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愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

交野市 磐船神社四社明神磨崖仏/不動明王磨崖石仏

2011年04月13日 | 石仏:大阪

大阪交野から生駒谷へと通じる道筋、大阪、奈良の県府境に最接近した新磐船トンネル脇から続く旧道の渓谷沿いに鎮座している。

「天の磐船」(あめのいわふね)とよばれる渓谷を跨ぐように横たわる高さ約12m・長さ約12mの舟形巨岩を御神体としている。

本殿はなく、巨岩の前に小さな拝殿があり、 饒速日命(にぎはやひのみこと)が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承があり、磐船神社神体の大岩がそれに当たるとされています。

 中世以降は、山岳信仰や住吉信仰の影響を受け、現在も境内には神仏習合の影響が色濃く残されていて境内にそれを示すかの様な磨崖石仏が残されています。

道路に接した石鳥居から境内に入ると其処此処に大岩が並び立ち、建物はなどは拝殿以外(近代建築は別にして)何も無く古代原始信仰髣髴とさせる。

大岩を背にして建つ拝殿入り口辺りの大岩の中央には垂直に深い彫り刻みを造り、下部を供台状にして背面には火炎後背を持つ不動明王立像が半肉彫りで刻まれている。

岩が大きくこじんまり見えるが像高約1.2m、頭上には注連縄がかけられ神聖視されているよう・・・・。

黒く煤ボケているように見えるのはこの前で密教修行が行われ続けた結果なのだろうか??

正面から見ると実に堂々とした不動明王・・・・像の左右に銘が在り「交野郡住吉大明神関白大蔵坊」「天文拾四年(1545)乙巳十二月吉日法印清忍」背面には「加藤肥後守」と刻まれている。

因みに「加藤肥後守」とは「加藤清正」のことで、この石仏が造られた時にはまだこの世に生を受けておらず、大阪城築城の石垣石材に持ち出そうとした折に刻まれたものだとか・・・・。

ご神体の舟形石にも同様の彫り刻みが有ると言い、神体石から血が滴り落ち、持ち出しを断念したとまことしやかに伝えられている。

一方御神体の右斜め後方、天の川が作り出す岩船渓谷を挟んだ対岸の高さ幅共に15mも有ろうかと言う大岩には四体の磨崖仏。

磐船神社は天磐船(あまのいわふね)伝承から「海の神」底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒命(なかつつおのみこと)、表筒命(うわつつおのみこと)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)の四神を祭祀する住吉大社と結びつき住吉明神の名で呼ばれた。

磨崖石仏は巨岩に穿たれた幅2.2m、高さ約1mの深い堀窪みの中に住吉四神の本地仏をそれぞれ半肉彫りで刻み出している。

向かって右から定型地蔵菩薩、定印阿弥陀如来(一説には大日如来)、十一面観音、弥勒菩薩(一説には勢至菩薩)が横一列に並び、各々が蓮華座に座す坐像。

二重円後背は線彫りで顕すが像容葉には充実感が有り鎌倉末期から南北朝期の像立だと考えられています。

神仏習合が色濃く残る磨崖石仏として特記出来る。

それにしても望遠で対岸からの撮影、それもワンポイントからしか臨めないのが気にかかるが致し方ない・・・・、おまけに石仏の真上に刻まれたアーチ状の切り込みが妙に気に掛かるが??・・・・。

撮影2006.9.2/2011.3.20


交野市星田 慈光寺の石仏群

2011年04月12日 | 石仏:大阪

私市の西側一帯に広がる星田地域も古い歴史を秘めた興味をそそる土地です。

星田という地名は太古この地に星が落ちたと言う伝説が元になっているようですが、近くにはそれにちなむ天の川や機物神社(はたものじんじゃ)などもあって「星のまち」としても良く知られています。

そんな星田の町並みも古い佇まいを良く残し、嬉しい景観を今に伝えている。

この町には遺石仏が数多く有るのが知られていますが・・河内三十三所「第二十三番札所」の西山浄土宗慈光寺(じこうじ) にも多くの石仏が残されている。

山門を入って小気味良く清掃の行き届いた境内奥、本堂脇の小さな祠とその脇に立つ石仏が目立つ。

高さ約1.2~3mの長方形の板状石表面に蓮華座に立つ姿の良い来迎印阿弥陀如来を厚肉彫りで刻み出している。

この石仏は昭和53年、近くの下水道工事の際に掘り出されたもので発掘現場の地名を取って「鍋賀地蔵」と呼ばれています。

円後背を背負い、こざっぱりまとまったモデリングから室町期初頭の作造だと考えられています。

かなり洗練された形式美を感じる石仏です。

これと瓜二つの石仏がもう一体祠を挟んで隣地の土塀前に立っている。

殆ど同じ形式同じ像容・・・・、これはどうしたことか?前述の「鍋賀地蔵」より新しく見え、簡略化されているが、この阿弥陀石仏は「鍋賀地蔵」の写しでは無いかと一瞬目を疑った程・・・

