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愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

北摂の石仏-3 木代の「たぬきやぶ」多尊磨崖仏

2007年03月30日 | 石仏:大阪

豊能町役場から少し池田方面に進み,Uターンするように山手に入っていくと、農作業用の軽トラックが何とか通れるようなかなり細い林の中小道、しばらく分け入るとやがて竹薮の中の別れ道、その脇に車を捨てて、右手の道をほんの少し進むとこの磨崖石仏に出会う。

 

まさしく名前の通り「たぬきやぶ」の石仏さんたち、周りは竹薮に囲まれた小径の磨崖仏。

高さ1.6m、幅約4mの 山形をした自然石の表面中央上部に来迎阿弥陀を半肉彫りで中尊として、その右側に四体、左に二体。下段には十体の合掌坐像が半肉彫りで並べられている。

天正二年十一月二十八日の銘があって桃山時代の作。

単純な造作ながら地域性豊かで野趣いっぱいで、ほのぼのとした思いにしたらせてくれる。

しかし、石の表面はほとんど苔むしていて,風化も進み、またここまで足を延ばしてのお参りもないのか、花立の竹ずつも朽ち果てて見る影もない。

大和文化圏の石仏を見慣れた目には、少なくとも頼りなさを禁じえないのは仕方がない。

撮影10.21

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北摂の石仏ー2 余野十三仏

2007年03月28日 | 石仏:大阪

北摂の地に多い多数の僧形像を彫った多尊石仏。

その中でもこの余野十三仏 が一番古く永禄7(1564)年の銘を持つ。

高さ1mあまりの自然石の両面に浮き彫りにされた各19体の石仏が刻まれている。

正面は上段に錫杖を持った地蔵を中心に三尊、中段、下段には17体の合掌地蔵を配している。

裏面には阿弥陀三尊を上部に、下段は正面と同様の合掌地蔵、

この地は豊能町の中心地町役場から程近い田園地帯の小川のそばで、付近の景観とあいまって、いかにも野の仏として風情がなんとも懐かしい景色を醸し出している。

撮影2006.8.18

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北摂の石仏ー1 木代三位塚(きしろさんみづか)の地蔵磨崖仏

2007年03月26日 | 石仏:大阪

豊能は大阪市の北側の山地、北摂と呼ばれる地域で京都丹波地域と境を接する。

家からは、やく1時間強、名神インター近くの府道110号線で約30分ほど山の中に入って行った盆地です。

この地には、独自の石仏が多く、以前から訪れたい土地でしたが昨年秋、2度にわたって巨樹の訪問とかねて訪れました。

茨木から、やがて豊能町の中心地あたりに出る少し手前、木代には木代三位塚の地蔵磨崖仏 が在って「サンミさん」と呼ばれています。

高さ3.7m幅2.5mほどの1枚岩に長方形の彫りくぼみを作り像高54cmの地蔵立像を彫り刻んでいる。

またこの地蔵の右脇にも小さな地蔵が彫られているのが見える。

像の様式から室町後期の像立だとされています。

撮影2006.8.18

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交野市 廃岩倉開元寺参道の石仏

2006年10月30日 | 石仏:大阪

この、ページで以前(2006.9.3)紹介した、「弥勒坐像石仏」の有る石仏の道を約10分ほど登って行くと右手に大きな岩が露出していて、その対面左手にも一体の石仏が大きな樹の元に立っているのが見えて来る。

右手の岩の谷側、道路を背にして阿弥陀三尊石仏が彫られている。

高さ約45cm、幅35cmの上部を丸めた舟形光背の彫りくぼみの中に蓮華座に座す中尊、阿弥陀如来と脇侍の観音、勢至菩薩の立像を半肉彫りにしていて、小さいながらも魅力的な磨崖石仏です。

弥陀の左右には文明11年(1479・室町)の銘があり、枠外の左にはキリークの弥陀種子が刻まれている。

元の参詣道は、この石仏の下を通っていたものらしくこの石仏を仰ぎ見る形であったと言う。

左手に立つ、約像高76cmの阿弥陀石仏も室町時代の造立、おしいことに頭部右半分や光背上部が欠損しており、もと、この上部斜面にあった廃墓地の供養仏だと考えられている。

