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愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

滋賀県旧信楽町  下朝宮の茅葺き民家

2013年02月18日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

旧信楽町国道307号線と国道422号線交差の直ぐ脇に見える茅葺き屋根。

宇治田原から府県境の裏白峠越すと滋賀県甲賀市、その先もう一つ裏白トンネルを越し信楽町下朝宮に入る。

ここは琵琶湖から流れ出す「瀬田川・宇治川」所謂「石山寺」方面からの分岐点、ここから先伊賀方面や奈良方面へと山越え道が続いてる。

宇治田原方面から来ると、交差点手前の左手、三軒が軒を連ねる真ん中、こんな目立つ場所に茅葺き屋根の民家が残って居る。

脇にはそう古くない納屋と昔ながらの便所が見える。

広く大きな何もない「かど」、その昔この「かど」では刈り入れた「籾」を「筵」いっぱいに広げた事だろう・・・

しかしこんな場所で良く残ったもんです・・・・・、最近は新名神信楽ICから大阪方面への抜け道として大型車の往来もめっきり増えている。

正面から見る茅葺き屋根は・・・、もうそろそろ限界に近い。

屋根は寄せ棟に近い入母屋??破風は杉板に何の意匠もない煙出しの丸い穴を空けている。

庇は棧瓦で四方に廻り、軒下「門口(かどぐち)」には信楽狸が留守番役・・・・、一般庶民の田舎屋風情。

建物自体もかなり傷みが激しく・・・もう永くないかも??

近く朝宮には茅葺き屋根も多かったろうに、ほかは全てカラートタンで覆われている。

これはこれでまた良い物ですが・・・・・。

撮影2013.2.11

京都府宇治田原町 奥山田の茅葺き屋根 

2013年02月17日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

宇治田原町の中心付近より国道307を信楽方面に約7km、滋賀県旧信楽町朝宮と茶屋トンネルの先、裏白峠で境を接する宇治田原町最東端地区。

奥山田は狭隘な二つの谷筋に大きく三集落にわかれている。

短いトンネルを二つ越え、峠を下りきると奥山田地区の家並が目に飛び込んで来るが、左手「天神社」前の交差で左折、旧奥山田小学校の前を進むと懐かしくも、草臥れた山里の佇まいが見える。

振り返ればこんな懐かしい景観・・・・・、小学校は数年前に統合、廃校になり、この山里も少子高齢化が進んでいる。

集落の左手高台に茅葺き屋根の民家が見え、 その下段にも雨漏り防止のシートで包んだ茅葺き屋根が見える。

さほど大きくない茅葺き屋根、往時どこの田舎にでも在った百姓屋と言う佇まい。

入母屋屋根に桧皮と竹の箱棟を乗せ、山間部の証で有る様に北面妻側には淡雪が少し残っていた。

若者の居ない住まいなのだろうか??・・・・・・。

少し引いてみればこんな哀しい姿です・・・・・、何とか主屋だけは維持されて居ますが、最早、後がない状態。

これが少子高齢過疎化社会の現実、そんなに辺鄙な山奥でもないのに・・・・。

玄関先から見る前の家もこんな状態・・・被って居るのは工事用シートでは有りません。

もう新しい茅葺き屋根は見れないだろう??

一方奥山田地区別の集落で見た景観・・・・こうしてカラートタンですっくり茅葺き屋根を覆った民家はまだまだ多く見ることが出来る。

手入れも行き届き、車も停まって居るので若者も同居しているかも??

撮影2013.2.9


京都府宇治田原町 大道寺地区茅葺き民家

2013年02月16日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

宇治田原町、大道寺地区にも一軒の茅葺き民家が残っていた。

大道寺地区はその名のとおり大道寺と言う古代寺院の在ったところ、「藤原信西」の荘園でも有り、平治の乱で信西が討たれるとこの力「大道寺氏」が台頭したという古い歴史の隠れ里、今に「信西入道塚」も現存している。