こちらは古くからこの寺に置かれて来たもの・・・・、どうしてこれほど瓜二つなのか??

顔容がすこし違う他は見紛うばかり。

質素な覆屋の中には十三石仏。

十三石仏は生駒や河内地域でよく目にする石仏で、十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)を司る仏を一石に三体づつ四段と頂部一体配している。

高さ約1m、姿も美しく江戸期の造立。

築地塀を背にして来迎印阿弥陀石仏二体と双体地蔵。

本堂軒下には何気なく一列に並んだ古小石仏・・・・。

近くの寺々にこの手の石仏が多く残されていて、この地の古い歴史を物語っている。

撮影2011.4.5


交野市 私市(きさいち)墓地の弘安地蔵

2011年04月11日 | 石仏:大阪

私市と書いて「きさいち」何とも難読地名です。

かの日本書紀にも私部と表記されていて「きさいちべ」と読み、后(きさき)のために仕事をする人たちが住み着いた土地だそうで古代歴史を秘めた古い土地です。

国道168号線はそんな私市から奈良生駒谷を縫う様に走る地方国道で、沿線には秘められた歴史の宝庫でも有ります。

国道168号線で大阪側から奈良生駒方面に向かうと街並みが途絶えて生駒の山裾が近づく辺り、左手の大きな墓地が私市共同墓地。

そんな私市墓地に大阪では在野に有って最古銘を持つ地蔵石仏が祀られていて、大阪府指定文化財・重要美術品に指定され、知る人ぞ知る存在となっています。

粗末なコンクリートブロックの祠に祀られ、弘安地蔵と名付けられた地蔵石仏は右手に錫杖を持たず、与願印を示し左手に宝珠をを持つ古式な地蔵立像です。

舟形光背の頂部は平に加工が施され笠石でも載せられて居たのだろうか??

蓮座上に立ち像高は約80cm厚肉彫りで刻み出されている。

かなりずんぐりな体躯は力強さが感じられ古様で光背左右には「弘安四年四月十五日立之」、「右ハ為二浄林浄雲一石作三郎」と銘が刻まれ鎌倉期の像立。

地元では「杖あずけ地蔵」と呼ばれ、一昔前までは人が亡くなると仏が生前使用していた杖、帽子、履物などをこの地蔵さんに預け、早く極楽に往生できるように願ったとか??

他にも古い小石仏がたくさんあって石仏好きの興味をそそる場所です。

撮影2011.4.5


交野市 かいがけ道の石仏

2011年04月10日 | 石仏:大阪

前回紹介の奈良生駒市 傍示(ぼうじ)墓地から戻って直ぐに大和,河内「国ざかい」のなだらかな峠を越えると,其処はもう大阪府交野市の傍示(ぼうじ)集落。

峠の突き当たりに菅原神社があり、目の前には緩やかな棚田がなんとも鄙びた長閑さをかもし出してくれている。

集落はわずか5~6軒、集落の西はずれから看板通りに田圃の中を「かいがけ道」が伸びている。

暫くは棚田の中を通る野道で直ぐに山間の大石が其処此処に顔を覗かす古道然とした散策道となる。

棚田道を歩き出して10分ばかり、右手斜面に5段位の石段が設けられ、その上の1辺1.5m位の三角ニギリ状の大石に、この石仏が刻まれて居る。

地元では「ゴミの木地蔵」と呼ばれているが勿論誰が見ても地蔵ではなく阿弥陀さん、「ゴミの木」は僕の山城でもそう呼ぶが「グミの木」の事で、昔この地蔵の傍に大きなグミの木があったという。

夏場には殆ど生い茂る草に隠れてしまう。

磨崖石仏はオニギリ石の正面、向かってやや左気味の位置に高さ約50cmの舟形後背を深く彫り

蓮座上に坐す定印の阿弥陀如来坐像を半肉彫りで刻みだし、像高40cm有るか無いか・・・磨崖石仏と言うには小さすぎる??