整備されているとは言え、木立に囲まれた谷沿いの両側に居る石仏は、見る者を癒さずにはいない。

ここより、まっすぐ道なりに約100mほど登って行くと道路脇に少し左寄りに傾いた大きな岩に石仏が刻まれているのが見える。

高さ3mばかりの岩に深い光背型を彫りくぼめ、阿弥陀三尊を、半肉彫りにしている。

中尊阿弥陀は坐像で像高60cm、両側の勢至、観音はともに立像で像高50cm、室町期の造立。

石肌全面が赤味を帯びているのは、兵火にかかつたためだと言われていて、この石仏は付近にあった岩倉開元寺参道の石仏だと考えられています。

撮影2006・9.2 / 10.29

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太子町 岩屋石窟寺院跡

2006年10月24日 | 石仏:大阪

前回、紹介の鹿谷寺(ろくたんじ)跡と同じく、二上山中腹にある古代の石窟寺院跡。

二上山登山口から登山道を鹿谷寺跡とは別の方、東へ500mほど登った雌岳中腹に、奈良時代の石窟寺院跡があります。

今も凝灰岩の岩盤を掘り穿って造られた間口7m、奥行5m、高さ6mほどの石窟があり、岩屋と呼ばれています。

中央には、3層の凝灰岩製多層塔(高さ3m)、石窟北壁に浮き彫りされた三体の仏像が残っており、その前には、最近の物と思われる石仏や板碑などが何体か並べられていました。

しかし風化が激しく、像容はまったく解らず、よく見ると岩面にそうかなあ??と思う程度で、石仏としての表示板もありません。

また、石窟上部に円形の穴が開いており、覆屋があった可能性が強く、一説では中将姫が當痲曼陀羅をここで織ったと云伝えられています。

この寺院跡の手前には倒木した巨杉の残骸が横たわっており、無残な姿を晒しています。

平成10年この地を襲った台風7号の強風による倒木だそうで、高さ28m、根周り5.8m、樹齢約700年、岩屋の1000年杉と呼ばれて親しまれていたそうです。

ここから少し登ると岩谷峠で、ここを東側に下っていくと、当麻寺へと通じている。

撮影、2006.10.14


太子町 鹿谷寺(ろくたんじ)の磨崖仏/十三重石塔

2006年10月20日 | 石仏:大阪

大阪府と奈良県の境、標高515mの雄岳と474mの雌岳がラクダの背のように並ぶ二上山は古代史ファンにとっては一度は訪れてみたいところです。

国道166号線を当麻(奈良県葛城市)から、太子町(大阪府)に向け竹之内峠を越え、しばらく下っていくと二上山登山口の駐車場がある。

ここから、徒歩でしばらく奈良方面の戻ると、散策登山口に出会う。

右手正面に等身大ほどの江戸時代建立と思しき地蔵石仏と六字銘号碑が建っている、たぶん旧竹之内街道沿いの旅の安全を願うために建てられたものでは無いのだろうか??

ここで、鹿谷寺の標識のある道を約10分程登って行くと周囲が開けて、史跡・鹿谷寺の石柱が建っている。

先ず目に入ったのは、単純な形の十三重石塔、風化は著しいが、古色蒼然としたこの塔こそが、わが国最古の十三重石塔で、凝灰岩の地山を堀り残して造ったものです。

塔自体が地面から芽を出した植物のように地続きになっているのはそのためで、だからこそ今まで、現存し続けたのだろう???、高さ約5.2m、八世紀奈良時代の造立は下らないと言われています。

