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愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

山口県美祢市 石屋形羅漢山磨崖仏

2012年12月08日 | 石仏:山陽

関西人の僕達には馴染みの薄い山口県、そんな美祢市の鄙びた山村に地方としては古い、室町初期の造立と思われる磨崖石仏がある。

美祢市と言っても良く解らないが国定公園秋吉台を有する町だと言う方が話が速いかも???。

秋吉台付近から国道435号線で西へ約25km、県道267号を右折して山中へ約3km、鄙びた集落外れに石屋形羅漢山磨崖仏大きな看板と大型バスでも駐車可能な駐車場がある。

駐車場すぐ奥にある山道とも参道とも呼べそうな急坂を登ること約30分弱、足腰の弱い初老にはちょっときつい。

羅漢山と呼ぶこの山の頂上近く、高さ10mも有ろうかと思われる大岩が向かい合う様に群立し、岩壁に遠目には殆ど解り辛い線彫りながら、力強い石仏が刻まれて居る。

近づいて前後左右とアングルを変えやっとこの程度・・・・、

壁面1号と呼ばれる定型の地蔵菩薩立像・・・・、しかし錫杖も宝珠も確認出来ません。

何とか横顔だと言うことは解りますが、どうも坐像の様に見えてしまいます。

像高246cmと、かなりの大きさ。

地蔵脇の壁面には、かなりはっきり残った壁面2号と呼ばれる如来形坐像。

像高152cm、後世の拙い補刻が有り、判りづらいが両手の上に薬壺がある事から、薬師如来だとされて居ます。

何とか解る程度にしか見えない壁面4号の阿弥陀如来坐像、左右に脇侍が有って阿弥陀三尊らしいが確認は出来ません。

この上部に大日如来も刻まれて居る様ですが全く解らなかった。

これだけ弱い線で、もう何百年も雨晒しじゃ仕方ない・・・・それより今にも崩れそうで物騒です。

こちら壁面7号と呼ばれる右手に蓮華を持つ観音菩薩坐像だと言われて居ます。

蔵容のはっきりしている薬師とこの観音は共に後世補刻され、線のぎこちなさが目立つ。

説明板には八体あることにな成っているが僕が確認出来たのは上記四体だけでした。

この地には往古羅漢寺と呼ばれる古刹が存在し、磨崖はその遺構だとされて居ます。

撮影2012.11.29


岡山県総社市  山崎磨崖石仏

2012年12月07日 | 石仏:山陽

備中岡山の数少ない中世磨崖仏です。

せっかく瀬戸内、尾道まで来たんだからと、早めに帰途につき、この磨崖さんに出合って来ました。

倉敷市街から「高梁川」左岸を遡り、途中川辺橋を左折、西に渡って今度は高梁川の支流「新本川」沿いに五分も遡れば目の前にそれと解る庇屋や看板も見える。

正確に言えばちょうど走ってきた県道が大きく右カーブして「新本川」に掛かる橋を渡る手前、直進する農道脇に庇屋を懸けた大きな岩が有り、六地蔵と少し離れ他同岩板に不動明王が刻まれて居る。

高さ3m、幅5mばかりか?かつては背後に見える「伊予部山」の断崖の一部であったが、高梁川改修工事で大量の岩石や土砂が採取され、この磨崖の刻まれて岩塊だけが取り残された格好になって居る。