癖の悪い乾いた地衣類がびっしり石の表面を覆い最早像容も定かで無いほど・・・こじんまりと形式化していて室町期のものだろう??

この先更に下ると右手に嬰児山龍王社への登山口・・・・・雨乞いの龍王と間引きの嬰児???哀しい歴史を秘めているかのように石鳥居が立ち尽くしている。

その先少し進むと右手台地上に朽ち果て荒れるに任せたた「かいがけ地蔵堂」の跡地。

枯葉の積もる境内中央に朽ち果てた基壇や瓦の残骸と共に残された地蔵石仏がもの哀しげに立ち尽くしている。

かいがけ地蔵と呼ばれてるようですが??、ほとんどお参りはなさそうです。

舟形後背の頂部辺りが欠損、身の丈約1m、定型地蔵立像、大雑把な造りでもの哀しげ・・・・

このもの寂びた景観にぴったりはまる。

境内地左脇にはこんな不動石仏。

山状石材一杯に燃え盛る見事な火炎後背を彫り刻む。

磐座状に立つ、身の丈70~80cm不動明王立像・・それにしても火炎は大きく激しい・・・

見るからにアンバランス、宝剣は小さく、踏ん張るべき足元は力なく、赤ん坊のそれの如し・・・顔はとんまドラネコ??・・・

火炎の割には余りにもユーモラス・・・なんとも云えず近世のものか??

かいがけ道、里からの入り口辺りの住吉神社付近

付近にあった案内板

入り口近くのかいがけ道はそのまま古道の景観を今に伝えているのが嬉しい。

撮影2011.4.5/他


傍示墓地(ぼうじ)入り口 微笑み地蔵/他

2011年04月09日 | 石仏:大阪

前回紹介の阿弥陀磨崖から更に西に進むと大和と河内を分ける小さな峠に出るが、その少してまえに右手に入る農道が有って傍示墓地へと続いている。

墓地の入り口と思しき辺り古道かいがけ道との接点にこの地蔵が二体、道を挟んで一方向に顔を向けるように立っている。

傍示とは境目を表す言葉だそうで、その昔石清水八幡宮領と興福寺領の境目を示す印が立てられたことに由来するといわれているようです。

因みに、峠を越えた大阪側にも同じく傍示集落があって昔は大和側を東傍示、河内側を西傍示と呼んでいたようです。

墓地が共同なのかは確認していませんがちょうど両集落の真ん中辺り、府県境ギリギリの山中にあることになります。

 

手前の石仏は1m足らずの舟形自然石に、舟形後背を彫り沈め、その中に50cmばかり、ちょっと面長な天正地蔵と呼ばれている阿弥陀如来立像??が刻まれています。

これはどうみても地蔵さんでは有りません、いずこも同じ石仏何でも地蔵さん、ちょっと可哀そうな阿弥陀さんは天正4年(1576年)の像立だそうです。

後に控えているのが知る人ぞ知る「微笑み地蔵」や「スマイル地蔵」と親しく呼ばれるこれは紛れも無く地蔵さん。

舟形後背を背に、身の丈約1m程、さいきん少し彫り下げられたのか足元が土まみれ、もう少しで蓮華座が有るかどうかも見えるのに・・・。

はにかむ様ににんまり笑っているような顔つきがやっぱり印象的です。

永禄4年(1561年)逆修供養のため像立されたようです。

<峠を越した河内側、傍示の里の早春>

土地の人たちは、生前どんな人であっても、死んだら笑って迎えてくださるお地蔵さんだと、葬列は必ずこの石仏さんの前を通る習わしだったとか・・・・。

撮影2011.3.31


大東市  龍間の一石六体地蔵

2011年02月17日 | 石仏:大阪

龍間の集落は生駒山麓の真っ只中に有り、古来よりを生駒山を越えて奈良と大阪を結ぶ街道として栄えた道筋に広がる山間集落。

明治になって古堤街道と呼ばれた街道は、交通量の増大に伴い1958年拡張され阪奈有料道路として開通、長閑であっただろう街道筋の山間集落は拡張された有料道路に南北に分断されたような姿となり、南北の横断は一箇所のみの交差点と成って喧騒の中にある。

