Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

あまりにも壊れ易い世界

2020-02-23 | 
車中の放送がハーナウでの事件のことを語っている。犯人がどのような精神障害者であったとしてもその考え方が影響された陰謀論であり、その個人的なコンタクト共にAfDそのものだということだ。つまりAfDにも責任があるとされる。政党自体が今回のような暴力事件を起こすわけではないがとなる。要するにその一味であるPEGIDAなどの扇動者であるようなクリスティアン・ティーレマンなどをベルリンのフィルハーモニーに立たせるのも間違いである。これだけはハッキリしている。

承前)前半が終ったところで、エスプレッソでも流し込もうと思った。それが丁度小ホールでのエベーヌ四重奏団の休憩と重なった。到底並んでいられない。諦めて後半に備えることになったので隣人とのお喋りになったのだ。最近は色々な宣伝も兼ねて出来るだけ第三者にも聞こえるように知らない人と話をすることにしている。最終的にはペトレンコの業績からバーデンバーデンの復活祭への誘いへと繋げる。話し相手だけでなくて、その周りにいる人に一人でも復活祭の事を印象付けて興味を持ってもらえればよいと思う。そうした細かな作業は聴衆だけにだけでなくて会場側にも色々な情報を渡すことで盛り上げる事にもしている。意外に口コミ効果というのはSNS全盛の時代だからこそ効果があるのだ。

勿論私自身長い間聴衆がどのように音楽を受け取ってどのように消化していくかということに興味を持ちづづけている。その意味で近隣のみならず聴衆全体の反応を見るためにも天井桟敷席を愛しているのである。勿論安くてそれ以上に音響などがいいにこしたことは無い。その意味からも隣人に「今回は席が大分売れていなかったけど」と語りかけての反応も興味深かった。木曜日であり、このプログラムは矢張り可成り勇気のあるものだと思ったと肯定的に語っていたことだ。なるほど当初はフランクフルトの一曲目は「悲劇的序曲」だった。確かに難しかったのかもしれない。しかしフランクフルトの料金は格安だった。それはドイツェバンクの力がある訳だが、価格だけでは中々は入らないのであり、実際私自身もたった37ユーロで結構いい席を獲得していたのだ。通常その席はフィルハーモニア管ぐらいでも50ユーロはする。だからいいお客さんは皆安くていい席に固まって完売だった。

ラフマニノフ「交響的舞曲」が、どのように響きどのように受け入れられるか。それ以前に前半は中々いい反応は感じられた。まさしく最高額席の聴衆はあまり音楽を知らない人が殆どで玄人は招待席以外にはあまりいない。そしてラフマニノフの一楽章が終って、初めてこの曲を耳にしたのだろう「いい曲ね」と女性が呟いた。それはその筈で、ペトレンコ指揮のラフマニノフはセンチメンタルとは程遠く ― だからランランの演奏をお涙頂戴と熾烈に批判していたのだ ―、センシィティーヴの極致だからである。その当該インタヴューであったようにピアノ弾きとして最も打ち込んでいた作曲家の様で、漸くフランクフルトの公演で弦楽陣もペトレンコの息で演奏できるようになっていた。テムポを保っていてもそのリズムの間は妙を極める。これ程に精巧で感じ易く壊れ物に障るような音楽をベルリナーフィルハーモニカーが演奏できたことがあっただろうか?同時に十艇のコントラバスにしなやかに支えられて、音楽が多彩な色合いを紗のように放つ。それはそれは胸がきゅんとなるようないい曲だ。今回のツアーで待たれていたのがまさしくあのフォンカラヤンも為せなかった音楽の効果だ。この演奏はどのような藤四郎もの心に入り打ったと思う。