鷲峰山北東谷、田原川に注ぐ狭い谷間、田畑に囲まれた両山裾に民家が建ち並ぶ。

細い流れは宇治川に注ぐ田原川の上流部、清い流れが穏やかに下っている。

集落の中心部あたり、西側山裾のたい並ぶ民家の中、たった一軒茅葺き屋根の特徴ある棟が顔をのぞかせている。

やっぱり山沿い、平地の雨は小雪と成ってその余韻を残す。

母家は懐かしい山城の茅葺き屋根をそのまま残すが、同じ敷地内に別家を建て二世代か三世代が同屋敷内で住まいしてるようです。

屋敷はこざっぱりと清掃が行き届いているがカーテンは降ろされたまま・・・。

正面は其れ程の傷みも見れないが妻側入母屋部には雨漏りよけのトタン波板が差し込まれ、最早葺き替え時期の過ぎ去っていることが窺われる。

もうこの茅葺き屋根も永くは持たない事だろう・・・。

今度ここを訪れる時、秋の終わりの「柿屋」が建つ頃にはには未だ残っているだろうか??

今年は残ったとしても、もう何年もつだろうか??

撮影2013.2.9


京都府宇治田原町  岩山の茅葺き民家―2

2013年02月15日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

宇治田原町岩山集落は南面する山肌斜面に裕福そうな門構えの民家が50軒ばかし軒を並べる。

前回紹介した辻より民家が建ち並ぶ集落内の斜面を登れば中程にこの茅葺き民家が見られる。

集落入口には大きい雙栗(さぐり)天神社の標柱・・・傍らには道路を跨いで集落を守る「勧請縄

集落はどの家も斜面に石垣を積み上げ宅地としているが、どの屋敷も大きく豊かな集落だと感じられる。

雛壇状に建ち並ぶ民家にたった一軒残った茅葺き民家。

山城地方の一般的な百姓屋・・・・、昭和30年代までは我が家の周りも全てこれと良く似た茅葺き屋根だった。

外観は昔のままだが中身は随分と改造されたのだろう?玄関袖側は洋間風にも見える。

カーテンは降ろされた侭ですが現在もお住まい・・・・、しかし主人の話だとそろそろ屋根の葺替え時、しかし今回は葺き替えない積もりだとか??

屋根屋さんも居ないし、葦も手に入りにくいとか・・・。

この茅葺き屋根も最早風前の灯火・・・いつなんどき失くなっても不思議ではない。

裏側、砂糖菓子のように小雪まぶしの茅葺き屋根はやはり大分傷んでいた。

撮影2013.2.9


京都府宇治田原町  岩山の茅葺き民家

2013年02月14日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

我が住まいの近く、東へなだらかな峠を越えると一昔前までは隠れ里のように静かだった宇治田原町。

もう20年程前に工業団地が出来、第2名神の信楽ICが出来てからは様相が一変、新興団地も造成されたりと、往時の宇治田原を知る者にとっては狐につままれたような変わりようです。

古い歴史を秘め、古い習慣も良く残してきたこの山里でも茅葺き屋根の民家は急激に失われてしまった。

旧国道は集落の中を縫うように貫いていたが現在は集落外れをバイパスが貫きバイパス周辺が地域の中心を成している。

そんな岩山地区の入口、旧307交差にちょっと変わった茅葺き屋根の民家が見られる。

茅葺き屋根に後から増改築したのだろうか?一段高い棧瓦屋根の母屋を継ぎ足し、瓦、茅葺き屋根の折衷に成って居る。

小さい茅葺き屋根ですが、入母屋で葺き上げ棟には銅板の箱棟を載せ、アワビの貝殻も山城地方のお決まりのように乗っかって居る。

庇は棧瓦葺きで片袖が長く伸び納屋に成って居るようです。

玄関側、旧国道から見るとご覧のような佇まい・・・。

ここは旧街道筋にも当たり、その昔には旅籠か料理屋でもあったのだろうか?田舎の百姓屋と言う感じは受けない。

山城地域では滅多に降らない雪をこの山里では時折見かける事がある。

撮影2013.2.8


京都府宇治市 宇治川付近の茅葺き屋根

2013年02月13日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

近く宇治川ふちの散歩途中で見かけた茅葺き屋根。

宇治を代表する観光地、世界遺産の平等院と宇治上神社が共に保存修理のため観光客が激減・・・・、観光客でごった返す宇治の街を散歩するのは気が引けるが今がチャンスとお散歩お散歩。