現在は第二阪奈道路が生駒山系をトンネルで突き抜け交通量は減少したもののすっかり忘れ去られた様な佇まいに成っている。

この旧阪奈道を大阪方面から登って行くとクネクネとヘアピンカーブを繰り返し、登り車線と下り車線が合流そのまま暫く進むとこの道路唯一の交差点である竜間の信号に差し掛かる。

目的地には次の脇道を右折すれば直ぐなのだが道路には中央分離帯が有りそれも出来ず、ひどく大廻りに成って厄介だけどこの交差点で右折、直ぐに理容所の前に在る細道を左折、山の頂上付近のT字路を左折、山を下ってちょうど目的地の辻に出る・・・・・・、こんな不便な行き方しか出来ないのかと??道路は狭く運転にはそれなりの技術が必要。

しかし待って居てくれた石仏さんは周りの景色とも相俟って僕の好きな景観を醸しだしてくれていた。

旧古堤街道、出会いの辻、背後のなだらかな山の斜面、それも小高い丘の様な起伏を背景に六体地蔵を中心に三体?の石龕が並んで建っている。

卍庇の大きな屋根を戴いた石龕の中、中央の一石六体地蔵は幅86cm高さ148cm、花崗岩の舟型石に像高約50cm弱の六体地蔵立像が上下二段に彫り刻まれている。

大和地域で は良く見かける一石六体地蔵もここ河内方面では珍しく、優しく穏やかな顔つきでほっとさせて呉れると共に、手向けられた華が真新しく今も尚、信仰の生き続けていることを強く感じる

脇にはそれぞれ銘が刻まれ永禄十年(1567)丁卯二月廿三日  奉造六地蔵六斎念佛之供養一結衆五十五人敬白と有り室町末期の乱世の時代の造立。

両脇にもそれぞれ屋根付き石龕の中に地蔵石仏が有って三味一体で旧街道、辻の地蔵さんとして懐かしい景観を醸しだしている。

100mも離れずすぐそこを喧騒の道路が通ることなど想像も出来ないほど長閑かな景観です。

撮影2011.2.5


高井田石棺仏

2007年05月30日 | 石仏:大阪

この石仏さんに逢うのは苦労しました。

近くまで来ているはずだがまったく解らない、このあたりは旧集落よりも新しく開けた新興住宅が幅を効せて居るところ、聞く人ごとに解らないと答えられる。

横着にも車で行こうとしたことに無理があったようで、JR大和路線「たかいだ」駅から西へ細い道を200mほど行ったところに、旧高井田集落があって、細い道路が住宅街を抜けている。

この集落の中にある融通念仏宗、高井寺の門戸は硬く閉ざされていて境内に入る事は出来ないが、南側の塀に接して地蔵・庚申十三仏板碑・などが8体ずらりと並べられコンクリートで固められ、その中に大きな長方形の平板な石材に彫られた阿弥陀石仏がある。

高さ1.7m、幅1m、厚さ30cmの石棺材の表面に像高1mあまりの定印阿弥陀如来座像を薄肉彫りしている。

かなり風化摩滅が加わっているため衣紋の線はわからないが、穏やかな面相や裳架座と呼ばれる古式の台座などから藤原時代の造立だと言われています。

伝承によると「この石仏はもともとこの近くの小川の板橋として利用されていたものらしいが、ある時渡ろうとした馬が仲々前へ進まないので不思議に思って石橋を取り除き裏面をあらためると仏身が刻まれていた」という。

この高井田集落のある柏原市は大和川の北岸に当り、大和国から河内国へと抜ける所にあって昔から交通の要所とされていて、北岸域の丘陵地には総数200基以上と推定される大規模な高井田横穴古墳群がある。

撮影2006.10.14

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瑠璃光寺石棺仏

2007年05月28日 | 石仏:大阪

瑠璃光寺と言うと誰もが山口の瑠璃光寺の五重塔を思い浮かべるが今日紹介する瑠璃光寺は、大阪府と奈良県境の町大阪府柏原市、関西では信仰の山として有名な信貴山の大阪側の麓に立つひなびた古刹です。

国道170号線から山手に脇道を登って行くとやがて瑠璃光寺の山門に突き当たるが、このあたりにはまったく駐車スペースがないので要注意です。

山門を入った左側に簡素な小さい堂があり、古びた石仏が三体安置されている。

その中央に一見して石棺材を使ったとわかる石仏があり、いかにも、もろくてやわらかそうな石材で、風化磨耗ともに激しいが

柔らかな肉付きや優雅な線に藤原時代の特徴がよく現れています。

高さ1.4m、幅75cm、二重円光背を彫りくぼめ蓮華座に坐す像高67cmの如来像を半肉彫りした石仏で、家形石棺の蓋を利用していて、上部に縄付き突起が残っているのが良くわかる。

