少々不気味でした・・・どういうこと??

撮影2009.12.27

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