Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

「聖書」ではないお話し

2021-10-09 | 
ティトゥス・エンゲル指揮でバリーコスキー演出「サロメ」を観劇した。七月のペトレンコ指揮「サロメ」を遡る形で2019年新制作初日の生中継録音と月が変わってからの7月の生中継映像を聴いた。後者は当晩其処にいたので初めて車中で聴いたのだが、初日とは全く違っていた。集中的に修正されていくのは毎度のことなので驚かなかったが、またこの七月の最終公演はより練れていたことも確認した。

全く同様に、フランクフルトでのエンゲル指揮の一場二場は比較すれば全くよくなかった。先ず楽団も仕事が荒く、歌手陣も不安定で声だけを張り上げているという感じだった。どうして練習期間に直せなかったのか、また殆ど見えなかった指揮であるがあまり締まらなかった。これで、おかしな音楽が上書きされたなら損失だと思うほどだった ― 個人的に名曲は一生に一度だけいい演奏を生で聴けばいいと思っているので、通俗なプログラムの催し物等には殆ど出かけない、歴史的録音で十分である。

しかしである、三場からそれもヨハナーンが歌う「淫らな女の娘」から空気が急に変わって、歌も熱を帯びてきた。一体何事かと思った。それまでも楽想の描き方はとても上手く、フルトヴェングラー指揮の様に場面ごとの収まり方はよかった。如何せん、歌唱も不安定で、楽団もお話しにならないと感じていた。

そこで、四場のユダヤ人の議論も指揮を覗き込んだりしてみていたのだが、なかなか落ち着いた運びで、嘗て彼が若いころの指揮を髣髴した。そして、へロデスとの掛け合いやヘロディアス、七つの踊り、最後にコスキーが最も印象深いとする口づけの場面、そして圧殺へと月の光とするスポットライトの中で舞台は進む。最後の終止のテュッティ―まで緊張感が高まり続けていた。その空気感をもって大喝采となった。

要するに、件の盛り上がりは演出家が意図した「聖書の話ではない」どころか、そのものキリストが描かれるところである。ここの表現は、実はペトレンコの上の二回の指揮でも曖昧になっている。しかし今年はヨハナーン役のコッホが、名唱を披露していた。

カラヤン指揮の名録音でも不明瞭な運びとなっていて、それどころか歌詞もカラヤンサウンドによって殆どが消されてしまっている。まさしくシュトラウスの芸術としては如何に言葉の明瞭性を維持するかが問われて、ペトレンコなどが歌手陣と苦心しているところでもあった。

なるほど転機となる作品として、その息吹とはまた別に、この作曲家の保守性はまさにこうしたところにあって、それが市場で受ける基本であったのだ。ミュンヘンの劇場においてもペトレンコの指揮では所詮そうしたテキストの意味は伝わらないという批判を聞くことがあった。それに応えるかのようなのがエンゲルの指揮である。まさに人気作曲家リヒャルト・シュトラウスの本質でもある。

なぜ、エンゲルがペトレンコと並び「賞」されて、音楽劇場の指揮者として注目されたのか。まさにそこである。そして劇場的な盛り上がりがある。ペトレンコはドイツにおいてさえも劇場指揮者的であるという曲解が未だに残っているが、その指揮は楽曲を正統的に描き出すことでの成果であって、劇場的な盛り上がりを得ることは殆どない。それが後任者のユロウスキーに期待されている。

エンゲルは、フランクフルトでの月末に初日を迎える新制作「マスケラーデ」の指揮に注目されているが、同じ月末のミュンヘンでの「鼻」のユロウスキーの指揮と比較されることになる。支配人のドロニーとはリヨンでの協調もあって、来年には新制作でクレンツィスと並んで、ミュンヘンでもデビューとなっている。

余談ながら、ユロウスキーをデモーニッシュとして嘗ての名指揮者オットー・クレムペラーと比較するならば、エンゲルの鷹揚とした音楽をクナッパーツブッシュと比較したい。



参照:
月の明かりを求めて 2021-10-08 | 文化一般
超絶絶後の座付き管弦楽 2021-07-29 | 音

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