いつものように峠攻めの林道を走り乍、「交響的舞曲」を頭の中で繰った。楽譜も思い浮かべる程に頭に入っておらず。無理やり一楽章の八分音符二桁の時計のような冒頭やトラムペットの信号的な動機から入って行った。完全に空っぽになっていたのでどこまで木曜日の感興と共に聴いた重要な箇所を再現できるか?苦労すると思っていた二楽章のヴァルスが、そのリズムを無理やり足取りから刻む事で戻って来た。するとあの弦楽器に出る三連譜の走句などが浮かんでくる。当然のことながらクラリネットなどの木管へと神経の様に渡される早いパッセージへと受け取られる。如何にこの曲がリズム構造とその動機で構成されているかという事が分かり、舞曲としての構想とその交響楽化への流れがこうして自分自身の中で再生される。すると余計に二部のそれが強調されることになり、歌が思い浮かべられる。勿論トラムペットに現れる警句などの意味が全曲の中で繋がってくる。

そしてここでの弦楽合奏はダイシンのソロを挿んで今回特に心を打つ音楽だった。「悲愴」のサロンでの笑い声でも演奏表現においても一つの至芸を聴かせていたが、ここのヴァルスもただ単に壊れやすく感じ易いだけではなくて、ペトレンコの息とその呼吸が管弦楽団に伝わりの光景は、恐らく比較できる指揮振りは小澤征爾のそれぐらいしか浮かばない。そしてテムピをしっかりといつもの電車の運転走行手順の様に保ちながらその間合いの取り方は見事で、当晩に生じた演奏実践でしか無いと思えるほどに絶妙だった。ベルリンから弾き続けて本番八回目でこそ為せる演奏芸術だった。

その音楽自体が、前日からの事件を受けた開始前の沈潜を受けていて、勿論前半の「アラゴアーナ」第三章「サウダージ」の郷愁にも繋がり、ここに来てラフマニノフのこの曲の主題と内容其の侭を受けての演奏だった。「サウダージ」における郷愁こそは近代文明への批判であり、ストラヴィンスキーにおける切り取られたその世界の断章、そしてラフマニノフの些かインティームな観照へと至る。

最終楽章における「怒りの日」への響きの数々は、まさしくピアノの前のラフマニノフに響いたその音響其の侭であって、芸術音楽こそその時の作曲家の聴世界を其の侭を追体験できるものでしか無い事を物語っている。それを通して初めて、あの最後の銅鑼を書き加えた作曲者の意識をも自らのものと出来るのだ。そしてこのフィナーレへの展開を可能な限り注意深くペトレンコの指揮振りからも観察していた。とても細やかな抑制と同時に自由さが均衡していて、初めてベルリナーフィルハーモニカーがペトレンコの楽団になったと思ったところである。そして自らの死を覚悟して書き加えたとされる銅鑼の響きが消えるまで会場は静まり返った。

述べたようにそのフィナーレの音楽運びが嵌ったからでもあるが、もう一つにはこのアルテオパーの音響が各々の楽器を取り分け強調することなく音楽として響かせる音響であり、綺麗に減衰する音響があったゆえに聴衆も耳を澄ましたものと思う。決して残響が長い方がいい訳ではない。しかし、そこに聴かれる空間がある。まさしくハムブルクのエルフィーにはない音響空間であって、ああしたところでは弦楽器も本来の音楽的には鳴らない。音空間特有の音の反照を含めた減衰も音楽の一部なのである。

キリル・ペトレンコがインタヴューで話していた演奏会で聴衆を感情的に動かすことで初めて効果が齎される。その具体性は決してイデオロギーでもない。しかし、今回国内初ツアーのプログラムでの基本軸は比較的はっきりしていた。一つには近代文明批判であり、その心は郷愁でもあった。ビヴァリーヒルズのレストランで共に亡命中のストラヴィンスキーは一度だけラフマニノフと会ったという。著作権やその他の事務的な内容の話しで、芸術的には全く理解し合っていなかった様なのだ。こうして一つの線を引き渡すことにこのプログラミングの意味もあった。ペトレンコとベルリナーフィルハーモニカーが独逸国内に種をまいて歩いたのは共感という事ではなかったか。(終わり)



参照:
こんなことあるのか! 2020-02-20 | 音
稀有に偉大な天才指揮者 2020-02-17 | 文化一般





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