1ヶ所目は「通圓茶屋」から宇治川右岸、朝霧通りを遡ると左手、「恵心院」参道脇に「朝日焼き」窯元の茅葺き屋根が見える。 

傍らには簡素な茶室風の袖屋が在り、いかにも宇治らしく茶器の窯元だと言うのが伺える。

建物はこじんまりした寄せ棟茅葺き屋根に棧瓦の庇を出している。

現在「作陶館」の名で呼ばれて居り、作品の展示もされて居る。

いかにも宇治らしい優雅な建物です。

塔の島を挟んだ対岸、平等院の裏、「あじろぎの道」上流に歩けばエライのっぽな茅葺き屋根。

お隣の「塔見茶屋」さんの別館なのだろうか??、下部は二階屋で寄せ棟茅葺き屋根を載せ、廻りを棧瓦葺きとし、見慣れた民家風ではなく、旅館ぽい。

小さな門は閉じられて居り木立に囲まれた階下の様子は窺え無かった。

観光地宇治だからこその茅葺き屋根なんだろう・・・・・。

宇治はもう、山城の中にあっても奈良文化の匂いは微塵もなく、京都平安文化臭の強い地域です。

撮影2013.2.7


京都府井手町井手 大和棟茅葺き民家

2013年02月11日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

 

散歩ついでに井手の町並みを歩いていて見かけた茅葺き屋根の民家。

木津川に注ぎ込む玉川が天井川と成って流れる井手の町。

昭和28年、その玉川上流にある大正池が集中豪雨で決壊、このあたり一面は俗に言う「山城大水害」で甚大な被害を受け全て流失、古い民家など残っていないと思っていた・・・・。

まさかこんな茅葺き大和棟と白壁腰板土蔵が昭和28年以降の建築だとも思えないので、幸いにも少なくともこの屋敷は大水害の被害からは逃れたのだろう。

ちょうどここは玉川の右岸下、低い土地なのに・・・・

高台から見ると新旧入り混じる住宅街の中、一軒の茅葺き屋根大和棟が目を惹く。

大和棟の大きい切り妻破風は漆喰の白壁を塗り込め、妻部先端は二筋の高塀(タカヘ)と呼ばれる飾り瓦を降ろしている。

落棟釜屋(くどや)には煙出し櫓が載せられ、大和棟建築としては基本スタイルを見せて居る。

葺き替えて間もないのか、茅葺き屋根の痛みもなく良く手入れされ、この分なら早急に無くなってしまうことはない。

撮影2013.2.5


京都府木津川市木津 土久里(とくり)家住宅

2013年02月10日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

京都から奈良に向かう国道24号線は、右手に山城大橋の赤いアーチを見る井手町辺りで木津川に沿って田園風景の中を進む。

木津川は伊賀方面から西流し、木津川市の西端「土師(はぜ)」辺りで大きく北向きに流れを変える。

そんな木津川を北岸から南岸へと「泉大橋」で越えると旧木津町、南都への物資の集積拠点として栄えた旧い町、国道24号線から見下ろせる町端にこの土久里(とくり)家住宅の屋敷が見える。

走り慣れた国道24号線、ここを通るたびいつも気に成って居た白壁長屋門、その奥の茅葺き大和棟の立派な佇まい。

長屋門の奥には中々入りにくいがそれと声を掛けて屋敷内に・・・・。

土久里家は代々庄屋を務める家柄、長屋門の大きな一枚板の引き戸には「下がり藤」の家紋・・・・・土久里(とくり)と言う曰く有りげな苗字も気になりますが・・・。

妻側を白壁で塗り込めた急傾斜の茅葺き大和棟、落ち棟は本瓦葺き、煙出しは元々ないのか改造で取られたのだろうか??

