Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

彼のマンドリン奏者の思い出

2015-06-19 | 
独日協会の理事会に行った。席上日本食の店の評判に話がなり、その一軒のオーナーである越智さんの話となり2010年に亡くなられている事を知った。協会員であり、マンハイムの音楽アカデミーの後、日本食のお店を営まれていた。一度目はどこかで昔のレコーディングのお話しをして、その後長く消息を聞かなかったのだ。パリに住んでいた友人が「マンハイムの飯屋に面白親仁がいる」ということで、店に出かけて、遅くて入店を断られたときに見かけたのが最後だった。その後にあれは越智さんだったと気がついた。あまり流行らない誰も客の居ないお店に10時頃に出かけても相手にされなかったのは当然だったが、それが最後にお見かけしたお姿だった。今は娘さんが劇場前でお店をやっているというが、創作日本食風らしく、評判はあまりよくない。

越智敬と聞いて日本を代表するマンドリン奏者だったと思い出す人はある年齢以上の人だろ。確かアカデミーの生徒の演奏会で、演奏を聴いて、お話ししたのだった。当時は私はハイデルベルク・マンハイムの高等国立音楽院のサポーターになっていたので、そちらの方にはしばしば出かけていたのだが、アカデミーの方はそのときが最初で最後だった。

確かそのときに話をした録音は、ドイツェグラモフォンでヘルマン・プライとのモーツァルトだったろうか。それともエディート・マティスとの録音だったか、いや、ヴィヴァルディーの曲集だったか、ソロアルバムだったように思う。雑誌「レコード芸術」等で、日本人ソリストとして記憶にある人は多いと思う。当時は小澤もDGでは録音しておらず、今でも戦後のDGでは他に日本人の名前は思い浮かばない。だからマンドリンの越智さんと聞いて直ぐにそのディスコグラフィーを思い出したのだった。

生憎手元にはそれらの録音は見つからないが、便利なものでその触りをネットで聞ける。モーツァルトのそれは小柄の氏の見かけ上の天真爛漫さの雰囲気が、モーツァルトのそれと重なってしまうような印象とともに、思いの外の精妙さが聞かれて、なるほどこうした面は実際の対面では隠されていて出てこない側面だったなと改めて感じるのである。ヴィヴァルディにおける拍子感の見事さも、撥弦楽器のお手本のようで、その非凡さを示している。

現在のドイツには氏の弟子を含めて優秀な特に女性のマンドリン奏者もいるが、越智氏のような全身をかけたような演奏ぶりに接するのは難しい。必ずしも身体の大きさとはいえないのだろうが、マンドリンとの帰来の相性というかマンドリン小僧といっても差し支えないようなものがある。その一方、自作の「広島へのレクイエム」は、まさかこれほど直截な音楽表現をしている人が居たとは思えないようなもので、正直その実際の人物像からは全く浮かび上がらないものだ。

協会の前体制のころには深く関わっていらしたようだが、そのころはこちらは殆ど関わっておらず、氏の後任のような立場なってからは殆ど関係がなくなっていた。理由は分からないが、そのような訳で今回初めてご逝去を知らされたのだった。ネットをみると1934年今治の出身で、東京外大卒業後、1961年には外国語の不自由な楽器の師匠の比留間きぬ子に付き添って招聘されるまま、恩人ジークフリート・ベーレントも活躍したザール州で音楽教師としてまたその撥弦楽団のコンサートマスターとして苦労をして生計を立てたようだ。

その後1977年からマンハイムでの教職の傍らベルクシュトラーセに居を構えて、小学校で教える奥さんと暮らし、恐らく独日協会との関係も1980年代から始まっていたのだろう。名前は聞きながらも最初にお会いしたのは1990年代中盤であるから、なるほど丁度そういった時期だったのだ。当時はこちら生意気盛りであるから、初対面の人を誉め殺しすることもできずに十分な昔話を聞く機会もなく、今からするととても残念なことをした。



参照:
Dem Mandolinenmeister Takashi Ochi zum 7. Geburtstag, Edwin Mertes (pdf)
ローアングルからの情景 2006-04-07 | 音

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 偉大なるかなローカリズム | トップ | 古の神話に関する解釈 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