 如来像は右手をあげ、左手をさげて膝上に置くが、親指先を欠損しているため、尊名は断定できないらしいが釈迦如来か阿弥陀如来と言われています。

左にある頭部が欠損する菩薩像も石棺仏であるといわれています。

寺の後方は群集墳のあるところとして知られており荒廃した石棺を使用したものらしい。

撮影2006.10.14

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北摂の石仏ー10  月峯寺の石仏

2007年04月21日 | 石仏:大阪

剣尾山月峯寺は推古天皇の頃、剣尾山の山頂近くで開基し繁栄したが、1545年、兵火により焼失した。後寛文4年(1664)大阪城代片桐且元公が豊臣家再興の祈願にと現在の地に再興した。

正面の石段を登ると真新しい宝形屋根の本堂が建ち、背後にはこの寺の山号である剣尾山が控えている。

この本堂西側の奥に六体阿弥陀石仏が並んでおり、この地の石仏としては圧巻です。

元は剣尾山上の旧月峯寺跡よりここに運ばれて来たものだという。

等身大坐像で船形光背と共に一石の花崗岩から彫り出している。

左より

高さ1.30mの舟形光背、座高約80cmの阿弥陀像を厚肉彫りにしている。

左から二番目の石仏に銘があって、文安四年(1447)室町前期の像立。

地方色がなく洗練された作風で、京都系石大工のてによるものとされています。

阿弥陀は九体のものが多いが、六体阿弥陀はあまり聞いたことがない。

何かの都合で三体がここには欠けているのかも知れない。

また、月峯寺は摂津西国観音第十六番札所ということもあり、樹陰の中には四国八十八ヵ所観音霊場石仏が訪れる人もなく佇んでいる。

撮影2006.10.21

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北摂の石仏-9 野間中「六体地蔵」、他

2007年04月13日 | 石仏:大阪

豊能町の中心、余野から北のほうへ暫く走ると妙見口の信号。

この信号を左折、妙見山を越えて、きつい九十九折れを下って能勢町へと入っていくが、平地に入って最初の集落が野間中の集落。

この道沿いの山から下りきったカーブの右側に小さな覆い屋の六体地蔵磨崖石仏がある。

これぞ野の仏だと言わんばかりの風情、旧街道脇に立っていて、高さ1.5mの自然石花崗岩に横長方形の輪郭の中に六体地蔵立像を横一列に並べ、枠外左に船形光背の小阿弥陀坐像を刻んでいる。

永禄七年(1564)の銘があり室町後期の像立。

この石仏より少し進むと野間中の信号、この信号の少し手前右側に、能勢町指定文化財の野間のたて石と呼ばれる地蔵種子板碑がある。

この地域に多い花崗閃緑岩に地蔵の種子「カ」を薬研彫りにしていて、暦応四年(1341)南北朝初期の像立。

板碑としては大きく珍しい。

撮影2006.10.21

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北摂の石仏-8 法性寺地蔵石仏

2007年04月12日 | 石仏:大阪

法性寺は、豊能町の北東部山裾の古刹で、鄙びた切畑集落を一望できる高台にある。

急角度の石段を登りきり、境内の左手にある墓地の前面この地蔵が立っている。

自然石に舟形の彫り込みをつくり、蓮華座に立つ像高70?ほどの地蔵立像を厚肉彫りしたもので、柄の短い錫杖と宝珠を持っている。

造建は鎌倉後期の正和三年(1314)、今から689年前、豊能町で2番目に古く、鎌倉後期の像らしく、整った写実的な秀作です。

地元ではカゲ引地蔵と呼ばれているそうで、下記のような昔話が残っているようです。

「昔、尼崎あたりの魚師たちが不漁にあえいでいたことがあった。しらべてみると北方の山頂でキラキラ光るものがあり、これが波に反射して魚が怖がって集まらないことがわかりました。漁師さんたちは尋ね尋ねてやっと探しあてたのが東能勢・切畑(現豊能町)の山頂にあったこのお地蔵さんでした。漁師さんたちのたっての願いで、現在の位置まで下ろしたら魚がまた取れだし景気も盛り返したという。」