10年程前、茅の葺き替えを行ない、その時四隅廻りの庇も新しい瓦に替えられたようで美しい。

約300年程前、江戸中期の建築。

裏側通りから見た建物群。

住み続けるには都合の良い無指定、しかし自力での維持管理は大変だろう・・・・・。

撮影2013.2.3


京都府井手町多賀 平間家住宅

2013年02月08日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

我が散歩道途中に有る豪壮な構えを持つ茅葺き大和棟の平間家住宅。

JR奈良線「山城多賀駅」東側の小高い台地、南面する斜面に高い石垣を築き、両袖に蔵を持つ長屋門で正面から主屋全体を見ることは出来ません。

前面は濠にでもなって居たのだろうか・・・・

現在砂利を敷き詰めた長細い空き地になって居る。

棟頂部には5段程の瓦屋根が載り、東側は切り妻、西側は入母屋造りとし、切り妻側に入母屋桟瓦の落ち屋根、煙り出し、四方を桟瓦の庇が廻って居る。

<直ぐ裏の乗蓮寺から見た平間家>

屋根は最近補修されたのか綺麗に整えられ、棟から四筋ほど垂れ下がった「鳥おどし」のアワビの貝殻が光っている。

平間家は代々「庄屋」をされた家系、江戸時代末期の弘化二年(1845)の建築だそうです。

勿論現在も住まわれ、南山城に現存する数少ない茅葺き民家です。

撮影2013.1.3

あえて地図は添付しません。


京都府木津川市山城町 小林家住宅

2013年02月07日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

南山城の古民家を代表するような茅葺き大和棟の母屋を持つ小林家住宅。

<裏側、田圃越しに見た屋敷>

走り慣れた旧奈良街道の府道70号線、旧山城町上狛小学校近く、他を圧するように抜きん出て大きな大和棟の茅葺き屋根と大きなケヤキの巨木が見える。

築地塀にに囲まれ、こじんまりした白壁土蔵と大きい大和棟・・・・。

正面は車がやっと通るほどの昔ながらの狭い道、急傾斜の切り妻大和棟の威容が見渡せるのはこのポイントだけ。

つい3~4年前から修理の手が入り正面の長屋門や母屋の茅が葺き替えられた。

桁行約10間(18m)梁間約6間(11m)四面に桟瓦屋根の庇を廻し、妻部先端は二筋の高塀(タカヘ)と呼ばれる飾り瓦を降ろしている。

普請に係わる文書の『家之普請合力覚』から、江戸時代前期の寛文五年(1665)の建築と考えられ、年代が明確な民家として最古級に属し、国の重要文化財に指定されて居る。

代々「禁裏御料」に系わる庄屋を務め、最上層の農家建築とされて居り、現在も住まいとして利用されています。

撮影2013.1.17


滋賀県高島市マキノ町 在原(ありはら)集落

2013年01月14日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

懐かしい景観が観光地化されるでもなく、有りのまま残る湖北の隠れ里。

あの京都美山の茅葺きの里ほどでも無いが・・・茅葺き屋根も三々五々残っている。

在原集落はその名も示すように晩年をこの地で過ごしたと言う在原業平の故地、ちなみに集落外れには業平の墓といわれる石塔もある。

在原は滋賀県湖北の旧マキノ町に在っても湖北のイメージは無く、四方を山に囲まれた谷間に開けた狭い盆地山村。

湖岸を走る国道161号線、マキノ中心辺りから北へ約10kmばかし車で20分、福井県敦賀市と境を接する。

知内川支流の八王子川を挟むように水田が拓かれ、その中央部に現在過疎化が進み30軒にも満たない有原集落が軒を寄せ合う。

今の時期ならもうすでに雪に埋まって都会人の乗用車では辿り着けないだろう・・・・。

往時この地は近江と若狭を結ぶ脇街道として機能していたが湖岸に域にその座を奪われ、その地理的条件から取り残され孤立し、今に姿を留めて居る。

集落の中央には産直販売所、その脇には廃墟になり、見るも哀れに潰れた茅葺屋根の民家。

ここを訪ねたのは夏の名残を残した九月の始め、真夏と変わらない暑さのせいもあり、時間が止まったような白日夢のような別世界を感じた。

多分現段階ではもう茅葺き屋根は10軒程に過ぎなくなっただろう・・・・、小規模な茅葺き屋根が軒を連ねる。

辺鄙な田舎の例に漏れず、ここでも過疎化高齢化は止め様もなく、小学校もすでに永らく休校したまま・・・・

民家も建物はあるものの廃墟と化した無人の茅葺き屋根もあり、なんとも悔しい。

この写真を撮って、もう何年も訪れて居ないので雪解けの頃、もう一度訪れ、この目で確認してみたい。

美しいものは哀しみも内包している。

撮影2009.9.5