庇屋の堂内に入ればこんな感じで、大岩の前面を幅3.6mに亘て平板に整形、向かって右端から六地蔵、少し離れて不動坐像を刻んで居る。

一列に同じ像高で横並びする磨崖石仏もまた見事に決まって居る。

背より少し高い位置に刻まれた石仏は往古、堤防のない「高梁川」と「新本川」の合流点に張り出しており、通行の難所であり道中の安全を祈願したものの様です。

向かって右側の三地蔵・・・舟形の光背を彫り窪め、略式化された線彫り半円形の蓮台に立つ像高約40cm強の地蔵立像を中肉出刻み出す。

左手の三体・・・・六体共に右手錫杖、左手宝珠と殆ど同様・・・・幼児体型の四頭身でオヤジ顔・・・それにしてもやっぱり頭部が重たそう。

「応永五戊寅八月日北斗代 高宮 大願主道清」の刻銘が有り岡山県指定文化財、室町時代初期の1398年の造立。

六地蔵脇の不動明王、線彫りの岩座に坐し、地蔵と同高。

尊顔に緊張感が無く追刻だとされて居る。

 一方岩塊の隣には別石でこんな阿弥陀三尊石仏が立って居ました。

なかなか大きく立派なものですが、さっぱり力のない江戸期のものです。

しかし意匠に特徴が有り目を惹く。

撮影2012.12.3


広島県三原市鷺浦町 向田野浦和霊石磨崖仏

2012年12月06日 | 石仏:山陽

今回の旅のもう一つの目的がこれ、瀬戸内の離れ島に満潮になってしまうと首まで海の中に沈む磨崖の地蔵がある。

この石仏の有る佐木島(さぎしま)へは尾道始め三原港などから通船が行き来しているが、現地、向田港へは三原港から日に五度のフェリーがピストン運航をしている。

予めNETで潮の干満とフェリーの運行時刻などを確認、撮影する者にとっては光の具合や天候も気になったのだが・・・、旅程の都合など総合的に見て選んだのが今回の旅の最終日、12月3日三浦港初発、8時40分のフェリーだった。

尾道方面は前日の雨も上がり太陽が顔を出す上天気・・、これでは海に向かって西向きの石仏には逆光、潮汐は9時過ぎで-60cmだと解っていたから安心していたが、案の定、港に着くと浜辺の石仏は殆ど真逆光・・・・。

三原港から向田港へは35分、到着が9時15分、ピストンのフェリーが三原に向けて出航するのが9時40分、いくら港のすぐそばにあるとしても到着してから出発するまで25分間、何を考える間もなく撮影する羽目になった。

石仏は桟橋から手の届きそうな浜辺に横たわる大石に刻まれて居り、ちょうど基台として組まれた石垣下に海水が眩しく揺れていた。

とにかく大急ぎで浜に降り立ち、石仏の正面に廻り込む・・・、潮の臭がプンプンとして周りは今まで潮が満ちていただろう形跡を留めている。

目の前に立つと逆光だのなんだのが問題ではなく、潮の干満による石塊そのものの変色の方がよほど気になる。

満潮時、首から下が海水に浸かり黒っぽく変色・・、それもまだ海水を含んで重鈍い色を呈している。

地蔵石仏の刻まれた大石は高さ 約2.7m、幅約4.7m、厚さ約4mの大きい卵型花崗岩で、前には別石の華立や両脇には灯篭などが設えられて居る。

しかし多分に華立に華は手向けられず、薫香も無く灯籠に灯りの灯ることも無いだろうに・・・。

石仏は大岩の中央に舟形を彫り窪め、なかに円頭光を持ち、像高95cm、蓮華座上に結跏趺坐して海を見つめる定型の地蔵菩薩坐像を中肉彫りで刻み出して居る。

地蔵菩薩の向かって左に「現在未来天人衆、吾今慇懃付属汝、以大神通方便□、勿令堕在諸悪□」と、その横に大きく釈尊円寂と有り、「二千二百五十一歳、干時正安二年(1300/鎌倉時代後期)庚子九月日、大願主散位平朝臣茂盛、幹縁道俗都合七十余人、仏師念心」の刻銘があると言うが全ては確認しづらい。

像の左右には、浅く彫りこんだ窪みの中、華瓶と蕾をつけた三茎の蓮華、右手には「東西南北各於一町、□□□□殺生禁断」の文字のあとが見えると云うが、これも確認出来ない。

意思の強そうな尊顔はかろうじて海水に洗われる事もなく良く残っているが、体躯は毎日海水に洗われ続け溶けつつある。

最近保存処理もされたようだが・・、その効果は如何程なのか??

因にフェリーで来るとき、たったひとり乗り合わせた初老のご婦人に聴いた話なのだが、佐木島の人達は農業だけで漁はしないという・・。

それはこの磨崖に刻まれた「東西南北各於一町、□□□□殺生禁断」と云う言葉を守っての事なのだろうか??