東側には中国敦煌の石窟寺院のように岩壁を削ってつくったと思われる石窟があって、三尊石仏仏が奥の、高さ1.5m、幅3.02m岩壁に線彫りされている。

風化が激しく像容は定かでない高さ1.5mの如来像を三体並べていて、中尊は釈迦如来坐像、右に弥勒、左に弥陀を配置したものだろうと言われています。

この時代の仏教の力は、人をして地山の岩盤をうがち石窟を造らしめるほどの魅力あるものだったのかも知れない

撮影2006.7.8

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東大阪市 暗峠(くらがりとうげ)の石仏ー1

2006年10月08日 | 石仏:大阪

今回は、この怪しい名前と石仏と言う言葉に吊られていってきました・・・・,暗がり峠道。

地図で見るとここはれっきとした国道308号線、国道を車が走れない事はないと言っては見たものの、元10トントラックのプロドライバーだった僕でも、少し手ごわかった。

この道は、奈良と大阪を結ぶ最短の道だったそうで、古代からある道だそうです。

江戸時代にはお伊勢さんへの道だったようで、現在でも一車線のところがほとんどなのですが一方通行にはなってなく、この日も僕の前の軽自動車が脱輪して何人かで手助けして車を持ち上げたほどです。

ここはハイキングコースとして人気があるところで歩くにはもってこいの所です。

今回大阪側から、この道に乗り入れましたが最初から大変な上り坂で、急勾配の住宅地の中を一気に駆け上がって行ききます。

住宅が途切れた頃には眼下に大阪の町が小さく見えて、最初の石仏さんのお出迎え。

道路の右側に小さな行場があって面白い顔の不動明王が立っている。

まるでアニメにでも出てきそうな烏天狗のような顔立ちがユニークで面白い。

それから少し登ると、今度は右手に仮道のような建物が建っていて弘法の井戸と言う表示板がある。

その弘法の水のあるところに弘法さんが祀られていて、のですが、其の横手に笠をいただいた笠塔婆があります。

高さ181cm、鎌倉中期弘安7年(1284)に建てられたもので阿弥陀如来座像の下に「南無阿弥陀仏」の六字名号が刻まれています。

笠は、最近乗せられたもののようで古い資料には笠はなくなっていると記されている。

この先少しで暗がり峠、ここが奈良と大阪の県境、今は少しの区間だけ古風な石畳道になっていて、お茶店などもあり懐かしい風景を醸し出している。

しかし正面には生駒信貴スカイラインのガードレールが横切り少し艶消しになっている。

この峠の左手奥に小さな地蔵堂があり、「峠の地蔵」が祀られている。

高さ1.6m花崗岩の厚肉彫り、文永年号が刻まれており鎌倉中期の作、惜しくも首辺りで折れてしまっているが、おおらかな面相で錫杖もすこぶる大きく、充実感の有る地蔵石仏です。

また堂の横手には、平石で組んだ石ガンの中に丸彫りの石仏が三体在って、野趣にとんだ姿がとても良い。

撮影2006.6.4

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交野市 弥勒坐像石仏

2006年09月03日 | 石仏:大阪

大阪府の東端、京都府の京田辺市と奈良県の生駒市と境を接して大阪府交野市(かたのし)がある。

この交野市に古石仏が数多くあると言うので出かけてみた。

家からは大阪側に一山越えるだけの近場、奈良や山城と密接な関係のあった地に違いない・・・。

と言うより多分山城の一部、奈良の一部と一体となった生駒文化圏と言ったものだったのかもしれない。

<神宮寺集落の小道>

交野市の名前の由来だと思われる神奈備山である交野山(こうのさん)の麓の集落、神宮寺から石仏の道と言うハイキングコースを辿ると最初に出会うのがこの石仏です。

集落をぬけ、蜜柑畑と竹薮の小径をたどると間もなく道端に先のとがった大きな石が見える。

この石が石仏ですが進入方向とは逆向きに立っていて行き過ぎるまではその姿を見ることは出来ません。

どうもここまでは車の乗り入れが出来るようで石仏の前には何台かの車が置ける駐車スペースが用意されていますが、神宮寺集落で訪ねたときには教えてもらえなかった。

表面に二重円光背をもつなで肩の柔かい体つきの弥勒坐像が薄肉彫りされており、鎌倉前期の作だと考えられています。

奈良興福寺の末寺として交野群開元寺と言う名前が記録されており、この石仏はその開元寺の遺仏だと考えれているようです。

彫りは稚拙なように見えるが古様式なおおらかさが魅力的な石仏です。

岩高180cm、像高100cm

撮影2006.9 .2

場所はここ