これはこの地蔵の彫られている石が石英閃緑岩で、光を受けて石英がきらきら光ることからこんな話が生まれたのでしょうか??。

撮影2007.10.21

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北摂の石仏-7  釈迦堂の阿弥陀三尊笠塔婆石仏、他

2007年04月09日 | 石仏:大阪

前回紹介の磨崖石仏から新道までの戻り道、道路わきの低い擁壁の上にほぼ半身大の地蔵石仏が立っている。

高さ、約1.8mの自然石花崗岩に船形を刻み像高約75cmの地蔵立像を半肉彫りにしていて、付近の地中より掘り出されたものだそうで、頭上部分で断裂した跡が残っています。

微笑みを浮かべたやさしい顔がなんとも地方色豊かで、南北朝の像立だといわれています。

ちなみに切畑大円下所(きりはたおおまるしもんじょ)地蔵石仏といわれています。

これより、大通りを左手に取りやがて右手の農道を入っていくと山裾の台地に小さなお堂があって釈迦堂といわれています。

堂の右側一列に石造物が並んでいて、この地最古の年号を持つ石仏がある。

阿弥陀三尊石仏で高さ約1.6m、幅約50cmの花崗岩自然石に舟形の彫り込みをつくり阿弥陀三尊を厚肉彫りする。

上部中央に像高30cmの定印阿弥陀坐像、その下方両側に、少し小さめの観音勢至両菩薩を刻んでいて珍しい形の石仏です。

乾元2年(1303)」の紀年銘があり、鎌倉後期の作、素朴ながら気品のある石仏で、上面に突起があって元は笠石が乗っていたようです。

撮影2006.10.21

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北摂の石仏-6 切畑大円下所(しもんじょ)多尊磨崖仏

2007年04月06日 | 石仏:大阪

切畑は豊能町北東部、山懐に抱かれたひなびた山里で、この地区にも多くの石仏が集まっています。

この多尊磨崖仏のあるところや深い緑が始まる森の入り口近くにあって、木漏れ日がちらつく最悪の撮影条件でした。

ここはまったく日差しの弱く木漏れ日の射さない日に行かなければいい写真など撮れそうにない。 

高さ約2.5m、幅3mの半球形の石英閃緑岩面に舟形光背を有する阿弥陀像と、二十体の合掌坐像仏とその脇に五輪塔を彫ったものですが風化も進み、ちらつく木漏れ日の中ではなかなか見づらい。

天正二年(1574)の紀銘があって、桃山時代の像立。

しかし訪れる人もほとんどないのか岩の上には枯葉が積もり、ほとんど手付かずで忘れ去られているような状態になっています。

しかし野の仏としての鄙びたたたずまいは捨てがたい物がある。

撮影2006.10.21

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北摂の石仏-5 川尻中の谷多尊石仏

2007年04月04日 | 石仏:大阪

前回紹介、北の谷のひとつ南側集落、中の谷の斜面になった道路わきに、この石仏を左に名号碑を右に置き、小石仏を何体か並べている。

あまりにも日当たりが良いので、石仏に潤いが感じられないのが気の毒のようにも思える。

中の谷多尊石仏も、北の谷のと良く似た構成になっていて最上段には来迎阿弥陀三尊が彫られている。

下段三段には、合掌供養石仏が16体彫られていて、天正元年(1573)年の紀年銘のある桃山時代の像立。

この地にはこうした多尊石仏多いのは何の関係なのかと???

撮影2007.8.18

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北摂の石仏-4 北の谷多尊石仏

2007年04月02日 | 石仏:大阪

前回紹介した「たぬき藪の磨崖石仏」から、国道423号線を隔てて対面の山懐にある川尻地域北の谷にある石仏さん。

その昔ここが何だったのかは解からないが急カーブする道の脇にこんもりした高台があってその木立の中にこの石仏が待っていてくれる。

高さ、約1mあまり幅約1.5mばかしの自然石の表面に、四段に分けた石仏を19体並べていてこの地の特徴が良く出ている。

上部中尊は放射光背を背にする阿弥陀立像で、(この放射光背もこの地の特徴です)両脇には地蔵を配しているのが変わっている。

像高は上段が30cm足らず、下段はいずれも20cm足らずと小さなものですが、いずれの像もこの土地の地方色が良く出たもので皆よく似ています。

天正八年(1580)の銘が彫られていて桃山時代の像立。

撮影2006.8.18

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