帰りがけ、県道脇に立ち並ぶ石仏の写真を撮っていると・・・・・、早くしろと言わんばかりにフェリーの汽笛が2~3度鳴った。

たった20分ばかりの佐木島滞在、今度来るときは、ゆっくり干満をこの地蔵さんと一緒に過ごしたい。

撮影2012.12.3


山口県山陽小野田市 有帆菩提寺山磨崖仏

2012年12月05日 | 石仏:山陽

どうしても気になって自分の目で確かめたい磨崖石仏が有るので山口県まで出掛けて来た。

昭和造立説と奈良時代造立説があり、未だに放ったらかしにされた磨崖石仏。

勿論それだけでは勿体無いと言う事もあり、序でに瀬戸内の旅と洒落込み、自分の見たいものを自分なりに一週間ほど掛け、ぶらぶら走って来ました。

そんなこんなで防府市内に宿を取った二日目の朝一番、ホテルから1時間足らずの山陽小野田市有帆(ありほ)の熊野神社を目指す。

何処をどう走ったかは解らないけどバカナビ任せ、地方を廻るときは余程の事がない限り高速は利用しない質、それでもバカナビの予定より早く目的地の熊野神社駐車場に着く。

しかし境内に降り立って周りを探しても磨崖の案内や表示は何処にもなく往生するが・・、ちょうど境内を掃き清めていた老婆が居たので訊ねて見ると、「左手の道を上がって行った奥」と胡散臭そう・・・・。

しかし案内表示はなく、暫く進むと石鳥居の奥に何やら怪しい雰囲気の参道らしき枯葉道・・・大樹の陰には石佛さん。

心細い気持ちで進むと殆ど朽ち果てた磨崖への標識があり、それらしき石段と巨岩の奥にお堂が見える・・・・・、肝心の磨崖はこの巨岩のどこか??しかし何処をどう探そうがこの岩塊に磨崖は無い。

じゃあと境内に上がってみると、ちゃんと案内板がありました・・・・、お堂の左横手、野鳥の囀りだけが響く中、目の前に対峙する磨崖石仏は唯々静かに僕を迎えてくれた。

斜面から突き出した高さ幅共に4m足らずの花崗岩巨石の表面を整形、中央に少しずんぐりむっくり四頭身の寸足らず、古式な半肉彫り観音像が殆ど巨石一杯の高さで刻まれている。

像高3.16m、左手に水瓶を掲げ、右手は下げて指先で天衣をつまみ、特徴的な高さの有る蓮弁上に立っている。

衣紋の表現や二重の瓔珞・両耳の耳飾りは天平彫刻に共通し、専門家の間では奈良時代の造立が定着している様ですが、地元では昭和六年地元の僧侶が彫ったもので開眼供養までした現実も有り、平成17年山陽小野田市では調査委員会を設置して本格調査に取り組んだが結局結論は出さず終い。

僕みたいな半素人でもこの石仏の前に立ったとき、昭和の模倣石仏か本物か??ぐらいの見極めは出来るつもり・・・。

向かって左側の天衣が妙に傷つき、水瓶の表面も削り取られたように扁平になって居ます。

裳裾付近も何か新しく加工したような感じもしますが、この背の高い蓮弁は間違いなく古式な意匠です。

因に新羅(しらぎ)慶州(キョンジュ)の拝里三尊石仏南山七仏庵磨崖仏など韓国の石仏にも共通したものが見られる。

それはどうだか良く解りませんが?一説には日本最古の石仏だと云う説もあります。

ただ、この地域にこれ程の古石仏がこれ一体と云うのも不思議な気もしないでは有りません・・・・、もしかして、まだ何処かに埋れてたり、隠れてたりはしてないものだろうか??

この地には、かって菩提寺という古刹が有ったようですが?NETでは資料は見つからず、この石仏がその古寺の遺仏なのかも解りません。

行政がこの石仏の価値を認めず、うやむやにしてるから今のこの静寂な状態で居られるのかも??もしも認めたらあの国東の石仏の様に観光地化してしまいそう・・・・。

まあ、それが良いのか悪いのか??ただ石仏さんは黙して語らず・・・。

この石仏の詳しい事はこちらで見てください・・・このページはこの石仏に関しては秀逸です。

撮影2012.11.29